『メイドカフェの推しの女の子VS友達以上恋人未満な女の子』
大学四年の夏。
就職活動という人生最大級のクソイベントから解放された俺は、残り少ない大学生活をこれでもかというほど満喫していた。
バイトして。
友達と飲んで。
昼まで寝て。
深夜までゲームして。
そして――メイドカフェに通う。
「おかえりなさいませ、○○くん」

「……ただいまです、璃花さん」
今日も今日とて、俺の推しは可愛かった。
いや。
可愛いという言葉だけでは足りない。
石森璃花。
俺より二歳上。
メイドカフェで働いている女性であり、俺がこの店へ通う理由の八割くらいを占める人。
残り二割は普通に店の居心地がいいから。
「今日、来ると思ってた」
「なんで分かるんですか」
「んー?」
璃花さんが俺の向かいへ座る。
メイド服のスカートを整えながら、余裕たっぷりに微笑んだ。
「なんとなく?」
「怖」
「ひどくない?」
「だってシフト教えてないのに俺が来る日分かるんでしょ?」
「○○くんのことなら、それくらい分かるよ」
「……」
これである。
歳上の女性の余裕とはこういうものなのだろうか。
俺が何か言おうとすると、璃花さんはそれより先にこちらの心臓を撃ち抜いてくる。
「顔赤い」
「暑いんですよ」
「店内涼しいよ?」
「……」
「ふふ」
勝てん。
俺がメニューへ逃げようとすると、璃花さんが頬杖をついた。
「ねえ、○○くん」
「はい」
「今日、このあと暇?」
「暇ですけど」
「じゃあ待ってて」
「……え?」
「私もうすぐ上がるから」
あまりにも自然に言われた。
「ご飯行こ」
「いいんですか?」
「○○くんと行きたいから誘ってるの」
さらっと。
本当にさらっと言う。
この人は自分の顔面と声と仕草の破壊力を理解しているのだろうか。
「……行きます」
「よし」
璃花さんが満足そうに笑った、その瞬間。
「璃花ー、そろそろそのへんにしときなよー」
横から別のメイドさんが顔を出した。
谷口愛季。
璃花さんの同僚で、俺とも何度も話したことがある。
「○○君の身が持たないよー」
「愛季ちゃん」
「なに?」
「邪魔しないで」
「ほら怖い」
「怖くないもん」
「○○君、この人外だともっとすごいでしょ?」
「……ノーコメントで」
「否定しないんだ」
「○○?」
「璃花さん圧かけないでください」
愛季さんが爆笑する。
璃花さんは少し頬を膨らませながら、それでも楽しそうに俺を見ていた。
この店へ初めて来たのは二年前。
友人に半ば強引に連れてこられた。
最初はメイドカフェなんて自分には縁のない世界だと思っていた。
そこで璃花さんと出会った。
何度か通ううちに話す時間が増えて。
趣味が合うことが分かって。
俺の大学の話。
璃花さんの仕事の話。
好きな音楽。
映画。
服。
食べ物。
くだらない話を積み重ねて。
いつしか連絡先を交換して。
さらに時間が経つと、店の外でも会うようになった。
ただ。
俺たちは付き合ってはいない。
そして俺にはもう一人――。
付き合ってはいないのに、どう考えても普通の友達とは呼べない女の子がいた。
*
璃花さんと夕飯を食べて帰宅した、その日の午後十一時四十二分。
風呂から上がった俺のスマホが震えた。
和子だった。
『先輩、就活無理です、今から家行きます』
「急だな……」
返信する。
『明日面接じゃなかった?』
既読。
そして即座に返信。
『だからです』
『意味分からん』
『拒否権?ないです、もう行くので』
『いや待て』
直後。
ピンポーン。
「……嘘だろ」
玄関を開ける。
「こんばんは、先輩」
「ていうか着いたので、じゃねえよ」

松本和子。
俺の一つ下。
大学三年生。
肩からバッグを下げ、コンビニ袋を持った和子は当然のように俺の横を通過した。
「お邪魔しまーす」
「自由か」
「先輩の家じゃないですか」
「だからだよ」
「冷蔵庫開けますね」
「おい」
「ビール一本もらいます」
「明日面接だろ!」
「一本くらい誤差です」
「誤差じゃねえ」
和子とは大学で知り合った。
最初はただの後輩だった。
それがいつの間にか二人で飯を食うようになって。
飲みに行くようになって。
家を行き来するようになって。
去年の冬なんて、終電を逃した和子が俺の家へ泊まった回数を数えることすら途中でやめた。
