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『メガネをとったら担当アイドル達の様子が激変した』 第2話



第2話「変わってしまった距離」

 廊下の空気が、不自然なほど静まり返っていた。

 谷口愛季を先頭に歩いてきた三期生十一人が、揃って足を止めている。

 誰も言葉を発しない。

 誰も視線を逸らさない。

 いや。

 正確には、一度は山下○○の顔を見たものの、視線が合いそうになると慌てて逸らす者もいた。

 ○○だけが、その反応の意味を理解できずにいる。

「みんな、おはよう」

 もう一度、いつもどおりの声で挨拶する。

 しかし、返ってきたのは微妙に揃わない返事だった。

「お、おはようございます」

「……おはようございます」

「おはよう、ございます……」

 声の大きさも、速さも、普段とは明らかに違う。

 ○○は首を傾げた。

 三期生は加入して三年目。

 今さら、担当マネージャーを前にして緊張するような関係ではない。

 加入したばかりの頃には、必要以上にかしこまっていた者もいた。

 だが、今では仕事の相談だけでなく、日常の些細な悩みまで打ち明けてくれる。

 失敗して泣いた日も。

 ステージを終えて笑った日も。

 自信を失い、もう一度立ち上がろうとした日も。

 ○○は三期生たちの成長を、誰より近くで見続けてきた。

 そんな彼女たちが、揃って見知らぬ相手を見るような顔をしている。

「どうした?」

 ○○が尋ねる。

 先頭に立っていた愛季が、ようやく我に返った。

「メ、メガネ……」

「うん?」

「メガネ、どうしたんですか?」

 質問自体は、ごく普通だった。

 しかし愛季は、○○の顔をまっすぐ見ようとしない。

 視線が頬から肩、手元の資料へと不自然に移動している。

「今朝壊れたんだ」

 ○○は手に持っていたメガネケースを軽く持ち上げた。

「片方のつるが折れて、使えなくなってさ。予備を取りに帰る時間もなかったから、今日はこのまま」

「そう、なんですね」

「それでみんな止まってたの?」

 ○○が笑いながら尋ねる。

 愛季は答えに詰まった。

「いや、その……」

「そんなに印象違う?」

「違います」

 今度は即答だった。

 言い切ってから、愛季は自分の声が思ったより大きかったことに気付く。

「あ、違うというのは、変という意味ではなくて」

「うん」

「その……すごく違うというか」

「だから、その違うの意味を聞いてるんだけど」

「……すみません。上手く言えません」

 愛季は困ったように俯いた。

 その姿を見て、後ろにいた中嶋優月が一歩前へ出る。

「○○さん、いつもメガネの印象が強いじゃないですか」

「まあ、五年間ほとんど同じものを使ってたからね」

「だから、急にないと驚くというか」

「そんなに?」

「はい。もう、本当に、すごく驚きました」

 優月は明るい声で場を取り繕おうとしている。

 だが、普段より明らかに言葉数が多い。

「でも似合ってますし、全然変じゃないですし、むしろすごく自然ですし、メガネがあってもなくても○○さんは○○さんなので、問題ないと思います」

「優月」

「はい」

「ちょっと落ち着こうか」

「落ち着いてます」

「いつもの倍くらい喋ってるよ」

「そんなことないです」

 優月は笑顔のまま否定したが、声が少し上ずっていた。

 ○○は不思議そうに優月を見つめる。

 優月は、その視線に耐えられなくなったように顔を横へ向けた。

「……やっぱり、みんな緊張してる?」

「何にですか?」

「新年度のライブ」

 ○○の言葉に、三期生たちは一瞬黙った。

 その後ろでは、二期生たちが何とも言えない表情を浮かべている。

 明らかに違う。

 緊張の原因はライブだけではない。

 だが○○本人は、それに気付いていなかった。

