土下座100回より、まず薬ではないか― 何とでも言える世界で、まともに考える方法 ―
世の中には、何とでも説明できることがあります。
たとえば、病気が治ったとします。
その人は薬を飲んでいました。
同時に、毎日土下座を100回していました。
このとき、こう言うことは一応できます。
「土下座100回によって身体が活性化し、血流が良くなり、何らかの細胞が目覚め、病が治ったのではないか」
言えます。
たしかに言えます。
しかも少しだけ、ありそうに聞こえるのが困ります。
土下座も運動です。
運動が身体に影響することはあります。
身体に影響すれば、細胞にも何らかの変化があるかもしれません。
そう考えると、完全にゼロとは言い切れません。
しかし、ここで問題になるのは
「言えるかどうか」ではありません。
問題は、「その説明がどれだけ強いか」です。
ここに出てくるのが、
最善の説明への推論
です。
これは、目の前の事実に対して、複数の説明が成り立つとき、その中で最もよく説明できるものを選ぶ考え方です。
病が治った。
薬を飲んでいた。
土下座もしていた。
この三つがあったとき、論理的には「薬で治った」とも「土下座で治った」とも言えます。
しかし、どちらがより自然で、より根拠があり、再現性を持ち、医学的知識と整合するかを考えると、やはり薬の説明の方が強いのです。
土下座100回説は、面白いです。
信仰心と膝の強さは感じます。
しかし説明としては、かなり遠回りです。
薬の場合は、成分があり、作用機序があり、研究があり、似た条件で他の人にも効果が出る可能性があります。
つまり、説明の足場がある。
一方で土下座説は、途中からかなり想像力に頼ります。
このように、説明をつなげようと思えばつなげられます。
しかし、つながることと、強い説明であることは違います。
ここが大切です。
私たちはよく、
「可能性はゼロではない」
という言葉に引っ張られます。
たしかに、可能性はゼロではない。
しかし、ゼロではない可能性を
すべて同じ重さで扱っていたら
世界は説明不能になります。
風邪が治ったのは薬かもしれない。
睡眠かもしれない。
気合いかもしれない。
たまたま見た猫動画によって免疫が覚醒したのかもしれない。
何とでも言えます。
しかし、何とでも言えるからこそ、私たちは問わなければいけません。
その説明は、どれくらい無理がないのか。
他の事実とも矛盾しないのか。
同じ条件で繰り返しても成り立つのか。
反対の証拠が出たときに、ちゃんと修正できるのか。
特に反対の可能性が出来たときに成り立たないことは大切です。
論じるとは、ただ言葉を並べることではありません。
自分の好きな結論に向かって
都合の良い説明を貼り合わせることでもありません。
論じるとは、いくつもある説明の中から
より強い説明を選び、その理由を示すことです。
つまり、文章を書くとは、世界に対して
「私はこう思う」
と言うだけでは足りません。
なぜそう思うのか。
他の説明ではなぜ弱いのか。
自分の説明はどこまで耐えられるのか。
そこまで考えることが、論じるということです。
ここに、文章の原点があります。
文章とは、感情の放出でもあります。
違和感の記録でもあります。
怒りや悲しみや面白さを残すものでもあります。
しかし、論じる文章になるためには
そこに一本の筋が必要です。
「私はこう感じた」
だけではなく、
「なぜそう感じたのか」
「その感じ方は、どのような構造を持っているのか」
「別の見方と比べて、なぜこちらの説明が強いのか」
まで進む必要があります。
これが、論理の論理です。
論理とは、ただ正しそうな言葉を使うことではありません。
かなり地味な作業です。
正直見て楽しく無いです。
余計な飛躍を減らし、根拠と結論をつなぐ。
別の可能性を認める。
そのうえで、なお自分の説明が一番ましだと言える理由を出す。
これが論理です。
だから、土下座100回で病が治ったという話も、完全には笑い飛ばせません。
人間の身体は複雑ですし
運動や精神状態が健康に
影響することもあります。
世界は、こちらが思うほど
単純ではありません。
ただし、そこで止まってはいけない。
「あり得る」から「正しい」へ飛んではいけない。
「否定できない」から「採用すべき」へ飛んでもいけない。
この飛躍が起きると
世界は一気に陰謀論や根性論に近づきます。
努力したから成功した。
祈ったから救われた。
あの人を信じたから勝てた。
水を変えたから人生が変わった。
財布を黄色にしたから金運が上がった。
どれも、何とでも言えます。
そして何とでも言える言葉は
ときに人を気持ちよくさせます。
けれど、気持ちよさと説明力は違います。
最善の説明への推論は
この気持ちよさにブレーキをかけます。
これは冷たい態度ではありません。
むしろ、世界を雑に扱わないための態度です。
何とでも言える世界だからこそ、何でも信じてはいけない。
何とでも説明できる世界だからこそ、説明には強さの差がある。
土下座100回で病が治った可能性は、ゼロではないかもしれません。
しかし、まず膝が心配です。
そして説明としては、薬の方が強い。
この当たり前に見える判断の中に
実は論理の核心があります。
論じるとは、勝敗や相手を黙らせることでもありません。
自分の感情を正義に変換することでもありません。
論じるとは、複数の説明が並ぶ世界で、よりよい説明を選び取ることです。
だから、良い文章には、勢いだけではなく
足場があります。
世界は何とでも言えます。
だからこそ、私たちは何を言うかを選ばなければいけないと考えます。
