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『メガネをとったら担当アイドル達の様子が激変した』 第1話



第1話「メガネを外した朝」

 四月上旬。

 春とはいえ、朝の空気にはまだ冬の名残が残っていた。

 駅から事務所へと向かう通りには、新しいスーツに身を包んだ社会人や、真新しい制服を着た学生たちの姿が目立つ。

 新年度。

 世間では、環境が変わり、新しい人間関係が始まる季節だ。

 けれど、山下○○にとって、今日から何かが大きく変わるわけではなかった。

 櫻坂46の専属マネージャーとなって、今年で五年目。

 新人だった頃のように、現場へ向かうたび緊張することもなくなった。

 メンバーの性格も、スタッフの仕事の進め方も、会場ごとの癖も把握している。

 数日後には、新年度最初の大きなライブが控えていた。

 年度の始まりを飾る重要なステージ。

 出演するメンバーたちには当然プレッシャーが掛かる。

 だからこそ、彼女たちを支える自分が慌てるわけにはいかない。

 ○○はいつもより少し早く自宅を出て、電車内で進行表を確認していた。

「衣装の最終確認が十時半……二期生の取材が十二時。三期生と四期生の通しが午後からで……」

 スマートフォンの画面と、手元の資料を交互に見る。

 今日中に確認しておきたい項目は多い。

 会場側から届いた導線の変更点。

 移動車の台数。

 楽屋割り。

 衣装の搬入時間。

 メンバーごとの体調。

 スタッフ間の連絡事項。

 頭の中で一日の流れを組み立てながら駅を降り、事務所へ続く道を歩いていた、その時だった。

「あ」

 足元の小さな段差に気付くのが、ほんの少し遅れた。

 転ぶほどではない。

 身体がわずかに前へ傾いただけだ。

 しかし、その拍子に肩へ掛けていた鞄の紐がずれた。

 直そうと顔の横へ手を伸ばした瞬間、指先が黒縁メガネに引っ掛かる。

 メガネが顔から外れた。

 反射的に手を伸ばしたものの、間に合わない。

 乾いた音が、朝の歩道に響いた。

「……嘘だろ」

 ○○は立ち止まり、足元へ視線を落とした。

 長年使い続けてきた黒縁メガネが、無残な姿で転がっている。

 レンズそのものは割れていない。

 だが、片方のつるが根元から完全に折れていた。

 ○○はメガネを拾い上げ、破損部分を確認する。

 以前から少し緩くなっている自覚はあった。

 仕事が落ち着いたら、新しいものを買おうとも思っていた。

 けれど、まだ使えるからと先延ばしにし続けた結果がこれだった。

「テープで留めるのも無理そうだな……」

 腕時計を見る。

 自宅へ戻って予備のメガネを取ってくれば、集合時間には間に合わない。

 コンタクトレンズも自宅だ。

 普段ほとんど使用しないため、鞄へ常備していなかった。

 幸い、まったく見えないわけではない。

 遠くの文字や人の顔はぼやけるものの、近距離であれば問題なく確認できる。

 スマートフォンの画面も、拡大すれば読める。

 今日一日、不便ではある。

 しかし、仕事ができないほどではなかった。

「仕方ないか」

 壊れたメガネをケースへしまう。

 本人にとっては、それだけの出来事だった。

 少し資料が読みづらくなる。

 遠くからメンバーを探しにくくなる。

 帰りに新しいメガネを購入しなければならない。

 その程度の問題だと考えていた。

 まさか、この壊れたメガネ一つによって、五年間変わらなかった周囲との関係が大きく動き始めるなど、この時の○○には想像すらできなかった。

     ◇

 事務所へ到着した○○は、スタッフ用の入口から建物へ入った。

「おはようございます」

 すれ違うスタッフへ挨拶しながら、予定表を確認する。

 受付の女性スタッフが、○○の顔を見た瞬間、わずかに目を見開いた気がした。