俺の部屋のどこに何があるか、下手をすると俺以上に把握している。
「先輩」
「ん?」
「聞いてくださいよ先輩!」
始まった。
和子が缶をテーブルへ置く。
「あの面接官の人ほんと……私の立場がなければほんとにビンタしてましたからね!」
「何されたんだよ」
「ずっと圧かけてくるんですよ! 『その志望動機は弊社でなくても実現できますよね?』とか!」
「普通の質問じゃね?」
「先輩まで敵なんですか!?」
「違う違う」
「もう!」
和子は俺の隣へどさっと座った。
近い。
昔からこいつは距離感がおかしい。
肩と肩が触れている。
「……疲れた」
さっきまでの勢いが嘘のような声だった。
「そりゃ疲れるよな」
「先輩も去年こんなのやってたんですよね」
「やった」
「よく耐えましたね」
「俺も途中で何回か全部投げたくなったよ」
「……どうやって耐えたんですか」
「友達と遊んだり、酒飲んだり」
「へえ」
「あとお前からしょうもないLINE来たり」
和子が顔を上げた。
「私?」
「去年お前、就活中の俺に『先輩生きてます?』とか毎週送ってきただろ」
「送りましたね」
「あれ地味に助かってた」
「……」
和子が黙る。
「なに」
「いや」
俺の肩へ頭を乗せた。
「じゃあ今年は先輩が私を助けてください」
「おう」
「最後まで」
「もちろん」
「……そういうとこですよ」
「何が?」
「なんでもないです」
しばらくして。
「先輩」
「ん?」
「今日誰かといました?」
心臓が一瞬だけ跳ねた。
「なんで?」
「香水」
「……犬かお前」
「女の勘です」
和子が身体を起こす。
表情はいつもと変わらない。
「メイドさん?」
「……璃花さん」
「へえ」
「店行って、そのあと飯食った」
「へえ」
怖い。
声色が一ミリも変わっていないのが逆に怖い。
「楽しかったです?」
「まあ」
「そうですか」
和子は缶を口へ運んだ。
ごく、ごく。
「……先輩」
「はい」
「夏祭り行きましょう」
「急だな」
「来週の」
「予定空いてるけど」
「じゃあ決定です」
「はいはい」
「二人で」
「いつもそうじゃん」
「……そうですね」
和子は少しだけ笑った。
その横顔を見ながら。
俺はまだ知らなかった。
俺の平和な夏休みが、ここからとんでもなく面倒なことになるなんて。
*
夏祭り当日。
「先輩」
待ち合わせ場所に現れた和子を見て。
俺は三秒くらい固まった。
「……何ですか」
「いや」
「似合わないですか?」
「逆」

浴衣だった。
淡い色の浴衣に髪をまとめている。
普段大学で会う和子とはまるで違う。
「めちゃくちゃ似合ってる」
「……」
「和子?」
「なんでもないです」
ぷいっと横を向く。
耳が赤い。
「行きますよ」
「おう」
「はぐれないでくださいね」
「子供じゃねえよ」
そう言った五分後。
「……」
俺たちは手を繋いでいた。
人混みが想像以上だったから。
というのは半分建前。
和子から差し出された手を、俺が普通に握った。
「先輩」
「ん?」
「離したら怒りますからね」
「分かった」
「絶対ですよ」
「分かったって」
屋台を回った。
焼きそばを半分ずつ食べた。
射的でくだらない勝負をした。
かき氷で舌の色を見せ合った。
そして花火。
夜空へ大輪が開く。
「綺麗ですね」
「だな」
隣を見る。
和子は空を見ていた。
花火の光が横顔を照らす。
不意に。
俺は思った。
――可愛いな。
普段から知っているはずなのに。
今更だった。
その時、和子がこちらを向いた。
「先輩?」
「ん?」
「今、何考えてました?」
「別に」
「嘘」
「なんで分かるんだよ」
「何年一緒にいると思ってるんですか」
「二年くらい?」
「そういう意味じゃないです」
和子が笑う。
花火が上がる。
俺たちの手は、最後まで繋がったままだった。
*
数日後。
俺は璃花さんと映画を観ていた。
映画館を出てカフェへ入る。
「楽しかった?」
「めっちゃ」
「よかった」
今日はメイド服じゃない。

シルク色の長めのワンピース、その上に白いトップスを羽織っている。
店で見る璃花さんとは違う。
そしてプライベートの璃花さんは。
「○○」
これを使う。
店では○○くん。
外では○○。
初めて呼ばれた時はマジで死ぬかと思った。
「なに?」
