『メガネをとったら担当アイドル達の様子が激変した』 第4話
第4話「ステージの外で」
新年度ライブ当日の朝。
山下○○は、開演の何時間も前から会場内を歩き回っていた。
首からスタッフパスを下げ。
片手には進行表。
もう片方の手には、スタッフとの連絡に使うスマートフォン。
今日も顔には、黒縁のメガネがない。
あの日以降、会場側との調整やライブ準備が重なり、新しいメガネを買いに行く時間を確保できなかった。
自宅には予備のメガネもある。
普段ほとんど使わないコンタクトレンズも残っている。
しかし、連日帰宅が遅くなったことで、朝は必要最低限の支度だけを済ませて家を出ていた。
今日さえ終われば、一度落ち着ける。
○○はそう考え、結局ライブ当日まで素顔のまま仕事を続けていた。
「舞台袖のモニター、映像は問題ありませんか?」
「はい。今、最終確認しています」
「ありがとうございます。無線の予備は、下手側にも二台置いておいてください」
「分かりました」
スタッフへ指示を伝えながら、○○は進行表へ視線を落とす。
細かな文字は、やはり見づらい。
必要な部分は昨夜のうちに拡大してスマートフォンへ保存しているが、慣れたメガネがない不便さは消えない。
それでも、歩みを止めることはなかった。
「○○さん」
背後から声を掛けられる。
振り返ると、谷口愛季が立っていた。
すでにリハーサル用の衣装へ着替え、髪もある程度整えられている。
「おはよう、愛季」
「おはようございます」
「準備は大丈夫?」
「はい。三期生は全員そろっています」
「体調が悪そうな子はいない?」
「今のところは」
「理子は?」
「大丈夫そうです。朝もちゃんと食べてきたって言ってました」
「そっか。ありがとう」
○○が笑う。
愛季は一瞬だけその顔を見つめたあと、僅かに視線を逸らした。
数日が経っても、まだ慣れない。
メガネのない○○と顔を合わせるたび、胸の奥が落ち着かなくなる。
だが今日は、本番当日。
自分たちが動揺している場合ではない。
「○○さんこそ、大丈夫ですか?」
「俺?」
「昨日も遅かったですよね」
「よく知ってるね」
「連絡が来た時間で分かります」
「でも、ちゃんと寝たよ」
「何時間ですか?」
「……それは秘密」
「寝てないんじゃないですか?」
「少しは寝た」
「少しって何時間ですか?」
愛季がじっと○○を見る。
今度は○○の方が、視線を逸らした。
「ライブが終わったら寝るよ」
「それ、答えになってません」
「今日の俺は踊らないから大丈夫」
「そういう問題じゃないです」
愛季は頬を膨らませる。
「私たちの体調にはすぐ気付くのに、自分のことになると適当ですよね」
「適当にはしてないよ」
「じゃあ、何時間寝ました?」
「愛季、そろそろ準備に戻らなくて大丈夫?」
「話を逸らしましたね」
「戻った方がいいと思う」
「……三時間以下ですか?」
「そこまで少なくはない」
「四時間?」
「愛季」
「分かりました」
愛季は不満そうに返事をした。
○○は、ようやく質問を切り抜けられたと小さく息を吐く。
「でも、本当に無理しないでください」
「うん」
「○○さんが倒れたら、みんな困りますから」
「気を付けるよ」
その言葉を聞き、愛季は少しだけ安心したように頷いた。
「じゃあ、行ってきます」
「うん。リハーサル、落ち着いてね」
愛季がメンバーのもとへ戻っていく。
入れ替わるように、廊下の向こうから山﨑天と田村保乃が歩いてきた。
「○○」
天が声を掛ける。
「どうした?」
「朝ご飯食べた?」
「食べたよ」
「ほんまに?」
保乃が疑うような目を向ける。
「本当に」
「何食べたん?」
「おにぎり」
「何個?」
「一個」
「少なっ」
「時間がなかったから」
「それを食べたって言うん?」
天が呆れたように眉を下げる。
「一応、食べてはいるでしょ」
「あとで何か食べて」
「本番中は難しいかな」
「今から」
「まだ確認が残ってる」
「五分くらいあるやろ」
「あるけど」
「ほら、行くで」
保乃が○○の袖を掴む。
「どこに?」
「ケータリング」
「自分で行けるよ」
「自分で行かへんから連れてくんやろ」
反対側から、天も○○の腕を取った。
「ちょっと待って。二人とも準備は?」
「うちらは終わってる」
「メイク崩れるから引っ張らない方がいいよ」
「誰の心配してんの」
天が半ば呆れながら答える。
