小さなアリのお話
そこは風が眠る丘だった。

太陽とともに朝が来れば、風は目を覚ます。
その一息目で、緑広がる草原の青い若葉をそよがせると、朝露は葉の曲線に沿って転がって、バイオリンのような音を響かせた。
小さな虫たちはその音に羽音を重ね、空へ飛んでいく。
木に止まる鳥のさえずりがメロディとなり、まるで朝露のオーケストラのようだった。

けれど、今はもう、何も聞こえてこない。
遠くに大きな木製の風車がたくさん立ったからだ。
太陽は大きな羽根に隠されて、あれほど美しかった緑の草原は夜から抜けられない。
大きな羽根が回るたび、冷たい風を丘へ吐き出し、朝露が留まることもない。
風は、そこでじっと眠っていた。
朝も来ない、音楽も聞こえて来ないこの丘で。
どれくらいの時間そうしていたのか、もうすっかり分からなくなっていた。
冬になれば風車は雪で凍りつく。
それでも朝は遠い。
迷い込んだモグラといっしょに、風は寒さに震えながら、地面の下で眠っていた。
そんなある日のことだった。
地面を歩く小さな足音が聞こえて、風はほんの僅か目を覚ました。
その足音は、あっちへいったりこっちへいったり。
まるで何かを探しているかのように、風が眠る地面の上を歩いていた。
風は気にしないで目をつむった。
いつものこと。
春が来たんだろう。
けれど、もう、太陽も音楽もない。
だったら起きる理由なんて、なにもない。
そう思っていた。
「……すん、すんすん」
小さくすすり泣く声が、風の眠りを遮った。
再び目を閉じても、その音は消えることはなく、ずっと地面の中へ響いてきた。
風はついに諦めて、ほんの少しだけ地面から顔を覗かせた。
丘にはとっくに春が来ていた。
雪は溶けて、茶色い地面だけが広がっている。
その中に黒いものが見えた。
そこには一匹の小さなアリがいた。
やせ細って、みすぼらしい姿をしている。
涙を隠すこともなく、ただ泣いていた。
「アリ、何をそんなに泣いているんだ?」
風は優しく声をかける。
アリは一瞬風の方を向いたが、目に浮かぶ涙は流れていくばかりだった。
「アリ、どうしたんだ?」
風はすっかりと困ってしまった。
風が知っているのは、鳥たちが歌い、虫たちがリズムに合わせて跳ね、若葉たちがワルツを踊るように触れ合う、そんな朝ばかりだった。
だから、泣いているものなんて見たこともない。
アリはそれでも泣き続けた。
風はおろおろとして、辺りをくるくると回った。
そうしていると、久しぶりに丘に風が吹いた。
緑は失われているけれど、風は確かに空まで飛んでいく。
気がついた鳥たちが、ほんの少し離れた木からささやいた。
「かぁかぁ、巣は羽根の下」
「ほぅほぅ、戻れぬものなら忘れてしまえ」
「ぎぃぎぃ、母さんはまだ待ってる、兄弟もまだ待ってる」
その声を聞いて、アリはますます涙をあふれさせ、枯れ葉の上に一滴こぼれてしまった。
かさついた葉からは、きざきざした音が鳴った。
美しかったバイオリンのような音とは違う。
それなのに久しぶりに鳴ったその音が懐かしくて、風は思わず息をふぅと吐いた。
その風は枯れ葉をびゅうと飛ばした。
そうすると茶色ばかりだった地面に、小さな緑が顔を出しているのが見えた。
また、アリの涙がこぼれた。
小さな緑にまでぽつんと落ちると、鼓動をするように双葉が開いた。
風は驚いて、思わず強く吹いた。
風に乗って種が飛んでいく。
双葉の影から、てんとう虫が現れた。
その小さな脚は花粉で黄色く染まっている。
緑から緑へ、花から花へ。
風に乗って、涙と一緒に飛んでいく。
また向こうで、双葉が見えた。
あちらは四枚の葉。
もう、あそこはピンクの花が咲いている。
風が吹くたびに、丘は美しい緑を取り戻していった。
やがて一面が緑に染まった頃、アリがふと気づいた。
「あ、あれ。僕は、茶色い地面にいたはずなのに……」
きょろきょろと見渡すと、あたりには若葉が揺れ、いつのまにか小さな草むらのようになっていた。
