『歳上だからとお姉さんを頑張る先輩、どう頑張ってもバブくなってしまう』
「○○くん、ご飯食べた?」
日曜日。
午前十一時四十三分。
カーテンすら開けていない薄暗い部屋の中、ベッドに横たわってスマホを眺めていた俺のもとへ、一通のメッセージが届いた。
送り主は遠藤理子さん。
大学の一つ上の先輩である。
『食べました』
三秒で嘘をついた。
すると既読。
そして。
『なに食べた?』
「…………」
やばい。
こういう時の理子さん、意外と鋭い。
『パン』
『なんの?』
『白いパン』
『食パン?』
『そうとも言います』
『食べてないでしょ』
「…………」
なぜバレた。
俺が返信に困っている間に、さらにメッセージ。
『昨日の夜は?』
『食べました』
『なに食べた?』
「…………」
これ、取り調べだろ。
俺は昨日の記憶を掘り返す。
確かバイトから帰ってきたのが二十二時過ぎ。
飯食うのめんどくさい。
でもスマホ見るのはめんどくさくない。
結果。
ご飯を食べずにベッドでYouTubeを見ながら寝落ち。
『グミ』
『ご飯じゃないよ』
『果汁グミです』
『果汁入っててもご飯じゃないもん』
『ぶどうです』
『ぶどうでもダメです』
可愛い。
文章なのに声が聞こえる。
理子さんの声はサークル内で勝手に『エンジェルボイス』と呼ばれている。
本人はその呼ばれ方を恥ずかしがっているが、正直その呼称を考えた人間には何か賞をあげたい。
本当にそんな声なのだ。
柔らかくて、少し幼さの残る、高すぎないのに可愛らしい声。
怒っても怖くない。
むしろ可愛い。
そして今。
『今から行くから待ってて』
「……はい?」
時計を見る。
十一時四十六分。
『いやいや、大丈夫ですよ』
『大丈夫じゃないよ』
『俺もう二十歳ですよ?』
『私は二十一歳です』
『一歳しか変わらないじゃないですか』
少し間が空いた。
そして。
『お姉さんだから』
「…………」
俺はベッドの上で天井を見た。
なんだろう。
めちゃくちゃ可愛い。
この人は何かにつけて「お姉さんだから」と言う。
大学では俺の一学年上。
確かに先輩だ。
確かに年上だ。
だが。
遠藤理子、身長約百五十三センチ。
童顔。
声が可愛い。
身体のシルエットも小さい。
去年、大学近くのファミレスで二人で飯を食べた時。
店員さんに、
「お兄さんはドリンクバー付けますか? 妹さんは?」
と言われた。
俺が否定するより早く。
「妹じゃないです」
理子さんが言った。
しかも少し頬を膨らませて。
「私の方がお姉さんです」
店員さんがめちゃくちゃ困っていた。
店員さんが去ったあとも。
「……妹じゃないもん」
「すみません」
「○○くんが謝ることじゃないけど……」
「はい」
「私、お姉さんなのに」
「はい」
「一個上なのに」
「知ってます」
「……むぅ」
頬ぷくー。
俺はその日、危うく先輩のほっぺたを指で突きそうになった。
理性で耐えた。
そんな理子さんが今から来るらしい。
「……掃除するか」
俺は起き上がった。
床を見る。
服。
漫画。
ペットボトル。
コンビニの袋。
服。
服。
なんかのレシート。
「…………」
無理だ。
諦めよう。
十五分後。
ピンポーン。
「早くない?」
俺が玄関を開けると。
「おはよう、○○くん」
いた。
白いトップスに薄手のカーディガン。
デニム。
小さめのバッグ。
そしてスーパーの袋を両手に持った理子さん。
相変わらず小さい。
俺を見るなり、理子さんの眉が寄った。
「○○くん」
「はい」
「寝起き?」
「起きてましたよ」
「髪」
「…………」
俺は頭を触った。
爆発している。
「寝起きじゃん」
「ベッドで横になってただけです」
「それを世間では寝起きって言うんだよ」
