小学生の頃の作文
この頃から大人の顔色を伺う訓練されていたんだろうか
子どもの頃、読書感想文や行事の作文を書くたびに妙な罪悪感があった。
「この時どう思いましたか?」
もちろん何も感じていなかったわけではない。
でも実際の心の動きは、
少し恥ずかしい。
少し安心した。
少し面倒だった。
少し悔しかった。
そんな曖昧で混ざり合ったものだった。
ところが作文になると、
「嬉しかった」
「悲しかった」
「よかった」
といった分かりやすい感情へ変換することが求められる。
いつしか私は、
「ここは『悲しい』を選ぶのが正解だな」
「ここは『嬉しい』にしておけば丸がもらえる」
と考えるようになった。
教育側は感情の言語化を教えようとしていたのだろう。
だが子どもだった私には、それが「正しい感情の答え方」を覚える訓練に見えていた。
感情が無かったのではない。
むしろ逆だ。
感情が単純な一言では収まらなかった。
言葉は感情を理解するための便利な道具だ。
だが時には、その複雑な輪郭を削り落としてしまうこともある。
今でも思う。
あの頃の作文で切り捨てられた、言葉になる前の微かな揺れこそが、一番本物の感情だったのかもしれない。
