【AIゾンビと野生の鹿と奈良公園の鹿260402】

最近、AIに関する記事を読んでいて、ふと思った。
これから先の人間は、
「AIを使う人間」と「AIに使われる人間」に分かれていくのではないか、と。
しかもその差は、単なる便利・不便の話では終わらない。
精神的にも、経済的にも、信仰的にも、思想的にも、生活様式そのものが分かれていく。
僕はこの分岐を、こう呼びたい。
AIを使役する側を「覚醒者」
AIに使役される側を「AIゾンビ」
かなり強い言葉だ。
でも、わりと本質を突いていると思う。
AIゾンビとは、AIの答えを便利に受け取ることに慣れすぎて、自分で問いを立てなくなった人間のことだ。
自分で調べない。
自分で疑わない。
自分で検証しない。
自分で責任を取らない。
何かあればAIに聞く。
迷ったらAIに決めてもらう。
文章も、判断も、感情整理も、人生の方向まで、外部の知能に委ねていく。
一見すると賢く見える。
効率的にも見える。
でも、中心に火がない。
動いてはいる。反応もしている。
だけど、魂の主導権が自分の中にない。
だから僕は、それをAIゾンビと呼ぶ。
一方で覚醒者は違う。
AIを使う。かなり使う。むしろ人より使う。
だが、主導権は渡さない。
問いを立てるのは自分。
意味を決めるのも自分。
最後に責任を持つのも自分。
AIは神ではない。
先生でもない。
使い魔であり、式神であり、計器盤であり、拡張脳だ。
ここを履き違えた瞬間に、人間はAIに“最適化される側”へ落ちていく。
この違いを考えていて、僕の頭に浮かんだのが、鹿だった。
野生の鹿と奈良公園の鹿。
この差に、未来の人類の分岐が見えている気がする。
野生の鹿は、自分で食べ物を探し、自分で危険を察知し、自分で生き延びる。
冬は厳しい。飢えもある。傷つくこともある。
しかし、感覚は研ぎ澄まされている。
世界の変化を、自分の皮膚で読む。
奈良公園の鹿は、人に守られ、人のつくったルールの中で生きている。
餌をもらい、人を恐れず、観光資源として共存している。
安定している。可愛い。愛される。
でも、その生存は設計された環境の中のものだ。
僕は、AI時代の人間もこれに似てくると思う。
覚醒者は、野生の鹿だ。
不便さもある。孤独もある。
自分で考え、自分で感じ、自分で選び、自分で責任を引き受ける。
その代わり、世界を読む感覚が死なない。
AIゾンビは、奈良公園の鹿だ。
便利で、快適で、最適化されていて、守られている。
だがその代わり、環境への依存が深くなる。
自力で世界を読む力が落ちていく。
もちろん、奈良公園の鹿が悪いと言いたいわけではない。
あれはあれで、ひとつの完成された生き方だ。
でも文明が揺れたとき、ルールが変わったとき、餌をくれる存在がいなくなったとき、強いのはどちらか。
たぶん野生の鹿だ。
AIも同じだと思う。
平時には、AIに寄りかかった者のほうが楽に見える。
速く、綺麗で、効率的だ。
だが、その便利さに身体ごと預けてしまうと、自分の判断筋、自分の違和感、自分の祈りまで外部委託してしまう。
そこに僕は、かなり大きな危機感を持っている。
これから起こる分断は、学歴でも、収入でも、職業でもない。
もっと深いところで起こる。
自分の魂のハンドルを握っているかどうか。
この一点で、人間は二つに割れていく。
AIに仕事を奪われる、という話はよくある。
でも本当に怖いのは、仕事より先に、
人間が自分の主体性を明け渡していくこと
なのだと思う。
だから僕は、AIを否定しない。
むしろ使うべきだと思っている。
ただし、使うなら徹底的に使う。
だが、拝んではいけない。
AIを神託として受け取るのではなく、
AIを鏡として使い、
AIを増幅器として使い、
AIを部下として使い、
最後は自分の魂の位置で決める。
そこに立てる人間を、僕は覚醒者と呼ぶ。
これからの時代、
増えていくのはAIそのものではない。
増えていくのは、
覚醒者か、AIゾンビか。
その分岐点に、もう僕たちは立っている。

いいなと思ったら応援しよう!
再び空を飛ぶ為の訓練費用に使わせていただきますm(_ _)m