 別の男性スタッフも、二度見するようにこちらを振り返っている。

 もっとも、○○はその反応を深く考えなかった。

 普段と違ってメガネを掛けていない。

 印象が違って見えるのだろう。

 それより今は、メンバーが到着する前に確認しておきたいことがある。

 ○○は会議室へ入り、テーブルの上へ資料を広げた。

 目を細めながら細かな文字を追う。

「やっぱり見づらいな……」

 スマートフォンのカメラで資料を映し、画面を拡大する。

 時間は掛かるが、確認できないわけではない。

 衣装担当者から届いていたメッセージへ返信し、会場スタッフへ確認の電話を入れる。

 移動車の担当者とも連絡を取り、集合時間の変更がないことを確かめる。

 一通りの準備を終えた頃、廊下の向こうから聞き慣れた声が近付いてきた。

「今日、○○もう来とるかな?」

「来てると思う。朝、確認したいことがあるって言ってたから」

 田村保乃と森田ひかるの声だった。

 ○○は資料から顔を上げる。

 開いたままの扉の向こうから、二人が歩いてくる。

 ひかるは○○の姿を見つけると、いつものように片手を軽く上げた。

「おはよう、○○――」

 そこで声が止まった。

 数歩離れた場所で、ひかるの足まで止まる。

「……?」

 ○○は首を傾げた。

 隣を歩いていた保乃も、ひかるにつられるように立ち止まる。

 そして、○○の顔を見たまま、目を丸くした。

「……○○くん?」

「そうだけど」

 名前を確認するように呼ばれ、○○は不思議に思いながら答えた。

 ひかるも保乃も動かない。

 まるで、見知らぬ人間が自分たちの知っているマネージャーの席へ座っているかのような反応だった。

 ○○は数秒考え、ようやく理由に思い至る。

「ああ。メガネが壊れただけだから、ちゃんと俺だよ」

「メガネ……」

 ひかるが小さく繰り返す。

「さっき駅から歩いてる途中で落としたんだ。片方のつるが完全に折れて、使えなくなってさ」

 ○○はケースを開き、壊れた黒縁メガネを二人に見せた。

 それを確認したことで、ようやく目の前の男性が間違いなく山下○○本人なのだと理解したらしい。

 ただし、納得したはずの二人の動揺は、なぜか先ほどよりも大きくなった。

 ひかるは○○の目元から鼻筋、口元へと視線を動かし、もう一度目元へ戻した。

 五年間、毎日のように会っている相手。

 誰より近くで自分たちを支え続けてきたマネージャー。

 そのはずなのに、初めて見る人のように○○を見つめている。

「そんなに変かな」

 ○○が尋ねると、ひかるは我に返ったように瞬きをした。

「……変」

「やっぱり違和感ある?」

「そういう意味じゃなくて」

「じゃあ、どういう意味?」

「……分からない」

 ひかるは困ったように視線を逸らした。

 その隣で、保乃が一歩前へ出る。

 こちらも○○の顔をまじまじと見つめていた。

「○○くん、ずっとその顔、メガネで隠しとったん?」

「隠してたつもりはないよ」

「でも、隠れとったやん」

「視力が悪いんだから仕方ないだろ」

「そうやけど……」

 保乃は納得できない様子で口を尖らせる。

 普段なら距離を詰められても気にしない○○だったが、今日は保乃の顔が妙に近い。

 近視の○○にとっては、むしろ近付いてくれた方が表情を確認しやすい。

 そのため、特に避けることなく保乃の顔を見返した。

「何か付いてる?」

「……っ」

 真正面から目が合った瞬間、保乃の肩が小さく跳ねた。

 すぐに半歩後ろへ下がる。

「つ、付いてへんよ」

「ならいいけど」

「良くない気もする……」

 保乃が小声で呟いたが、○○には聞き取れなかった。

 そこへ、新たな足音が近付いてくる。

「何してるの?」

 藤吉夏鈴が会議室の入口から顔を覗かせた。