「数日後だし、気持ちが落ち着かないのは分かるよ」

 ○○は穏やかな口調で続ける。

「でも、今までやってきたことを出せば大丈夫。三年目だからって、完璧にやらなきゃいけないわけじゃないから」

 その言葉は、三期生にとって聞き慣れたものだった。

 不安になった時。

 自信を失った時。

 自分だけが成長できていないと思った時。

 ○○はいつも、焦らなくていいと伝えてくれた。

 無責任に大丈夫と言うのではなく、これまでの努力を見たうえで信じてくれる。

 何度も救われてきた言葉。

 それなのに今日は。

 メガネのない目で、一人一人を見つめながら言われただけで。

 普段よりもずっと近く感じてしまう。

「……はい」

 愛季が小さく返事をした。

 頬がわずかに赤い。

 ○○はそれを、ライブ前の緊張によるものだと解釈した。

「美羽も大丈夫?」

 ○○の視線が、愛季の後ろにいた村山美羽へ向かう。

 美羽は先ほどから、ほとんど言葉を発していなかった。

 ただ静かに、○○を見つめている。

 目が合う。

「美羽、どうした?」

「……別に」

 美羽は短く答えると、すぐに顔を背けた。

「体調悪い?」

「悪くない」

「ならいいけど」

 ○○は心配そうに美羽を見る。

 その視線を感じた美羽は、さらに顔を反対側へ向けた。

 耳の先が少し赤くなっている。

「○○さん」

 小田倉麗奈が、控えめに手を挙げた。

「どうした?」

「メガネがない姿も、とてもお似合いです」

 落ち着いた言葉だった。

 いつもの麗奈なら、もう少し余裕を持って笑いながら言うはずだった。

 しかし今日は、声が小さい。

「ありがとう」

 ○○が笑顔を向ける。

 麗奈は一瞬だけ目を合わせたあと、そっと視線を下げた。

「……本当に、よくお似合いです」

「そんなに念を押されると、今までのメガネが似合ってなかったみたいだな」

「そういう意味ではありません」

 麗奈はすぐに否定する。

「今までの○○さんも素敵でした」

「今までの俺も?」

「……すみません」

「どうして謝るの?」

「いえ、何でもありません」

 麗奈は自分の発言を思い返したのか、頬を赤くしながら黙り込んだ。

 その隣で、向井純葉が率直に口を開く。

「でも、本当に印象が全然違いますね」

「やっぱり?」

「はい。目元が見えると、こんな感じなんだなって」

「今までも一応、レンズ越しに見えてたと思うけど」

「見えてましたけど、なんか違うんです」

「愛季と同じことを言ってるよ」

「でも、違うとしか言えないです」

 純葉は困ったように笑った。

「格好いいってことです」

 横から、石森璃花が助け船を出す。

 璃花は笑顔を保っているものの、頬が赤い。

「そう言えばいいのに」

 ○○が純葉を見る。

「それは本人に直接言うの恥ずかしいじゃないですか」

「今、璃花が代わりに言ったけど」

「それは璃花が言ったので」

「純葉ちゃんも言ってたようなものだよ」

 璃花が笑う。

 純葉は口を尖らせた。

「じゃあ、璃花は平気なん?」

「何が?」

「○○さんの顔、普通に見られる?」

「見られるよ」

 璃花はそう答え、○○の顔へ視線を向けた。

 目が合った。

「……」

 笑顔のまま固まる。

「璃花?」

「はい」

「どうした?」

「何でもないです」

 璃花は笑顔を崩さないまま、ゆっくり顔を逸らした。

「見られてないじゃん」

 純葉が小声で指摘する。

「見たよ」

「一秒だけ」

「見たことには変わらないよ」

 二人のやり取りを聞きながら、○○はますます分からなくなっていた。

「本当に、今日はみんな変だな」

 その言葉に、三期生全員が黙る。

 変なのは、自分たちなのかもしれない。

 ○○は、いつもと何も変わっていない。

 声も。

 口調も。

 自分たちを気遣う姿勢も。

 ただ、メガネがない。

