【今回の旅を経て改名しようと思った。260615】

今回の旅を経て、改名しようと思った。
浜村しゅないだー義和から、神原月見へ。
これは、単なる名前の変更ではない。
ハンドルネームを変えるとか、noteの表記を整えるとか、そういう話でもない。
もっと深いところで、
自分の中の器が変わり始めている。
そんな感覚がある。
今回の旅は、ただの旅行ではなかった。
日光東照宮。
日光二荒山神社。
家光公の廟、輪王寺大猷院。
三峯神社。
そして野沢温泉。
振り返ってみると、流れがあまりにもできすぎていた。
まるで、最初から順番が決まっていたかのようだった。
日光で、歴史と結界に触れた。
二荒山神社で、山の清らかな祈りに触れた。
大猷院で、静かに宇宙と繋がった。
三峯神社で、覚悟を問われた。
野沢温泉で、湯と水と村の未来を見た。
これは観光ではなかった。
魂の再設定だった。
大猷院では、朝一番の客になれた。
人がまだ少ない静かな時間に、瞑想の間で五分以上座ることができた。
あの時間は、特別だった。
目を閉じると、空間の奥行きが変わった。
人が作った建築なのに、
どこか宇宙へ通じるような静けさがあった。
家光公の廟で瞑想したあと、破魔矢を購入した。
その破魔矢は、ただのお守りではなくなった。
その後、T2が東照宮で何かをもらってきたように体調を急変させた。
その瞬間、自分は家光公の破魔矢に覚醒パワーを流し、即座に切り捨てた。
こう書くと、怪しい話に見えるかもしれない。
でも、自分にとっては大げさなことではない。
「やるべきことをやった」
それだけだった。
この旅の中で、自分が何者として立つのかを、何度も問われていた気がする。
三峯神社は、やはりすごかった。
あそこは、優しいだけの場所ではない。
甘く包み込むというより、
「本気なら進め」
と静かに背中を押してくる場所だった。
山そのものが結界になっている。
人間の都合や、肩書きや、迷いや、過去の殻が、少しずつ剥がれていく。
三峯神社に立ったとき、自分の中で何かがはっきりした。
もう、以前の名前のままではない。
浜村しゅないだー義和という名前には、確かに意味があった。
それは、ここまで来るための名前だった。
混沌の中を進み、
笑いながら傷を受け、
泥臭く現実を見て、
政治も経済もスピリチュアルもAIも、全部をごちゃ混ぜにしながら、それでも前へ進むための名前だった。
でも、その殻はもう役割を終えつつある。
浜村しゅないだー義和という名前は、
自分をここまで運んでくれた船だった。
けれど、次の場所へ行くには、
その船を降りる必要がある。
神原月見。
この名前には、静けさがある。
月を見る者。
月に照らされる者。
月の側から世界を見る者。
太陽のように前へ出て、すべてを照らす名前ではない。
むしろ、夜の側にいる。
騒がしい時代の中で、
静かに照らす。
混乱の中で、
波を読む。
火ではなく、水。
昼ではなく、夜。
叫びではなく、祈り。
神原月見という名前には、ツクヨミの気配がある。
統治王としてのスサノオでもなく、
祭祀王としてのアマテラスでもなく、
裏調和王としてのツクヨミ。
自分が今、向かっているのはその方向なのだと思う。
野沢温泉でも、それを強く感じた。
今回泊まったのは、野沢温泉ロッジ。
野沢温泉村は、想像以上にすごかった。
コンビニがない村。
それなのに、クラフトビールがあり、ジンの蒸留所がある。
その野沢温泉蒸留所は、友人の八尾良太郎がつくった。
外国人がただの観光客として来ているのではなく、
地元民になって、村に溶け込んで暮らしている。
水が、溢れるように湧き出している。
温泉だけではない。
水そのものが、村の血液のように流れている。
古い温泉文化。
外湯。
宿。
クラフトビール。
ジン。
スキー文化。
外国人移住者。
地元の暮らし。
それらが無理に混ざっているのではなく、自然に馴染んでいた。
これは、村おこしの完成版に近い。
香港のような租界性もある。
けれど、香港のように金融と巨大資本で成り立つ都市ではない。
野沢温泉には、湯がある。
水がある。
山がある。
暮らしがある。
令和の租界。
令和の温泉自治都市。
令和の村おこしの完成版。
そんな言葉が浮かんだ。
ただし、野沢温泉は祈空の完成形ではない。
野沢温泉は、祈空における「ハレ」の場なのだと思う。
湯があり、酒があり、外から人が来て、土地の人と混ざり、非日常の祝祭がある。
それはとても魅力的だった。
でも、自分が吉野に創りあげたい祈空は、そこではない。
自分が創りたいのは、日常の「ケ」だ。
朝起きて、井戸の水を汲む。
畑を見る。
土に触れる。
太陽光で電気をつくる。
Powerwallに蓄える。
米を食べる。
湯を沸かす。
草を刈る。
雨を見る。
風を読む。
夜は静かに眠る。
そういう生活の場。
特別なイベントではなく、毎日の暮らしそのもの。
ライフスタイルこそが、祈空なのだ。
祈空は、観光地ではない。
祈空は、スピリチュアル施設でもない。
祈空は、誰かを集めるための箱でもない。
祈空とは、どう生きるかの実践である。
ハレとしての野沢温泉を見たからこそ、
自分が吉野につくるべきものが、よりはっきりした。
非日常の熱狂ではなく、
日常の静かな強さ。
祝祭ではなく、生活。
イベントではなく、営み。
消費ではなく、循環。
観光ではなく、暮らし。
その「ケ」を極めた先に、たまに訪れるハレがある。
だから祈空にとって、野沢温泉は憧れであり、参照地であり、未来のハレの姿だ。
でも、祈空の本体は吉野にある。
吉野の土。
吉野の水。
吉野の山。
吉野の朝。
吉野の畑。
吉野の静けさ。
そこに、日常の王国をつくる。
それが祈空なのだと思う。
今回の旅で、名前を変えようと思った理由はここにある。
自分はもう、ただ発信する人ではない。
ただ怒る人でもない。
ただ斬る人でもない。
ただ笑わせる人でもない。
ただ時事を読む人でもない。
ただスピリチュアルなことを語る人でもない。
これからは、暮らしそのものを創る。
祈空というライフスタイルを、吉野に創る。
そのためには、名前も変わる必要がある。
浜村しゅないだー義和は、
混沌を切り開くための名前だった。
神原月見は、
静かに場を創り、祈りを生活へ降ろすための名前だ。
この旅で、それがはっきりした。
改名というのは、過去を否定することではない。
むしろ、過去に感謝することだと思う。
浜村しゅないだー義和という名前でしか、
辿り着けなかった場所がある。
あの名前だったから、書けたことがある。
あの名前だったから、出会えた人がいる。
あの名前だったから、耐えられた時間がある。
だから、捨てるのではない。
卒業する。
殻が割れたのだ。
中から出てきたものが、神原月見だった。
260615。
今回の旅を経て、改名しようと思った。
日光で歴史に触れ、
大猷院で宇宙と繋がり、
二荒山神社で山の祈りを受け取り、
三峯神社で覚悟を問われ、
野沢温泉でハレの村を見た。
そして、吉野に創るべきケの場が見えた。
生活の場。
日常の祈り。
ライフスタイルとしての祈空。
名前とは、器である。
器が変われば、流れも変わる。
浜村しゅないだー義和から、神原月見へ。
これは、終わりではない。
祈空が始まる前の、静かな改名である。

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