両側から連れていかれる○○の姿を、少し離れた場所から森田ひかると藤吉夏鈴が見ていた。
「天たち、朝から距離近くない?」
ひかるが呟く。
「いつもあんな感じじゃない?」
夏鈴は静かに答える。
「いつもより近い気がする」
「ひかるも行けば?」
「何で?」
「行きたそうに見えるから」
「見えないでしょ」
「見える」
夏鈴は迷いなく答えた。
ひかるは一度、○○たちが消えた廊下を見る。
「別に、朝ご飯なら私たちが言わなくても食べるでしょ」
「一個だけらしいけど」
「……少ないね」
「行かないの?」
「夏鈴が行くなら」
「私はどっちでもいい」
「じゃあ行かない」
そう言いながらも。
二人は結局、同じ方向へ歩き出していた。
◇
ケータリングスペースでは、すでに何人ものメンバーが軽食を取っていた。
○○が保乃と天に連れられて入ってくると、その場にいた三期生と四期生の視線が一斉に集まる。
「○○さん?」
浅井恋乃未が目を丸くする。
「どうしたんですか?」
「朝ご飯が足りないから、二人に連れてこられた」
「おにぎり一個しか食べてへんねんて」
保乃が説明する。
「一個だけですか?」
恋乃未の声が少し強くなる。
「忙しかったから」
「忙しくても食べないと駄目です」
「今から食べるよ」
「何を食べますか?」
「何か軽いものを」
「軽いものじゃなくて、ちゃんと食べてください」
いつの間にか、○○の周囲へメンバーが集まり始める。
「サンドイッチがありますよ」
小田倉麗奈が差し出す。
「こっちにスープもあります」
石森璃花が指を差す。
「バナナも食べた方がいいと思います」
中川智尋が真剣な表情で言う。
「そんなに食べたら、今度は動けなくなるよ」
「普段の○○さんなら、そのくらい平気じゃないですか?」
山川宇衣が笑う。
「私たちが食べない時は、もっと食べろって言うのに」
稲熊ひなも加わる。
「みんな、準備は大丈夫なの?」
「今は休憩時間です」
恋乃未が答える。
「○○さんが食べ終わるまで見ています」
「見られてると食べづらいんだけど」
「ちゃんと食べるか確認しないと」
「信用ないな」
「自分のことに関しては、あまりありません」
恋乃未は真顔で答えた。
その周囲では、二期生たちも頷いている。
「○○、諦めた方がいいよ」
ひかるが言う。
「いつの間に来たの?」
「今」
「夏鈴も?」
「うん」
夏鈴は○○の手元へ視線を向けた。
「まだ何も持ってないやん」
「今選ぼうと思ってた」
「遅い」
夏鈴はテーブルからサンドイッチを一つ取り、○○へ渡す。
「これ食べて」
「ありがとう」
「あとスープ」
「そんなにいらないよ」
「いる」
「夏鈴まで」
「朝から動き回ってるんでしょ」
「そうだけど」
「なら食べて」
夏鈴の口調は淡々としているが、断らせる気はないらしい。
○○は諦め、渡されたサンドイッチを受け取った。
「じゃあ、これを食べたら戻るよ」
「スープもです」
麗奈がすぐに付け加える。
「バナナも」
智尋も続く。
「全部食べるまで戻ったらあかんで」
宇衣が笑顔で念を押す。
○○は、自分を囲むメンバーたちを見渡した。
「ライブ前なのに、みんな余裕だね」
「○○さんが心配させるからです」
愛桜が静かに言う。
「俺が?」
「はい」
「みんなの体調管理をするのが俺の仕事なんだけど」
「だからって、○○さんが体調を崩していい理由にはなりません」
愛桜の目は真剣だった。
○○は少しだけ驚いたあと、穏やかに笑った。
「分かった。ちゃんと食べるよ」
その笑顔を見た愛桜は、一瞬目を逸らす。
周囲のメンバーたちも、同じように微妙な反応を見せた。
数日が経過しても。
やはり、メガネのない○○の笑顔には慣れなかった。
◇
朝の全体リハーサルが始まる。
まだ観客のいない会場に、音楽が響き渡った。
照明が動き。
ステージ上のメンバーたちが、本番と同じ順序で立ち位置を確認していく。
○○は舞台袖に立ち、無線を片耳へ当てていた。
「下手側、次の移動準備お願いします」
『了解です』
「三曲目終了後、衣装替えが予定より十秒短くなっています。担当スタッフへ共有を」
『分かりました』
視線はステージ。
耳では複数のスタッフから入る情報を聞き。
手元では進行表を確認する。
メガネがないことによる見づらさはある。
しかし、メンバーたちの動きや表情は、いつも以上に集中して見ていた。
