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いわし神隠し🚲🌆

昌代が夕方の買い出しに出るときは、戦に臨む武将のような顔つきになるのが常だった。

エコバッグを三枚重ねて自転車のカゴに突っ込み、ヘルメットの代わりにかぶった古い日除け帽をぐいと引き下げる。

還暦も近い背中には、それなりの貫禄がついた。
夫の茂雄は、そんな妻の顔を「スーパーの閻魔様」と呼ぶ。
もちろん、本人のいないところで、である。

「広告見てたら、イワシが安いらしいなあ……」

「またバーゲンもんか」

「実入りが少ないからしゃーないがな」 

都島の自宅から天六の商店街まで、自転車で10分ほど。
坂もなく、信号さえ運が良ければ止まらずに行ける。
昌代はこのルートを三十年以上走っている。
季節ごとに景色が変わり、商店が入れ替わり、それでも自転車を漕ぐ自分だけは同じだと、太腿を見ながら思う。

今日は木曜日。
チラシで見た特売のイワシが頭から離れない。
塩焼きにしようか、梅煮にしようか。
茂雄は骨があると文句を言うが、自分でほじくれ、といつも返す。
大根は残ってる。豆腐もある。あとはイワシだけ買えば今夜の献立は決まりや、と昌代はペダルを踏んだ。

見慣れた橋が見えてきた。
大川の水面が夕陽を受けて、金色に光っている。
ああ、きれいやなあ、と昌代は思った。
スーパーに毎日通っていても、たまに綺麗な光景に出くわすと、昌代は文学少女のような顔を見せる。
埃っぽい街はいけすかないくせに、急に憎たらしいほど美しくなる。

橋の中ほどで、川面からの反射光が一瞬、視界をまるごと塗りつぶした。
昌代は軽いめまいを覚えた。

「なんやろ?熱中症やろか……」

ペダルを踏む足の重さが一瞬消えた。

気がつくと、自転車のタイヤに土がついていた。
アスファルトではなかった。
砂埃の混じった、柔らかくて湿った土の道。
タイヤが沈む感触が、ペダルごしに伝わってくる。

「……なんやの、ここ。工事中か?」

昌代はあたりを見まわした。

ビルがない。
信号がない。
コンビニもない。
自販機もない。
車もすっかり消えていた。

「あっちゃ〜 うち、なんかやらかしたんか?」

かわりに、低い平屋の軒先がずらりと並んでいる。
むき出しの木の柱、すすけた暖簾、土間から聞こえてくる職人の槌音。
どこか遠くから、念仏のような声や、お囃子の音が風に乗ってくる。

「わああああ〜〜!」

粗末な着物姿の子供たちが3、4人、路地から飛び出してはまた路地に吸い込まれていった。

人々が忙しそうに行き交っている。
が、その格好がおかしい。
みんな着物姿だった。

それも真新しいコスプレではなく、生活のにおいのする、くたびれた木綿の着物。
昌代は帽子の鍔を持ち上げ、空を見上げた。
雲は流れていても、電線がない。
低く飛ぶジャンボ機も見当たらない。

「……映画村に来た覚えないしな」

言ってから、自分でもおかしくなった。

「テレビの見すぎやろか……」

川からの湿った風に混じって、どこかで焚いている炭の煙の匂いがする。
醤油のこげたような匂いもする。確かにこれは現実の感触だった。

角店に天神さんの幟がちらっと見えた。
天満宮の方角から、祭りの準備をする人足たちの声がする。
提灯が軒先に吊るされ、夕風にゆらゆらと揺れていた。

「……天神祭か?ちゅうことは、ここ天満か」

昌代は自転車を路肩に引き寄せて、ひとまずエコバッグを直した。
こういうときに動じないのは、長年の主婦業で培った神経の太さゆえである。どんな修羅場も、たいてい夕飯の支度までには片がつく。

辻の角で、少年がしゃがみこんでいた。
年の頃は七、八歳といったところか。
小柄で、手が荒れている。
仕事着の前垂れが土で汚れていた。
膝を抱えて、通りをぼんやり眺めている。

