『メガネをとったら担当アイドル達の様子が激変した』 第2話
第2話「変わってしまった距離」
廊下の空気が、不自然なほど静まり返っていた。
谷口愛季を先頭に歩いてきた三期生十一人が、揃って足を止めている。
誰も言葉を発しない。
誰も視線を逸らさない。
いや。
正確には、一度は山下○○の顔を見たものの、視線が合いそうになると慌てて逸らす者もいた。
○○だけが、その反応の意味を理解できずにいる。
「みんな、おはよう」
もう一度、いつもどおりの声で挨拶する。
しかし、返ってきたのは微妙に揃わない返事だった。
「お、おはようございます」
「……おはようございます」
「おはよう、ございます……」
声の大きさも、速さも、普段とは明らかに違う。
○○は首を傾げた。
三期生は加入して三年目。
今さら、担当マネージャーを前にして緊張するような関係ではない。
加入したばかりの頃には、必要以上にかしこまっていた者もいた。
だが、今では仕事の相談だけでなく、日常の些細な悩みまで打ち明けてくれる。
失敗して泣いた日も。
ステージを終えて笑った日も。
自信を失い、もう一度立ち上がろうとした日も。
○○は三期生たちの成長を、誰より近くで見続けてきた。
そんな彼女たちが、揃って見知らぬ相手を見るような顔をしている。
「どうした?」
○○が尋ねる。
先頭に立っていた愛季が、ようやく我に返った。
「メ、メガネ……」
「うん?」
「メガネ、どうしたんですか?」
質問自体は、ごく普通だった。
しかし愛季は、○○の顔をまっすぐ見ようとしない。
視線が頬から肩、手元の資料へと不自然に移動している。
「今朝壊れたんだ」
○○は手に持っていたメガネケースを軽く持ち上げた。
「片方のつるが折れて、使えなくなってさ。予備を取りに帰る時間もなかったから、今日はこのまま」
「そう、なんですね」
「それでみんな止まってたの?」
○○が笑いながら尋ねる。
愛季は答えに詰まった。
「いや、その……」
「そんなに印象違う?」
「違います」
今度は即答だった。
言い切ってから、愛季は自分の声が思ったより大きかったことに気付く。
「あ、違うというのは、変という意味ではなくて」
「うん」
「その……すごく違うというか」
「だから、その違うの意味を聞いてるんだけど」
「……すみません。上手く言えません」
愛季は困ったように俯いた。
その姿を見て、後ろにいた中嶋優月が一歩前へ出る。
「○○さん、いつもメガネの印象が強いじゃないですか」
「まあ、五年間ほとんど同じものを使ってたからね」
「だから、急にないと驚くというか」
「そんなに?」
「はい。もう、本当に、すごく驚きました」
優月は明るい声で場を取り繕おうとしている。
だが、普段より明らかに言葉数が多い。
「でも似合ってますし、全然変じゃないですし、むしろすごく自然ですし、メガネがあってもなくても○○さんは○○さんなので、問題ないと思います」
「優月」
「はい」
「ちょっと落ち着こうか」
「落ち着いてます」
「いつもの倍くらい喋ってるよ」
「そんなことないです」
優月は笑顔のまま否定したが、声が少し上ずっていた。
○○は不思議そうに優月を見つめる。
優月は、その視線に耐えられなくなったように顔を横へ向けた。
「……やっぱり、みんな緊張してる?」
「何にですか?」
「新年度のライブ」
○○の言葉に、三期生たちは一瞬黙った。
その後ろでは、二期生たちが何とも言えない表情を浮かべている。
明らかに違う。
緊張の原因はライブだけではない。
だが○○本人は、それに気付いていなかった。
「数日後だし、気持ちが落ち着かないのは分かるよ」
○○は穏やかな口調で続ける。
「でも、今までやってきたことを出せば大丈夫。三年目だからって、完璧にやらなきゃいけないわけじゃないから」