 その後ろには山﨑天、守屋麗奈、大園玲、幸阪茉里乃の姿もある。

「○○が……」

 ひかるがそう言いながら横へ退く。

 夏鈴たちの視線が、一斉に○○へ向けられた。

 そして。

 全員の動きが、見事なまでに止まった。

「おはよう」

 ○○はいつもどおり挨拶する。

 しかし、返事がない。

 夏鈴は数秒ほど○○を見つめたあと、静かに視線を逸らした。

 それから、短く尋ねる。

「今日、ずっとそのまま?」

「そのままって、メガネなしでってこと?」

「うん」

「予備を取りに帰る時間がなかったからね。今日の仕事が終わったら買いに行くつもり」

「……買うんだ」

「そりゃ買うよ。見えづらいし」

 夏鈴は何かを言いたそうにしたものの、結局口を閉ざした。

 代わりに、天が遠慮なく○○の前まで歩いてくる。

「ちょっと待って」

「何?」

「そんな顔だったの?」

「そんな顔って、どんな顔だよ」

「いや、なんか……」

 天は様々な角度から確認するように、○○の顔を覗き込む。

 右から見て、左から見て、最後に真正面から目を合わせた。

「普通に格好いいやん」

「普通にって何だよ」

「今までメガネの印象が強すぎたんかな。全然違う人に見える」

「それは少し困るな。スタッフに止められないよう、社員証を首から下げておくよ」

「そういう話ちゃうねんけどなあ」

 天は呆れたように笑いながらも、○○の顔からなかなか視線を外さなかった。

「○○くん」

 柔らかな声で呼んだのは麗奈だった。

 ○○が振り向く。

 麗奈は驚きを残しながらも、いつもの穏やかな笑顔を浮かべていた。

「すごく似合っています」

「メガネがない方が?」

「はい。とても素敵です」

「ありがとう。けど、仕事ではメガネがあった方が便利だからね」

「そうですよね」

 麗奈は微笑んだまま頷く。

 ただ、その笑顔がいつもより少し硬く見えた。

 玲は少し離れた場所で、○○の顔をじっと見つめていた。

「玲?」

「えっ」

「どうした? 何か言いたそうだけど」

「い、いえ……」

 玲は両手を胸の前で軽く合わせる。

「本当に、印象が変わるんだなと思って」

「やっぱり普段のメガネ、相当目立ってたんだな」

「そういうことではなくて……」

「違うの?」

「違わないですけど、違うというか……」

 玲自身も言葉を整理できていないらしい。

 困ったように視線をさまよわせた末、隣にいる茉里乃へ助けを求めるような目を向ける。

 だが、茉里乃は助けられる状態ではなかった。

 ○○と目が合った瞬間から俯き、耳まで真っ赤になっている。

「茉里乃?」

「……はい」

「顔赤いけど、暑い?」

「だ、大丈夫です」

「本当に? 熱があるなら無理しない方がいいよ」

「熱はないです」

「でも、かなり赤いよ」

 体調を確認しようと、○○が一歩近付く。

 茉里乃は反射的に一歩後ろへ下がった。

「大丈夫ですから!」

「そ、そう?」

 珍しく強い声を出され、○○は足を止めた。

 茉里乃は自分でも驚いたように顔を上げ、すぐに申し訳なさそうに俯く。

「すみません……」

「謝らなくていいよ。体調が悪くないなら、それでいい」

 ○○は穏やかに笑った。

 その笑顔を見た茉里乃の顔が、さらに赤くなる。

 ここまで来ると、さすがの○○も全員の反応を不思議に思い始めた。

 年度初めで緊張しているのだろうか。

 数日後には新年度最初の大きなライブがある。

 メンバーもそれぞれ、表には出さない不安を抱えているのかもしれない。

 あるいは、本当に普段との見た目の差へ驚いているだけなのか。

 ○○が考えていると、廊下の奥から賑やかな声が響いた。

「皆さん、おはようございまーす!」

 勢いよく会議室へ入ってきたのは増本綺良だった。

 後ろから大沼晶保と遠藤光莉も続いてくる。

