【小説・楮原繭と燃えない手紙】

楮原繭の工房には、ときどき紙ではないものが持ち込まれる。
正確には、
紙の形をしているけれど、
持ち主が紙として扱えなくなったもの。
遺言。
離婚届。
書きかけの謝罪文。
出せなかった退職願。
子どもの頃にもらった賞状。
もう会わない人から届いた年賀状。
紙は軽い。
けれど、
人間がそこへ時間を置くと、
急に重くなる。
その日持ち込まれたのは、
一通の手紙だった。
「燃やしてほしいんです」
女は言った。
四十代半ばくらい。
薄い灰色のコートを着ていた。
名前は、
最後まで聞かなかった。
繭は必要がなければ、
名前を聞かないことがある。
名前を知ることで、
話まで知ったような気持ちになるのが嫌だった。
女は鞄から、
白い封筒を取り出した。
ところどころ茶色く焦げている。
「これです」
繭は受け取らなかった。
机の上へ置いてもらった。
「燃やせないのですか?」
「燃えないんです」
女は言った。
最初は、
自宅の流し台だった。
金属のボウルへ入れて、
ライターで端に火をつけた。
封筒は燃えた。
でも、
中の便箋だけが残った。
次は庭だった。
小さな焚き火を作り、
その中へ入れた。
火は周りの木を燃やした。
新聞紙も燃えた。
それなのに、
手紙は焦げただけだった。
三度目は、
知人に借りた火鉢。
「今度こそと思いました」
女は笑った。
笑い方だけが、
妙に疲れていた。
「でも駄目でした」
繭は便箋を見る。
端は黒い。
ところどころ波打っている。
確かに火へ入れた形跡はある。
「紙の種類は調べましたか?」
女が少し驚いた。
「え?」
「薬剤が使われている紙もあります。加工によって燃えにくいものもありますから」
女は少し黙った。
「……そういうことを言われると思っていませんでした」
繭:
「どういうことを言われると思っていました?」
女は答えなかった。
工房の外では、
川の音がしていた。
冬の水は、
夏より細く聞こえる。
繭は湯を沸かした。
「お茶でよければ」
「ありがとうございます」
二人の間に、
湯気が上がった。
しばらくして、
女が言った。
「母からの手紙なんです」
「はい」
「母は、もう亡くなっています」
繭は頷いた。
「四年前です」
「そうですか」
それだけ言った。
女は手紙を見た。
「ずっと捨てられませんでした」
「はい」
「だから今年こそ」
指先が、
封筒の焦げた角に触れる。
「手放そうと思ったんです」
繭は、
その言葉を聞いた。
そして尋ねた。
「なぜ、燃やすのですか?」
女は少し困った顔をした。
「手放すためです」
「捨てるのでは駄目ですか?」
「嫌なんです」
「破るのは?」
「それも」
「水に溶かすのは?」
女は首を振った。
「燃やしたいんです」
繭:
「なぜでしょう」
女の表情が、
少し硬くなった。
「だから」
声が強くなる。
「終わらせたいからです」
繭は、
そこで質問をやめた。
お茶を飲んだ。
女も、
何も言わなくなった。
しばらく川の音だけがした。
「読んでもいいですか」
女が言った。
繭:
「私が?」
「はい」
「私が読む必要がありますか?」
女はまた黙った。
「……分かりません」
繭:
「では、今は読まなくていいと思います」
「でも、事情が分からないでしょう」
「事情を知らなくても、紙は漉けます」
少しだけ、
女が笑った。
その午後、
繭は仕事を続けた。
楮を水にさらす。
繊維をほぐす。
水へ放つ。
簀桁を入れる。
揺らす。
持ち上げる。
水が落ちる。
薄い一枚が残る。
女は、
その作業をずっと見ていた。
「紙って」
ぽつりと言った。
「一度バラバラにするんですね」
「はい」
「元の形を壊す」
「そうですね」
「それで新しい紙になる」
繭は少し考えた。
「同じ紙になるわけではありません」
女が見る。
「同じ繊維が入っていても、前と同じ紙には戻りません」
女は、
机に置いた手紙へ視線を戻した。
「母とは」
しばらくして話し始めた。
「仲が悪かったんです」
繭は手を止めなかった。
母親は、
何でも決めた。
学校。
服。
友達。
就職。
結婚。
「あなたのため」
