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K-K線と日本の高度成長 —— インドへの鉄道技術支援にまつわる誇りと感謝


【この記事で学べること】 戦後復興期、日本が資源調達問題にどう立ち向かったのか。世界最高品質の鉄鉱石を求め、国家総出でインドの険しい山へ挑んだ巨大インフラ投資の全貌と、日本の国鉄技術がインド最高収益の鉄道をつくりあげた歴史に迫ります。 

◆ 本記事のキーポイント

  • 冷戦構造の影: なぜアメリカもこの日印プロジェクトを支援したのか?

  • 国鉄技術者の執念: 碓氷峠や黒部での経験をインドの鉄道にどう活かしたか

  • 技術が紡いだ絆: オイルショックを救った日本の交流電化技術

1. はじめに:鉄路が紡ぐ、知られざる日印の絆

  先回の記事ではD9というシーメンス社製の電気機関車が、「コタヴァラーサ=キランドゥル線Kothavalasa–Kirandul line 」(通称:K-K線)という山岳路線に投入されたという話をご紹介した。

 D9は日本のEF200と比べて格段に強力なパワーを持つ電気機関車なのだが、その主任務はキランドゥル駅の向こうにあるバイラディラ鉱山から鉄鉱石を積み出し、ベンガル湾に面したヴィサーカパトナム駅に運ぶことである。山奥から港まで鉄鉱石を載せて山を下りてくるわけだから、ブレーキなどは格段に優れた性能が求められるわけだが、D9は見事にその期待に応えているというわけだ。

 一見このK-K線は日本と何の関係もないように思われるが、調べれば日本人が誇りに思って良いようなインドへの技術支援の話が出てくるし、多方で戦後日本の高度成長を支えてくれた、インドの鉱山に感謝の念が湧いてくる。今回は鉄道が紡いできた日本とインドの交流の話をしてみたいと思う。

アーンドラプラデシュ州、オリッサ州、チャティスガール州にまたがる。


2. 戦後の日印関係:交錯する二つの大国 

 1952年にインドと日本の国交は回復した。インドはサンフランシスコ講和条約に調印しなかったため、個別に条約を結び国交を回復させる運びとなった。

 1956年、日本では「もはや戦後ではない」という言葉が経済白書の結語に載せられ、戦後復興から経済発展への道を歩もうとしていた。インドも1956年から第二次五か年計画をスタートさせ、こちらも発展への道を歩もうとしていた。

3. 鉱山開発をめぐる利害の一致:求め合った「鉄」と「外貨」 


 1956年から第二次五か年計画を進めることで経済発展への道を歩みたかったインドだが、一つ問題が生じた。重工業を中心にすえて経済発展を進めたかったのだが、国内に巨大な製鉄所を建設するための資金(外貨)が圧倒的に不足していたのである。
 
そこでインド政府が目を付けたのが、現在のチャティスガール州に位置するバイラディラ鉱山 だった。バイラディラとは、現地の言葉で「牛のコブ」を意味する。 そのバイラディア鉱山自体は1934年〜1935年にかけての地質調査で発見された。その調査で分かったことは、この鉱山で採掘できる鉄鉱石の鉄分が65%以上と非常に高いことだった。これは世界最高水準であると言われる。

 第二次五か年計画を進めたいインドのネルー政権としては、これを売って外貨を稼ぎ、その利益で近代化を図ろうとしたのだった。かくしてインド政府は、世界中で鉄鉱石を探し回っていた日本に目を付けて売り込みをかけた。

 1956年末から1957年にかけてインド政府の閣僚や鉱物資源公社の幹部、さらには仲介を試みる民間商社などが相次いで来日、あるいは在印日本大使館を通じて日本の通産省(当時)や鉄鋼大手(八幡製鐵の三鬼隆社長ら)に接触したのだった。

 インド側は「インドには世界最高品質の鉄鉱石がある。日本がその開発資金と、山から海へ運ぶ鉄道(後のK-K線など)の資材を融資(援助)してくれるなら、生産された鉄鉱石はすべて格安で長期にわたって日本に優先供給する」  と言って日本側を口説こうとした。

 これは日本側にとっても魅力的な提案だった。高度経済成長の入り口にいた日本にとって、原燃料の確保は文字通り「死活問題」だったからだ。当時の事情は次のとおりである。

◆ 当時日本が直面していた資源の「死活問題」

 ・中国からの輸入が途絶えてしまった。
戦前は中国から鉄鉱石を輸入していたが、共産中国の誕生、冷戦構造の深化によって、安定輸入が見込めなくなってしまった。
・高額な米国産鉄鉱石
アメリカから鉄鉱石を輸入していたが、船による送料が高額で困っていた。「より近く、より高品質なアジアの資源」 が必然だった。
・オーストラリアの禁輸措置
今では信じられないことだが、1960年代半ばまで、オーストラリアは自国の資源保護を理由に鉄鉱石の「輸出禁止措置」をとっていた。 

 とはいうものの急峻な山岳地帯から港までの鉄道路線は本当に敷設できるのであろうか。そこで日本は1957年に調査団を送る。通称「インド鉄鉱資源調査団」 である。

 調査団は文字通り徹底的な調査を行い、「バイラディア鉱山の鉱量は本物であり技術的困難はあるが鉄道敷設は可能」と結論付けたことで、1958年に「日印鉄鉱石開発協定」が正式に調印されたのである。
 この協定で、
・日本が「鉄道建設のための鋼材や貨車、電気設備」を輸出(円借款)し、
・インドが「地元の労働力と土木工事」を担当し、
・出来上がったインフラで採れた鉱石を日本が引き取る、
という枠組みが出来上がった。これにはアメリカの開発援助基金(President's Asian Economic Development Fund)も加わり、このインフラ整備に資金を出すスキームが組まれました。
 
 アメリカとしてもアジアにおける共産主義の拡大を防ぐため、親米的な民主主義国家としてのインドの経済を安定させたいという思惑 もあったのであろう。この基金を通じてアメリカは2000万ドルを出した。この資金でヴィサーカパトナムの港湾整備を行うことになった。日本側は日本輸出入銀行から800万ドルを支出した。

鉄鉱石の鉱山に鉄道を敷設するという、巨大な国家プロジェクトが動き出す。しかし、現地は道なきジャングル地帯である。この過酷ミッションに、白羽の矢が立ったのは、日本の『国鉄技術者』たちだった。ここから先は、熱帯の地で繰り広げられた、国鉄技術陣の苦闘劇へと迫る 。

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日本の国鉄がかつて支援して建設したKothavalasa–Kirandul line (通称:K-K線)の歴史が学べます。インド側の資料でも、国鉄側の資料でも明快に論じられていないこの鉄道を学べるのは本マガジンだけです。

かつて日本の国鉄がインドの山間部の鉄道建設を支援しました。その鉄道は日印双方の経済発展に大いに貢献しましたが、悲劇も惹起しました。その歴史…

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