曲の途中。
勝又春の右足の着地が、僅かに遅れる。
ほんの一瞬。
大半の人間なら気付かない程度の変化だった。
だが○○は、すぐに無線へ手を伸ばした。
「下手側、春が戻ったら一度状態を確認します。トレーナーさんをお願いできますか?」
『了解です』
曲が終わり、春たち四期生が舞台袖へ戻ってくる。
「春」
○○が声を掛ける。
「はい」
「右足、今痛んだ?」
「痛いってほどじゃないです」
「違和感は?」
「少しだけ」
「一回確認しよう」
「でも、次の曲」
「春の位置はスタッフと確認する。今は足を見てもらって」
○○の声は穏やかだが、判断に迷いはない。
春は悔しそうにステージを見る。
「出られます」
「出られるかどうかは、確認してから決める」
「昨日も抑えたし、今日は大丈夫です」
「春」
○○は春と目線を合わせる。
「今無理をして、本番に出られなくなる方が嫌でしょ」
「……はい」
「休ませたいんじゃない。出られる可能性を一番高くしたいから確認するんだよ」
春は唇を結ぶ。
やがて、小さく頷いた。
「分かりました」
「大丈夫。次の曲だけなら、立ち位置の確認は後でもできるから」
トレーナーが到着し、春を連れていく。
春が何度もステージを振り返る姿を見ながら、○○はスタッフへ代替の確認方法を伝えた。
その様子を、舞台袖で待機していた四期生たちが見ている。
「春ちゃん、大丈夫かな」
ひなが不安そうに呟く。
「大丈夫」
恋乃未が答えた。
「○○さんが、ちゃんと見てくれてるから」
その言葉に、全員が頷く。
外見が変わったことで、以前とは違う感情を抱くようになった。
それでも。
彼が自分たちのマネージャーであること。
誰よりも近くで状態を見てくれていること。
その安心感だけは、何も変わらなかった。
◇
リハーサルは順調に進んでいた。
しかし、終盤。
舞台上の照明が突然消えた。
音楽も途中で止まる。
「え?」
メンバーたちが動きを止める。
客席側の一部照明は点いているが、ステージ上は薄暗い。
スタッフたちの間に緊張が走った。
『舞台照明、一部系統が落ちました』
無線から声が入る。
「原因は?」
『今確認中です』
「復旧までの見込みは?」
『少し時間が必要です』
○○はすぐにステージへ視線を向けた。
メンバーたちは突然の中断に戸惑っている。
本番前。
緊張が高まっている中でのトラブル。
原因が分からないまま待たせれば、不安だけが大きくなる。
○○は無線を切り替えた。
「一度、メンバーを舞台袖へ戻します。原因が分かるまで休憩にしましょう」
『了解です』
○○はステージ近くへ進み、声を掛ける。
「一回戻ろう」
「大丈夫なんですか?」
愛季が尋ねる。
「照明の一部が落ちただけ。今、スタッフさんが確認してくれてる」
「本番までに直りますか?」
「まだ分からない」
○○は、根拠のない言葉で安心させようとはしなかった。
「でも、直らなかった場合の進行も含めて準備する。みんなは一度休んで」
その声に焦りはない。
メンバーたちは○○の指示に従い、舞台袖へ戻っていく。
「○○」
ひかるが近付く。
「本当に大丈夫?」
「今の段階では分からない。でも、ライブができなくなるような状態ではないと思う」
「照明が戻らなかったら?」
「使用できる設備だけで演出を組み直す」
「今から?」
「今から」
○○はスマートフォンを取り出しながら答える。
「照明チームと演出担当に確認する。曲ごとに必要な演出を分けて、優先順位を決めれば対応できるはず」
ひかるは、○○の横顔を見つめる。
メガネのない顔。
普段よりも表情がはっきり見える。
落ち着いているように見えるが。
僅かに眉間へ力が入っている。
本当は○○も緊張している。
それでも、自分たちが不安にならないよう表へ出さない。
「何か手伝える?」
ひかるが尋ねる。
「メンバーをお願いしていい?」
「みんなを?」
「うん。俺がしばらく離れるから、不安そうな子がいたら話を聞いてあげて」
「分かった」
「ありがとう」
○○はそう言い残し、スタッフたちのもとへ向かった。
◇
待機場所へ戻ったメンバーたちは、落ち着かない様子で状況を見守っていた。
特に四期生は、この規模のライブ当日に起きるトラブルへ慣れていない。
「本当に大丈夫かな」
ひなが呟く。
「○○さんは大丈夫って言ってました」
陽色が答える。
