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『うちの小悪魔上司がドカメロすぎてえぐいからみんな見てくれ』



世の中には二種類の上司がいる。

一つ。

部下から嫌われる上司。

もう一つ。

部下の人生を狂わせる上司。

そして俺の直属の上司、大園玲は。

「○○くん、おはよ」

「……おはようございます」

「ん?」

「なんですか」

「今日もちゃんと目ぇ合わせてくれないなぁって」

俺の人生を、現在進行形でぐちゃぐちゃにしている。

大園玲。

入社四年目。

俺の二年先輩。

直属の上司。

そして。

俺の癖を人の形にして、この世に放流したみたいな女。

これはもう本当にどうしようもない。

顔が好き。

声が好き。

喋り方が好き。

笑い方が好き。

髪を耳にかける仕草が好き。

仕事中はしっかりしているくせに、たまにどうしようもなく天然なのが好き。

少し低めの落ち着いた声で、

「○○くん?」

とか呼ばれるだけで心臓に悪い。

しかも本人は多分、俺がそういうことに弱いと知っている。

いや。

絶対に知っている。

だから質が悪い。

「ネクタイ曲がってるよ」

朝一番。

自席に鞄を置いた俺の前に立つなり、玲さんが言った。

「え?」

反射的に自分の胸元を見る。

その瞬間。

「動かないで」

玲さんの指が、俺のネクタイへ伸びた。

「……っ」

近い。

とにかく近い。

ふわっと香る柔らかな匂い。

長い睫毛。

整った鼻筋。

俺の胸元に視線を落とす玲さん。

いや待て。

上司が部下のネクタイ直す距離じゃねえだろこれ。

「自分でやります」

「もうやってるから遅いです」

「……玲さん」

「はい」

「近いです」

「あ、ごめん」

そう言いながら。

一切離れない。

むしろ結び目を整えるためなのか、さらに半歩近づく。

絶対わざとだ。

「はい、できた」

玲さんは満足げにネクタイを軽く叩いた。

そして俺を見上げる。

「かっこいい」

「……朝からやめてください」

「何を?」

「そういうのです」

「褒めただけなのに」

口元だけ、少し笑う。

その顔がまた腹立つくらい可愛い。

俺は玲さんから逃げるように椅子へ座った。

背後で小さく笑う声が聞こえた。

この人。

絶対楽しんでやがる。

社会人二年目。

仕事にも一応慣れてきた。

去年の今頃なら電話一本取るだけで緊張していたのに、今では後輩に教えることすら少しずつ増え始めている。

とはいえ社会の歯車であることに変わりはない。

月曜から金曜まで働く。

たまに土曜も働く。

理不尽な客に頭を下げる。

上から降ってくる無茶振りを片付ける。

そして給料日になる。

金を得る。

その金を握りしめる。

フェスへ行く。

騒ぐ。

叫ぶ。

飛ぶ。

首を振る。

日々蓄積したキチゲを全部爆音に溶かす。

そしてまた社会へ戻る。

これが俺の人生である。

そんな人生の中で唯一想定外だったのが、

「○○くーん」

「はい」

「これ、一緒に確認して」

「分かりました」

「隣来て」

「……」

大園玲という存在だった。

パソコン画面を見るだけなら別に隣じゃなくてもいい。

なのに玲さんは自分の椅子を少し引き、俺が隣に来るスペースを作る。

仕方なくそこへ座る。

肩が触れそうな距離。

「ここの数字なんだけど」

「はい」

「昨日のデータと合ってなくて」

「……」

「○○くん?」

「聞いてます」

「ほんと?」

「聞いてますって」

「じゃあ今どこ見てた?」

「……画面です」

「ふーん」

にや。

俺の横顔を見る。

やめろ。

横から顔覗き込むな。

「顔赤い?」

「暑いだけです」

「空調二十三度だけど」

「俺、暑がりなんで」

「そっかぁ」

絶対信じてない。

というか全部分かっててやってる。

玲さんはそのまま何事もなかったように仕事へ戻る。

仕事中の横顔は本当に綺麗だ。

普段の少し柔らかい雰囲気から変わって、真剣な目つきになる。

判断が速い。

部下のミスを頭ごなしに責めない。

困っていれば先回りして助けてくれる。

俺が入社したばかりの頃もそうだった。

初めて大きなミスをした日。

泣くほどではなかったけれど、会社を辞めたくなるくらいには落ち込んだ。