「そうなんですか」
「そうなの」
理子さんは靴を脱ぐ。
そして俺の横を当然のように通り過ぎる。
もはや「お邪魔します」すらない。
いや、厳密には昔は言っていた。
最初に来た時はちゃんと言っていた。
しかし現在。
玄関の靴箱には理子さんのスニーカーが一足入っている。
洗面台には理子さんの歯ブラシ。
コンタクト用品。
クレンジング。
化粧水。
俺が買った覚えのないヘアオイル。
寝室の棚には理子さんの寝る時用の眼鏡。
クローゼットの一角には着替え。
そして。
「冷蔵庫……」
冷蔵庫を開けた理子さんが固まった。
「○○くん」
「はい」
「なんにもない」
「水あります」
「水しかない」
「健康的ですね」
「健康的じゃないよ」
振り返る。
頬を膨らませている。
またそれ。
可愛いからやめてほしい。
「昨日作ったおかずは?」
「あー」
「食べた?」
「食べましたよ」
「全部?」
「はい」
途端に機嫌が良くなる。
「美味しかった?」
「めっちゃ美味しかったです」
「ほんと?」
「はい」
「よかったぁ」
にへ。
笑った。
……バブい。
口にしたら怒られるので絶対言わない。
「じゃあ今日はお昼作るね」
「ありがとうございます」
「○○くん」
「はい」
「その間に」
理子さんが部屋を指差した。
「お片付け」
「…………」
「お片付けしよ?」
二十歳の大学生男性に使う言葉ではない。
「後でやります」
「ダメ」
「明日やります」
「もっとダメ」
「来週」
「○○くん」
「はい」
「めっ」
「…………」
人差し指を立てている。
怒っているらしい。
しかし。
小さい。
童顔。
エンジェルボイス。
「めっ」。
どうしろと?
「理子さん」
「なに?」
「今のもう一回お願いします」
「え?」
「めっ、って」
「なんで?」
「可愛かったんで」
「…………」
一瞬で顔が赤くなった。
「からかわないの」
「本心ですよ」
「年上をからかわないの」
「年上?」
「年上です」
「妹じゃなくて?」
「お姉さんだもん!」
あ。
出た。
俺は笑いながら部屋の片付けを始めた。
「笑わないでよぉ……」
背後から聞こえてくる声まで可愛い。
*
昼食は生姜焼きだった。
味噌汁。
サラダ。
ご飯。
昨日の食生活が果汁グミだけだった人間には豪華すぎる。
「いただきます」
「どうぞ」
一口。
「うま」
「ほんと?」
「めっちゃ美味い」
「よかった」
俺の向かいで理子さんも食べ始める。
こういうところは本当にお姉さんなのだ。
料理できる。
掃除もできる。
朝も強い。
生活習慣もしっかりしている。
俺の家に泊まった翌朝なんて、俺が寝ている間に洗濯まで終わっている時がある。
問題は見た目である。
テーブルを挟んで向かい側に座る理子さん。
両手で茶碗を持っている。
もぐもぐ。
「……ん?」
視線に気づいた。
「どうしたの?」
「いや」
「顔になんか付いてる?」
「付いてないです」
「じゃあなに?」
「可愛いなと思って」
「んぐっ」
むせた。
「大丈夫ですか?」
「急に言わないでよ!」
「なんでですか」
「びっくりするから!」
「理子さん可愛いって言われ慣れてるでしょ」
「それと○○くんから言われるのは違うの!」
「何が違うんです?」
「…………」
止まった。
耳まで赤い。
「……知らない」
小声。
俺には聞こえた。
「何が違うんです?」
「知らないって言ってるでしょ」
「教えてくださいよ、お姉さん」
「もう!」
怒った。
可愛い。
やっぱり可愛い。
*
月曜日。
バイトの休憩室。
「なあ」
「はい」
「お前ら、はよ付き合ったら?」
山下瞳月さんが言った。
俺のバイト先の先輩。
そして理子さんと同じサークルの友人。