 それだけだった。

 それなのに、今まで自然に見ていられた顔を正面から見られない。

 これまで意識しなかった距離が、急に近く感じる。

 昨日までの○○と、今日の○○は同じ人間だ。

 違ってしまったのは、自分たちの見方だった。

     ◇

「優?」

 ○○が声を掛ける。

 村井優は、さっきから○○の顔を見たまま動いていなかった。

 名前を呼ばれても、すぐに反応しない。

「優」

「……はい」

 数秒遅れて返事が返ってきた。

「大丈夫?」

「大丈夫です」

「ぼーっとしてたけど」

「少し考え事をしていました」

「ライブのこと?」

「……はい」

 優は一瞬迷ったあと、そう答えた。

 もちろん嘘ではない。

 ライブのことも考えている。

 ただ、それ以上に。

 目の前にいる○○を、どう見ればいいのか分からなくなっていた。

 頼れるマネージャー。

 優しく見守ってくれる年上の人。

 困った時、必ず助けてくれる存在。

 これまで、それで十分だった。

 それ以上の名前を付けようとしたことなどなかった。

「考えすぎなくていいよ」

 ○○が優しく笑う。

「優は、本番になるとちゃんと集中できるから」

「……そうですか?」

「うん。俺が知ってる」

「○○さんが?」

「三年間見てきたからね」

 その言葉に、優は小さく息を呑んだ。

「だから、自分を信じて」

「……はい」

 優は素直に頷く。

 しかし、今度は先ほどよりも顔を上げられなくなった。

 小島凪紗は、その空気を変えようと口を開いた。

「でも、○○さんがこの姿でずっと仕事してたら、事務所の人に新しいマネージャーだと思われるかもしれませんね」

「さっき増本にも同じことを言われたよ」

「やっぱり?」

「俺はそんなに別人に見えるの?」

「見えます」

 凪紗は即答した。

「じゃあ、社員証を見える場所に付けておかないとな」

「あと、名前を書いた紙を胸に貼っておいた方がいいかもしれません」

「そこまでしないと駄目?」

「山下○○ですって」

「新入社員の自己紹介みたいになるだろ」

 いつもなら、もう少し軽快に続く会話だった。

 だが凪紗は、○○が笑った瞬間、次の言葉を失った。

「……」

「凪紗?」

「はい」

「続きは?」

「今、考えてます」

「冗談を?」

「はい」

「無理に言わなくていいよ」

「それはそれで悔しいです」

 凪紗はそう答えたが、結局、上手い言葉は出てこなかった。

 的野美青は、少し後ろから全員の様子を見ていた。

 自分だけは落ち着いていようと思っていた。

 ○○の外見が変わったからといって、慌てる必要などない。

 そう考えていたはずだった。

「美青」

「はい」

「午後の立ち位置、昨日の修正を共有しておきたいんだけど」

「分かりました」

 ○○が話しやすい距離まで近付く。

 その瞬間、美青は無意識に一歩後ろへ下がった。

 ○○の動きが止まる。

「どうした?」

「……何がですか?」

「今、下がったよね」

「下がってません」

「いや、下がったと思うけど」

「立ち位置を調整しただけです」

「ここはステージじゃないよ」

「そうでした」

 美青は真顔で答える。

 しかし、耳が赤い。

「近すぎた?」

「そんなことはありません」

「なら、このまま説明していい?」

「……はい」

 ○○がもう一度近付く。

 美青は今度こそ動かなかった。

 ただし、説明されている間、○○の顔を一度も見られなかった。

 その隣では、山下瞳月が腕を組みながら平静を装っていた。

「みんな、分かりやすすぎます」

 瞳月が呟く。

「何が?」

 ○○が聞き返す。

「何でもないです」

「瞳月は平気そうだね」

「何がですか?」

「メガネがない俺を見ても、みんなみたいに驚いてない」

「別に、メガネがあるかないかだけでしょう」

「そのとおりだよ」

