スターダスト・シンドローム🌠
郊外の山の麓にある芸術高校の中庭では、油彩のペインティングオイルの匂いと、音楽室から漏れてくるピアノのメロディがいつも混じり合っていた。
美術科に在籍する恒平にとって、それは日常の空気だった。
彼のデッサン力はクラスでも一目置かれていたが、彼が描きたいと切望する最高のモデルは、同じクラスにはいなかった。
隣の音楽科にいる典子こそ、恒平のミューズだった。
恒平が典子に抱く感情は、ちょっと複雑だった。
「好き」という言葉は安易すぎる。愛には違いないが「愛してる」は陳腐すぎた。
恒平が典子を見つめる眼は、いわば音楽プロデューサーがアーティストを見るような視線に近いものがあった。
彼女の黒目がちの瞳や、透明感のある白い肌、時折見せるバブみを含んだ笑顔もたしかに魅力的だったが、恒平の心を強くつかんで離さないのは、彼女の歌の才能そのものだった。
昼休みに購買部でパンを買うと、恒平はいつも、典子がいる音楽室の前の廊下で、ひとり食べていた。
そんな恒平の姿を見て、女生徒たちは決して近寄らなかった。
部屋から漏れ聞こえる彼女の歌声。それは、まるで清冽な水のように、校舎の騒音や生徒たちのざわめきを洗い流してゆく。
完璧な音程、豊かな表現力、そして何よりも、オーディエンスの魂を揺さぶる波動があった。
恒平は、彼女の歌声を聴くたびに、全身の細胞が活性化するような感覚を覚えた。
( あれを、どうにかして、ステージの上で、もっとたくさんの人に聴いてもらいたい.…..)
それが恒平の悲願だった。
彼は、典子に何度も声をかけようと試みた。廊下ですれ違うとき
「あの、赤川さん」
と呼んだ。けれども、そのたびに典子は目を合わせようとせず、まるで空気のように恒平を避けていってしまう。
( やっぱおれって、キモいのかな.…..)
何度目かの失敗で、恒平は悟った。典子は、自分にはまったく興味がないのだと。
しつこいヤツだと誤解され、嫌われているかもしれない。
ひょっとしたら典子は、極度の人見知りなのかもしれないが、十中八九、前者が正しいだろうと恒平は思っていた。それでも諦めなかったのは、自分のことよりも、何とかして典子の歌を広めたいという信念があったからだった。
恒平が典子にアプローチをかける姿は、クラスメイトたちの間でも半ば公然の笑いネタとなっていた。
「おまえ、また玉砕か?赤川さん、いつもポーカーフェイスだな」
「好き嫌いは別にしてさ、ノンちゃんも話ぐらい聞いてやったらいいのに」
「まぁ、住んでる世界が違うんだろ。格付けチェックやるか?」
そんな仲間たちの揶揄も、恒平の熱意を冷ますことはできなかった。
(おれがバンドやってたら、ナニがなんでもボーカルやってもらうんだが.…..)
恒平の脳裏にはいつも、典子がドーム球場に立つ妄想ばかりが展開されていた。
秋も深まり、文化祭が近づいてきた、ある日曜日の夕方。
恒平は、商店街の外れにある画材店で筆やアクリル絵の具を買ってから、帰りになじみの書店に立ち寄った。
画集を探すフリをしながら、ナンパのハウツー本や、恋愛がらみの指南書などを立ち読みしていた。それもまた、何とかして典子を説得するためだった。
奥まった文庫本のコーナーを物色していたとき、彼は思わず息を飲んだ。
続くマンガコーナーにいたのは、紛れもない典子だった。
恒平は呆然とした。
典子は淡いピンクのスカートに、白いカーディガンを羽織っている。ポニーテールに結ばれたリボンといい、リップが光る艶やかな口元といい、恒平にはアイドルにしか見えず、ぎゃくに眼のやり場に困った。
( こ、こ、これは、チャンスだ!)