 綺良は部屋に入るなり、メンバーたちに囲まれている○○へ視線を向けた。

「えっ」

 動きが止まる。

 次の瞬間、室内に響き渡るほどの大声を上げた。

「誰ですか! 新しいイケメンマネージャーさんですか!?」

「朝から声が大きいよ、綺良」

「えっ、私の名前知ってる! 怖い!」

「怖いって何だよ」

 ○○が呆れながら答える。

 聞き慣れた声と話し方。

 綺良は数秒かけて目の前の男性と、普段の○○を頭の中で結び付けたらしい。

 大きく目を見開き、○○を指さした。

「○○さん!?」

「そうだよ」

「嘘!」

「嘘をついてどうするんだ」

「だって、全然違いますよ!」

「メガネが壊れただけだって」

「メガネって、そんな変身アイテムだったんですか?」

「違うと思う」

「いや、これは事件ですよ!」

 綺良は○○の周囲を一周する勢いで観察を始める。

 途中から晶保も加わり、二人で様々な方向から顔を確認した。

「本当に○○さんですね」

 晶保が感心したように言う。

「声も同じですし、立ち方も同じです」

「顔以外で本人確認するのをやめてくれる?」

「メガネって、こんなに印象変わるんですね」

「俺も今、少し驚いてるよ。みんなの反応が想像以上だから」

 そう答えながら光莉を見る。

 光莉は比較的落ち着いた表情を保っていた。

「光莉は、それほど驚かないんだな」

「いえ……驚いています」

「そう?」

「はい」

 光莉は○○の顔を一度まっすぐ見た。

 しかし、視線が重なった直後、一拍遅れて顔を背ける。

「……思っていたより、ずっと印象が違ったので」

「やっぱりそうなんだ」

「○○さんは、気付いていなかったんですか?」

「何が?」

「いえ。何でもないです」

 光莉はそれ以上何も言わなかった。

 そんな三人の反応を見ていた綺良が、ふと室内を見回す。

 ひかる。

 保乃。

 夏鈴。

 天。

 麗奈。

 玲。

 茉里乃。

 誰もが普段とは少し違う。

 ○○を見つめては視線を逸らし、近付かれると妙に緊張している。

 綺良はゆっくりと目を細めた。

「なるほど」

「何がなるほどなの?」

 ○○が尋ねる。

「いえいえ。こちらの話です」

 綺良は楽しそうに笑った。

「今日は面白い一日になりそうですね」

「ライブ前なんだから、面白さより安全を優先してくれ」

「○○さんは本当に何も分かっていませんね」

「何の話?」

「そのうち分かるんじゃないですか?」

「曖昧なことを言わないでくれ」

 ○○が眉を寄せても、綺良は答えなかった。

 代わりに、意味深な笑顔のまま二期生たちへ視線を向ける。

 綺良が何を察したのか。

 ○○には、まったく分からなかった。

     ◇

「じゃあ、今日の流れを確認するよ」

 全員が揃ったところで、○○は仕事へ意識を切り替えた。

 会議室のモニターへ進行表を映し出す。

 手元の資料は見えづらいが、大まかな内容は頭へ入っている。

 必要な部分だけスマートフォンで拡大しながら、淀みなく説明を進めた。

「午前中は二期生の立ち位置確認と取材。午後から三期生、四期生も合流して通しリハーサルに入る。昨日から会場の一部導線が変わってるから、本番前にもう一度共有する」

 ○○が話し始めると、先ほどまでの騒がしさが嘘のように消えた。

 全員が資料へ目を落とし、説明へ耳を傾ける。

「衣装の最終確認は十時半。違和感がある人は、小さなことでもその場で伝えること。本番当日に我慢するのが一番良くない」

 ページを切り替える。

「昼食のあと、取材が続く人もいるから、食べる量と時間には気を付けて。無理に急いで食べなくていいよう、少し余裕を作ってある」

 メンバーの予定だけでなく、体調や精神的な負担まで考えて組まれた進行だった。

 ○○が五年間変わらず続けてきた仕事。

 外見が変わっても、話し方も気遣いも何一つ変わらない。