「顔が多少違って見えるくらいで、そんなに騒ぐことでもないです」

「瞳月」

「はい」

「さっきから一回も俺の顔を見てないけど」

 瞳月の動きが止まった。

「見てます」

「今も見てないよ」

「見なくても話はできます」

「それはそうだけど」

「問題ありません」

 瞳月はそう言い切った。

 その直後、意を決したように顔を上げる。

 ○○と視線が合った。

 ほんの一瞬。

 瞳月はすぐに横を向いた。

「……何か?」

「いや」

「何でもありません」

「やっぱりみんな変だな」

 ○○は困ったように笑った。

 瞳月は返事をしなかった。

     ◇

 その中で、最も分かりやすく顔を上げられずにいたのは、遠藤理子だった。

 理子は三期生たちの後方で、視線を床へ落としている。

 ○○が来てから、一度もまともに顔を見ていない。

「理子」

「……はい」

 名前を呼ばれ、肩が跳ねる。

「体調悪い?」

「大丈夫です」

「本当に?」

「はい」

「顔色が少し赤いけど」

「暑いだけです」

「今日はそんなに暑くないよ」

「私には少し暑いです」

 理子は必死に答える。

 ○○は心配そうな表情で近付いた。

「熱があるんじゃない?」

「ないです」

「一応、額を――」

「大丈夫です!」

 理子は思わず大きな声を出した。

 ○○の手が途中で止まる。

「そ、そう?」

「すみません……」

「謝らなくていいけど」

 ○○は少し迷ったあと、手を下ろした。

「でも、本当に無理しないで。少しでも体調が悪くなったら、すぐに言って」

「はい」

「理子は我慢しすぎるところがあるから」

「……分かりました」

 ○○が離れる。

 理子は胸元へ手を当て、誰にも気付かれないよう小さく息を吐いた。

 危なかった。

 あと少しで、額へ手を当てられるところだった。

 今の状態でそんなことをされたら、平静を保てる自信がない。

 それどころか。

 こうして近くに立たれるだけでも、心臓が苦しいほど速く動いている。

 理子には、他の三期生が知らない○○の姿があった。

 三年前。

 合宿中。

 偶然、誰もいないと思っていた場所で見た、本気で踊る○○の姿。

 普段の穏やかなマネージャーとはまるで違う。

 鋭く。

 力強く。

 それでいて、誰より楽しそうに音へ身を委ねていた。

 あの日から、理子にとって○○は、ただの頼れるマネージャーではなくなった。

 だが、それを口にしたことはない。

 誰にも知られないように、三年間胸の奥へ隠してきた。

 メガネを外した○○の姿は。

 あの日の記憶を、あまりにも鮮明に蘇らせた。

「理子、本当に大丈夫?」

 少し離れた場所から、○○がもう一度声を掛ける。

「大丈夫です」

 理子は顔を上げないまま答えた。

 これ以上見たら、隠してきた気持ちまで見抜かれてしまいそうだった。

     ◇

「そろそろ移動しようか」

 ○○は腕時計を確認した。

「衣装確認の時間が近い。三期生は先に準備して、二期生はこのあと取材の確認」

 その一言で、全員が仕事へ意識を戻す。

 ○○は歩きながら、三期生一人一人へ今日の注意点を伝えていった。

「愛季」

「はい」

「今日は全体を見ることも大事だけど、自分のパフォーマンスまで小さくならないようにね」

「分かりました」

「愛季は周りを気にしすぎる時があるから。後輩がいるからって、全部背負わなくていい」

「……はい」

「頼りにしてるよ」

 そう言われた愛季は、嬉しそうに頷く。

 だが○○の顔を見た瞬間、また頬が赤くなった。

「美羽」

「何?」

「今日の表情、無理に作らなくていいからね」

「作ってないけど」

「本番前になると、伝えようとしすぎて目線が硬くなることがあるから」

「……見てたんだ」

「当然。担当だから」

 ○○が答える。

 美羽は前を向いたまま、小さく息を吐いた。