そんな俺を会議室へ呼び出した玲さんは。

怒るどころか、

『次、同じことしなければいいよ』

そう言った。

『でも……』

『私も一年目の時めちゃくちゃやらかしたから』

『玲さんがですか?』

『なにその顔』

『いや、完璧そうなんで』

『全然。コピー機壊した』

『どうやって?』

『普通に使ってたら』

『それは玲さん悪くなくないですか?』

『あと取引先の名前間違えた』

『それはダメです』

『でしょ?』

あの時。

玲さんが笑ってくれたから。

俺も笑えた。

それからだったと思う。

上司として尊敬していた感情に、不純物が混ざり始めたのは。

そして一年経つ頃には。

完全に手遅れになっていた。

「今週末、またフェス?」

昼休み。

玲さんが弁当を食べながら聞いてくる。

「行きますよ」

「好きだねぇ」

「これがないと生きていけないんで」

「そんなに?」

「平日に溜まったもの全部捨てに行くんです」

「へえ」

玲さんが箸を止める。

「私のせいで溜まってるものも?」

「……」

俺は無言で玲さんを見た。

玲さんは首を傾げる。

「ん?」

「自覚あるんですね」

「何が?」

「俺にストレスを与えてる自覚」

「えー」

笑いながら頬杖をつく。

「私、優しい上司だと思うんだけどなぁ」

「仕事では優しいですよ」

「仕事では?」

「……」

言ってから気づいた。

しまった。

玲さんの目が細くなる。

獲物を見つけた猫みたいな顔。

「仕事以外では?」

「知りません」

「教えてよ」

「嫌です」

「○○くん」

「嫌です」

「ねえ」

「近づかないでください」

「まだ何もしてないけど?」

椅子ごと近づいてくる。

俺は逃げる。

玲さんが追う。

「子どもですか」

「だって気になる」

「そういうところですよ」

「あ」

玲さんが笑う。

「それって、私が○○くんにちょっかい出すところ?」

「……」

「当たり?」

もうこの人嫌だ。

可愛すぎる。

その日の午後。

珍しく玲さんがミスをした。

大したものではない。

送付前の資料の数字を一箇所打ち間違えていた程度。

俺が確認時に気づいた。

「玲さん」

「んー?」

「ここの数字」

「あ」

玲さんが固まる。

「ほんとだ」

「珍しいですね」

「……疲れてるのかな」

ぽつり。

その一言が少し気になった。

いつもの玲さんなら、

『危なかったぁ、ありがとう』

くらい笑って終わる。

でも今日は違う。

そういえば朝から少し顔色が良くないような気もする。

「玲さん」

「ん?」

「今日ちゃんと寝ました?」

「寝たよ」

「何時間」

「……四時間くらい?」

「寝てないじゃないですか」

「寝てるじゃん」

「四時間は仮眠です」

「厳しいなぁ」

笑う。

でも、少し無理している。

「最近忙しかったでしょ」

「玲さんが一番忙しかったじゃないですか」

「上司だからね」

「なら尚更寝てください」

「はーい」

「返事軽いな」

思わず敬語が抜けた。

玲さんが一瞬目を丸くして。

ふっと笑う。

「○○くん」

「はい?」

「今の好き」

「……何がです?」

「普通に喋ったの」

「別に普通でしょう」

「いつも仕事中は敬語だから」

「上司なんで」

「二個しか変わらないのに」

「二年先輩です」

「じゃあ会社出たら普通に話してくれる?」

「……なんでそうなるんですか」

「だめ?」

その顔。

少しだけ眉を下げるな。

俺が断れないの知ってるだろ。

「……考えときます」

「やった」

「まだ何も決まってません」

「でも考えてくれるんでしょ?」

嬉しそうに笑う。

ああ。

俺の負けだ。

いつもそう。

俺ばっかり振り回される。

でも。

俺は知らなかった。

玲さんが俺をからかった後。

俺が自席へ戻る背中を見ながら。

机の下で、自分の指をぎゅっと握っていたことを。



「大園さんって○○くんのこと好きですよね」

昼休み。

同僚女性の何気ない一言で、玲の箸が止まった。

「え?」

「いや、なんとなく」

「なんとなくでそんなこと言う?」

「だって距離近くないですか?」

「上司と部下だよ?」

「それにしては」

玲は笑って誤魔化した。

表情だけなら完璧だった。

けれど内心では。

――バレてる?