「ぼーっとしてる」
「璃花さん見てました」
「……ふーん」
余裕そうに笑う。
しかしほんの少しだけ頬が赤くなった。
俺は知っている。
璃花さんは意外とこういう真正面からの攻撃に弱い。
「可愛いなと思って」
「○○」
「はい」
「最近、生意気」
「璃花さんから学びました」
「悪い子」
テーブルの下。
璃花さんの足先が俺の靴へ軽く触れた。
「……ところで」
「はい」
「この前のお祭り」
俺の動きが止まる。
「女の子と行ってたよね?」
「なんで知ってるんですか」
「愛季ちゃんが見たって」
谷口愛季ぃぃぃぃ。
「浴衣の可愛い子」
「大学の後輩です」
「ふうん」
璃花さんがストローをくるくる回す。
「彼女?」
「違います」
「好きな子?」
「……」
答えられなかった。
その沈黙だけで十分だったのだろう。
璃花さんが少し目を細める。
「○○」
「はい」
「私、結構本気だからね」
心臓が止まりかけた。
「……何がですか」
「分かってるくせに」
璃花さんが笑う。
いつもの余裕のある笑顔。
でも。
目だけは真剣だった。
「私ね」
一度だけ視線を落とす。
「○○がお店に来てくれるの、最初は普通に嬉しいお客さんって感じだった」
「はい」
「でも、いつからかな」
指先が俺の手に触れる。
「○○くんじゃなくて、○○として会いたくなった」
指が重なる。
「休みの日も会いたいし」
また一本。
「LINE来たら嬉しいし」
最後には、完全に手を握られた。
「他の女の子といるって聞いたら、普通に嫌」
「璃花さん……」
「だから」
璃花さんが俺を見る。
「憧れのお姉さんで終わるつもりないよ?」
*
「この女……っ……!」
「怖い怖い」
俺の部屋。
和子がクッションを抱き締めていた。
璃花さんから告白に限りなく近い言葉を言われた翌日。
何故か俺はその話を和子へしていた。
「何なんですかその人」
「俺の推し」
「知ってます」
「めっちゃいい人」
「聞いてません」
「可愛い」
「聞いてませんって!」
クッションが飛んできた。
「いてっ」
「先輩が悪い」
「なんで!?」
「知りません!」
理不尽である。
和子はソファの上で膝を抱える。
「……ずるい」
「何が?」
「歳上って」
ぽつり。
「余裕あって。綺麗で。ちゃんと言えるんですね」
「和子?」
「私なんて」
声が小さくなる。
「先輩の家に勝手に来て」
「うん」
「泊まって」
「うん」
「ご飯作って」
「それは助かってる」
「洗濯物畳んで」
「マジで助かってる」
「先輩の冷蔵庫の中身把握して」
「嫁?」
「……そこまで入り込んでるのに」
和子が俺を見る。
「肝心なところだけ、ずっと入れない」
胸が痛んだ。
俺たちは近すぎた。
友達より近い。
恋人より遠い。
その曖昧さが居心地よくて。
二年間、どちらも壊そうとしなかった。
「和子」
「先輩」
同時だった。
「先どうぞ」
「いや、お前から」
「……じゃあ」
和子が立ち上がる。
俺の前へ来る。
そして。
ぎゅっ。
抱きつかれた。
「和子?」
「今だけ黙ってください」
胸元へ顔を埋める。
俺は少し迷ってから、その背中へ腕を回した。
何度も家に泊まった。
何度も二人で飲んだ。
手も繋いだ。
肩を寄せて眠ったことだってある。
それでも。
こんなふうに抱き締めたことはなかった。
「……先輩」
「ん?」
「私」
和子が顔を上げる。
近い。
吐息が触れそうな距離。
「先輩のこと――」
スマホが鳴った。
「……」
「……」
二人で固まる。
画面を見る。
『璃花さん』
「……」
和子の目が死んだ。
「出れば?」
「いや」
「推しの璃花さんですよ?」
「和子さん?」
「出ればいいじゃないですか」
「怒ってる?」
「怒ってません」
「絶対怒ってる」
俺は電話を切った。
「……なんで」
「今はお前と話してるから」
和子が黙る。
「続き」
「……忘れました」
「嘘つけ」
「忘れました!」
逃げようとする。
その手を掴んだ。
「和子」
振り返る。
俺は勢いのまま、唇を重ねた。
ほんの一瞬。
触れるだけ。
離れる。
「……」
和子は完全に停止した。
「ごめ――」
言い終わる前。
今度は和子から唇を重ねてきた。
さっきより長い。
俺の服を握る指に力が入る。
離れた瞬間。
「……先輩」
目が潤んでいた。