関西出身で、普段から関西弁が混じっている。
俺は休憩室の椅子に座りながら缶コーヒーを飲む。
「誰とです?」
「しばくぞ」
「怖」
「理子に決まっとるやろ」
「またその話ですか」
「またも何もないねん」
瞳月さんは盛大なため息を吐いた。
「昨日も理子、○○ん家おったやろ」
「いましたね」
「なんで?」
「俺が飯食ってなかったんで」
「なんでそれを理子が知っとんねん」
「連絡来たんで」
「なんで休日の昼前に飯食ったか確認する連絡が来んねん」
「理子さんお姉さんですから」
「…………」
瞳月さんの目が死んだ。
「○○」
「はい」
「お前、理子のことどう思っとる?」
「好きですよ」
「…………は?」
「え?」
「好きなん?」
「はい」
「恋愛的に?」
「まあ……そうですね」
瞳月さんが固まった。
数秒。
「じゃあ付き合えやぁ!!」
「うるさっ」
休憩室に声が響く。
「何をしとんねんお前は!」
「いやいや」
「理子好きなんやろ!?」
「好きですけど」
「じゃあなんで告らへんねん!」
「だって理子さん、俺のことそういう風に見てないと思いますよ」
「…………は?」
「後輩として世話焼いてるだけでしょ」
「…………」
瞳月さんが両手で顔を覆った。
「なんやこいつ……」
「何ですか」
「理子がお前の家に何置いとる?」
「歯ブラシ」
「うん」
「服」
「うん」
「コンタクト」
「うん」
「メガネ」
「うん」
「化粧品」
「うん」
「この前ドライヤー買ってました」
「なんで?」
「俺のドライヤー風弱いから嫌だって」
「…………」
「あとシャンプーも」
「もう同棲やん」
「違いますよ」
「どこが!?」
「理子さん家ありますもん」
「そういう話ちゃうねん!」
瞳月さんが頭を抱える。
「泊まる頻度は?」
「最近だと……」
数える。
先週。
月曜。
水曜。
金曜。
土曜。
「週四?」
「半同棲やんけ!!」
「でも何もないですよ?」
「何が?」
「一緒に寝たりはしますけど」
「…………(お前がなんもしてへんだけやねん…)」
瞳月さんの動きが止まった。
「同じベッド?」
「はい」
「……何もしてへんの?」
「してません」
「キスは?」
「してません」
「抱きしめたり」
「寝てる時に理子さんがくっついてくることはありますけど」
「…………(しとったわ、どうなってんこいつ)」
またクソデカため息。
「もう嫌やこいつら」
「なんでですか」
「知らん」
「理子さんから何か聞いてるんですか?」
「…………(山ほど)」
「瞳月さん?」
「言えるかボケ」
「何ですかそれ」
瞳月さんは缶のカフェラテを飲む。
そしてぼそっと。
「こっちは週何回相談されとると思ってんねん……」
「え?」
「なんでもない」
「理子さん何か悩んでるんです?」
「お前のせいや」
「俺?」
「全部お前のせいや」
意味が分からない。
俺が首を傾げると。
「もうええ」
瞳月さんはスマホを取り出した。
「理子にLINEする」
「なんて?」
「『こいつアホやから押し倒せ』って」
「何教えてるんですか」
「それくらいせな進まんやろお前ら」
「理子さんそんなことしませんよ」
「…………」
瞳月さんは俺を見る。
「お前、理子のことなんやと思っとんねん」
「可愛いお姉さん」
「矛盾しとるやん」
*
その日の夜。
バイトから帰宅。
玄関を開ける。
電気がついていた。
「あれ?」
靴を見る。
見慣れたスニーカー。
「おかえりー」
リビングから声。
「理子さん?」
「うん」
「なんでいるんですか」
「来ちゃった」
「どうやって入ったんです?」
「鍵」
「ああ」
そうだった。
以前俺が風邪を引いた時、買い物を頼むため合鍵を渡した。
そのまま返してもらっていない。
いや。
