風花❄️
車窓の風景は、丹波橋を過ぎたあたりから色が消えていた。
薄墨をひいたような低い瓦屋根の町並みに、珍しく吹雪が斜めに吹き付けている。
ココ、ココッ、ココ、ココッ、という列車の規則的な振動が車内の空気を震わせていた。
近鉄京都線の高架を走る列車の窓には、叩きつけられるような雪が舞っている。
はるか遠い山々の、モノクロームの稜線。
それはまるで、誰かが雲の上でシュレッダーにかけた記憶の断片が、バランスを失って地上へ降り注いでいるかのようだった。
耳元のイヤフォンからは、ショパンの『ワルツ第9番 告別』がエンドレスで流れている。雪の粒が音符に乗って耳から胸元へスッと落ちる。
ピアノの甘美な旋律が、生暖かい車内のムッと籠った空気と混ざり合い、僕の意識を現実から少しずつ剥離させていく。
「まもなく、東寺。東寺です」
やがて列車は東寺駅に近づく。
減速する車輪の低い唸りが、ショパンの旋律に溶け込む。
無機質なアナウンスに促され、僕は席を立った。
ホームに降り立つと、肌を刺すような寒気がコートの隙間に潜り込んでくる。
僕はショルダーバッグからニットキャップを取り出して被った。
耳当てなんて気の効いたアイテムは持ち合わせていないから、帽子でも被らないと耳が痛い。
駅の改札を出てすぐ、嫌でも目につくパチンコ屋の派手な看板が見えた。
その2階に、まるで隠れ家のように佇む小さな映画館があった。
僕は吸い込まれるように階段を上がり、2階の窓口で「大人一枚」と告げた。
すっかり時代から取り残されたような映画館だった。
ロビーは狭く、壁には色褪せた映画のポスター。チケットをもぎる人影は、いたような、いなかったような曖昧さで、僕は無言のまま劇場に入った。
薄暗い館内には、僕の他に数人しか客はいなかった。
上映されていたのは学園ものだった。
とはいえラブコメでもホラーでもない。
女子校の演劇部が、創立記念式典にチェーホフの『櫻の園』の戯曲を上演するまでの、何気ない、けれど二度と戻らない、儚い夢のような一瞬を描いた物語。
倉庫のような部室、窓から見える桜の園、言葉にならない感情の重なり。
画面の中の時間は、現実よりもゆっくりと、けれど確実に流れてゆく。
繰り出される台詞と沈黙が、僕の内側を満たしていった。
スクリーンのなかで、少女たちが交わす言葉の端々に揺れる制服の裾。
不可逆ゆえせつない刻が桜花に乗って春風に舞う。
そして満開の桜並木。
劇場の外で荒れ狂っている吹雪とは対照的な、春の陽気を孕んだ光景だった。
偶然にも、作中で繰り返し流れていた、ショパンの前奏曲第7番のリフレインが耳に残った。
美術教師の端くれである僕には、現実の職場のように映るだろうと思っていた予感は、ものの見事に裏切られた。
リバイバル上映された古典のようなこの名作を、当時のロードショーで観られなかったことだけが、ちょっと悔しかった。
エンドロールが流れ、やけに眩しい照明が灯る。
現実へと引き戻される瞬間の、あの独特の喪失感に浸りながら出口へ向かったとき、その人はそこに佇んでいた。
「……あれ、もしかして」
驚きに目を見開いたのは、僕の方だった。
高校時代のクラスメイトだった、浩子の印象が脳裡に甦る。
卒業以来、一度も会うことのなかった彼女が、当時の面影を残したまま、そこにいた。
窓際の席で、よく文庫本を読んでいた彼女。
記憶の中より少し大人びて、それでも変わらない目をしている。
「浩子……?」
「あら……久しぶり」
名前を呼ぶと、彼女は微笑んだ。
それだけで、十数年の空白が一気に縮まる気がした。
さほど驚かないのは意外だった。
「信じられない。こんなところで会うなんて」
「さっきから一緒に観てたのか?」
「ひとに薦められてね」
映画館を出てから、僕たちは雪を避けるようにして、近くにある老舗の純喫茶へ駆け込んだ。
分厚いドア、渋い色のカウンター、少し焦げたコーヒーの香り。
使い込まれた革張りの椅子。
小さなテーブルに運ばれてきたカップから、ほっこり湯気が立ち昇る。
高校時代の文化祭の話、共通の友人の行方、あの頃、口に出せなかった小さな秘密。先生の噂、卒業後の進路。
しごく平凡な公立校だったけれど、当時の話題は尽きることがなかった。
浩子の声は、ショパンの旋律よりも心地よく僕の鼓膜を震わせた。
彼女は少しだけ大人びていたけれど、真っ直ぐに僕を見る瞳は、教室の窓際で話していた、あの頃のままだった。
浩子は、ところどころ言葉を選びながら話し、僕は相槌を打ちながら、ずっと彼女の話を聞いていた。
「ねえ」と、彼女が言った。
「あの頃、いまがずっと続くといいなぁとか思ってたよね」
僕は答えようとした。