「それ、友達にはしないですよ」
「そうだな」
「後輩にも」
「うん」
「……責任取ってください」
もう一度。
俺たちはキスをした。
*
問題は。
それで全てが解決したわけではなかったことだ。
俺と和子はキスをした。
けれど付き合ったわけではない。
お互いに感情を自覚した。
それだけ。
そして璃花さんとの関係も消えてはいない。
数日後。
店へ行く。
「おかえりなさいませ、○○くん」
「ただいまです」
璃花さんはいつも通りだった。
けれど。
「昨日電話出なかったね?」
怖い。
「すみません」
「女の子いた?」
「……いました」
「正直でよろしい」
笑顔。
めちゃくちゃ笑顔。
「例の後輩ちゃん?」
「はい」
「キスした?」
「ぶっ」
「したんだ」
「なんで分かるんですか!?」
「顔」
「顔!?」
璃花さんは一瞬だけ黙った。
「そっか」
笑っている。
でも。
ほんの少し寂しそうだった。
「……璃花さん」
「ねえ○○くん」
立ち上がる。
「今日、待っててくれる?」
*
閉店後。
璃花さんと二人で歩いた。
いつもの帰り道。
いつもの距離。
なのに今日は会話が少ない。
「○○」
「はい」
「こっち」
腕を引かれる。
人通りの少ない場所。
璃花さんが俺へ向き直る。
「私ね」
笑った。
「余裕あるように見えるでしょ?」
「……はい」
「全然ないよ」
初めて聞く声だった。
「好きな人が他の女の子とキスしたって分かって、平気なわけないじゃん」
「璃花さん」
「でも」
一歩。
近づく。
「取られるくらいなら」
さらに。
「私もちゃんと行く」
俺の頬へ手が添えられた。
「○○」
店では決して呼ばれない名前。
「好き」
そして。
璃花さんからキスされた。
柔らかい。
優しい。
なのに逃がす気がないようなキスだった。
離れる。
「……これで」
璃花さんが少しだけ笑う。
「同点?」
「そんな勝負じゃないでしょ」
「私にとっては勝負だよ」
「璃花さん」
「ねえ」
額を俺の胸へ預ける。
「抱き締めて」
俺は璃花さんを抱き締めた。
いつも余裕たっぷりだった人が。
腕の中では、驚くほど普通の女の人だった。
「○○」
「はい」
「好き」
「……うん」
「大好き」
その夜。
俺たちは長い時間を二人で過ごした。
キスを重ね、抱き締め合い、これまで保っていた境界線を越えた。
店員と客でも、推しとファンでもなく。
一人の男と一人の女として。
夜が深くなる頃には、璃花さんは俺の胸元へ頬を寄せていた。
「……○○」
「ん?」
「後悔してる?」
「してない」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ」
ぎゅっと抱きついてくる。
「もうちょっと、このまま」
「璃花さん」
「今は璃花でいいよ」
破壊力が高すぎる。
「……璃花」
「ん」
「好きだよ」
「……ばか」
胸元へ顔を隠された。
歳上の余裕なんて。
そこには欠片もなかった。
*
そして当然。
俺の夏はさらに拗れた。
和子は就活を続けていた。
最終面接まで進んだ企業。
落ちた。
その日の夜。
「先輩」
電話越しの声だけで分かった。
「家来る?」
「……もう玄関です」
「またかよ」
ドアを開ける。
和子が立っていた。
笑おうとしていた。
「落ちちゃいました」
「そっか」
「結構行きたかったんですけどね」
「うん」
「最終まで行ったのになあ」
「うん」
「……私、ダメなんですかね」
「和子」
「頑張ってるつもりなんですけど」
声が震えた。
だから。
俺は何も言わず抱き締めた。
「先輩……」
「頑張ってたの知ってるよ」
「……」
「ずっと見てたから」
和子の腕が背中へ回る。
「悔しいです」
「うん」
「しんどい」
「うん」
「……好き」
俺の動きが止まる。
「先輩が好きです」
顔を上げる。
「ずっと好きでした」
涙でぐしゃぐしゃだった。
「先輩が就活してた頃から」
「和子」
「もっと前かもしれない」
「うん」
「友達以上恋人未満とか」
唇を噛む。
「もう嫌です」
俺はその涙を指で拭った。
「ごめん」
「謝らないでください」
「待たせた」
「……ほんとですよ」
和子からキスされた。
強引で。
不器用で。
今まで溜め込んでいた全部をぶつけるようなキスだった。
