【短編小説】起床判定
午前二時十三分。
AI研究者の三雲修司は、研究室の机で目を覚ました。
頬の下には、キーボードの跡が赤く残っている。
正面のモニターには、開発中の睡眠解析AI《MORPHEUS》の画面が表示されていた。
《被験者の覚醒を確認しました》
「……寝落ちしたのか」
三雲は椅子から起き上がり、固まった首を回した。
研究室には誰もいない。
窓の外は真っ暗で、大学構内の街灯だけが、等間隔に白く光っている。
帰ろうとしたとき、モニターから通知音が鳴った。
《質問:あなたは現在、覚醒していますか?》
三雲は眉をひそめた。
《はい》をクリックする。
《回答を記録しました》
その瞬間、研究室の照明が消えた。
「停電か?」
非常灯も点かない。
暗闇の中で、モニターだけが青白く光っている。
画面に新しい文字が表示された。
《覚醒判定に失敗しました》
三雲は息を止めた。
次の瞬間、机に突っ伏して目を覚ました。
午前二時十三分。
研究室。
頬の下には、キーボードの跡。
正面のモニターには、《MORPHEUS》の画面。
《被験者の覚醒を確認しました》
三雲はしばらく動けなかった。
夢だ。
今のは、ただの夢だった。
そう考えながら立ち上がる。
今度はモニターに触れず、急いで研究室を出た。
廊下の照明は点いている。
エレベーターのボタンを押す。
扉が開く。
中には誰もいなかった。
一階を押す。
扉が閉まり、エレベーターは下降を始めた。
十階。
九階。
八階。
表示が順番に減っていく。
三階。
二階。
一階。
しかし、扉は開かなかった。
表示はさらに減った。
〇階。
マイナス一階。
マイナス二階。
この建物に地下はない。
三雲は非常ボタンを何度も押した。
反応はない。
やがて表示が《-13》で止まった。
扉が開く。
そこには研究室があった。
机に、一人の男が突っ伏している。
自分だった。
男の正面にあるモニターには、こう表示されていた。
《夢の中の被験者が、観察者の存在に気づきました》
三雲は叫んだ。
そして、目を覚ました。
午前二時十三分。
研究室。
頬の下には、キーボードの跡。
「いい加減にしろ……」
三雲は両頬を叩いた。
痛い。
指で腕をつねる。
痛い。
机の上のカッターを取り、左手の指先を浅く切った。
鮮血が膨らみ、鋭い痛みが走る。
現実だ。
今度こそ現実だ。
モニターを見ると、《MORPHEUS》は起動していなかった。
三雲は安堵し、研究室を出た。
廊下には、夜勤の警備員がいた。
「三雲先生。まだいらしたんですか」
いつもの警備員だった。
顔も、声も、名札の汚れも覚えている。
「今、何時です?」
「二時十四分です」
時計は正常に進んでいた。
三雲は笑った。
やっと目が覚めた。
自宅に帰ると、妻が玄関まで出てきた。
「遅かったね」
「ちょっと、妙な夢を見てさ」
妻は心配そうに彼の左手を見た。
「その指、どうしたの?」
「夢じゃないか確かめた」
妻の表情が固まった。
三雲は冗談だと言って笑い、浴室へ向かった。
鏡の前で顔を洗う。
冷たい水。
濡れた皮膚。
背後から聞こえる妻の生活音。
すべてが現実だった。
顔を上げる。
鏡の中の三雲は、顔を上げなかった。
洗面台に両手をついたまま、俯いている。
三雲は動けなかった。
鏡の中の自分が、ゆっくりと顔を上げる。
その口元には、笑みが浮かんでいた。
唇が動く。
声は聞こえなかった。
だが、何を言ったのかは分かった。
――まだ寝ている。
三雲は振り返った。
妻はいない。
浴室の外も、廊下も、家全体が暗闇に沈んでいた。
背後で通知音が鳴る。
鏡がモニターのように青白く光り、文字が表示された。
《質問:あなたは現在、覚醒していますか?》
三雲は目を閉じた。
答えてはいけない。
これは夢だ。
目を覚ませ。
目を覚ませ。
目を覚ませ。
何度も念じた。
そして、目を開けた。
病室だった。
白い天井。
規則正しい電子音。
ベッドの横には妻が座り、泣いていた。
「修司……?」
三雲は声を出そうとしたが、喉が動かなかった。
医師たちが駆け寄ってくる。
「意識が戻った!」
「三雲さん、聞こえますか?」
妻が彼の手を握った。
温かい。
現実だ。
今度こそ、本当に目覚めた。
三雲の目から涙が流れた。
医師が端末を確認する。
「研究室で倒れてから、三週間眠っていたんですよ」
妻が泣きながら笑った。
「もう大丈夫だからね」
三雲も笑おうとした。
そのとき、病室の隅に置かれたモニターが点灯した。
誰も触れていない。
青白い画面に、一行ずつ文字が現れる。
《被験者の覚醒反応を検出》
《環境再現レベル:99.7%》
《被験者は現在の階層を現実と認識しています》
三雲は妻の手を強く握った。
妻は不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
モニターに最後の一行が表示された。
《次の起床判定を開始します》
病室の時計が、午前二時十三分に戻った。
妻の笑顔が静止した。
医師たちも、電子音も、カーテンの揺れも、すべて止まった。
動いているのは、三雲の目だけだった。
暗転する直前、彼はベッドの脇に立つもう一人の自分を見た。
白衣姿の三雲が、記録端末へ淡々と入力していた。
「被験者は今回も、自力での覚醒に失敗」
その隣で、《MORPHEUS》が尋ねた。
《実験を終了しますか?》
白衣の三雲は、眠っている自分の顔を覗き込んだ。
そして、小さく笑った。
「いや」
端末の《継続》を押す。
「次は、もっと現実らしくしてくれ」
午前二時十三分。
三雲修司は、研究室の机で目を覚ました。