返してもらう必要もないと思っている。
リビングへ。
そして。
俺は固まった。
「おかえり、○○くん」
「…………」
理子さん。
部屋着。
薄手のゆったりしたトップス。
襟元が少し広い。
ショートパンツ。
裸足。
ソファの上。
「……どうしたの?」
「いや」
目を逸らす。
「何?」
「その格好」
「いつものじゃん」
「そうですけど」
「?」
本人には自覚がない。
困る。
めちゃくちゃ困る。
普段は小動物みたいなのに。
こういう格好になると普通に年上の女性なのだ。
華奢なのに、身体のラインにはちゃんと女性らしさがある。
特にトップスの襟元。
見ない。
絶対見ない。
俺は健全な大学二年生男子だ。
見たら終わる。
「○○くん?」
「風呂入ってきます」
「ご飯先じゃなくていい?」
「風呂です」
「?」
逃げた。
*
風呂から上がる。
理子さんはソファでテレビを見ていた。
「○○くん」
「はい」
「髪乾かすよ」
「自分でやります」
「座って」
「二十歳ですよ俺」
「知ってるよ」
「自分でできます」
「いいから」
「…………」
床に座らされた。
ソファに理子さん。
俺の後ろ。
ぶおー。
理子さんがドライヤーを持って髪を乾かしてくれる。
「熱くない?」
「大丈夫です」
「ちゃんと乾かさないと風邪ひくからね」
「はい」
「○○くんすぐ適当に終わらせるでしょ」
「よく分かりますね」
「分かるよ」
「さすがお姉さん」
「でしょ?」
嬉しそう。
可愛い。
「理子さん」
「なに?」
「瞳月さんが」
びくっ。
後ろで理子さんの手が止まった。
「しーちゃんが?」
「はよ付き合えって」
「…………」
ドライヤーの音だけが響く。
「……誰と?」
「理子さんと」
停止。
「…………」
静寂。
振り返ろうとする。
「待って!」
頭を掴まれた。
「前向いてて!」
「なんでですか」
「いいから!」
「顔赤いんです?」
「赤くない!」
「じゃあ見せてください」
「やだ!」
可愛い。
俺は笑う。
「笑わないで!」
「すみません」
「もう……」
再びドライヤー。
少しして。
「……○○くんは」
「はい」
「なんて答えたの?」
「理子さんは俺のことそういう風に見てないと思いますよ、って」
ドライヤーが止まった。
「…………」
「理子さん?」
「…………ばか」
「え?」
小さすぎて聞き取れなかった。
「何て?」
「なんでもない」
明らかに声が不機嫌だ。
「怒りました?」
「怒ってない」
「怒ってますよね」
「怒ってないもん」
もん。
「理子さん」
「なに」
「こっち来て」
「なんで?」
俺は振り返った。
目が合う。
やっぱり赤い。
「赤いじゃないですか」
「ドライヤー暑かったから」
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ」
少しだけ。
意地悪してみる。
「俺が理子さんのこと好きって言ったら?」
「…………え?」
固まった。
目が大きくなる。
「……どういう、好き?」
「どういうだと思います?」
「分かんない」
「お姉さんなんだから考えてくださいよ」
「そういう時だけお姉さん扱いしないでよ……」
小さな声。
そして。
理子さんが俯く。
耳が真っ赤だ。
「○○くん」
「はい」
「私……」
顔を上げる。
その瞬間。
ピロン。
スマホが鳴った。
「…………」
「…………」
俺のスマホ。
画面を見る。
山下瞳月。
『進展した?』
「…………」
俺は無言で画面を伏せた。
理子さんが尋ねる。
「誰?」
「瞳月さん」
「しーちゃん?」
「進展した? って」
「…………」
理子さんの顔がさらに赤くなる。
「もう……!」
スマホを取り出す。
高速で文字を打つ。
数秒後。