葉と葉の間にぴょんと伸びた触角が揺れているのが見えた。
アリがじっと見ていると、キリギリスが飛び出した。
「風さん、お久しぶり。緑が気持ちいいね」
そう言うと、昔のように羽根を震わせた。
その向こうに、とんぼが見えた。
カナブンも、モンシロチョウも。
まるで何も変わらないように、空へ向かって飛んでいく。
色とりどりの羽が、青い空にきらきらと浮いていた。
風はそうしてようやく気がついた。
太陽はいなくなったわけではないことに。
風車の羽根よりも高い空では、太陽が変わらず輝いていた。
それなら、丘だって、風車の下だって──。
遠くから綺麗なさえずりが響き始める。
「かぁかぁ、アリが一人で無理ならば」
「ほぅほぅ、皆で手を携えて」
「ぎぃぎぃ、穴でも掘ればいいだろう」
そう鳴くと、風車へ向かって飛んでいった。
羽ばたく羽根は新しい風を起こす。
その風に背中を押されるように、種も虫たちも風車へ向かった。
風だけが丘に残された。
みんなの方を静かに見つめている。
風には、オーケストラまで消えてしまったように思えた。
風はゆっくりと口を開く。
「なあ、俺はどうしたらいいんだ?」
地面に向けて、ぽつりとこぼした。
その時、地面がほんの少しだけ揺れた。
緑の葉っぱも上下して、小さな穴が開いた。
そこから茶色い顔がひょっこりと現れた。
「それなら、お前さんも行けばいい」
それは迷い込んだモグラだった。
モグラは寝起きなのか目をこすりながら続ける。
「地面の下を伝ってな、声が聞こえるんだよ」
そう言うと大きな手で顔を隠す。
「ずっと助けを呼んでいる。でも、おいら一匹じゃどうにもできなくてな。聞いていられなくなって、こっちへ来たんだ」
風はモグラの体をふわりと包み込むと、風車へ向かって飛び立った。
太陽を背負った風車から、大きな影が伸びている。
風はそれをなぞるように進んでいく。
モグラは何も言わずに、おとなしく風に包まれていた。
風車の根元に着くと、先に行っていた鳥と虫たちが騒いでいた。
「かぁかぁ、とても重くて動かない」
「ほぅほぅ、力があっても勝てっこない」
「ぎぃぎぃ、それでも声は聞こえるよ」
遅れてやってきたアリは、それを聞くとまた涙をこぼした。
「ちっぽけな僕じゃ、なんにもできない……」
風は、何も声をかけられない。
なんて言ったらいいか分からないから。
風が止んで、辺りは少し前みたいに静まり返った。
虫たちも下を向いて、茶色い地面を見つめていた。
その時、小さな音が聞こえた。
はじめはアリの涙が落ちる音だと、みんな思っていた。
アリはまだはらはら涙をこぼしている。
その足元に、小さな緑が芽生えた。
地面がひび割れて、白い根っこが見える。
モグラはそれを見ると、ぶるっと身じろぎをして風から離れた。
不器用に地面を歩いて、小さな緑の根元へ。
「おいら一匹じゃ助けられない。でも、地面を掘ることならできる」
そう言うと、大きな手で根っこの先を掘る。
「だから、手伝ってくれないか?」
モグラは、するすると地面へ潜っていった。
けれど、掘り出した土が後ろへ積もり、開いたばかりの穴を塞いでしまう。
鳥たちがさえずる。
「かぁかぁ、小さな体で土を運べ」
「ほぅほぅ、声のする場所はすぐそこだ」
「ぎぃぎぃ、一粒ずつなら運べるぞ」
そう言うと地面に降り立って、声のする方向をモグラへ知らせる。
足踏みして、羽根を鳴らして、歌を歌って。
「かぁかぁ、穴を向こうへつないでいこう」
「ほぅほぅ、みんな見てるぞ、待ってるぞ」
「ぎぃぎぃ、一歩ずつ進んでいけ
」
地面の下で見えないモグラを励ますように。
虫たちは小さな体で穴から土を運んでいく。
道が埋まらないように、みんなで手分けをして。
一匹で持てるのはほんの僅か。
でも、たくさんの手と足で、土をかき分け運んでいく。
風は集まる土を遠くへ飛ばす。
力いっぱい空気を吹いて。
アリの涙が混じった土を遠くまで。
鳥たちの足音。