冷や汗が出ていた。

好き。

そんな可愛い言葉で済むなら良かった。

入社初日。

少し緊張した顔で、

『今日からよろしくお願いします』

と頭を下げてきた二つ下の新人。

第一印象は普通だった。

背が高い。

顔もまあ整っている。

受け答えも真面目。

その程度。

ところが。

働き始めたら駄目だった。

素直。

変なところで正直。

困っている人を見ると放っておけない。

でも自分のことは雑。

注意すると、

『すみません』

と本気で反省する。

褒めると。

『……ありがとうございます』

少しだけ照れる。

その照れ方が。

玲には刺さった。

致命傷だった。

そして極めつけ。

入社三ヶ月目。

残業中。

二人きりになったフロアで玲が、

『疲れたぁ』

と机へ突っ伏した時。

○○がコンビニへ行き。

コーヒーとチョコレートを買って戻ってきた。

『どうぞ』

『え?』

『疲れた時、甘いもの食べるって言ってたんで』

『……覚えてたの?』

『まあ』

たったそれだけ。

本当にたったそれだけなのに。

あの日。

玲は帰宅してからベッドで悶絶した。

可愛い。

何あの子。

可愛い。

食べたい。

いや食べるって何。

怖い。

自分怖い。

でも可愛い。

それから一年以上。

玲は平然を装い続けている。

表面上は。

少し部下をからかうのが好きな上司。

でも頭の中はだいぶ終わっている。

○○が褒められたら嬉しい。

女性社員と喋っていると少し嫌。

飲み会で他部署の女性が○○の隣へ座れば、可能な限り自然に自分も近くへ行く。

当然。

全部偶然を装って。

「大園さん?」

「ん?」

「今怖い顔してましたよ」

「してないよ」

玲は微笑んだ。

同僚は少し引いた。

していたらしい。



週末。

俺はフェスへ行った。

朝から晩まで。

跳ねて。

歌って。

叫んで。

ビール飲んで。

また跳ねて。

最後のバンドが終わる頃には声が死んでいた。

最高。

これで来週も働ける。

そんなことを思いながら、会場を出る。

スマホを見る。

玲さんからメッセージが来ていた。

『生きてる?』

なんだこの連絡。

『死にました』

送信。

数秒後。

『じゃあ月曜来れないね』

『蘇生します』

『よかった』

続けて。

『楽しかった?』

俺は少し考えて。

ステージの写真を一枚送った。

『最高でした』

既読。

『いいなぁ』

『玲さんフェスとか行かないんですか?』

『行ったことない』

『意外』

『うるさいの苦手そう?』

『どっちかというと』

『失礼だなぁ』

そこから少し間が空く。

そして。

『今度連れてってよ』

俺は画面を二度見した。

は?

上司を?

フェスへ?

二人で?