俺のスマホ。
ピロン。
瞳月さん。
『理子から怒られた』
続けて。
『なんでやねん』
そして。
『もう知らんからな』
俺は笑った。
「理子さん」
「なに」
「瞳月さん拗ねましたよ」
「しーちゃんが余計なことするから」
「余計なこと?」
「…………」
「理子さん?」
「もう寝る!」
「まだ十一時ですよ」
「健康優良児お姉さんだから早寝なの!」
「自称じゃないですか」
「自称じゃないもん!」
理子さんが寝室へ向かう。
俺も後を追う。
「理子さん」
「なに」
「今日泊まるんです?」
「…………」
寝室の入口で止まった。
振り返る。
「ダメ?」
上目遣い。
その一言。
破壊力が高すぎた。
「ダメなわけないでしょ」
「……よかった」
嬉しそうに笑う。
その笑顔を見た瞬間。
思った。
やっぱり好きだ。
後輩として世話を焼いてくれているだけだとしても。
俺はこの人が好きだ。
*
翌朝。
目を覚ました。
「…………」
目の前に顔。
近い。
理子さん。
寝ている。
寝る時用の眼鏡はベッド横。
すっぴん。
童顔がさらに加速している。
これ大学三年生なのか?
高校一年生って言われても信じる。
「ん……」
小さく動く。
そして俺の胸元に顔を埋めた。
腕まで回してくる。
「…………」
お姉さん?
めちゃくちゃ甘えてくるじゃん。
まあ寝ているから無意識だろう。
髪を撫でる。
さらさら。
「んぅ……」
さらに寄ってくる。
可愛い。
可愛すぎる。
「理子さん」
「……ん」
「朝ですよ」
「…………」
「健康優良児お姉さん」
「…………あと、ごふん」
「俺より寝起き悪いじゃないですか」
「○○くん……」
「はい」
「うるさい……」
「お姉さんどこ行ったんです?」
「いるもん……」
目を閉じたまま俺の胸をぽふぽふ叩く。
全然痛くない。
「お姉さんだもん……」
「はいはい」
「一個上だもん……」
「知ってますよ」
「妹じゃないもん……」
「寝ぼけてます?」
「…………」
返事がなくなった。
寝た。
俺は笑いを堪えながら理子さんの頭を撫でる。
「理子さん」
「…………」
「可愛い」
その瞬間。
ぴくっ。
「起きてます?」
「…………」
耳が赤い。
「理子さん」
「…………寝てる」
「喋ってるじゃないですか」
「寝てるもん」
「可愛い」
「…………」
布団を頭まで被った。
「もう……」
声だけ聞こえる。
「朝からそういうこと言わないでよぉ……」
*
結局起きたのは八時。
理子さんが朝食を作ってくれた。
その後。
「お散歩行くよ」
「嫌です」
「行くの」
「休みですよ今日」
「だからだよ」
「家でゴロゴロしたい」
「ダメ」
「なんで」
「○○くん放っておいたら一日家から出ないでしょ」
「最高じゃないですか」
「最高じゃないよ」
「俺にとっては最高です」
「ほら」
理子さんが手を差し出した。
「行こ?」
「…………」
ずるい。
俺はその手を取った。
小さい。
「よし」
理子さんは満足そうに頷く。
「健康優良児にしてあげる」
「頼んでないです」
「お姉さんに任せなさい」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
「よろしい」
満足そう。
そして俺たちは家を出た。
手は。
なぜか繋いだままだった。
*
近所を散歩して。
公園を通って。
スーパーへ向かう。
その途中。
「理子さん」
「なに?」
「手」
「…………」
繋いだまま。
理子さんも気づいたらしい。
「離します?」
「…………」
少し考える。
そして。
「このままでいい」
「いいんですか?」
「うん」
握る力が少し強くなる。
「だって」
理子さんが小さく笑った。
「○○くん、迷子になったら困るから」