その言葉は、三期生にとって聞き慣れたものだった。
不安になった時。
自信を失った時。
自分だけが成長できていないと思った時。
○○はいつも、焦らなくていいと伝えてくれた。
無責任に大丈夫と言うのではなく、これまでの努力を見たうえで信じてくれる。
何度も救われてきた言葉。
それなのに今日は。
メガネのない目で、一人一人を見つめながら言われただけで。
普段よりもずっと近く感じてしまう。
「……はい」
愛季が小さく返事をした。
頬がわずかに赤い。
○○はそれを、ライブ前の緊張によるものだと解釈した。
「美羽も大丈夫?」
○○の視線が、愛季の後ろにいた村山美羽へ向かう。
美羽は先ほどから、ほとんど言葉を発していなかった。
ただ静かに、○○を見つめている。
目が合う。
「美羽、どうした?」
「……別に」
美羽は短く答えると、すぐに顔を背けた。
「体調悪い?」
「悪くない」
「ならいいけど」
○○は心配そうに美羽を見る。
その視線を感じた美羽は、さらに顔を反対側へ向けた。
耳の先が少し赤くなっている。
「○○さん」
小田倉麗奈が、控えめに手を挙げた。
「どうした?」
「メガネがない姿も、とてもお似合いです」
落ち着いた言葉だった。
いつもの麗奈なら、もう少し余裕を持って笑いながら言うはずだった。
しかし今日は、声が小さい。
「ありがとう」
○○が笑顔を向ける。
麗奈は一瞬だけ目を合わせたあと、そっと視線を下げた。
「……本当に、よくお似合いです」
「そんなに念を押されると、今までのメガネが似合ってなかったみたいだな」
「そういう意味ではありません」
麗奈はすぐに否定する。
「今までの○○さんも素敵でした」
「今までの俺も?」
「……すみません」
「どうして謝るの?」
「いえ、何でもありません」
麗奈は自分の発言を思い返したのか、頬を赤くしながら黙り込んだ。
その隣で、向井純葉が率直に口を開く。
「でも、本当に印象が全然違いますね」
「やっぱり?」
「はい。目元が見えると、こんな感じなんだなって」
「今までも一応、レンズ越しに見えてたと思うけど」
「見えてましたけど、なんか違うんです」
「愛季と同じことを言ってるよ」
「でも、違うとしか言えないです」
純葉は困ったように笑った。
「格好いいってことです」
横から、石森璃花が助け船を出す。
璃花は笑顔を保っているものの、頬が赤い。
「そう言えばいいのに」
○○が純葉を見る。
「それは本人に直接言うの恥ずかしいじゃないですか」
「今、璃花が代わりに言ったけど」
「それは璃花が言ったので」
「純葉ちゃんも言ってたようなものだよ」
璃花が笑う。
純葉は口を尖らせた。
「じゃあ、璃花は平気なん?」
「何が?」
「○○さんの顔、普通に見られる?」
「見られるよ」
璃花はそう答え、○○の顔へ視線を向けた。
目が合った。
「……」
笑顔のまま固まる。
「璃花?」
「はい」
「どうした?」
「何でもないです」
璃花は笑顔を崩さないまま、ゆっくり顔を逸らした。
「見られてないじゃん」
純葉が小声で指摘する。
「見たよ」
「一秒だけ」
「見たことには変わらないよ」
二人のやり取りを聞きながら、○○はますます分からなくなっていた。
「本当に、今日はみんな変だな」
その言葉に、三期生全員が黙る。
変なのは、自分たちなのかもしれない。
○○は、いつもと何も変わっていない。
声も。
口調も。
自分たちを気遣う姿勢も。
ただ、メガネがない。
それだけだった。
それなのに、今まで自然に見ていられた顔を正面から見られない。
これまで意識しなかった距離が、急に近く感じる。
昨日までの○○と、今日の○○は同じ人間だ。
違ってしまったのは、自分たちの見方だった。
◇
「優?」
○○が声を掛ける。