が口癖だった。
女が反抗すると、
母親は泣いた。
「こんなに心配しているのに」
と言った。
女は三十を過ぎた頃、
遠くへ引っ越した。
連絡を減らした。
母親が病気になってからも、
以前のようには戻らなかった。
最後に会った時、
母親は病院のベッドで言った。
「まだ怒っているの?」
女は、
答えなかった。
「その三日後に亡くなりました」
繭の手から、
水が落ちる。
女は続けた。
「手紙は、そのあと見つかりました」
母親の机の引き出し。
封筒には、
娘の名前だけが書かれていた。
切手はなかった。
送るつもりだったのか。
渡すつもりだったのか。
それすら分からない。
「何が書いてあるんですか」
繭が初めて聞いた。
女は答えた。
「謝ってあります」
少し笑った。
「一応」
母親は、
自分が娘を苦しめたことを認めていた。
でも、
完全には認めていなかった。
あなたのためだと思っていた。
うまくできなかった。
ごめんなさい。
いつか分かってくれたら嬉しい。
そんなことが書いてあった。
最後には、
こうあった。
また家に帰ってきてください。
女は言った。
「ずるいでしょう」
繭は答えなかった。
「謝ってるようで」
「最後まで、自分が正しいと思ってる」
「結局、“いつか私が理解する”なんです」
「私が戻るんです」
「母は何も変わらない」
声が震え始める。
「死んだからって」
「全部きれいな話になるのが嫌なんです」
繭:
「はい」
「私、許してないんです」
「はい」
「でも」
そこで、
女の声が止まった。
長い沈黙のあと、
小さく言った。
「嫌いだっただけでもないんです」
繭は、
そこで初めて手を止めた。
「母の料理、好きでした」
「はい」
「子どもの頃、熱を出すとずっと横にいてくれた」
「はい」
「大学に受かった時、私より泣いてた」
「はい」
「でも苦しかった」
「はい」
「逃げたかった」
「はい」
「戻りたくなかった」
「はい」
女の顔が歪む。
「なのに、死んだら会いたくなるんですよ」
涙が落ちた。
「何なんですか、これ」
繭は、
答えなかった。
女は泣きながら笑った。
「だから燃やしたかったんです」
「はい」
「燃やせば」
手紙を見る。
「私はもう母を手放したってことにできると思った」
楮原繭は、
しばらく女を見ていた。
そして、
ゆっくり言った。
「手放したいのではなく、手放したことにしたかったのですね」
女は顔を伏せた。
「……多分」
繭は、
棚から一枚の白い和紙を取り出した。
手漉きの紙。
何も書いていない。
女の前へ置く。
「何ですか?」
「紙です」
「それは分かります」
「なら十分です」
少しだけ、
女が笑った。
繭は筆記具を一つ置いた。
「返事を書いてみませんか」
女の顔から笑みが消えた。
「母は死んでます」
「はい」
「読めません」
「はい」
「届かない」
「そうですね」
「だったら何のために?」
繭は言った。
「届かせるためではありません」
女は白紙を見る。
繭:
「手紙が未完了なのではない気がします」
「……?」
「まだ返していない言葉があるのではありませんか」
女は、
動かなかった。
鉛筆にも触れない。
「返事なんて」
「はい」
「四年も経ってる」
「紙は待てます」
「そういう問題じゃない」
「はい」
「今さら何を書けば」
繭:
「分かりません」
女が繭を見る。
「だから、私が書くことではないと思います」
夕方になった。
工房の光が、
白から薄い橙へ変わった。
女はまだ紙の前に座っていた。
何度か鉛筆を持った。
置いた。
また持った。
最初に書いたのは、
たった一行だった。
お母さんへ。
それだけで、
女はまた泣いた。
次に書いた。
私は、まだ怒っています。
止まる。
許せたとは言えません。
あなたのためだったと言われると、今でも苦しくなります。
そこまで書いて、
鉛筆を置いた。
「こんなの書いていいんでしょうか」
繭:
「誰に聞いていますか?」
女は、
少し考えた。
また鉛筆を持った。
でも、嫌いだっただけでもありません。
ご飯は好きでした。
熱を出した夜に背中をさすってくれたことも覚えています。