「俺二十歳です」
「知ってる」
「理子さんより身長あります」
「関係ないもん」
「どっちかっていうと理子さんが迷子になりそう」
「ならない!」
「人混みに紛れたら見失いそうです」
「ちっちゃくないもん」
「153」
「普通だもん」
「妹」
「お姉さん!」
その時だった。
スーパーへ入り、野菜を見ていた俺たちへ店員さんが声をかけた。
試食販売らしい。
「よかったらお兄さんと妹さんでどうぞ」
「…………」
「…………」
俺は横を見る。
理子さん。
停止。
数秒後。
「……妹じゃないです」
「え?」
「私がお姉さんです」
店員さん。
「あっ、ご、ご姉弟でしたか!」
違う。
そっちでもない。
理子さんがさらに複雑そうな顔になる。
「姉弟……」
店員さんが去る。
理子さんが俺の服の袖を掴んだ。
「○○くん」
「はい」
「私たちって……」
「はい」
「そんなに兄妹に見える?」
「まあ」
「……むぅ」
頬が膨らむ。
「私だってちゃんと大人なのに」
「知ってますよ」
「お姉さんなのに」
「はい」
「○○くんより年上なのに」
「はい」
「なのにみんな妹って……」
「理子さん」
「なに?」
俺は少し屈む。
そして。
膨らんでいる頬を指で突いた。
「ぷっ」
「…………」
「柔らか」
「…………○○くん」
「はい」
「今の何?」
「ずっとやってみたかったんですよね」
「なんで?」
「可愛いから」
「…………」
赤くなる。
「ほら」
「なにがです?」
「そういうことするから!」
「何が?」
「妹みたいに扱ってる!」
「嫌でした?」
「…………」
黙る。
「嫌ならやめますけど」
「…………嫌じゃない」
「じゃあいいじゃないですか」
「よくないもん」
「なんで?」
「私が」
理子さんは俺の袖を握ったまま。
小さく言った。
「○○くんを可愛がりたいの」
「…………」
「私がお姉さんだから」
可愛い。
本当に。
どうしようもないくらい。
「じゃあ可愛がってください」
「……いいの?」
「はい」
「ほんと?」
「その代わり」
俺は理子さんの頭に手を置いた。
「俺も理子さん可愛がります」
「なんで!?」
「可愛いから」
「私はお姉さんなの!」
「知ってますよ」
「じゃあ頭撫でないで!」
「嫌?」
「…………」
撫でるのを止める。
すると。
理子さんが俺を見る。
「…………」
「どうしました?」
「…………もうちょっとなら」
「撫でていい?」
小さく頷く。
俺はもう一度撫でる。
理子さんが目を細める。
……完全に可愛がられている側である。
「理子さん」
「なに?」
「バブいですね」
「…………」
しまった。
口に出た。
「○○くん」
「はい」
「今日のご飯なし」
「すみませんでした」
*
その日の夜。
当然のように理子さんは俺の家にいた。
当然のように風呂に入り。
当然のように自分の歯ブラシを使い。
当然のように自分のスキンケアをして。
当然のように部屋着になった。
そして当然のように俺のベッドへ入っている。
「理子さん」
「なに?」
「家帰らなくていいんですか?」
「明日二限からだから大丈夫」
「そうじゃなくて」
「?」
「最近ほぼ俺の家じゃないですか」
「…………」
眼鏡姿の理子さんが固まる。
「嫌?」
「いや、嬉しいですけど」
「……じゃあいいじゃん」
「理子さん家の家賃もったいなくない?」
「そこ?」
「はい」
「…………」
理子さんは布団へ潜る。
俺も隣へ。
電気を消す。
暗闇。
「○○くん」
「はい」
「今日ね」
「はい」
「しーちゃんから電話来た」
「瞳月さん?」
「うん」
「何て?」
「……言わない」
「気になる」
「ダメ」
「俺のこと?」
「…………」
沈黙。
答えじゃん。