「あんた、どないしたん。迷子か?」

昌代が声をかけると、少年はちょっと驚いて振り返った。
ポリエステルの七分袖、ジーンズとスニーカー、日除け帽——
昌代の姿を上から下まで眺めて、目を丸くしている。

「……お、お武家様で……?」

「いいや、おばちゃんは都島の主婦や」

「みやこ、じま……」

「何をしょぼくれてんのん?」

少年はしばらく口ごもってから、ぽつぽつと話してくれた。
近くの米問屋に奉公しているが、本当は読み書きを習って、学者か戯作者になりたいと思っていたこと。
けれども実家は貧しく、そんな夢は贅沢だと言われて諦めていたこと。

「旦那様に叱られて、ちょっと休憩してますねん」

昌代はバッグの底をまさぐった。
なじみのべっこう飴が、ふたつ出てきた。

「ほら」

少年は目を丸くしたまま、おそるおそる受け取った。

「あんた、学問の神様のお膝元におって、なに言うてんのん」

昌代は腰に手を当てた。

「天神さんすぐそこやないの。やりたいことは、ことばにして放り投げとき。なんとかなるもんや」

「……ことば、でっか」

「せや。声に出して言い続けてたら、道は開くもんや。うちかて、子育て終わってから簿記の資格取ったで。五十二のときにな」

少年には「簿記」も「資格」も通じなかったが、昌代の言わんとすることは伝わったようだった。

「学ぶことは、恥やない。食うために働きながらでも、できることはある。夜に読んで、昼に考えてみい。それでも続けたいと思うんなら、ホンマもんや」

少年にとってはお武家様……のような不思議な風体の婦人は、べらべらとよどみなく語り続けた。

「ぼん、時間はな、いつも確かなもんやと思うてへんか?それはな、ホンマはちゃうねんで。楽しい日はすぐ終わるやろ。嫌な日は長い。人間の時間なんてそんなもんや」

「ほんまに?」

「ああ、有名な天文学者も言うとるさかい、まちがいないわ」

「て、てんもん……」

少年は、その言葉のひとつひとつを、御守りを懐に仕舞い込むように、静かに聞き入っていた。
祭りの灯りが宵闇に滲みはじめた。

「ぼん、せっかくやさかい、いっしょにお祭りいかへんか?」

「へぇ、せやけど、まだお務め残ってますねん」

「そうか。ほな、がんばりや」

「へぇ、おおきに……」

少年は深々と頭を下げて、小走りに暖簾の奥に消えていった。

昌代は自転車を引いて天満宮を目指した。
灯ともし頃の街並みも、今宵ばかりは賑やかだった。
大通りの雑踏を抜けて、昌代は東の方へと登っていった。

色とりどりの商店が軒を連ねる通りのはるか向こうまで、アリの行列のような人波が、延々と続いている。

「なんや、暑いなあ……」

自転車を降りて歩いていると、人熱れにむせ返りそうになった。
大道りの突きあたりに表大門が見えた。
すでに人混みで動けないほどだ。

「どっからわいてきたんや、えらい人やな……」

境内の脇には、真新しい櫓が見える。
唐突に太鼓の音が響いた。
櫓を中心にして、四方へ伸びる縄に吊り下げられた提灯が、いっせいに揺れた。
柳の影に、提灯の赤い光が映えてゆらめく。