村井優は、さっきから○○の顔を見たまま動いていなかった。
名前を呼ばれても、すぐに反応しない。
「優」
「……はい」
数秒遅れて返事が返ってきた。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「ぼーっとしてたけど」
「少し考え事をしていました」
「ライブのこと?」
「……はい」
優は一瞬迷ったあと、そう答えた。
もちろん嘘ではない。
ライブのことも考えている。
ただ、それ以上に。
目の前にいる○○を、どう見ればいいのか分からなくなっていた。
頼れるマネージャー。
優しく見守ってくれる年上の人。
困った時、必ず助けてくれる存在。
これまで、それで十分だった。
それ以上の名前を付けようとしたことなどなかった。
「考えすぎなくていいよ」
○○が優しく笑う。
「優は、本番になるとちゃんと集中できるから」
「……そうですか?」
「うん。俺が知ってる」
「○○さんが?」
「三年間見てきたからね」
その言葉に、優は小さく息を呑んだ。
「だから、自分を信じて」
「……はい」
優は素直に頷く。
しかし、今度は先ほどよりも顔を上げられなくなった。
小島凪紗は、その空気を変えようと口を開いた。
「でも、○○さんがこの姿でずっと仕事してたら、事務所の人に新しいマネージャーだと思われるかもしれませんね」
「さっき増本にも同じことを言われたよ」
「やっぱり?」
「俺はそんなに別人に見えるの?」
「見えます」
凪紗は即答した。
「じゃあ、社員証を見える場所に付けておかないとな」
「あと、名前を書いた紙を胸に貼っておいた方がいいかもしれません」
「そこまでしないと駄目?」
「山下○○ですって」
「新入社員の自己紹介みたいになるだろ」
いつもなら、もう少し軽快に続く会話だった。
だが凪紗は、○○が笑った瞬間、次の言葉を失った。
「……」
「凪紗?」
「はい」
「続きは?」
「今、考えてます」
「冗談を?」
「はい」
「無理に言わなくていいよ」
「それはそれで悔しいです」
凪紗はそう答えたが、結局、上手い言葉は出てこなかった。
的野美青は、少し後ろから全員の様子を見ていた。
自分だけは落ち着いていようと思っていた。
○○の外見が変わったからといって、慌てる必要などない。
そう考えていたはずだった。
「美青」
「はい」
「午後の立ち位置、昨日の修正を共有しておきたいんだけど」
「分かりました」
○○が話しやすい距離まで近付く。
その瞬間、美青は無意識に一歩後ろへ下がった。
○○の動きが止まる。
「どうした?」
「……何がですか?」
「今、下がったよね」
「下がってません」
「いや、下がったと思うけど」
「立ち位置を調整しただけです」
「ここはステージじゃないよ」
「そうでした」
美青は真顔で答える。
しかし、耳が赤い。
「近すぎた?」
「そんなことはありません」
「なら、このまま説明していい?」
「……はい」
○○がもう一度近付く。
美青は今度こそ動かなかった。
ただし、説明されている間、○○の顔を一度も見られなかった。
その隣では、山下瞳月が腕を組みながら平静を装っていた。
「みんな、分かりやすすぎます」
瞳月が呟く。
「何が?」
○○が聞き返す。
「何でもないです」
「瞳月は平気そうだね」
「何がですか?」
「メガネがない俺を見ても、みんなみたいに驚いてない」
「別に、メガネがあるかないかだけでしょう」
「そのとおりだよ」
「顔が多少違って見えるくらいで、そんなに騒ぐことでもないです」
「瞳月」
「はい」
「さっきから一回も俺の顔を見てないけど」
瞳月の動きが止まった。
「見てます」
「今も見てないよ」
「見なくても話はできます」
「それはそうだけど」
「問題ありません」
瞳月はそう言い切った。