 そのはずなのに。

 ひかるたちは、説明をする○○の顔をまともに見続けることができなかった。

 聞き慣れた声。

 いつもの穏やかな口調。

 メンバー一人一人の状態を気に掛ける視線。

 今までメガネの奥に隠れていた瞳が、まっすぐ自分たちへ向けられる。

 ただそれだけで、いつもの言葉が以前とは違って聞こえてしまう。

「茉里乃」

「はいっ」

 突然名前を呼ばれ、茉里乃が背筋を伸ばした。

「やっぱり少し緊張してる?」

「え……」

「さっきから肩に力が入ってる。今日の確認は本番じゃないから、もう少し楽にして大丈夫だよ」

「……はい」

「何か気になることがあるなら、後でもいいから言って」

「ありがとうございます」

 茉里乃は小さく頷く。

 ○○は続いて玲へ視線を向けた。

「玲も、昨日あまり眠れてない?」

「どうして分かったんですか?」

「少し目が疲れてるように見えたから。午前の仕事が終わったら、休める時間を作るよ」

「でも、他の確認もありますよね」

「調整するのが俺の仕事だから。玲が気にすることじゃない」

 あまりにも自然に言われた言葉だった。

 玲は胸の前で手を握り、そっと目を伏せる。

「……ありがとうございます」

 外見が変わっても、○○の中身は変わっていない。

 メンバーが言葉にしない不安や疲れを見抜き、必要な時だけ手を差し伸べる。

 その優しさを、彼女たちは五年間近くで見てきた。

 だからこそ。

 今までとは違う姿で、今までと同じ優しさを向けられることが、余計に心を乱した。

「以上。何か質問はある?」

 ○○が室内を見回す。

 誰も手を上げない。

「じゃあ、ひかる。昨日修正した資料をもらえる?」

「うん」

 ひかるは隣の席に置いていたファイルを手に取った。

 立ち上がり、○○のもとへ歩いていく。

 これまで何百回と繰り返してきた行動。

 資料を渡し、○○が受け取る。

 ただそれだけだった。

「ありがとう」

 ○○がファイルへ手を伸ばす。

 同時に、ひかるも手を離そうとした。

 二人の指先が、ほんの一瞬だけ触れた。

「……っ」

 ひかるが反射的に手を引く。

 勢いが強すぎたのか、ファイルが○○の手の中でわずかに傾いた。

 ○○は落とさないよう、慌てて抱える。

「危なっ」

「ごめん」

「いや、大丈夫だけど……」

 ○○は自分の指先を見る。

 何か痛みが走ったわけではない。

 それでも、ひかるは触れた手を胸元へ引き寄せたまま、こちらを見ようとしなかった。

「静電気?」

「……違う」

 小さな声だった。

「じゃあ、どうしたの?」

「何でもない」

「でも――」

「何でもないから」

 ひかるは赤くなった顔を隠すように背を向ける。

 そのまま、逃げるように自分の席へ戻っていった。

 ○○はファイルを持ったまま、しばらくその背中を見つめる。

 静電気ではない。

 痛かったわけでもない。

 ならば、なぜあれほど驚いたのか。

 考えても答えが出ない。

「ひかる、手を怪我してないよな?」

「してない」

「ならいいけど」

 それ以上追及するのはやめた。

 ひかるにも、何か言いたくない事情があるのだろう。

 ○○はファイルを開き、内容の確認を始める。

 一方、席へ戻ったひかるは、まだ胸元へ手を当てていた。

 触れたのは一瞬。

 今までにも、仕事の中で手が触れたことくらい何度もある。

 転びそうになった時に支えてもらったこともある。

 撮影終わりに荷物を渡したこともある。

 疲れて眠ってしまい、肩を借りたことすらあった。

 それなのに、今日は指先が触れただけで、心臓が大きく跳ねた。

 見慣れているはずの人。

 安心できるマネージャー。

 ずっと近くにいた、大切な存在。

 その認識が、今朝から少しずつ揺らいでいる。