「自然な美羽の方が、俺はいいと思うよ」

 その一言に、美羽の足が一瞬止まりかけた。

「……そう」

「うん」

「分かった」

 短い返事。

 だが、耳まで赤くなっていた。

「優月」

「はい」

「今日は他のメンバーを気にしすぎないこと」

「そんなに気にしてますか?」

「してる。移動中も、全員がいるか何度も確認してた」

「癖なんです」

「知ってるよ。でも、優月が自分を後回しにする必要はないから」

「……はい」

「困った時は、俺もいるし」

 優月は一瞬言葉を失う。

「そういう言い方、ずるいです」

「何が?」

「何でもありません」

 ○○は意味が分からず首を傾げた。

「理子は、水分を早めに取って。休憩も我慢しないこと」

「はい」

「さっきから体調が少し心配だから、俺の近くにいてくれる?」

「……え?」

「何かあった時、すぐ対応できるように」

 理子の顔が一気に赤くなる。

「だ、大丈夫です」

「でも」

「本当に、大丈夫なので」

「そう?」

「はい」

 理子は必死に頷く。

 ○○の近くにいた方が、かえって体調が悪くなりそうだった。

 三期生たちは、そんな二人のやり取りを見ながら、それぞれ複雑な表情を浮かべる。

 誰か一人だけが特別扱いされているわけではない。

 ○○は全員を見ている。

 全員の小さな変化に気付く。

 誰に対しても、同じように誠実で優しい。

 そのことを、これまでは安心できると感じていた。

 今日はなぜか。

 自分だけを見てほしいという、今まで持ったことのない感情が胸の奥に生まれていた。

     ◇

 午前の衣装確認を終えたあと、三期生はレッスン室へ移動した。

 数日後のライブに向けた通しリハーサル。

 ○○は壁際に立ち、全体の動きを確認している。

 メガネがないため、いつもより前方へ移動しなければ細かな表情までは見えない。

 それでも、メンバーの立ち位置や身体の動き、僅かな疲労の変化を見逃さないよう意識を集中させる。

 曲が始まる。

 愛季を中心に、三期生たちが動き出した。

 しかし、明らかにいつもと違う。

 愛季は何度か○○の方を確認してしまう。

 優月は意識しすぎて動きが少し大きい。

 璃花は笑顔を保っているものの、○○の近くへ移動する振りになると僅かに硬くなる。

 優は集中しているようで、時折視線が泳ぐ。

 美青に至っては、○○が立っている側へ顔を向ける場面だけ、動きが不自然だった。

 曲が終わる。

「一回止めよう」

 ○○が手を挙げた。

 三期生たちが息を整えながら○○を見る。

「今日、全体的に硬いね」

 全員が黙る。

「やっぱり緊張してる?」

「そうかもしれません」

 愛季が答えた。

 本当の理由を言えるはずもない。

「大丈夫。今のうちに硬くなるのは悪いことじゃないよ」

 ○○は否定しなかった。

「本番で出るより、リハーサルで出た方が修正できるから」

 メンバーの前へ歩み寄る。

「愛季は全体を見ようとしすぎて、自分の目線が遅れてる。美羽は逆に、伝えようとしすぎて少し表情が硬い」

 二人が頷く。

「優月は周りの動きを気にして、次へ入るのが早くなってる。麗奈は大丈夫だけど、少し呼吸が浅い」

「分かりました」

「純葉は最後の向き、半歩だけ内側。優は振りの終わりを急がないで」

 ○○は一人ずつ、具体的に伝えていく。

「理子は一回休もう」

「大丈夫です」

「駄目。今、水分を取って」

 いつもより少し強い口調だった。

 理子は反論しかけたが、○○の真剣な表情を見て素直に頷く。

「……はい」

「璃花は笑顔を作りすぎなくていい。凪紗は次の移動を意識しすぎて、今の動きが小さくなってる」

「はい」

「美青は、俺の方を見る時だけ動きが変だよ」

「……気のせいです」

「映像を確認する?」

「大丈夫です。直します」