「大丈夫とは言ってなかったよ」
智尋が静かに訂正する。
「対応するって言ってた」
「それって、違うの?」
「違うと思う」
智尋は少し考える。
「根拠がないのに大丈夫って言わないところが、○○さんらしい」
安心させるためだけの嘘は言わない。
今分かっていることと。
分かっていないことを分けて伝える。
そのうえで、自分が何をするのかを説明する。
それが○○のやり方だった。
「でも、何とかしてくれると思う」
恋乃未が言う。
「○○さん一人が直すわけじゃないよ」
和子が答える。
「分かってる」
「スタッフさんたちと一緒に考えるってことだよね」
「うん」
恋乃未は廊下の先へ視線を向ける。
○○は照明スタッフと演出担当者に囲まれ、何かを確認していた。
何度もステージを指し。
資料を開き。
必要な情報を整理している。
スタッフの中では、○○より年上の人間も多い。
それでも、誰も彼を経験の浅い若者として扱ってはいない。
五年間。
現場で信頼を積み重ねてきた。
そのことが、遠くから見ているだけでも分かる。
「○○さん、格好いいね」
陽色がぽつりと呟く。
何人かが、同時に陽色を見る。
「顔のことじゃなくて」
陽色は少し慌てて付け加える。
「もちろん顔も格好いいですけど」
「付け足した」
宇衣が笑う。
「今のは、仕事してる姿がって意味です」
「分かるよ」
桃実が静かに頷いた。
「困った時ほど、落ち着いてる」
「○○さんが焦ったら、私たちも怖くなるからじゃない?」
愛桜が答える。
「多分、自分が焦ってないわけじゃないと思う」
愛桜は、遠くにいる○○を見つめる。
メガネがないことで。
その目元の僅かな変化が、以前より分かるようになった。
「私たちに見せないようにしてるだけだと思う」
愛桜の言葉に、全員が黙る。
優しい。
頼れる。
何でもできる。
それだけではない。
○○も一人の人間だ。
疲れることもあれば。
迷うことも。
緊張することもある。
その当たり前のことを、今まで自分たちは深く考えてこなかった。
「私たちも、ちゃんとしないとね」
恋乃未が言う。
「○○さんに全部任せるんじゃなくて」
「そうだね」
和子が頷く。
「私たちが不安そうにしてたら、○○さんも余計に心配するから」
「じゃあ、今できることしよう」
愛季が立ち上がった。
「照明が復旧したら、すぐ再開できるように確認しようか」
三期生と四期生たちが、それぞれ動き出す。
先輩たちは後輩へ声を掛け。
立ち位置や振り付けを確認する。
誰かが不安を口にすれば、一人にしないようそばへ行く。
○○から与えられてきた安心を。
今度はメンバー同士で共有するように。
◇
三十分後。
照明設備の一部に不具合が見つかった。
完全な復旧には時間が掛かる。
しかし、安全に使用できる系統は残っていた。
演出を一部変更し。
使用できる照明へ役割を振り分ければ、本番には間に合う。
「では、この二曲は演出を簡略化します」
○○は演出担当者と進行表を見ながら確認する。
「その代わり、後半のメイン曲へ使用できる照明を集中させる形で」
「それなら対応できます」
「映像との同期は?」
「少し調整が必要ですが、間に合わせます」
「ありがとうございます」
一つずつ問題を整理し。
必要なスタッフへ共有する。
誰か一人の判断だけで進めず、各部門の意見を確認する。
変更された内容がまとまると、○○はすぐにメンバーのもとへ戻った。
「みんな、聞いて」
メンバーたちが集まる。
「照明の一部に不具合が見つかった。でも、本番は予定どおりできる」
その言葉に、何人もの表情が緩んだ。
「ただし、何曲か演出が変わる。ステージ上の立ち位置と振り付けは変わらないけど、照明の当たり方が少し違う可能性がある」
「暗くなる場所もありますか?」
美青が尋ねる。
「完全に暗くなることはない。でも、今まで目印にしていた光が出ない場所はある」
「移動は大丈夫です」
美青が答える。
「分かりました」
「本番前に、変更された照明でもう一度確認する時間を作ってもらった。短い時間だけど、そこで感覚を掴もう」
○○は全員を見渡す。
「急な変更で不安だと思う」
誰も言葉を挟まない。
「でも、みんななら大丈夫」
今度は、はっきりとそう言った。
根拠のない励ましではない。
安全が確認され。
変更点も整理され。
今まで積み重ねてきたものを出せる環境が整った。