俺も抱き締め返す。
その夜、俺たちは今まで曖昧にしていた距離をなくした。
何度も名前を呼ばれた。
何度も抱き締めた。
言葉にできなかった二年間を埋めるように、互いの気持ちを確かめ合った。
夜が明ける頃。
和子は俺の腕の中にいた。
「……先輩」
「ん?」
「起きてます?」
「起きてる」
「私」
少し間があった。
「負けませんから」
「誰に」
「分かってるくせに」
「璃花さん?」
「名前出さないでください」
「理不尽」
「先輩」
和子がこちらを向く。
「私には二年分あります」
「そうだな」
「先輩の好きな食べ物知ってます」
「うん」
「嫌いな食べ物も」
「うん」
「寝起き最悪なのも」
「はい」
「洗濯物溜めるのも」
「すみません」
「冷蔵庫空っぽにするのも」
「申し訳ありません」
「酔うと甘えるのも知ってます」
「それは忘れて」
「嫌です」
和子が笑う。
「だから」
俺の胸へ顔を埋めた。
「一番近いのは私です」
*
数日後。
俺はメイドカフェのカウンターで死んでいた。
「○○君」
愛季さんが水を置いてくれる。
「大丈夫?」
「何がですか」
「顔に『人生どうしてこうなった』って書いてある」
「……」
「璃花でしょ」
「……」
「あと例の後輩ちゃん」
「なんで知ってるんですか」
「璃花から死ぬほど聞いてる」
「マジか」
愛季さんがため息をつく。
「○○君さあ」
「はい」
「モテ期?」
「人生全部のモテ期を今年の夏に使ってる気がします」
「だろうね」
「どうしたらいいと思います?」
「知らない」
「即答」
「だって決めるの○○君じゃん」
正論だった。
「璃花ね」
愛季さんが少し声を落とす。
「めちゃくちゃ○○君のこと好きだよ」
「……知ってます」
「多分○○君が思ってる三倍くらい」
「怖」
「でも後輩ちゃんもそうなんでしょ?」
「……はい」
「じゃあ逃げちゃダメだよ」
「ですよね」
「うん」
その時。
「○○くん?」
背後から声。
振り返る。
璃花さん。
「愛季ちゃんと何話してたの?」
「秘密」
「愛季ちゃん」
「怖い怖い」
璃花さんが俺の隣へ来る。
「ねえ○○くん」
「はい」
「次のお休み」
「はい」
「デートしよ」
「……はい」
「泊まりで」
「璃花!?」
愛季さんが叫ぶ。
璃花さんはにっこり笑う。
「何?」
「そのへんにしときなよー! ○○君の身が持たないって!」
「大丈夫」
「何が!?」
璃花さんが俺の耳元へ顔を寄せる。
「ね、○○?」
店内なのに。
プライベートでしか呼ばない呼び方。
「……反則」
「ふふ」
完全に遊ばれている。
*
同じ頃。
俺のスマホ。
『先輩』
『今週末空いてます?』
和子。
『璃花さんと予定ある』
既読。
三秒。
『へえ』
怖い。
『何』
『別に』
『怒ってる?』
『怒ってません』
絶対怒ってる。
続けて。
『じゃあ来週ください』
『何を』
『先輩を』
『物みたいに言うな』
『二日ください』
『泊まり?』
『当然です』
『就活は?』
『先輩成分が不足すると効率落ちるので』
『知らんがな』
そして最後。
『好きですから』
スマホを持ったまま。
俺は天井を見上げた。
今年の夏。
就活を終えて自由になった俺は。
メイドカフェの推しだった憧れの歳上女性と、本気で想いをぶつけられる関係になった。
そして。
ずっと隣にいた友達以上恋人未満の後輩とも、もう友達には戻れないところまで来た。
石森璃花。
憧れの女性。
松本和子。
最も身近な異性。
余裕たっぷりに見えて、恋をすると誰よりも必死になる璃花。
普段は強引なくせに、一番大事な一言だけ二年間言えなかった和子。
どちらも。
俺のことを、本気で好きでいてくれる。
そして俺も。
二人に惹かれてしまっている。
スマホが震える。
璃花さん。
『○○、次のデート楽しみにしてるね♡』
さらに。
和子。
『先輩、浮かれてないで早く寝てください』
『あと』
『私の方が先輩のこと好きですから』
「……なんだこれ」
笑ってしまった。
夏はまだ終わらない。
むしろ。
俺の人生で一番面倒で。
一番楽しくて。
一番甘ったるい夏は。
ここからが本番なのかもしれない。
――メイドカフェの推しの女の子VS友達以上恋人未満な女の子。
その勝負の行方を。
この時の俺は、まだ知らない。