いやいやいや。

これは。

そういう意味ではない。

単純に興味があるだけだ。

俺は冷静だ。

社会人だ。

『タイミング合えば』

逃げた。

『約束ね』

逃げられなかった。

翌週。

会社へ行くと。

「○○くん」

玲さんがにこにこしていた。

嫌な予感しかしない。

「なんですか」

「昨日調べた」

「何を」

「フェス」

「……」

「来月のやつ行きたい」

「本気ですか?」

「うん」

「暑いですよ」

「うん」

「人多いですよ」

「うん」

「めちゃくちゃ歩きます」

「○○くんいるでしょ?」

「俺を何だと思ってるんですか」

「頼れる後輩」

「便利な後輩の間違いでは?」

「そんなことないよ」

笑顔。

「頼れるし、優しいし」

一拍。

「好きだよ?」

心臓が止まった。

玲さんは一瞬間を置いて。

「あ、後輩としてね」

「……分かってます」

「ほんと?」

「何がですか」

「一瞬固まったから」

「固まってません」

「ふふ」

こいつ。

本当に。

いつか仕返ししてやる。

そう思った。

この時までは。



フェス当日。

待ち合わせ場所に現れた玲さんを見て。

俺はもう帰りたくなった。

「おはよ」

「……」

「○○くん?」

「なんですかその格好」

「変?」

「変じゃないです」

むしろ逆。

白いTシャツ。

デニム。

スニーカー。

髪はいつもよりラフに後ろでまとめている。

会社の玲さんとは全然違う。

シンプルなのに。

めちゃくちゃ可愛い。

「似合ってない?」

「似合ってます」

「ならいいじゃん」

「そういう問題じゃなくて」

「じゃあどういう問題?」

言えるわけない。

メロすぎて直視できませんとか。

「行きますよ」

「はーい」

電車へ乗る。

休日。

会社の外。

私服。

隣に玲さん。

何だこれ。

デートじゃねえか。

いや違う。

フェス同行。

上司と部下。

それだけ。

「○○くん」

「はい」

「今日敬語やめて」

「無理です」

「約束したじゃん」

「考えるって言っただけです」

「えー」

「それに急には無理です」

「じゃあ練習しよ」

「何をですか」

「敬語使ったら罰ゲーム」

「嫌ですよ」

「じゃあ私が決める」

「聞いてます?」

「敬語一回につき、私のお願い一個聞く」

「最悪だ」

「あ」

玲さんの目が輝く。

「今敬語じゃなかった」

「……」

「できるじゃん」

嬉しそう。

ずるい。

会場へ着けば玲さんは普通にテンションが上がっていた。

「すご」

「人多いでしょう」

「あ、敬語」

「……人多いだろ」

「うん」

笑う。

クソ。

可愛い。

最初は遠慮がちだった玲さんも。

音楽が始まれば次第に楽しそうに身体を揺らしていた。

俺が好きなバンドでは。

「○○くん、行かなくていいの?」

「玲さん置いて前行けないでしょ」

「あ、敬語」

「うるさい」

「行ってきなよ」

「いや」

「私ここで見てるから」

「でも」

「楽しみに来たんでしょ?」

背中を押される。

「行っておいで」

その顔を見たら。

逆らえなかった。

「……じゃあ行ってくる」

「うん」

久しぶりに前方へ飛び込む。

音の波。

人の熱。

歓声。

全部が気持ちいい。

数十分後。

汗だくで戻る。

「おかえり」

玲さんが笑う。

「楽しそうだった」

「見えてた?」

「うん。めちゃくちゃ跳ねてた」

「恥ず」

「可愛かったよ」

「男に可愛い言うな」

「あ」

玲さんがまた嬉しそうに笑った。

「ほんとに普通に喋ってる」

「……もういいだろ」

「うん」

そして。

玲さんが少しだけ目を細めた。

「そっちの方が好き」

一瞬。

周囲の音が消えたような錯覚。

「……玲」

無意識に。

名前だけが出た。

玲さんが固まる。

今度は。

俺の番だった。

「あ」

「……」

「玲さん?」

「い、今」

顔が赤い。

珍しい。

というか初めて見た。

「玲って……」

「敬語やめろって言ったのそっちじゃん」

「そうだけど……」

「じゃあ玲でいい?」

反撃。

いつもやられっぱなしだ。

今日くらい。

玲さんは視線を逸らした。

「……いいよ」

声、小さ。

俺の胸が変な音を立てた。

やばい。

何だこれ。

その後。

二人の距離は少しだけ変わった。

会社では玲さん。

外では玲。

ただそれだけ。

だけど。

それだけじゃなかった。

帰りの電車。

疲れた玲が俺の肩にもたれた。

「眠い?」

「んー」

「寝ていいよ」

「乗り過ごさない?」

「起こす」

「じゃあ寝る」

完全に体重を預けてくる。