そのうえでの「大丈夫」だった。
「リハーサルで何度も動いてきた。照明が少し変わっても、みんなのパフォーマンスまで変わるわけじゃない」
○○の目が、一人一人へ向けられる。
「ステージでは、自分たちを信じて」
「はい」
愛季が最初に答える。
続くように、全員の返事が重なった。
◇
開場時間が近付く。
会場の外には、多くの観客が集まっていた。
楽屋では、メンバーたちが本番用の衣装へ着替えている。
ヘアメイクの最終調整。
立ち位置の確認。
曲順の確認。
慌ただしさの中に、独特の緊張感が漂っていた。
○○は各楽屋を回り、一人一人の状態を確認していく。
「春、足は?」
「大丈夫です」
「痛みは?」
「ないです。トレーナーさんにも確認してもらいました」
「違和感が出たら、途中でも無線で伝えて」
「分かりました」
「無理に最後まで続けなくていいからね」
「はい」
春は素直に頷く。
その表情に、昨日までのような焦りはなかった。
「○○さん」
「どうした?」
「ありがとうございます」
「何が?」
「止めてくれて」
春は自分の右足へ視線を落とす。
「昨日、無理してたら今日もっと痛くなってたかもしれへんって、トレーナーさんに言われました」
「そっか」
「自分では、大丈夫やと思ってたから」
「本番に出たい気持ちが強いと、そう思うよ」
「○○さんには、全部分かるんですね」
「全部は分からないよ」
○○は穏やかに答えた。
「でも、できるだけ気付けるようには見てる」
春は顔を上げる。
メガネのない目が、まっすぐ自分へ向けられている。
心臓が跳ねた。
「……近いです」
「え?」
「何でもないです」
春は慌てて顔を逸らした。
「じゃあ、行ってきます」
「まだ少し時間あるよ」
「気持ちはもう行ってきますなので!」
意味の分からない言葉を残し、春は同期たちのもとへ戻っていった。
○○は首を傾げる。
「緊張してるのかな」
「違うと思う」
横から、夏鈴の声がした。
「夏鈴」
「春の様子見に来たの?」
「うん」
「もう大丈夫そうだよ」
「そっか」
夏鈴は春の後ろ姿を見たあと、○○へ視線を戻す。
「○○こそ大丈夫?」
「またそれ?」
「みんなに聞かれてるの?」
「今日は何回も」
「なら、みんな同じこと思ってるんやろ」
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「本番が始まれば、少し落ち着くと思う」
「始まるまでが一番忙しいもんな」
「うん」
○○は短く息を吐く。
その瞬間。
夏鈴の手が伸び、○○の頬へ触れた。
「……夏鈴?」
冷たい指先。
突然のことに、○○の動きが止まる。
夏鈴は○○の顔を見つめたまま、眉を寄せた。
「やっぱり熱い」
「走り回ってたから」
「熱あるんちゃう?」
「ないよ」
「測った?」
「測ってない」
「なら分からへんやん」
夏鈴の手のひらが、頬から額へ移る。
距離が近い。
○○は特に意識することなく、夏鈴の確認が終わるのを待っていた。
だが。
その場面を、少し離れた場所から何人ものメンバーが見ていた。
ひかる。
保乃。
麗奈。
愛季。
恋乃未。
愛桜。
それぞれの視線が、夏鈴の手へ集中する。
「多分、熱はない」
夏鈴が手を離す。
「だから言ったでしょ」
「でも顔色は良くない」
「照明のせいじゃない?」
「メガネないから、前より分かりやすい」
○○は少しだけ目を見開く。
「そういうところまで変わる?」
「変わるよ」
「本当に?」
「うん」
夏鈴は何事もなかったように答える。
「終わったらちゃんと休んで」
「分かった」
「絶対やで」
「うん」
夏鈴は満足したように離れていく。
直後。
「○○」
ひかるが近付いてきた。
「どうした?」
「熱あるの?」
「ないと思うよ」
「思うだけ?」
「夏鈴も多分ないって」
「私も確認する」
「どうして?」
「夏鈴だけじゃ分からないかもしれないから」
「同じ方法なら変わらないと思うけど」
ひかるの手が、○○の額へ伸びる。
その反対側から、麗奈も近付く。
「私も確認した方がいいですか?」
「人数が増えても正確にはならないよ」
「でも、顔色が悪いなら」
「悪くないから」
「○○くん、自分では分からへんやろ?」
保乃まで会話へ加わる。
「保乃まで?」
「終わるまで倒れられたら困るもん」
「倒れないよ」
「みんな、近くない?」