とは思ったが、実際に何をどうしていいのかわからない。さっき、ナンパの声のかけ方を読んだばかりなのに、いざとなると頭は真っ白になった。
文庫本を探すフリをして、恒平はさりげなく典子に近づいたつもりだったが、傍目にはカニみたいな不自然な横歩きになっていた。
典子は手に取ったマンガに夢中で、恒平の接近にまったく気づいていない。
恒平は、意を決して声をかけた。
「あ、赤川さん.…..」
典子の肩が、びくっと震えた。
彼女は顔を上げ、恒平を一瞥したが、一瞬で瞳に警戒の色を宿した。
「……美術科の、西口くん」
彼女が自分の名前を知っていたことに、恒平は内心歓喜した。
「な、なまえ、覚えててくれたんだ.…..」
「うん、本探してるの?」
「え?ああ、そうそう」
ちょっと会釈して立ち去ろうとする典子を、恒平は何とか引き留めたかった。
「あのさ!」
「えっ?」
「こんどの文化祭、、、歌ってほしいんだ。」
「歌う?わたしが?」
「うん、スターダストシンドローム!」
恒平の提案は、あまりに唐突で、そして切実だった。
典子は何も言わず、ただ静かに恒平を見つめた。その眼差しは、拒絶のようでもあり、困惑のようでもあった。
恒平は、恐ろしい不安に囚われながらも、必死でまくし立てるように言葉を続けた。
「おれ、赤川さんの歌声が、本当に好きなんだ。あの声で、文化祭の大きなステージで、絶対歌ってほしいんだ!」
恒平は、彼女の才能への敬意を込めたつもりで、強く言った。
『スターダスト・シンドローム』
それは、恒平が小学生のころ、母親が車の中でよく聴いていた曲だった。
壮大なのに、切なくて、流れ星の一瞬のきらめきを封じ込めたようなナンバーだった。
典子のあの声で聴いたら、どんなに素晴らしいだろうか。
恒平は、さっきから訳もなく開いたり閉じたりしていた文庫本をギュッと握りしめた。
「……ごめんなさい」
典子は、それだけを言うと、恒平と目を合わせないまま、そそくさとその場を立ち去ってしまった。
恒平は、文庫本をにぎりしめたまま、ただ立ち尽くしていた。
また、玉砕。
彼は、大きく肩を落とした。
文化祭当日。
生徒も教師たちも、朝から浮き足だっている。学校全体が、熱気と喧騒に包まれていた。
恒平は、美術科の展示スペースに自作を搬入したり、ヒマがあれば受付をしながらも、心ここにあらずだった。
彼の目線の先には、常に体育館があった。
相変わらず、とにかく典子の歌声が聴きたかった。彼女の才能が世間に知られていないことが、もったいなくて仕方がない。
夕方になり、焼きそばやチュロスの模擬店を手伝いながらも、恒平は体育館のイベントが気になっていた。
館内のイベントは佳境に入っていた。
ちょうど軽音部のライブが終わり、フィナーレを飾る有志によるカラオケ大会に移った。
模擬店を友達に任せてやっと駆けつけた恒平は、ステージ袖から、会場を眺めまわした。
「次が、最後のプログラムになります!えーっと、飛び入り参加かな……?」
司会者が、やや戸惑ったようにマイクを握り直した。
「それでは、飛び入り参加の音楽科さんで、『スターダスト・シンドローム』です!」
その瞬間、恒平の全身に鳥肌が立った。スターダスト・シンドローム!?聞き間違えたのかと思った。
スポットライトが、ステージの中央に静かに立つ少女を捉えた。
典子だった。
恒平は、固まった。
息をするのも忘れていた。
典子は、真っ直ぐに客席を見つめ、静かに、しかし決然と歌い始めた。
その視線は客席ではなく、北極星を射貫くように、どこか遠い一点に向けられている。驚いたことに、典子は歌詞に合わせたかのような柄のドレス姿だった。
伴奏が流れ始めた。
ピアノの単音と、渋いベースラインが響く、静かなイントロだ。
典子は、右手でマイクスタンドをそっと握りしめた。
「夜空の片隅で 生まれたばかりの光が手のひらに.…..」
彼女が歌い始めた瞬間、ざわついていた体育館の喧騒は一瞬でかき消えた。
彼女の声は、高音域になっても、どこまでも透明で柔らかい。
はるか遠くの宇宙域から、地球上に降り注ぐニュートリノのように、繊細で美しい声だった。
サビに向けて、伴奏にギターが加わり音が厚くなる。
典子は目を閉じ、感情を込める。
「孤独な星よ。誰にも見えなくても、あなたの光を輝かせて」
この瞬間に、典子は初めて上手の客席、恒平がいるステージ袖の方向を見据えた。
遠目にも、典子の瞳に強い意志が宿っているのが、恒平には見て取れた。
彼女は、この歌を自分に贈ってくれているのだと、恒平は直感した。でも、なぜ?