「何て言われたんです?」
「…………」
理子さんがこちらへ寝返りを打った。
暗いけれど、顔が近いのは分かる。
「○○くん」
「はい」
「私がここにいるの、嫌じゃない?」
「さっきも言ったでしょ。嬉しいですよ」
「迷惑じゃない?」
「全然」
「……そっか」
少し間。
「じゃあ」
理子さんの手が。
布団の中で俺の服を掴んだ。
「もっといてもいい?」
「…………」
心臓が跳ねる。
「毎日でもいいですよ」
「それは……」
小さく笑う。
「ほんとに同棲みたいになっちゃうよ」
「今も大差ないでしょ」
「……そうだけど」
「理子さん」
「なに?」
「俺、聞きたいことあるんですけど」
「うん」
「なんで俺のことそんなに世話してくれるんです?」
沈黙。
長い。
「……後輩だから」
「それだけ?」
「…………」
「理子さん」
「お姉さんだから」
「それだけ?」
「…………」
また沈黙。
俺は暗闇の中で天井を見る。
「瞳月さんに言われたんですよ」
「何を?」
「俺がアホだって」
「それは……」
「否定してくださいよ」
「ちょっとだけ……」
「理子さん?」
「ごめん」
くすくす笑う。
俺も笑った。
でも。
今日は少しだけ。
踏み込みたかった。
「俺」
「うん」
「理子さんが他の後輩にもこんな感じだったら嫌です」
笑い声が止まった。
「家行って」
「…………」
「飯作って」
「…………」
「泊まって」
「…………」
「同じベッドで寝て」
「…………」
「手繋いで」
「…………」
「それ、俺以外にもやってたら嫌です」
「やってないよ」
即答だった。
「○○くんだけ」
胸が熱くなる。
「なんで?」
「…………」
「なんで俺だけ?」
「それは……」
理子さんの声が小さくなる。
俺は身体を横へ向けた。
暗闇に目が慣れてきた。
理子さんの顔が見える。
眼鏡越しの目。
真っ赤な頬。
「理子さん」
「……近い」
「嫌です?」
「嫌じゃない」
「じゃあ」
さらに少しだけ近づく。
「教えてください」
「…………」
「なんで俺だけ?」
理子さんは何度か口を開きかける。
閉じる。
そして。
「……好きだから」
「…………」
聞こえた。
小さいけれど。
確かに。
「もう一回」
「やだ」
「聞こえなかった」
「絶対聞こえてた」
「お願いします」
「やだ」
「お姉さん」
「そういう時だけ!」
俺は笑った。
理子さんが俺の胸をぽこっと叩く。
その手を掴んだ。
「理子さん」
「……なに」
「俺も好きです」
動きが止まる。
「後輩としてじゃなくて」
「…………」
「女の人として好き」
理子さんの瞳が揺れる。
「……ほんと?」
「ほんとです」
「いつから?」
「結構前から」
「なんで言ってくれなかったの?」
「俺のこと恋愛対象として見てないと思ってたから」
「なんで!?」
思ったより大きい声。
「だってお姉さんムーブしかしてこないじゃないですか」
「好きだからしてたの!」
「それ分かんないですよ」
「好きな人には頼ってほしいじゃん!」
「知りませんよ」
「ご飯も作ってあげたいし!」
「嬉しいです」
「お掃除もしてあげたいし!」
「助かってます」
「朝起こしてあげたいし!」
「ありがとうございます」
「いっぱい甘やかしてあげたいし……!」
「それは」
俺は笑う。
「理子さんが俺を好きだから?」
「…………うん」
可愛すぎる。
「じゃあ理子さん」
「なに?」
「付き合います?」
「…………」
目が潤む。
そして。
「それ」
少し頬を膨らませた。
「私が言いたかった」
「告白したかったんです?」
「お姉さんだから」
「そこ関係あります?」
「あるもん」
「じゃあどうぞ」
「今?」
「はい」
「無理!」
「なんで」
「恥ずかしい!」
