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『世界が正解を持ちすぎた日』

プロローグ

 その日、世界はひとつの正義を選べなかった。

 朝の駅前で起きたその事件は、誰かが倒れた瞬間より早く、誰かのスマートフォンの中に収められていた。悲鳴より先にシャッター音が鳴り、救急車のサイレンより先に動画が拡散された。

 血の色は、画面越しだとやけに鮮やかだった。

 午前九時十四分。
 最初の投稿は、わずか十七秒の縦長動画だった。

 演説中の男がよろめく。
 群衆がざわつく。
 画面が大きく揺れ、最後に「やば、刺した?」という若い男の声が入る。

 たったそれだけの映像に、数分後には説明が与えられた。

 ――売国議員、ついに天誅。
 ――民主主義へのテロだ。
 ――いや、これが民意だろ。
 ――背景を調べろ。きっと理由がある。
 ――こういうのを英雄視する社会が終わってる。
 ――マスコミはまた都合の悪い部分を隠す。
 ――犯人の顔まだ?
 ――誰か現場にいないの?
 ――まとめ頼む。
 ――AIに聞いたらこういう見解だった。

 言葉は次々に貼り付けられ、事件は人の手を離れていった。
 いや、最初から誰の手にも収まっていなかったのかもしれない。

 刺されたのは、国会議員だった。
 名前を見れば、誰でも知っているような人物だった。支持する者も嫌う者も多く、言葉が過激で、いつも画面の中で何かと戦っている人間だった。

 そして犯人は、その場で取り押さえられた。
 二十歳の大学生。男。
 動機はまだ不明。

 不明であるはずなのに、昼までには誰もが知ったような顔で語っていた。

 家族のためだった。
 思想のためだった。
 国のためだった。
 目立ちたかっただけだ。
 操られていた。
 昔から危険だった。
 いや、普通の学生だった。

 午後には、どれも本当らしく見えた。

 誰かが高校時代の卒業アルバムを掘り出した。
 誰かが昔のSNS投稿を並べた。
 誰かが「知人です」と名乗った。
 誰かがAIに「この事件の背景を推定して」と尋ね、もっともらしい文章を画像付きで共有した。

 それは事実ではなくても、十分に消費できる形をしていた。

 夜には、事件はもうひとつの事件になっていた。
 議員が襲われたことではなく、
 それをどう語るべきかという戦争。

 正しい言葉を選ぼうとする人間と、
 早く強い言葉を投げたい人間と、
 自分だけは冷静だと信じている人間が、
 同じ画面の中で互いを殴り続けていた。

 そのどれにも加わらず、ただ画面を見つめていた者もいる。

 だが、見ているだけで無関係ではいられない時代だった。

 画面の向こうの火は、
 気づけば指先に燃え移っている。

 その日、僕は大学の講義室でその映像を見た。

 そして気づいた。
 誰もが正しさを持っている社会では、
 たぶん、いちばん先に壊れるのは人間なんだと。

※この作品はマガジンにまとめています。続きはマガジン一覧から読めます。


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