大学に受かった時、泣いてくれたことも。
だから余計に、全部嫌いになれませんでした。
涙が、
和紙へ落ちた。
墨ではない。
鉛筆だから、
文字は滲まなかった。
ただ、
紙の繊維が少し濃くなった。
女はさらに書いた。
家には帰りません。
長い間、
その一行を見た。
そして続けた。
あなたが望んだ娘には戻りません。
息を吸う。
私は、私の家へ帰ります。
女の手が止まった。
工房の外では、
川が流れていた。
最後に、
女はこう書いた。
それでも、お母さんでいてくれてありがとう。
そして、
その下にもう一行。
さようならは、まだ言いません。
女は鉛筆を置いた。
「変ですよね」
繭:
「何がでしょう」
「手放すために来たのに」
自分の書いた紙を見る。
「手紙が一通増えました」
繭は少し笑った。
「そうですね」
女は母親の手紙を見る。
「これ」
「はい」
「燃やした方がいいと思いますか?」
繭は首を振った。
「私には分かりません」
「残した方が?」
「それも分かりません」
女は苦笑する。
「何も教えてくれないんですね」
繭:
「はい」
そして、
少しだけ付け加えた。
「ただ、燃えるかどうかを確かめる必要は、もうないように見えます」
女は、
長い間、
二通の手紙を見比べた。
母親の手紙。
自分の返事。
片方は焦げている。
片方は、
まだ白い。
「一緒に包めますか」
女が言った。
繭:
「はい」
繭は、
薄い和紙を一枚出した。
二通を重ねた。
包む。
糊は使わない。
折る。
さらに折る。
最後に、
細い紙紐を巻いた。
結び目は、
きつくしなかった。
女が聞いた。
「これは何ですか?」
「包みです」
「名前は?」
繭は少し考えた。
「なくていいと思います」
女は笑った。
「あなた、本当に名前つけないんですね」
「名前をつけると」
繭は包みを見る。
「終わった気になることがありますから」
女は、
その包みを鞄へ入れた。
玄関まで行く。
靴を履く。
そこで振り返った。
「楮原さん」
「はい」
「手放すって、何なんでしょうね」
繭はすぐには答えなかった。
川を見る。
風を見る。
乾きかけの紙を見る。
そして言った。
「持っていないことではないのかもしれません」
女は黙っている。
「持ったままでも、握りしめなくなることはありますから」
女は帰った。
工房には、
何も残らなかった。
焦げた手紙も。
新しい返事も。
燃えなかった理由も。
分からないままだった。
紙の加工だったのかもしれない。
火の当たり方だったのかもしれない。
偶然だったのかもしれない。
繭は調べなかった。
女も、
もう調べたいとは言わなかった。
三か月後。
工房に一通の葉書が届いた。
差出人の名前を見て、
繭は少し考えた。
あの日の女だった。
短い文章だけが書いてあった。
まだ、二通とも持っています。
その下に、
もう一行。
でも、毎日思い出さなくなりました。
そして最後。
まだ燃えるかどうかは試していません。
繭は葉書を、
机の端に置いた。
ちょうど、
一枚の和紙が乾き上がったところだった。
指で触れる。
乾いている。
文字を受け取れる状態だった。
手放すことと、
終わらせることは、
同じではない。
忘れることとも、
捨てることとも、
燃やすこととも、
同じではない。
人には、
終わっていないものがある。
返せなかった言葉。
聞けなかった言葉。
認めたくなかった感情。
そういうものは、
無理に灰にしなくてもいい。
燃えなかった手紙が、
最後に燃えたのかどうか。
楮原繭は知らない。
たぶん、
知らなくていい。
あの日、
燃やす必要があったのは、
手紙ではなかった。
そして、
燃やさなければならないものが、
本当にあったのかどうかさえ、
今となっては分からない。
ただ一つ。
ずっと宙に浮いていた言葉だけが、
ようやく紙の上へ降りた。
家には帰りません。
私は、私の家へ帰ります。
それで、
手紙はまだ二通とも残った。
残ったまま、
少しだけ軽くなった。


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