○○は、自分を囲み始めたメンバーたちを見渡した。
その一言で。
ひかると麗奈の手が止まる。
保乃も僅かに表情を固めた。
「……近い?」
ひかるが聞き返す。
「うん。少しだけ」
「嫌?」
「嫌ではないけど、みんな本番前でしょ」
○○は、あくまでメンバーの準備を心配している。
それに気付いた三人は、複雑な表情を浮かべた。
「ほら、そろそろ集合して」
○○が促す。
「本番、頑張って」
「うん」
ひかるが答える。
離れる直前。
小さな声で続けた。
「ちゃんと見ててね」
「もちろん」
○○は迷わず答えた。
「全員、ちゃんと見てるよ」
「……全員か」
「どうした?」
「何でもない」
ひかるは少しだけ不満そうに、メンバーたちのもとへ戻った。
◇
開演。
客席の照明が落ちる。
観客の歓声が、会場全体を震わせた。
舞台袖に立つ○○の前を、メンバーたちが次々にステージへ駆けていく。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
「○○さん、見ててください!」
「見てるよ」
「絶対ですよ!」
「うん」
一人一人へ声を掛ける。
緊張している者には、落ち着いた声で。
気持ちが高まりすぎている者には、少し笑いながら。
○○は送り出していった。
音楽が始まる。
ステージへ照明が降り注ぐ。
事前の予定とは、一部異なる演出。
それでもメンバーたちは戸惑わない。
自分たちの立ち位置を信じ。
隣にいる仲間を信じ。
何度も重ねてきた練習を信じて、踊り続ける。
○○は舞台袖から、その姿を見つめていた。
森田ひかるの力強い視線。
田村保乃の柔らかな表情。
藤吉夏鈴の世界へ引き込むような存在感。
山﨑天の堂々とした姿。
守屋麗奈の崩れない笑顔。
大園玲の繊細な表現。
幸阪茉里乃の丁寧な動き。
三期生たちの成長。
四期生たちの懸命さ。
一人一人が、自分にできる最大限をステージで表現している。
○○は無線へ注意を払いながらも。
一瞬たりとも、彼女たちから目を離さなかった。
◇
ライブ中盤。
衣装替えを終えた三期生たちが、舞台袖へ集まってくる。
時間がない。
次の出番まで、わずか数十秒。
「愛季、イヤーモニ大丈夫?」
「はい」
「優月、衣装の後ろ確認して」
「大丈夫です」
「理子、水飲めた?」
「飲みました」
「美羽」
「何?」
「髪、少し引っ掛かってる」
○○が美羽の肩付近へ手を伸ばす。
衣装の装飾に髪が数本絡まっていた。
「動かないで」
「……うん」
○○の指が、美羽の髪へ触れる。
以前、糸くずを取られた時の記憶が蘇る。
美羽の頬が一気に熱くなる。
「取れた」
「ありがとう」
「走る時、気を付けて」
「分かった」
美羽は○○の顔を見ないまま、ステージへ向かう。
「美羽、顔赤いよ」
愛季が小声で言う。
「暑いだけ」
「本番中だからね」
「そう」
「でも、耳まで赤いけど」
「照明のせい」
「今、舞台袖だよ」
「うるさい」
短いやり取りを交わしながら、三期生たちはステージへ駆け出していった。
○○はそれを見送り、すぐに次の準備へ視線を移す。
本人だけが。
美羽の動揺に、まったく気付いていなかった。
◇
終盤。
四期生がステージへ出る直前。
愛桜は舞台袖で、小さく手を握っていた。
「愛桜」
○○が声を掛ける。
「はい」
「緊張してる?」
「少しだけ」
「大丈夫」
○○はステージを指す。
「さっきのリハーサルより、今の方が表情がいいよ」
「まだ踊ってないです」
「出る前の顔が違う」
「分かるんですか?」
「分かるよ」
愛桜は一度、客席から聞こえる歓声へ耳を澄ませる。
「○○さん」
「うん?」
「ちゃんと見ててくれますか?」
「もちろん」
「私のダンス」
「見るよ」
「みんなじゃなくて」
言葉が出た瞬間。
愛桜自身が驚いたように目を見開いた。
○○も少しだけ動きを止める。
「……私のところも、ちゃんと見ててください」
慌てて言い直す。
「うん」
○○は深く追及しなかった。
「愛桜がどれだけ楽しんで踊れるか、ちゃんと見てる」
「はい」
愛桜は笑顔を浮かべる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
四期生たちがステージへ駆け出す。
音楽が始まり。
愛桜は光の中へ飛び込んだ。
正確に。
力強く。
それでいて、以前よりもずっと柔らかく。