その直後、意を決したように顔を上げる。
○○と視線が合った。
ほんの一瞬。
瞳月はすぐに横を向いた。
「……何か?」
「いや」
「何でもありません」
「やっぱりみんな変だな」
○○は困ったように笑った。
瞳月は返事をしなかった。
◇
その中で、最も分かりやすく顔を上げられずにいたのは、遠藤理子だった。
理子は三期生たちの後方で、視線を床へ落としている。
○○が来てから、一度もまともに顔を見ていない。
「理子」
「……はい」
名前を呼ばれ、肩が跳ねる。
「体調悪い?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
「顔色が少し赤いけど」
「暑いだけです」
「今日はそんなに暑くないよ」
「私には少し暑いです」
理子は必死に答える。
○○は心配そうな表情で近付いた。
「熱があるんじゃない?」
「ないです」
「一応、額を――」
「大丈夫です!」
理子は思わず大きな声を出した。
○○の手が途中で止まる。
「そ、そう?」
「すみません……」
「謝らなくていいけど」
○○は少し迷ったあと、手を下ろした。
「でも、本当に無理しないで。少しでも体調が悪くなったら、すぐに言って」
「はい」
「理子は我慢しすぎるところがあるから」
「……分かりました」
○○が離れる。
理子は胸元へ手を当て、誰にも気付かれないよう小さく息を吐いた。
危なかった。
あと少しで、額へ手を当てられるところだった。
今の状態でそんなことをされたら、平静を保てる自信がない。
それどころか。
こうして近くに立たれるだけでも、心臓が苦しいほど速く動いている。
理子には、他の三期生が知らない○○の姿があった。
三年前。
合宿中。
偶然、誰もいないと思っていた場所で見た、本気で踊る○○の姿。
普段の穏やかなマネージャーとはまるで違う。
鋭く。
力強く。
それでいて、誰より楽しそうに音へ身を委ねていた。
あの日から、理子にとって○○は、ただの頼れるマネージャーではなくなった。
だが、それを口にしたことはない。
誰にも知られないように、三年間胸の奥へ隠してきた。
メガネを外した○○の姿は。
あの日の記憶を、あまりにも鮮明に蘇らせた。
「理子、本当に大丈夫?」
少し離れた場所から、○○がもう一度声を掛ける。
「大丈夫です」
理子は顔を上げないまま答えた。
これ以上見たら、隠してきた気持ちまで見抜かれてしまいそうだった。
◇
「そろそろ移動しようか」
○○は腕時計を確認した。
「衣装確認の時間が近い。三期生は先に準備して、二期生はこのあと取材の確認」
その一言で、全員が仕事へ意識を戻す。
○○は歩きながら、三期生一人一人へ今日の注意点を伝えていった。
「愛季」
「はい」
「今日は全体を見ることも大事だけど、自分のパフォーマンスまで小さくならないようにね」
「分かりました」
「愛季は周りを気にしすぎる時があるから。後輩がいるからって、全部背負わなくていい」
「……はい」
「頼りにしてるよ」
そう言われた愛季は、嬉しそうに頷く。
だが○○の顔を見た瞬間、また頬が赤くなった。
「美羽」
「何?」
「今日の表情、無理に作らなくていいからね」
「作ってないけど」
「本番前になると、伝えようとしすぎて目線が硬くなることがあるから」
「……見てたんだ」
「当然。担当だから」
○○が答える。
美羽は前を向いたまま、小さく息を吐いた。
「自然な美羽の方が、俺はいいと思うよ」
その一言に、美羽の足が一瞬止まりかけた。
「……そう」
「うん」
「分かった」
短い返事。
だが、耳まで赤くなっていた。
「優月」
「はい」
「今日は他のメンバーを気にしすぎないこと」
「そんなに気にしてますか?」
「してる。移動中も、全員がいるか何度も確認してた」
