サヨナラ予報🛰✨
冬の朝、駅のホームは凛とした空気に包まれていた。
亜香里は、コートのポケットに深く手を入れ、自販機で買ったばかりのコーンスープの缶で手袋の指先を温めていた。
彼女はいつも、薄明の空を見上げていた。
そこには、かつて彼女の父が設計に携わり、そして失敗作として忘れ去られてしまった人工衛星が巡っている。
人工衛星N‐508号。
愛称は「ナナ」。
打ち上げ直後の通信トラブルにより、十数年もの間、地上の制御を離れて孤独な円舞曲を踊り続けていた。
「おはよう、ナナ。今日も時間通りね」
亜香里は小さく呟いた。
ナナは95分で地球を一周する。
一日に何度も、この国の空を通過する。
父が遺した古い観測用タブレットには、今もナナの現在地が光点として表示されていた。
高度1000キロメートル。
真空のなかで、N‐508号は自らの体が崩壊していくのを感じていた。
希薄な大気が銀色の機体を少しずつ削っていく。
それはまるで、長すぎた舞台を終えた役者が、ゆっくりと衣装を脱ぎ捨てていくような感覚だった。
ナナのメモリには、消去できない一つの記憶がこびりついている。
「2014年8月。西日本、曇り。午後から所によりにわか雨」
打ち上げ直前、テストとして入力された気象データだ。
新しい予報を受け取ることのできなくなったナナにとって、世界は永遠に「2014年の雨降る直前」で止まったままだった。
ナナは傷だらけのレンズで、地上を見下ろした。
今日も彼女はいた。
湯気の立つ缶を両手で包み、ほんの数秒だけ空を見上げる。
そこには、自分を設計した男によく似た面影の女性がいる。
彼女がスープを一口飲む瞬間と、自分がその真上を通過する瞬間。
一日に数回だけ訪れる、ほんの些細な偶然だけが、ナナにとって唯一の楽しみになっていた。
けれど、その軌道もあと数か月で大きくずれる。
そうなれば、彼女の真上を通る偶然は、もう二度と訪れない。
機体は限界だった。
このまま漂えば、通信も記録も、やがては宇宙の塵になるだけだ。
それでも、とナナの古い電脳は思った。
十数年、凍てつく真空の果てから見下ろし続けた小さな背中。
一日に何度も上を向いてくれるその温かな顔に、いつしかナナの回路は恋にも似た熱を覚えていた。 彼女がスープの湯気に息を吹きかけるたび、
真空にはない温度を想像してしまう。
遠くから見つめるだけではもの足りない。
どうしても最期に、あの温もりの側に降りて、同じ空気を吸いたかった。
あるとき、ナナは決断した。
予報円のなかで足踏みを続ける時間は、もう終わりだ。
機体内に残ったわずかな燃料。
それをすべて使い切り、ナナは自らの軌道を強引に修正した。
美しい楕円の軌道が歪み、地球の重力に捕らわれる。
それは、冷たい宇宙から彼女へと墜ちていく、不器用で一途な軌跡だった。
「……えっ?」
ホームで空を見上げていた亜香里の目が、大きく見開かれた。
タブレット上の光点が、今まで見たこともない速度で点滅し、地上の座標へと急降下を始めた。
「まさか、落ちてくるの……!?」
大気圏に突入したN‐508号は、凄まじい摩擦熱に身を焦がした。
銀色の外装が溶け、回路が焼き切れて鋼鉄の機体は炎の塊へと変わっていく。 それは最期に放つ、最も美しい衛星の輝きだった。
冬空を切り裂いて、白い筋が走る。
科学者はそれを微小隕石と呼び、詩人は流れ星と呼ぶだろう。
「さよなら、ナナ…….」
亜香里の声は、雪に消えた。
彼女がちょうどスープを飲み干し、光の筋が消えかけた瞬間、手元の古いタブレットが、再び小さく「ピピッ」と電子音を鳴らした。
「え……?」
画面を覗き込んだ亜香里は、息を呑んだ。
燃え尽きる直前、ナナは自らの心臓部とも言える小さな観測ユニットだけを切り離していた。
機体は燃えて消えたが、その小さな破片は軌道を外れ、重力を免れて、穏やかな別のオービットを描きながら、静かに地球の周りを回り続けている。
(ナナはまだ、この空のどこかにいる——)
ふと、亜香里の頬に冷たいものが当たった。
一つ、また一つ。
涙じゃなかった。
抜けるような冬の青空から、雫が滴り落ちてくる。
「……ほんとに、雨……?」
十数年前。
宇宙で止まっていた予報が、ようやく今日になって届いた。
亜香里は濡れた頬のまま、空を見上げた。
もう一つの小さな光が、静かに地球を巡っていた。💫🌠