心から音楽を楽しむように踊っている。
その姿を見て。
○○の表情が、僅かに変わった。
「……楽しそうだな」
小さな独り言。
その目には、懐かしさが浮かんでいた。
かつての自分。
怪我をする前。
人前で踊ることが、何よりも楽しかった頃。
身体が音に合うだけで嬉しくて。
誰かに見てもらえることが幸せだった。
愛桜の姿を見ていると。
その頃の自分を、少しだけ思い出す。
しかし。
○○は、それ以上考えなかった。
今の自分は、ステージへ立つ人間ではない。
舞台袖から、彼女たちを支えるマネージャーだ。
愛桜のダンスが終わるまで。
○○は言葉どおり、彼女の姿を見つめ続けていた。
◇
最後の曲。
全員がステージへ集まる。
客席を埋め尽くす光。
大きな歓声。
メンバーたちは、最後まで笑顔で歌い、踊りきった。
曲が終わり。
深く頭を下げる。
会場中から、割れんばかりの拍手が送られた。
舞台袖にいるスタッフたちも、静かに拍手をしている。
○○もまた、両手を合わせていた。
大きなトラブルはない。
春の足も最後まで問題なく持った。
変更した照明演出も成功。
ライブは無事に終わった。
メンバーたちがステージから戻ってくる。
「お疲れさま!」
○○は一人一人を迎えた。
「お疲れさまでした!」
「楽しかった!」
「ちゃんとできました!」
「うん。みんな良かったよ」
緊張から解放されたメンバーたちが、次々に○○の周囲へ集まる。
「○○、どうだった?」
ひかるが尋ねる。
「良かったよ」
「それだけ?」
「すごく良かった」
「具体的には?」
「今ここで全員分?」
「私の分だけでいいよ」
「ひかるだけ?」
「……今は」
○○が答える前に。
「○○くん、うちも聞きたい」
保乃が隣へ並ぶ。
「私もです」
麗奈も続く。
「○○さん、四期生も見てくれましたか?」
恋乃未たちまで集まってくる。
「愛季たちも聞きたいです」
「ちょっと待って」
○○は一歩後ろへ下がろうとする。
だが、後ろには壁があった。
「順番に話すから」
「誰から?」
ひかるが尋ねる。
「期ごとに」
「個人じゃないん?」
「全員分を今話したら、撤収が終わらないよ」
「あとで話してくれる?」
「もちろん」
○○が笑う。
ライブを終えた高揚感。
無事に成功した安堵。
そして、メガネのない○○から向けられた笑顔。
様々な要因が重なり。
誰もすぐには、彼のそばから離れようとしなかった。
「みんな、まず着替えてきて」
「もう少しだけ」
ひかるが言う。
「汗冷えるよ」
「○○も汗かいてる」
「俺は後でいいから」
「また自分は後回し」
愛季が不満そうに言う。
「着替えはないからね」
「汗拭くくらいできます」
「分かったから。みんなは先に戻って」
○○が両手で促す。
それでも何人かは、その場に残ろうとした。
「早くしないと、感想を話す時間がなくなるよ」
その一言で。
メンバーたちは一斉に動き始めた。
「絶対待っててくださいね」
「帰ったらあかんで」
「一人ずつちゃんとお願いします」
「分かったよ」
○○は苦笑しながら、彼女たちを見送る。
賑やかな足音が遠ざかる。
舞台袖には、撤収作業を始めるスタッフと○○だけが残った。
「人気者ですね」
近くにいたスタッフが笑う。
「ライブ後で、みんな気持ちが高まってるんですよ」
「それだけですかね」
「他に何があるんですか?」
「山下さんが分からないなら、いいです」
意味深な言葉を残し、スタッフは作業へ戻った。
○○は首を傾げる。
今日一日。
何度、同じように首を傾げたか分からない。
◇
ライブ終了から一時間後。
メンバーたちは着替えを終え、再び一つの楽屋へ集まっていた。
○○は約束どおり、一人一人へ簡単な感想を伝えていく。
良かったところ。
以前より成長したところ。
次に意識してほしい部分。
誰に対しても曖昧な言葉で済ませない。
実際に見ていなければ言えない内容を、一つずつ話していく。
「愛桜」
「はい」
「今日、一番楽しそうに踊れてた」
愛桜の表情が明るくなる。
「本当ですか?」
「うん。特に後半。力が抜けて、音に自然に乗れてた」
「見ててくれたんですね」
「約束したからね」
「……ありがとうございます」
愛桜は大切なものを受け取ったように、両手を胸元で握った。
「○○さん」
恋乃未が声を掛ける。
「どうした?」