「瞳月は、目線を逸らすのが早い」

「振り付けです」

「そこは正面を見るところだよ」

「……直します」

 瞳月は不満そうに答える。

 ○○は全員へ修正点を伝え終えると、少し表情を緩めた。

「でも、悪くないよ」

 その言葉に、三期生たちが顔を上げる。

「この一年で、全員できることが増えてる。それぞれの見せ方も、前より分かってきてる」

 ○○は一人一人を見渡す。

「今日は緊張してるだけ。今までやってきたことがなくなったわけじゃない」

 誰より近くで、自分たちを見続けてきた人の言葉だった。

 ただ励ますために言っているのではない。

 できなかった頃も。

 上手くいかずに悔しがった日も。

 少しずつ成長してきた過程も。

 すべて知っているからこそ、○○の言葉には重みがあった。

「もう一度やろう」

 ○○が笑う。

「今度は、俺を気にしなくていいから」

 三期生たちの身体が、僅かに固まった。

「……気にしてません」

 美青が答える。

「そう?」

「はい」

「じゃあ、どうして俺を見る時だけ全員変になるんだろう」

 図星だった。

 誰も答えられない。

「まあいいか」

 ○○は深く追及しなかった。

「次、行こう」

 曲がもう一度始まる。

 三期生たちは今度こそ集中しようとする。

 ○○は○○。

 いつも自分たちを支えてくれる人。

 そう言い聞かせる。

 だが、一度意識してしまった距離は、簡単には元へ戻らなかった。

     ◇

 リハーサルの休憩時間。

 三期生たちはそれぞれ水分を取り、壁際や椅子へ腰を下ろしていた。

 ○○はスタッフと話をするため、一度レッスン室の外へ出ている。

 扉が閉まった瞬間。

 室内に、深い溜息がいくつも重なった。

「……疲れた」

 優月が壁へ背中を預ける。

「まだ午前中だよ」

 璃花が苦笑する。

「リハーサルより別のことで疲れてる気がする」

「分かる」

 純葉が頷く。

 愛季はペットボトルを両手で持ちながら、扉の方を見た。

「今までと同じ○○さんなのに、なんか違う」

「違うよ」

 瞳月が即座に答える。

「顔が違う」

「それはメガネがないだけ」

「そのメガネがないのが大きいんです」

「瞳月、さっき平気そうにしてなかった?」

「平気です」

「全然顔見られてなかったよ」

「見ました」

「一秒だけ」

「一秒でも見たことには変わりません」

 瞳月は不満そうに口を尖らせた。

「でも、分かるかも」

 凪紗が考え込むように顎へ手を当てる。

「今までは安心できる人って感じだったのに」

「今も安心できるよ」

 優が静かに言う。

「うん。安心できるんだけど」

 凪紗は言葉を探す。

「それだけじゃない感じがする」

 その言葉に、室内が静かになる。

「違うのは、○○さんじゃなくて」

 麗奈が小さな声で続けた。

「こっちなのかもしれません」

「こっち?」

 純葉が聞き返す。

「私たちの見方が、変わってしまったというか」

 麗奈の言葉を、誰も否定できなかった。

 ○○は昨日までと同じ。

 優しく。

 真面目で。

 自分たちのことを誰より見てくれている。

 その事実は何一つ変わっていない。

 変わったのは。

 彼を見る自分たちの目だった。

「これって、何なんだろうね」

 璃花が笑顔を浮かべながらも、どこか困った声で言う。

「ただ格好いいって思っただけじゃない?」

 純葉が答える。

「でも、それだけでこんなに緊張する?」

「する人はするんじゃない?」

「純葉もしてたよ」

「私はしてない」

「してた」

「してない」

「○○さんが近付いた時、声小さくなってたよ」

「……璃花だって顔赤かったやん」

「私は暑かっただけ」

「今日それを使う人多すぎない?」

 優月が苦笑する。

「理子も暑いって言ってたし」

 名前を出された理子は、ペットボトルを持ったまま俯いた。