髪が首に触れる。

俺は必死に窓の外を見た。

しばらくして。

小さな寝息。

本当に寝たらしい。

無防備すぎる。

上司だぞ。

この人。

会社では俺より二年先輩で。

いつも俺をからかって。

余裕そうに笑うくせに。

今は普通に。

可愛い女の人だった。

電車が揺れる。

玲の頭がずれそうになる。

反射的に手で支えた。

すると。

「……ん」

玲が俺の腕へ少しだけ抱きついた。

「……」

俺は死んだ。



次の日。

玲は自宅のベッドで目を覚ました瞬間。

枕へ顔を埋めた。

「……むり」

昨日。

○○の肩で寝た。

それだけでも相当なのに。

途中。

実は目が覚めていた。

でも。

起きたと言えなかった。

だって。

○○が自分の頭を優しく支えてくれていたから。

しかも。

自分は寝ぼけたふりをして腕へ抱きついた。

完全に故意だった。

「私きも……」

枕を抱き締める。

けれど。

思い出す。

『玲でいい?』

「…………」

ベッドの上で転がる。

可愛い。

無理。

食べたい。

今まで散々からかってきたくせに。

名前を呼び捨てにされただけでこの有様。

あまりにも情けない。

スマホを見る。

○○からメッセージ。

『昨日ありがと。楽しかった』

一瞬で口元が緩む。

『私も楽しかった』

送信。

少し考える。

そして。

『また行こ』

さらに。

『二人で』

送った瞬間。

「……あ」

しまった。

二人で、いらなかった。

いや昨日も二人だ。

でもわざわざ書く必要は。

既読。

玲はスマホを伏せた。

怖い。

十秒。

二十秒。

通知。

『もちろん』

「……」

枕へ顔を埋める。

「好きぃ……」

誰にも聞かれなくて良かった。



それから。

会社でも以前より明らかに距離が近くなった。

「○○くん」

「はい」

「今日飲みに行かない?」

「急ですね」

「だめ?」

「別にいいですけど」

「やった」

二人で飲むことも増えた。

仕事の話。

愚痴。

フェス。

学生時代。

恋愛。

最初は他愛もない話だけだった。

でも。

酔いが回れば少しずつ踏み込む。

「○○くんって彼女作らないの?」

ある夜。

玲がグラスを指でなぞりながら聞いた。

「今はいない」

会社を出たからタメ口。

「今は?」

「一年くらいいない」

「へぇ」

「玲は?」

「私もいない」

「意外」

「なんで?」

「モテるだろ」

「……」

玲が少し黙る。

「好きな人いるから」

一瞬。

心臓が跳ねた。

でも。

当然俺ではない。

そう思うしかない。

「告白しないの?」

「怖い」

「玲が?」

「私だって怖いよ」

珍しく。

弱い声。

「その人、すごく好きだから」

胸が痛い。

聞かなきゃ良かった。

「……そっか」

「うん」

「なら、そのうち言えるといいな」

「……ばか」

「え?」

「なんでもない」

玲はグラスを傾けた。

その日。

玲はいつもより飲んだ。

帰り。

駅まで歩いている途中。

「○○くん」

「ん?」

「手」

「手?」

「貸して」

「何するの」

「いいから」

俺が右手を出す。

玲が。

その手を握った。

「……玲?」

「酔った」

「いや酔っても手は繋がないだろ」

「転んだら危ない」

「腕掴めばいいじゃん」

「手がいい」

「……」

指を絡められる。

恋人繋ぎ。

心臓がうるさい。

「玲」

「なに」

「これ、酔ってるから?」

しばらく。

返事がなかった。

「……そういうことにしといて」

それ以上。

聞けなかった。



転機は。

梅雨の終わりだった。

残業。

突然の豪雨。

終電近く。

「やば」

会社を出た瞬間、玲が空を見上げた。

「傘ない」

「俺あるよ」

「入れて」

「いいけど」

当然。

相合傘。

距離が近い。

玲の肩が濡れないように少し傘を傾ける。

「○○くん濡れてない?」

「大丈夫」

「肩濡れてるじゃん」

「玲が濡れるよりいい」

「……」

「何」

「そういうとこ」

「何が」

「なんでもない」

玲の家の最寄りまで送る。

だが雨はさらに強くなった。

「○○くん」

「ん?」

「電車」

嫌な予感。

スマホを見る。

止まった。

「……まじか」

「うち来る?」

「え」

「この雨で帰れないでしょ」

「いやでも」

「嫌?」

そんな顔するな。

「嫌じゃないけど」

「じゃあ決まり」

玲の部屋。

初めて入る。

当たり前だけど。

女の人の部屋だった。

綺麗。

柔らかな匂い。

そして。

生活感。

ソファ。

クッション。

冷蔵庫に貼られたメモ。