「今日のライブが終わったら、メガネを買いに行くって言ってましたよね」
「ああ」
○○は思い出したように頷く。
「そうだった」
「今から行くんですか?」
「今日はもう店が閉まってると思う」
「じゃあ、明日ですか?」
「明日も朝から確認があるから、難しいかな」
メンバーたちが、僅かにざわつく。
「しばらくこのまま?」
ひかるが尋ねる。
「仕事がやりづらいから、どうにかしたいけどね」
「コンタクトにしたら?」
天が以前と同じ提案をする。
「家にはあるんでしょ?」
「あるよ」
「じゃあ、それでええやん」
夏鈴も続く。
「でも、普段使ってないから」
「何か問題あるん?」
「慣れてないだけ」
「何日か使えば慣れるんじゃないですか?」
麗奈が言う。
「新しいメガネを買うまでの間だけでも」
「それはそうだけど」
○○は少し考える。
今回のように。
メガネが急に壊れたことで、仕事に不便が出るのは避けたい。
細かな資料を確認する場面も多い。
ライブ会場では、離れた位置からメンバーを見る必要もある。
予備のメガネを持ち歩く方法もあるが。
忙しい現場では、ケースを置き忘れる可能性もある。
「……コンタクトにするか」
○○が呟く。
楽屋が静かになる。
「本当に?」
ひかるが聞き返す。
「うん」
「明日から?」
「家にあるものがまだ使えるなら」
「じゃあ、もうメガネ掛けないの?」
「仕事中は、しばらくコンタクトにしようかな」
○○は壊れたメガネを思い出しながら答えた。
「今後またメガネが壊れて、今日みたいに仕事へ支障が出るのも困るし」
メンバーたちが、互いの顔を見る。
それぞれの瞳に、明らかな動揺が浮かんでいた。
明日からも。
メガネのない○○が、当たり前になる。
今日までの数日間だけではない。
素顔の○○と、これから毎日顔を合わせることになる。
「どうしたの?」
○○が尋ねる。
「いや」
ひかるが答える。
「別に」
「みんな、また固まってるけど」
「驚いただけ」
「まだ慣れない?」
「……慣れないと思う」
ひかるは小さく答えた。
「そのうち慣れるよ」
○○は簡単に言う。
だが。
メンバーたちは、そうは思えなかった。
顔を見ることには、いずれ慣れるかもしれない。
素顔で仕事をする○○が、日常の風景になる日も来るだろう。
しかし。
一度変わってしまった見方まで。
以前のように戻ることはない。
メガネの奥に隠れていた顔を知り。
頼れるマネージャーが、一人の男性でもあることを意識してしまった。
その感情だけは。
コンタクトレンズが日常になっても、消えることはなかった。
◇
すべての仕事を終え。
○○が一人で会場を出た頃には、すでに日付が変わろうとしていた。
スマートフォンを確認すると、メンバーたちから何件もの連絡が届いている。
『今日はありがとうございました』
『ちゃんとご飯食べてください』
『帰ったらすぐ寝てくださいね』
『明日、本当にコンタクトで来るん?』
『お疲れさま。ちゃんと帰れたら連絡して』
内容は様々だった。
○○は一件ずつ返信していく。
ライブの成功を労い。
今日のパフォーマンスを改めて褒め。
自分も無事に帰宅中だと伝える。
最後に、ひかるから届いたメッセージを開いた。
『今日、ちゃんと見ててくれてありがとう』
○○は少しだけ笑う。
『担当だから当然だよ。お疲れさま。今日はゆっくり休んで』
返信を送る。
数秒後。
すぐに既読が付いた。
『そういう意味じゃないんだけど』
「……?」
○○は足を止める。
何度か文章を読み返す。
しかし、意味が分からない。
『どういう意味?』
送信。
しばらく待っても、返事は来なかった。
「寝たのかな」
○○は深く考えず、再び歩き始める。
翌朝。
山下○○は、久しぶりにコンタクトレンズを装着して家を出ることになる。
壊れたメガネを買い直すことなく。
仕事中は、原則としてコンタクトレンズを使う。
○○にとっては。
同じ失敗を繰り返さないための、合理的な選択だった。
だが。
その決断によって。
メンバーたちの戸惑いは、一時的な出来事ではなくなった。
メガネのない顔。
隠されなくなった表情。
目が合った時に感じる、以前とは違う距離。
それらすべてが。
明日からの日常になる。
新年度ライブは、無事に幕を閉じた。
同時に。
○○とメンバーたちの関係が変わり始める、本当の春が始まった。
第4話「ステージの外で」 終