「理子は特に分かりやすかったね」

 愛季が理子を見る。

「○○さんの顔、一回も見てなかった」

「……見たよ」

「いつ?」

「最初に」

「何秒?」

「……覚えてない」

「絶対一秒も見てないよね」

 理子は答えなかった。

 誰も、この感情を恋だとは言わなかった。

 言えるはずもなかった。

 ○○は担当マネージャー。

 自分たちはアイドル。

 それ以前に。

 今日初めて外見を意識しただけで、簡単に恋だと決めつけることなどできない。

 ただ一つ。

 昨日までと同じ距離ではいられない。

 それだけは、全員が感じていた。

     ◇

 休憩が終わる少し前。

 美羽は一人、レッスン室の端にある鏡の前へ立っていた。

 先ほど○○から指摘された目線を確認するため、振りの一部を繰り返している。

 無理に表情を作らない。

 自然な目線を意識する。

 ○○の言葉を頭の中で反芻しながら、身体を動かす。

「美羽」

 突然、後ろから名前を呼ばれた。

「……何?」

 鏡越しに振り返る。

 スタッフとの話を終えた○○が、すぐ後ろに立っていた。

「まだ休憩中だよ」

「分かってる」

「休まなくて大丈夫?」

「少し確認してただけ」

「そっか」

 ○○は美羽の隣へ立ち、鏡の中の姿を見る。

「さっきより力が抜けてるね」

「そう?」

「うん。その方がいい」

「○○さんが言ったから」

「ちゃんと聞いてくれてたんだ」

「聞くでしょ。仕事なんだから」

 美羽は素っ気なく答えた。

 けれど、悪い気はしていない。

 ○○に褒められることは、三年間ずっと嬉しかった。

 今日だけ、その嬉しさが少し違う形で胸に残る。

「でも」

 ○○が一歩近付く。

「……何?」

 美羽の肩が僅かに強張る。

 鏡越しでも、○○の顔が近い。

 メガネがないせいで、その目がどこを見ているのか、はっきり分かってしまう。

 ○○は美羽の顔をじっと見つめていた。

「何?」

 美羽がもう一度尋ねる。

 声が少し硬くなる。

「動かないで」

「え」

 ○○の顔が、さらに近付いた。

 美羽は動けなくなる。

 逃げることも。

 顔を逸らすことも。

 理由を尋ねることもできない。

 ○○の手が上がる。

 指先が、美羽の髪へ触れた。

「……っ」

 ほんの一瞬。

 ○○は美羽の髪に付いていた、小さな白い糸くずを摘まんだ。

「ごめん。髪に付いてた」

 そう言って、指先の糸くずを見せる。

「……それだけ?」

「うん」

「そう」

「何だと思ったの?」

「別に」

 美羽は顔を背けた。

 耳だけでなく、頬まで赤い。

「暑い?」

「暑くない」

「顔赤いけど」

「赤くない」

「そう?」

「そう」

 美羽はそれ以上何も言わず、鏡から離れた。

 ○○は不思議そうにその後ろ姿を見る。

「本当に今日はみんな変だな」

 呟きながら、手に取った糸くずをゴミ箱へ捨てる。

 美羽は足早に、愛季たちのいる場所へ戻った。

 その様子を見ていた愛季が、すぐに口元を緩める。

「美羽」

「何?」

「顔赤くない?」

「赤くない」

「でも、すごく赤いよ」

「暑いだけ」

「さっき暑くないって言ってなかった?」

「言ってない」

「言ってたよ」

「聞き間違い」

「○○さん、何したの?」

「髪のゴミ取っただけ」

「それだけで?」

「それだけ」

 美羽は壁際の椅子へ腰を下ろし、ペットボトルを手に取った。

 しかし、蓋を開ける手が僅かに震えている。

「美羽、もしかして」

「違う」

「まだ何も言ってないよ」

「何でも違う」

 美羽はそれきり黙り込んだ。

 愛季は追及するのをやめたものの、その頬はまだ赤いままだった。

 そして。

 そんな二人の会話を、三期生全員が聞いていた。

 誰も口には出さない。

 だが、美羽だけの問題ではないことを、全員が理解していた。