 ひかるは顔を伏せたまま、誰にも聞こえないよう小さく息を吐いた。

 隣に座る保乃が、そんなひかるを横目で見る。

 反対側では夏鈴も、黙ったまま二人のやり取りを見つめていた。

 天は何かを察したように口元を緩める。

 そして綺良だけが、確信に近い表情で何度も頷いていた。

     ◇

 午前中の確認を終え、○○は次の仕事へ向かうため廊下を歩いていた。

 視界がぼやけているため、いつもより少し慎重に足を進める。

 隣を歩くひかるたちは、朝よりは落ち着きを取り戻していた。

 それでも○○が振り向くたび、不自然に視線を逸らす者がいる。

「やっぱり、そんなに変かな」

 ○○は自分の顔へ触れながら尋ねた。

「まだ気にしてるん?」

 保乃が答える。

「みんなの反応が思ったより大きいからさ」

「大きくもなるよ」

 天が当然のように言う。

「五年間ずっと同じメガネだった人が、急にその顔で来たら」

「その顔って言い方、どうにかならない?」

「褒めてんねんで?」

「そうは聞こえないけどな」

 ○○は苦笑した。

「まあ、仕事が終わったら新しいメガネを買うよ。それまでは我慢して」

 その言葉を聞いた瞬間、二期生たちが微妙な表情を浮かべた。

 メガネを掛け直せば、いつもの○○へ戻る。

 それなら、今のように落ち着かなくなることもない。

 けれど。

 せっかく初めて見ることができた素顔を、また黒縁の奥へ隠してしまう。

 そのことを惜しいと思う自分もいる。

 掛け直してほしいような。

 このままでいてほしいような。

 誰も自分の感情を整理できていなかった。

「何、その顔」

 ○○が不思議そうに尋ねる。

「別に」

 夏鈴が短く答えた。

「新しいメガネ、同じようなのを買うの?」

 ひかるが尋ねる。

「そのつもりだけど。長く使ってて慣れてるし」

「……そう」

「他の方がいい?」

「知らない」

「聞いたのはひかるなのに」

 ○○が笑う。

 ひかるは返事をせず、前を向いた。

 その時、廊下の向こうから複数の話し声が聞こえてきた。

「今日、最初に衣装確認でしたよね?」

「うん。そのあと全体の流れを確認するって、昨日○○さんから連絡来てた」

「私、まだ少し振りが不安なところがあって……」

「あとで一緒に確認しよ」

 聞こえてきた声に、○○は足を止める。

 三期生たちだった。

 谷口愛季を先頭に、村山美羽、中嶋優月、小田倉麗奈、向井純葉、村井優、遠藤理子、石森璃花、小島凪紗、的野美青、山下瞳月が廊下の向こうから歩いてくる。

 ○○の隣で、天がぽつりと呟いた。

「これ、三期生が見たらどうなるんやろ」

「どうなるって?」

 ○○が聞き返す。

 天は答えず、楽しそうに笑った。

 三期生たちは、まだこちらの異変に気付いていない。

 先頭を歩いていた愛季が、いつものように○○の姿を見つける。

 明るい表情で片手を上げた。

「○○さん、おはようござい――」

 愛季の声が、途中で止まった。

 廊下にいた三期生全員の足が、一斉に止まる。

 十一人の視線が、メガネを外した○○の顔へ集中した。

「……?」

 ○○だけが、彼女たちの反応の意味を理解できずにいる。

「みんな、おはよう」

 いつもと変わらない声で挨拶した。

 しかし。

 誰一人として、すぐに返事をすることはできなかった。

 新年度最初の大きなライブを数日後に控えた朝。

 山下○○のメガネが壊れた。

 たったそれだけの出来事をきっかけに。

 櫻坂46のメンバーたちと、彼女たちを五年間支え続けてきた専属マネージャーとの距離は、少しずつ変わり始めようとしていた。

 本人だけが、そのことに気付かないまま。

 第1話「メガネを外した朝」 終

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