「お祭りやなあ……」

参道に沿って、闇に溶けた桜の並木が続いていた。
祭りの熱気に刺激されてか、夜が更けても蝉しぐれが鳴り止まない。

本殿にお参りしようと、昌代はバッグの中をまさぐった。
抜き出した財布にも、天神さんのお守りが入っている。

「あっ!いま10えん玉しかあらへんがな、、、、すんまへんなあ」

二礼二拍手一礼。

「どうか、つぎの宝くじ当たりますように!満願成就と」

帰り道も人波にもまれて歩くうちに、石段を降りかけてふいに誰かと肩がぶつかった。

「あ、あんた、さっきの….」

「あっ!お武家様の奥方さま……」

「どないしたん!」

「旦那さまにご用を言いつかりましてん……」

「わああああ〜〜!」

昌代の足元を風のように、子供たちがすり抜けていった。

「ああっ!」

足を掬われて、石段をずり落ちる昌代を、少年は唖然として眺めていた。

気がつくと、天六のスーパーの前に立っていた。

自動ドアが開くたびに、野菜の匂い混じりの冷気が漏れてくる。

駐輪場には見慣れたママチャリや単車が並んでいる。

店頭には「本日限定!! イワシ一盛り198円!!」という手書きのポップが夕焼けに照らされていた。

腕にかけたエコバッグの中を見ると、特売のイワシが一盛り入っていた。

「……買うてた」

いつの間に買ったのか、まったく覚えがない。
けれど確かに、袋に入ったイワシがある。
値引きシールまで貼ってある。
昌代は少し考えてから、また店内に戻ってもう一盛り買い足した。
ついでにポン酢とせんべいとアイスも買った。

「氷は出入り口わきにございますので」

「しってる」

自転車の前かごにバッグを積んで走り出しても、心は上の空だった。

「あれ、なんやったんかなあ……」

橋を渡りながら、大川の薄暗い川面を見下ろした。
いつものように川は静かに暮れていた。

帰宅すると、亭主の茂雄がソファでテレビを見ていた。

「おかえり。おそかったな。今日なんや」

「イワシや」

「骨あるやろ」

「自分でほじくりいな」

台所に立ちながら、昌代はぼんやりと、さっきのことを考えていた。

土の道を走る感覚、少年の声と荒れた手、飴ちゃんを受け取ったときのうれしそうな目。
そういえば、と昌代は手を止めた。

父の遺品。古い書物。

昌代の父は骨董好きで、亡くなる前に「これだけは捨てるな」と言い残した古びた本が、まだ眠っているはずだ。
掠れた文字が達筆すぎて読めないから、ずっと放っておいた。

とりあえず塩焼きにしようと、イワシをコンロにセットしてから、昌代は仏間の引き出しを開けた。薄い和綴じの本。 

「表紙からして読めんな…..」 

ページをめくると、くずし字がびっしり並んでいる。
いつもなら、ちょっと眺めるだけで閉じるところだが、今日は最後のページまで開いてみた。

本に挟まれていた紙が畳に落ちた。
本から書き出したような文章だった。
墨がずっと新しかった。

「これ、お父ちゃんが書いたんちゃうか…..」

昌代には、くずし字はほとんど読めない。
けれど、本文を訳したようなその一文だけは、するすると目に入ってきた。

『橋のたもとにて出会ひたる奥方様。あなた様のお告げにて、拙者は筆を折らずに済み候。この天啓と知恵は、子々孫々へと繋ぎまする』

昌代は、畳の上にぺたんと座り込んだ。

書物の奥付を見ると、江戸期に名を成した、蘭学者の名があった。
浪速では知られた人物だと、父が生前に話していたのを、うっすらと覚えている。

思い出していたら、イワシの香ばしいにおいが漂ってきた。

「あっ!こげるわ!」

台所へ戻った昌代は、あわててイワシをひっくり返しながら、ふと自分の手元が小刻みに震えているのに気づいた。
焼いているうちに、震えはすぐに止まった。

「焼ける時間だけは、昔も今も変わらへんな……」

そういえば、若い頃にお花を習いかけて、途中でやめた。
知り合いに誘われて陶芸の教室にも何度か通ったが、続かなかった。
それっきり、いつかそのうち、という言葉を自分への言い訳にしてきた。

「あのぼんに、えらそうに言うたなあ、うち……」

夕飯のおかずをテーブルに並べながら、昌代はカレンダーをチラッと見た。その余白に、小さなメモを書き付けた。

「あんた!ご飯できたで」

「あいあい」

のそのそと茂雄が食卓についた。
すだちが香るイワシの皿を見て、ちょっと顔をしかめた。

「なんや、やっぱし骨あるなぁ」

「言うたやろ。自分でほじくりいな」

「これ、ヒイラギか?」

「うちの庭のんや」

「節分みたいやな」

「魔除けや」

味噌汁をよそいながら、昌代はフッと笑った。🐟🍚





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