けれど、その瞬間、カップの中のコーヒーが、ふっと白く滲んだ。
「また、会えるかな?」
名刺を手渡しながら僕がそう問いかけたとき、ふいに窓の外の雪が激しさを増した。
ぽんぽん、と肩を叩かれた。
「お客さん、終点ですよ」
目を開けると、車内には誰もいなかった。
僕はまだ、列車の座席に座っていた。
イヤフォンからはずっとショパンが流れ続けている。
窓の外には、ただ凍て返った夜の闇が広がっていた。
慌ててホームの表示を確認した。
東寺はとうに過ぎ去り、列車は終着の京都駅に滑り込んでいた。
あのパチンコ屋の2階の小劇場は、数年前に閉館して、今はもうあそこにはない。
浩子だって、そうだ。
彼女は卒業してすぐに遠くの街へ引っ越して、今どこで何をしているかも知らない。
映画館のスクリーンも、コーヒーの温かさも、そして浩子の笑顔や笑い声も、あまりにも鮮やかすぎる幻影に過ぎなかったのか。
ホームに降り立つと、雪はいつの間にか雨に変わっていた。
アスファルトの上で溶けて消えていく雪の欠片は、僕が今しがたまで見ていた夢の残骸のようだ。
京都駅の改札へと向かう人の波は、一様に足早で、冷たい雨に濡れたコートの匂いが漂っている気がした。
まだ指先に残っている、あの喫茶店のカップの熱を確かめるように、両手をコートのポケットに深くねじ込んだ。
エスカレーターに乗り、中央口へと続く高い吹き抜けを見上げる。
その時だった。
駅ビルをつなぐ空中径路から、タクシー乗り場へと続く階段を降りて来る女性が目に飛び込んできた。淡いベージュのコート。
少し癖のある、肩にかかるくらいの黒髪。
その歩き方、首を少し右に傾ける癖。
「浩子……?」
夢のなかの彼女は、高校時代とあまり変わらない姿だったが、そこにいるのは、彼女が年齢を重ねたとしたら、きっとこうであろうというイメージに近い姿をしていた。
エスカレーターを登りきってから、僕はまたターンして階段を駆け降りた。
人混みをかき分け、彼女の後ろ姿を追った。
「すいません!」
と口に出そうとして、声が掠れて出ない。
でも、もし彼女が本当に浩子だったとして、僕はなんと声をかければいい?
「今、さっき、君とお茶していたんだ」なんて、狂人の戯言だろう。
「久しぶり」という言葉も、この雪の夜にはあまりに軽すぎる。
彼女がタクシー乗り場まで辿り着き、開いたドアに足をかけようとした刹那。
ふいに、浩子がこちらを振り返った。
視線が交差する。
一秒。二秒。
彼女は一瞬、眉を寄せて、ちょっと困ったような微笑みを浮かべた、、、僕にはそう見えた。
だが、彼女が乗り込んだタクシーのドアは閉まり、赤いテールランプが夜の闇に溶けていく。
僕は立ち尽くして、ただその光を見送った。
彼女は本当に浩子だったのか?
それとも僕の脳がまだ、夢の続きを見せようとしているのか。
ふと耳元のイヤフォンに意識を戻すと、エンドレスで流れていたショパンが止まっていた。
さっき飲んだはずのないコーヒーの苦味が、なぜか喉の奥に微かに残っているような気がして、僕は深く息を吐き出した。
あの映画も、再会も、喫茶店の温もりも、すべては、過去と現在の隙間に生まれた幻だったのか。
それは、あの雪の夜の出来事が、僕の脳が作り出したバグだったのだと、自分に言い聞かせ始めた矢先のことだった。
一週間後。
僕のラップトップに一通のメールが届いた。
メールには、一枚のモノクロ写真が添付されていた。
冬の光に透ける、葉を落とした大きな桜の木。
それは見覚えのある、僕らが通っていた高校の、校門脇の桜の木だった。
「お久しぶりです。お元気ですか? 先日の夜、京都駅で康平を見たような気がしました。夜だったから、よく見えなかったけれど。それから、いろいろ昔のことを思い出して、むかしの携帯に残っていた、このメールのアドレスにたどり着きました。届いてたらいいんだけどな、、」
マウスに添えた指先が微かに震えた。
「僕のアドレス.…..まだ覚えてたのか.…..」
そうだ、確かあのとき携帯が壊れて、僕だけPCのフリーメールのアドレスをみんなに教えたことを思い出した。
「SNSなんて、まだなかったもんな.…..」
フリーメールなんてほとんど使わないから、卒業まえに、グループ内で交換したメールのアドレスを、僕は一度も更新していなかった。
僕は部屋の窓を開けた。
入り込んできた風はまだ冷たかったけれど、その中には微かに、土の匂いと、草花の香りと、やがて訪れる春の気配が入り混じっているような気がした。
「まったく、ヘンな偶然だな」
僕は浩子あての返信のような、当時の自分への手紙のような、短いストーリーを書き留めておこうと思った。🌸🍒