「癖なんです」
「知ってるよ。でも、優月が自分を後回しにする必要はないから」
「……はい」
「困った時は、俺もいるし」
優月は一瞬言葉を失う。
「そういう言い方、ずるいです」
「何が?」
「何でもありません」
○○は意味が分からず首を傾げた。
「理子は、水分を早めに取って。休憩も我慢しないこと」
「はい」
「さっきから体調が少し心配だから、俺の近くにいてくれる?」
「……え?」
「何かあった時、すぐ対応できるように」
理子の顔が一気に赤くなる。
「だ、大丈夫です」
「でも」
「本当に、大丈夫なので」
「そう?」
「はい」
理子は必死に頷く。
○○の近くにいた方が、かえって体調が悪くなりそうだった。
三期生たちは、そんな二人のやり取りを見ながら、それぞれ複雑な表情を浮かべる。
誰か一人だけが特別扱いされているわけではない。
○○は全員を見ている。
全員の小さな変化に気付く。
誰に対しても、同じように誠実で優しい。
そのことを、これまでは安心できると感じていた。
今日はなぜか。
自分だけを見てほしいという、今まで持ったことのない感情が胸の奥に生まれていた。
◇
午前の衣装確認を終えたあと、三期生はレッスン室へ移動した。
数日後のライブに向けた通しリハーサル。
○○は壁際に立ち、全体の動きを確認している。
メガネがないため、いつもより前方へ移動しなければ細かな表情までは見えない。
それでも、メンバーの立ち位置や身体の動き、僅かな疲労の変化を見逃さないよう意識を集中させる。
曲が始まる。
愛季を中心に、三期生たちが動き出した。
しかし、明らかにいつもと違う。
愛季は何度か○○の方を確認してしまう。
優月は意識しすぎて動きが少し大きい。
璃花は笑顔を保っているものの、○○の近くへ移動する振りになると僅かに硬くなる。
優は集中しているようで、時折視線が泳ぐ。
美青に至っては、○○が立っている側へ顔を向ける場面だけ、動きが不自然だった。
曲が終わる。
「一回止めよう」
○○が手を挙げた。
三期生たちが息を整えながら○○を見る。
「今日、全体的に硬いね」
全員が黙る。
「やっぱり緊張してる?」
「そうかもしれません」
愛季が答えた。
本当の理由を言えるはずもない。
「大丈夫。今のうちに硬くなるのは悪いことじゃないよ」
○○は否定しなかった。
「本番で出るより、リハーサルで出た方が修正できるから」
メンバーの前へ歩み寄る。
「愛季は全体を見ようとしすぎて、自分の目線が遅れてる。美羽は逆に、伝えようとしすぎて少し表情が硬い」
二人が頷く。
「優月は周りの動きを気にして、次へ入るのが早くなってる。麗奈は大丈夫だけど、少し呼吸が浅い」
「分かりました」
「純葉は最後の向き、半歩だけ内側。優は振りの終わりを急がないで」
○○は一人ずつ、具体的に伝えていく。
「理子は一回休もう」
「大丈夫です」
「駄目。今、水分を取って」
いつもより少し強い口調だった。
理子は反論しかけたが、○○の真剣な表情を見て素直に頷く。
「……はい」
「璃花は笑顔を作りすぎなくていい。凪紗は次の移動を意識しすぎて、今の動きが小さくなってる」
「はい」
「美青は、俺の方を見る時だけ動きが変だよ」
「……気のせいです」
「映像を確認する?」
「大丈夫です。直します」
「瞳月は、目線を逸らすのが早い」
「振り付けです」
「そこは正面を見るところだよ」
「……直します」
瞳月は不満そうに答える。
○○は全員へ修正点を伝え終えると、少し表情を緩めた。
「でも、悪くないよ」
その言葉に、三期生たちが顔を上げる。
「この一年で、全員できることが増えてる。それぞれの見せ方も、前より分かってきてる」
○○は一人一人を見渡す。
「今日は緊張してるだけ。今までやってきたことがなくなったわけじゃない」