虫たちの土を運ぶ音。
風が土を飛ばす音。
さっきまでの静けさなんて嘘のように、辺りは賑やかな音で満ちていた。
アリは気がつけば泣き止んでいた。
目の前には小さな穴が開いている。
周りを見渡すと、みんながアリを見ていた。
アリは足を踏み出そうとする。
けれど、うまく動けない。
何度も、何度も足を上げるのに、前へ進まない。
段々と足が上がらなくなって、ついに止まった頃、風が近くに寄ってきた。
何も言わずに、風はアリの横に座り込む。
それをアリは見ている。
風の体がゆっくりと膨らんでいくのを、アリはじっと見ていた。
風はひゅうと一息、穴に向かって吐き出した。
吐き出した息は小さな穴へ吸い込まれ、しばらく何の音もしなくなった。
しばらくすると、笛が鳴るような音が聞こえて、穴から風が飛び出した。
それは吹いた時より弱い風だった。
それなのに、アリはまた足を前に進めた。
さっきまで進めなかった一歩。
今は踏み出せた一歩。
それは見落としてしまいそうなほど小さな、世界で一番小さな奇跡だった。
「母さんの、兄弟たちの、匂いがする」
アリはまたこぼれだした涙を気にもせず、穴へ向かって進んでいく。
そのちっぽけな体が、すっかりと穴の向こうへ消えるまで、みんな黙って見つめていた。
アリは小さな足で、暗闇の中を進んでいく。
穴を進むのは、たった一匹だった。
何も見えないのに。
けれど、分かる。
この先に大事な家族が待っていることが。
知っている匂いが奥からしている。
怖くないわけではなかった。
それでも、背中にはまだ、みんなの風が残っているような気がした。
暗がりはどこまで行っても暗がりだった。
段々と足取りが重くなってくる。
引き返した方がいいのかな、なんて思った頃に、土の上から音が降ってきた。
「かぁかぁ、もう少し、家族はすぐそこ」
「ほぅほぅ、進んでいけ、その足で」
「ぎぃぎぃ、ぼくらもここで歌ってるぞ」
その声はアリの耳に確かに届いた。
踏み出した足の横に、柔らかい何かを感じる。
「もう……すぐそこだ」
地面を掘り疲れたモグラがそこで寝ていた。
アリは「ありがとう」とだけ言って、また歩き出した。
地上ではみんなで踊って、歌っていた。
地面の下を進むアリを励ますように。
虫たちは足をどんどんと踏み鳴らして。
鳥たちは大きな声で歌を歌って。
風は何度も穴に息を吹き込んだ。
どれくらい経ったのか、もうすっかり分からなくなった頃、小さな穴がもぞりと動いた。
みんながぴたりと止まって、その穴をじっと見つめた。
ぴょこんと黒い触角がのぞいた。
そして、涙で濡れたアリの顔が見えた。
泥だらけの足。
すっかりと全身が現れる。
誰もまだ、何も言わない。
ごくりと唾を飲み込む音が響いた。
もう一度穴が動いた。
今度は、別のアリが現れた。
その後ろから、また一匹、もう一匹。
次々とアリが穴から出てきた。
みんな太陽の光を眩しそうに見つめている。
数え切れないほどのアリたちは、手を取りあって踊り出す。
みんな泣いている。
涙がぴちょんぴちょんと落ちる。
そこからまた、緑が芽吹いた。
びゅう、と風が吹いた。
けれど、風は何もしていない。
風が吹いてきた方を振り向くと、風車がくるくる回っていた。
その風には、もう、あの冷たさはなかった。
新しい風が涙を運ぶと、茶色になっていた地面はすっかり一面の緑になっていた。
みんなは再び踊り出す。
あの頃のような、澄んだ音ではなかった。
土を踏む音も、泣き声も、風車の軋む音も混じっている。
それでも風には、今までで一番美しい音楽に聞こえた。
風は新しいオーケストラに、そっと自分の一息を重ねた。

お題で久しぶりに書きました。
一個でいいのにいける気がして、全部盛りにしてしまったり。
そして、片桐さんのお題に沿うと、なぜか童話風に。
実に楽しく書けました。
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