会社の玲とは違う。

「適当に座って」

「お邪魔します」

「敬語」

「これは言うだろ」

「ふふ」

玲はタオルを持ってきた。

「はい」

「ありがと」

俺が髪を拭く。

玲も自分の髪を拭きながら。

俺を見る。

「何」

「濡れてる○○くん、ちょっといいね」

「何言ってんの」

「色っぽい」

「セクハラ上司」

「会社じゃないから」

「もっとダメだろ」

玲が笑う。

シャワーを借りることになった。

俺が先。

玲が後。

問題は。

玲が風呂から出てきた時だった。

部屋着。

大きめのTシャツ。

ショートパンツ。

素足。

濡れた髪。

「……」

「何」

「いや」

「見てた」

「見てない」

「見てたよ」

「……」

「可愛い?」

「そういうこと聞くな」

「じゃあ可愛くない?」

「可愛いよ」

言ってしまった。

玲が止まる。

俺も止まる。

「……ほんと?」

「聞いたのそっちだろ」

「もう一回」

「嫌」

「ねえ」

「嫌だ」

玲が隣へ座る。

近い。

「もう一回言って」

「……可愛い」

玲の頬が赤くなる。

いつも俺ばかり照れさせられる。

でも。

最近分かってきた。

玲も。

案外弱い。

俺が少し踏み込めば。

ちゃんと揺れる。

「玲」

「ん?」

「俺のことからかう時は余裕なのに」

「何」

「自分が言われると弱いよな」

「……そんなことない」

「顔赤い」

「お風呂上がりだから」

俺がいつも使ってる言い訳じゃねえか。

笑ってしまう。

「なに笑ってるの」

「別に」

「むかつく」

玲が俺の肩を叩く。

俺はその手首を軽く掴んだ。

一瞬。

空気が変わった。

近い。

手首を掴んだまま。

玲と目が合う。

笑っていない。

どちらも。

「……○○くん」

玲が呟く。

俺の喉が鳴った。

そのまま。

数秒。

どちらも動かなかった。

動けば。

何かが変わる。

それは分かっていた。

でも。

玲が。

ほんの少しだけ。

俺へ近づいた。

「……玲」

「なに」

「これ、俺が勘違いしてたらめちゃくちゃ恥ずかしいんだけど」

「うん」

「最近の玲」

一度息を吸う。

「俺のこと好き?」

玲の目が大きくなる。

完全に固まった。

今まで見たことがないくらい。

そして。

「……ばか」

小さく呟いた。

「え」

「ほんとにばか」

「違うなら」

「違わない」

玲が俺のTシャツを掴んだ。

「違わないから困ってるの」

声が震えている。

「一年以上ずっと好き」

「……」

「○○くんが入ってきてからずっと」

「え」

「最初からではないけど」

玲が俺を睨む。

涙目で。

「気づくの遅い」

「いや分かるわけないだろ」

「あんなにアピールしたのに」

「全部からかわれてると思ってた」

「好きじゃない人にあんなことしない」

「玲ならしそう」

「しない!」

怒られた。

でも。

笑ってしまう。

「何笑ってるの」

「いや」

「私真剣なんだけど」

「嬉しくて」

玲が止まる。

「……嬉しい?」

「うん」

今度は俺の番。

「俺も玲のこと好きだから」

しばらく。

何も言わない。

瞬きを数回。

「……いつから?」

「多分一年くらい前」

「は?」

「え?」

「一年?」

「うん」

「私と同じくらいじゃん」

「そうかも」

「……」

玲の顔が。

徐々に。

徐々に。

怖くなった。

「じゃあこの一年何だったの?」

「知らないよ」

「お互い好きだったのに?」

「玲が俺のこと玩具みたいにしてたからだろ」

「だって反応可愛かったし」

「ほら」

「でも好きだった!」

「分からんって!」

数秒後。

二人で笑った。

馬鹿みたいだ。

本当に。

玲が目元を拭う。

「……○○くん」

「ん?」

「キスしていい?」

心臓が。

跳ねる。

「それ、普通男から聞くやつじゃない?」

「待てない」

「せっかち」

「一年待った」

「確かに」

俺が少し笑うと。

玲は不満そうに。

俺の頬へ手を添えた。

そして。

唇が重なった。

一度。

短く。

離れる。

近い距離で。

玲と目が合う。

「……」

「……」

どちらともなく。

もう一度。

今度は少し長い。

柔らかい。

温かい。

玲の手が俺の首へ回る。

俺も玲の腰へ腕を回した。

抱き寄せる。

玲の身体が俺の胸へぴったり触れる。

「……○○くん」

唇が離れた瞬間。

玲が俺の肩へ顔を埋めた。

「やばい」

「何が」

「嬉しい」

小さな声。

その瞬間。

胸がいっぱいになった。

俺を散々振り回してきた小悪魔上司は。