誰より近くで、自分たちを見続けてきた人の言葉だった。
ただ励ますために言っているのではない。
できなかった頃も。
上手くいかずに悔しがった日も。
少しずつ成長してきた過程も。
すべて知っているからこそ、○○の言葉には重みがあった。
「もう一度やろう」
○○が笑う。
「今度は、俺を気にしなくていいから」
三期生たちの身体が、僅かに固まった。
「……気にしてません」
美青が答える。
「そう?」
「はい」
「じゃあ、どうして俺を見る時だけ全員変になるんだろう」
図星だった。
誰も答えられない。
「まあいいか」
○○は深く追及しなかった。
「次、行こう」
曲がもう一度始まる。
三期生たちは今度こそ集中しようとする。
○○は○○。
いつも自分たちを支えてくれる人。
そう言い聞かせる。
だが、一度意識してしまった距離は、簡単には元へ戻らなかった。
◇
リハーサルの休憩時間。
三期生たちはそれぞれ水分を取り、壁際や椅子へ腰を下ろしていた。
○○はスタッフと話をするため、一度レッスン室の外へ出ている。
扉が閉まった瞬間。
室内に、深い溜息がいくつも重なった。
「……疲れた」
優月が壁へ背中を預ける。
「まだ午前中だよ」
璃花が苦笑する。
「リハーサルより別のことで疲れてる気がする」
「分かる」
純葉が頷く。
愛季はペットボトルを両手で持ちながら、扉の方を見た。
「今までと同じ○○さんなのに、なんか違う」
「違うよ」
瞳月が即座に答える。
「顔が違う」
「それはメガネがないだけ」
「そのメガネがないのが大きいんです」
「瞳月、さっき平気そうにしてなかった?」
「平気です」
「全然顔見られてなかったよ」
「見ました」
「一秒だけ」
「一秒でも見たことには変わりません」
瞳月は不満そうに口を尖らせた。
「でも、分かるかも」
凪紗が考え込むように顎へ手を当てる。
「今までは安心できる人って感じだったのに」
「今も安心できるよ」
優が静かに言う。
「うん。安心できるんだけど」
凪紗は言葉を探す。
「それだけじゃない感じがする」
その言葉に、室内が静かになる。
「違うのは、○○さんじゃなくて」
麗奈が小さな声で続けた。
「こっちなのかもしれません」
「こっち?」
純葉が聞き返す。
「私たちの見方が、変わってしまったというか」
麗奈の言葉を、誰も否定できなかった。
○○は昨日までと同じ。
優しく。
真面目で。
自分たちのことを誰より見てくれている。
その事実は何一つ変わっていない。
変わったのは。
彼を見る自分たちの目だった。
「これって、何なんだろうね」
璃花が笑顔を浮かべながらも、どこか困った声で言う。
「ただ格好いいって思っただけじゃない?」
純葉が答える。
「でも、それだけでこんなに緊張する?」
「する人はするんじゃない?」
「純葉もしてたよ」
「私はしてない」
「してた」
「してない」
「○○さんが近付いた時、声小さくなってたよ」
「……璃花だって顔赤かったやん」
「私は暑かっただけ」
「今日それを使う人多すぎない?」
優月が苦笑する。
「理子も暑いって言ってたし」
名前を出された理子は、ペットボトルを持ったまま俯いた。
「理子は特に分かりやすかったね」
愛季が理子を見る。
「○○さんの顔、一回も見てなかった」
「……見たよ」
「いつ?」
「最初に」
「何秒?」
「……覚えてない」
「絶対一秒も見てないよね」
理子は答えなかった。
誰も、この感情を恋だとは言わなかった。
言えるはずもなかった。
○○は担当マネージャー。
自分たちはアイドル。
それ以前に。
今日初めて外見を意識しただけで、簡単に恋だと決めつけることなどできない。
ただ一つ。
昨日までと同じ距離ではいられない。
それだけは、全員が感じていた。
◇