     ◇

 午後のリハーサルを終え、三期生たちは次の準備へ移った。

 ○○は二期生とスタッフの打ち合わせがあるため、少し先にレッスン室を出ていく。

「じゃあ、後でまた確認するから」

「はい」

「何かあったら、すぐ連絡して」

 ○○が扉を閉める。

 足音が遠ざかるのを待ってから、優月が息を吐いた。

「今日一日、持つかな」

「持たせるしかないでしょ」

 愛季が答える。

「明日もそのままなのかな」

 璃花が扉を見つめる。

「今日買いに行くって言ってたよ」

 純葉が言う。

「じゃあ、明日には戻ってるかもしれないね」

 その言葉に、全員が微妙な表情を浮かべた。

 メガネを掛けてくれれば、以前の距離感へ戻れるかもしれない。

 こんなふうに緊張しなくても済む。

 けれど。

 明日からもう、あの素顔を見られなくなる。

 それを少し残念だと思う自分もいた。

「どっちがいいんだろう」

 凪紗が呟く。

「何が?」

「メガネありと、なし」

「どっちでも○○さんは○○さんでしょ」

 優が答える。

「そうなんだけどね」

 凪紗は苦笑した。

「今までと同じ○○さんなのに、同じじゃないみたい」

 誰も答えなかった。

 同じなのに、同じではない。

 近いのに、近付けない。

 信頼しているのに、今までのように自然には接することができない。

 三年間かけて築いてきた距離が。

 メガネ一つなくなっただけで、急に分からなくなってしまった。

     ◇

 レッスン室の外。

 三期生たちの会話を、偶然通り掛かった山﨑天が聞いていた。

 隣には田村保乃と増本綺良がいる。

「やっぱり三期生も同じやな」

 天が小声で呟く。

「同じやね」

 保乃も複雑な表情で頷いた。

 綺良だけは、楽しそうに笑っている。

「これは大事件ですよ」

「綺良、面白がりすぎ」

「だって、皆さん分かりやすすぎますもん」

「綺良は平気なん?」

 天が尋ねる。

「何がですか?」

「○○の顔」

「格好いいとは思いますけど、私は皆さんみたいにはなりませんよ」

「皆さんみたいって何」

「そこを私に言わせるんですか?」

 綺良は意味深に笑う。

 保乃は顔を逸らした。

 天はレッスン室の扉を見たあと、廊下の反対側へ視線を向ける。

 ちょうどその時。

 さらに奥から、賑やかな声が近付いてきた。

「今日、通しリハですよね?」

「緊張するなあ」

「大丈夫だよ。分からないところがあったら、○○さんに聞けばいいし」

 九人分の足音。

 四期生たちだった。

 彼女たちは、まだ何も知らない。

 今日の○○が。

 これまで一年間見てきた姿とは、まるで違って見えることを。

 天は近付いてくる四期生たちを見ながら、ぽつりと呟いた。

「四期生、絶対もっと大変なことになるよ」

 保乃が四期生と、廊下の向こうにいる○○を交互に見る。

「……せやろなあ」

 綺良は楽しそうに目を輝かせた。

「いよいよ本番ですね」

「何の本番?」

「四期生の反応観察です」

「遊びちゃうねんで」

 天はそう言いながらも、少しだけ笑っていた。

 浅井恋乃未を先頭に。

 山川宇衣。

 勝又春。

 山田桃実。

 松本和子。

 稲熊ひな。

 中川智尋。

 目黒陽色。

 佐藤愛桜。

 四期生九人が、何も知らないままレッスン室へ近付いてくる。

 その先では。

 ○○がメガネのない顔で、資料を確認していた。

 長い間、安心できるマネージャーとしてしか見ていなかった人を。

 一人の男性として意識し始めた二期生と三期生。

 そして次は。

 加入した日から一年間、誰より○○を頼り、慕い続けてきた四期生たちの番だった。

 第2話「変わってしまった距離」 終

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