俺の腕の中で。

普通の女の子みたいに照れている。

「玲」

「ん」

「好き」

「……急に言わないで」

「俺ずっと言われてきたから」

「好きって直接は言ってない」

「匂わせまくってたじゃん」

「知らない」

玲が顔を上げる。

「もう一回」

「何を」

「キス」

「……はいはい」

「何その言い方」

でも。

嬉しそう。

また唇を重ねる。

何度目か。

玲の指が俺の髪へ入る。

俺の背中へ腕が回る。

キスの合間。

玲が小さく笑った。

「○○くん」

「ん?」

「食べちゃいたい」

「怖」

「ずっと思ってた」

「余計怖いわ」

「だって可愛いんだもん」

「二十代男に言う台詞じゃない」

「私にとっては可愛いの」

「……」

「照れた」

「うるさい」

玲を抱き締める。

仕返しのつもりで。

少し強く。

すると。

「わ」

玲の身体が俺へ預けられる。

「……○○くん?」

「なに」

「男の人なんだね」

「今更?」

「なんか」

玲が俺の胸へ頬を寄せる。

「思ってたよりドキドキする」

その声が。

今度は俺をおかしくする。

「玲」

「ん?」

「それ以上言うと危ない」

「何が?」

顔を上げる。

その目。

絶対分かってる。

「……わざと?」

「何が?」

「そういう顔」

「どんな顔?」

また。

小悪魔に戻りやがった。

俺は玲の頬を軽く掴んだ。

「調子乗んな」

「……」

初めて。

玲が完全に黙った。

「どうした」

「今の」

「ん?」

「もう一回言って」

「嫌だよ」

「好き」

「何が?」

「今の○○くん」

目が。

とろんとしている。

やばい。

「玲」

「ん?」

「寝るぞ」

「えー」

「明日も仕事」

「泊まる?」

「電車止まってるからな」

「そうじゃなくて」

玲が俺の服を掴む。

「同じベッド」

「……」

「嫌?」

またその顔。

ずるい。

でも。

今度は。

俺も逃げない。

「嫌じゃない」

「ほんと?」

「うん」

「じゃあ」

玲が立ち上がって。

俺の手を取った。

寝室へ。

その途中。

何度も振り返る。

少し照れながら。

でも嬉しそうに。

寝室。

ベッドの端へ座る。

沈黙。

さっきまであれだけキスしていたのに。

場所が変わっただけで。

妙に緊張する。

「○○くん」

「ん」

「抱きしめて」

横になる。

玲を腕の中へ。

玲も俺の胸へ顔を埋める。

「……落ち着く」

「俺は落ち着かない」

「なんで?」

「好きな女の人と同じベッドだから」

玲の身体が少し固まる。

「……女の人って言った」

「女の人だろ」

「なんかやばい」

「玲が言わせたんだろ」

笑う。

玲が俺の胸へ手を置く。

ゆっくり。

顔を上げる。

また。

キス。

今度は。

長い。

触れるだけでは終わらない。

玲の指が俺の服を掴む。

俺の手が玲の背中へ回る。

距離がなくなる。

息が混ざる。

「……○○くん」

「ん」

「好き」

「俺も」

「もっと近く」

十分近い。

それでも。

玲はそう言った。

抱き締める腕に力を入れる。

玲が安心したように目を閉じた。

その夜。

二人の関係がどこまで進んだのか。

それを他人へ話すつもりはない。

ただ。

翌朝。

目を覚ました俺の腕の中に玲がいて。

玲は俺の胸へ頬を寄せたまま眠っていて。

ベッドの上には。

昨日まで存在しなかった距離感だけが残っていた。



「……おはよ」

「おはよう」

目を覚ました玲が。

俺を見る。

数秒。

「……」

顔が赤くなる。

「今更照れる?」

「うるさい」

「昨日あんなに」

「言うな!」

口を塞がれた。

手で。

「会社では絶対普通にしてね」

「無理じゃない?」

「なんで?」

「玲絶対顔に出るじゃん」

「出ないし」

「今真っ赤だけど」

「朝だから」

「便利な言い訳だな」

玲が睨む。

でも。

すぐ笑った。

「○○くん」

「ん?」

「今日から彼氏?」

「そうなるだろ」

「……そっか」

嬉しそう。

「彼氏かぁ」

噛み締めるな。

「じゃあ」

玲が俺へ近づく。

「おはようのキス」

「会社遅れる」

「一回だけ」

「絶対一回じゃ終わらない」

「分かってるじゃん」

「……」

結局。

会社へ到着したのは。

いつもよりかなりギリギリだった。



交際開始後。

会社。

「○○くん、これお願い」

「はい」

「今日中で大丈夫」

「分かりました」

普通。

完璧。

上司と部下。

周囲から見れば何も変わらない。

ただし。

玲さんが俺へ資料を渡す瞬間。

誰にも見えない位置で。