典子のフリは控えめだった。
激しく動くことも、ダンスをつけ加えることもない。
感情のすべてを声に凝縮させる集中力こそが、彼女の才能を際立たせた。
2サビ前のブレイクでは、伴奏が途切れた刹那、典子の声だけが一瞬アカペラで響き渡った。
「一粒の砂が、いつか星になる!.…..」
どこまでも透明なのに圧倒的な声量は、体育館の隅々まで響き渡り、観客席は息を呑むことさえ忘れたかのような静寂が支配していた。
恒平は、あまりの感動に、目頭が熱くなるのを感じた。
曲のフィナーレ。
典子は最後のロングトーンを完璧に歌い上げると、マイクスタンドから静かに手を離した。
深々と頭を下げ、そして顔を上げたとき、初めて客席に向かって微かに頬笑んだ。
それは、恒平が今まで見た中で、いちばん綺麗な典子の笑顔だった。
やがて割れんばかりの拍手と歓声が体育館の空気を揺らしたが、恒平には遠い潮騒のように聴こえた。
ただ固まり、全身の震えだけが止まらなかった。
彼の愛する曲を、あの典子が、最高の形で昇華させたのだ。
「赤川さん!最高だった!」
「最高のパフォーマンスだったよ!」
誰かが叫んでいた。
典子のステージは、恒平の予想を遥かに超えていた。
彼女の歌は、聴く者すべてを曲の世界へと引きずり込んだ。
観客たちは、最初こそ飛び入りに驚いていたが、すぐにその奔流に飲み込まれ、典子の歌声と、曲の持つパワーで満たされていった。
恒平は、身体が動かない。
涙も出ない。
典子がステージを降りるのを見て、やっと我にかえった恒平は、生徒たちをかき分け、彼女のもとに駆け寄った。
「赤川さん!」
「西口くん.…..」
恒平は感激のあまり、声がヘンに上ずっていた。
典子は、少しだけ俯いた。
そして、消え入りそうな声で、つぶやいた。
「あのね……」
恒平は、なにも言えなかった。
「わたし、子どもの頃からずっと、人見知りが酷くて。だから話しかけてられても、うまく返事できなくて.…..」
その告白は、恒平にとって、全くの想定外だった。
典子の冷たい態度は、自分を嫌って拒絶しているのではなかった、ということに、理解力が追いつかない。
「でも、歌ってくれって、言ってくれたから……」
典子はようやく顔を上げた。
その瞳は、少し潤んでいた。
「すごく嬉しかったの。だから、ちょっと勇気を出してみたんだ.…..」
典子の言葉は、恒平の胸の奥深くに突き刺さった。目の前のことが、なぜか映画のワンシーンのように見えた。
「そっか……」
恒平は急に、典子の顔が滲んでよく見えなくなってきた。
玉手箱のように、彼女の歌は恒平の言葉によって、ようやくこの世界へと解き放たれた。
「赤川さん……よかった、ホントに、よかった.…..」
恒平はそう言って、典子に手を差し出した。
典子は照れ笑いを浮かべながら、恒平の握手に応じた。
ふたりを取り巻く生徒たちの、旋風のような拍手があたりに満ちた。🎤✨