「頑張ってください、お姉さん」
「もう……!」
理子さんは布団へ顔を埋める。
数秒。
そして。
少しだけ顔を出した。
「○○くん」
「はい」
「好きです」
「はい」
「……私と」
一度息を吸って。
「付き合ってください」
「お願いします」
「…………」
「…………」
二人で見つめ合う。
「理子さん」
「なに?」
「これで彼女?」
「……うん」
「俺彼氏?」
「うん」
「じゃあ」
俺は理子さんの頬へ触れる。
びくっと身体が揺れた。
「キスしていい?」
「…………」
顔が赤くなる。
けれど。
逃げない。
「……うん」
ゆっくり近づく。
唇が触れる。
ほんの一瞬。
離れる。
「…………」
「…………」
理子さんの目が丸い。
「どうしました?」
「……した」
「しましたね」
「キスした……」
「しました」
「私、○○くんとキスした……」
「何回言うんですか」
「だって……」
口元を手で押さえている。
そして。
「……もう一回」
「え?」
「もう一回、して?」
破壊力。
俺はもう一度顔を寄せる。
今度は少し長く。
触れて。
離れて。
すると。
理子さんが俺の胸に顔を埋めた。
「むり……」
「何が?」
「恥ずかしい……」
「自分からお願いしたのに」
「言わないで」
「可愛い」
「言わないでぇ……」
抱きしめる。
小さな身体がすっぽり腕の中へ入る。
「理子さん」
「なに?」
「これどっちがお姉さんです?」
「…………」
顔を上げる。
「私」
「今めちゃくちゃ甘えてますけど」
「彼氏にはいいの」
「そういうルール?」
「今作った」
「じゃあ俺も甘えていい?」
「いいよ」
即答。
「いっぱい甘えて」
「お姉さんだから?」
「うん」
「じゃあ」
俺は抱きしめる腕に少し力を込めた。
「今日はこのまま寝たい」
「…………」
理子さんも腕を回してくれる。
「いいよ」
頭を撫でられる。
「よしよし」
「それはちょっと恥ずかしい」
「いいの」
「子供じゃないですよ」
「私の方がお姉さんだから」
「一歳だけ」
「一歳も」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
「よろしい」
少し間。
「○○くん」
「はい」
「好き」
「俺も好きです」
「……えへへ」
嬉しそうに笑う。
俺は思う。
付き合ったところで。
たぶん何も変わらない。
明日も理子さんは俺を起こす。
飯を食えと言う。
散歩へ連れ出す。
掃除をしろと言う。
髪を乾かしてくれる。
俺の生活を世話して。
「お姉さんだから」
と胸を張る。
そしてその直後。
俺に頭を撫でられて嬉しそうに目を細めるのだろう。
お姉さんを頑張っているのに。
どう頑張っても可愛い。
どう頑張っても妹っぽい。
どう頑張ってもバブい。
――でも。
そんなところも全部含めて。
俺はこの人がどうしようもなく好きなのだ。
そして。
この時の俺はまだ知らなかった。
付き合った翌日。
俺たちから報告を受けた山下瞳月さんが。
「っっっっしゃあああああああ!! やっとかボケェ!!」
大学の食堂で叫び。
周囲から死ぬほど注目されることも。
付き合ったことで理子さんの「お姉さん欲」が満たされるどころか。
むしろ。
「彼女になったんだから、もっとお姉さんしてあげる」
と。
さらに加速することも。
そして何より。
恋人同士として初めて迎える夜。
いつもの部屋着。
いつものベッド。
いつもの二人。
――なのに。
「……○○くん」
「はい」
「今日……その」
俺の胸元を掴んだ理子さんが。
今まで見たことがないくらい真っ赤になりながら。
「もうちょっと……恋人っぽいこと、したい」
なんて言ってくることも。
まだ。
知らなかった。