指先が。

俺の手の甲をなぞった。

「……」

玲さんを見る。

涼しい顔。

昼。

コピー室。

二人だけ。

「玲さん」

「はい?」

「さっきの何ですか」

「何のこと?」

「手」

「あぁ」

玲さんが笑う。

「触りたかった」

「会社」

「ちょっとだけじゃん」

「バレたらどうするんですか」

「○○くんが変な顔しなければバレないよ」

「誰のせいだ」

「可愛い」

俺は顔を覆った。

何も変わってない。

付き合えば俺が優位に立てるかと思った。

幻想だった。

むしろ玲さんの攻撃力は増した。

「○○くん」

「なんですか」

「今日うち来る?」

「平日ですよ」

「泊まればいいじゃん」

「着替えないです」

「置いとけば?」

「……」

「歯ブラシも」

玲さんが一歩近づく。

小声で。

「下着も」

「玲さん」

「なに?」

「職場」

「ふふ」

最悪。

でも。

最高。

その日の夜。

結局。

玲さんの家へ行った。

夕飯を食べて。

風呂へ入り。

ソファで映画を見る。

玲さんが俺へ寄りかかる。

「○○くん」

「ん?」

「幸せ?」

「何突然」

「いいから」

「まあ」

「まあ?」

玲さんが顔を上げる。

「すごく幸せです」

「敬語」

「すごく幸せ」

「よし」

満足そう。

「玲は?」

聞くと。

「めちゃくちゃ幸せ」

即答。

「なんか怖いくらい」

「怖い?」

「○○くんが私の彼氏なの」

「今更?」

「だってずっと好きだったから」

「俺も」

「知ってる」

「最近知ったくせに」

「もう知ってるからいいの」

玲が俺の手を取る。

指を絡める。

「会社では私が上司だけど」

「うん」

「家では?」

「玲」

「うん」

「俺の彼女」

玲の口元が緩む。

「それ好き」

「何が?」

「彼女って言われるの」

「玲、俺の彼女」

「……もう一回」

「嫌」

「言って」

「嫌」

「○○くん」

「嫌」

玲が俺の上へ乗りかかる。

「言って?」

顔近い。

「ずるいって」

「何が?」

「その顔」

「じゃあ言ってくれたらやめる」

「玲は俺の彼女」

「うん」

「満足?」

「全然」

そのまま。

キス。

ソファへ押し倒される形になる。

「玲さん」

「今家」

「玲」

「はい」

「小悪魔」

「知ってる」

「自覚あんのかよ」

「○○くんにだけね」

キス。

頬。

額。

また唇。

玲が楽しそうに笑う。

「可愛いねぇ」

「やめろ」

「食べちゃいたい」

「怖い」

「食べていい?」

「意味による」

「意味は」

「言うな」

玲が笑った。

そのまま俺の胸へ顔を埋める。

「大好き」

小さな声。

やっぱり。

ずるい。

小悪魔みたいに俺を散々振り回しておいて。

最後には。

こんな真っ直ぐな言葉で。

全部持っていく。

「俺も」

玲の頭を撫でる。

「玲」

「ん?」

「多分俺」

「うん」

「入社して一番大変なの、仕事じゃない」

「なに?」

「玲に耐えること」

「まだ耐えてるんだ?」

顔を上げる。

悪い笑顔。

「もう諦めたら?」

「何を」

「私に沼ってること」

「……」

「私はとっくに諦めたよ」

「え?」

「○○くんに沼ってるの」

平然と。

言いやがる。

そして。

俺が固まると。

嬉しそうに笑った。

「ほら」

頬をつつかれる。

「その顔好き」

ああ。

駄目だ。

一生勝てない。

翌朝。

俺は会社へ向かう電車の中で。

玲さんから来たメッセージを眺めていた。

『今日も頑張ろうね、○○くん』

その直後。

もう一件。

『夜はうち来てね♡』

俺はスマホを閉じた。

車窓へ視線を向ける。

平日の朝。

スーツ。

通勤電車。

これからまた。

社会の歯車として一日働く。

理不尽なこともあるだろう。

面倒な仕事もあるだろう。

週末になればフェスへ行く。

爆音を浴びて。

溜まったキチゲを全部発散する。

そんな生活は。

多分これからも変わらない。

ただ。

一つだけ。

以前と違うことがある。

会社へ着けば。

俺の癖にぶっ刺さる女がいる。

直属の上司で。

小悪魔で。

俺をからかうのが大好きで。

でも実は。

俺以上に俺へ沼っている。

最高に面倒で。

最高に可愛い彼女が。

俺を待っている。

だから皆。

聞いてほしい。

うちの小悪魔上司が。

ドカメロすぎてえぐい。

マジで。

誰か助けてくれ。

――まあ。

助けられても。

離れるつもりはないけど。

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