休憩が終わる少し前。
美羽は一人、レッスン室の端にある鏡の前へ立っていた。
先ほど○○から指摘された目線を確認するため、振りの一部を繰り返している。
無理に表情を作らない。
自然な目線を意識する。
○○の言葉を頭の中で反芻しながら、身体を動かす。
「美羽」
突然、後ろから名前を呼ばれた。
「……何?」
鏡越しに振り返る。
スタッフとの話を終えた○○が、すぐ後ろに立っていた。
「まだ休憩中だよ」
「分かってる」
「休まなくて大丈夫?」
「少し確認してただけ」
「そっか」
○○は美羽の隣へ立ち、鏡の中の姿を見る。
「さっきより力が抜けてるね」
「そう?」
「うん。その方がいい」
「○○さんが言ったから」
「ちゃんと聞いてくれてたんだ」
「聞くでしょ。仕事なんだから」
美羽は素っ気なく答えた。
けれど、悪い気はしていない。
○○に褒められることは、三年間ずっと嬉しかった。
今日だけ、その嬉しさが少し違う形で胸に残る。
「でも」
○○が一歩近付く。
「……何?」
美羽の肩が僅かに強張る。
鏡越しでも、○○の顔が近い。
メガネがないせいで、その目がどこを見ているのか、はっきり分かってしまう。
○○は美羽の顔をじっと見つめていた。
「何?」
美羽がもう一度尋ねる。
声が少し硬くなる。
「動かないで」
「え」
○○の顔が、さらに近付いた。
美羽は動けなくなる。
逃げることも。
顔を逸らすことも。
理由を尋ねることもできない。
○○の手が上がる。
指先が、美羽の髪へ触れた。
「……っ」
ほんの一瞬。
○○は美羽の髪に付いていた、小さな白い糸くずを摘まんだ。
「ごめん。髪に付いてた」
そう言って、指先の糸くずを見せる。
「……それだけ?」
「うん」
「そう」
「何だと思ったの?」
「別に」
美羽は顔を背けた。
耳だけでなく、頬まで赤い。
「暑い?」
「暑くない」
「顔赤いけど」
「赤くない」
「そう?」
「そう」
美羽はそれ以上何も言わず、鏡から離れた。
○○は不思議そうにその後ろ姿を見る。
「本当に今日はみんな変だな」
呟きながら、手に取った糸くずをゴミ箱へ捨てる。
美羽は足早に、愛季たちのいる場所へ戻った。
その様子を見ていた愛季が、すぐに口元を緩める。
「美羽」
「何?」
「顔赤くない?」
「赤くない」
「でも、すごく赤いよ」
「暑いだけ」
「さっき暑くないって言ってなかった?」
「言ってない」
「言ってたよ」
「聞き間違い」
「○○さん、何したの?」
「髪のゴミ取っただけ」
「それだけで?」
「それだけ」
美羽は壁際の椅子へ腰を下ろし、ペットボトルを手に取った。
しかし、蓋を開ける手が僅かに震えている。
「美羽、もしかして」
「違う」
「まだ何も言ってないよ」
「何でも違う」
美羽はそれきり黙り込んだ。
愛季は追及するのをやめたものの、その頬はまだ赤いままだった。
そして。
そんな二人の会話を、三期生全員が聞いていた。
誰も口には出さない。
だが、美羽だけの問題ではないことを、全員が理解していた。
◇
午後のリハーサルを終え、三期生たちは次の準備へ移った。
○○は二期生とスタッフの打ち合わせがあるため、少し先にレッスン室を出ていく。
「じゃあ、後でまた確認するから」
「はい」
「何かあったら、すぐ連絡して」
○○が扉を閉める。
足音が遠ざかるのを待ってから、優月が息を吐いた。
「今日一日、持つかな」
「持たせるしかないでしょ」
愛季が答える。
「明日もそのままなのかな」
璃花が扉を見つめる。
「今日買いに行くって言ってたよ」
純葉が言う。
「じゃあ、明日には戻ってるかもしれないね」
その言葉に、全員が微妙な表情を浮かべた。
メガネを掛けてくれれば、以前の距離感へ戻れるかもしれない。
こんなふうに緊張しなくても済む。
けれど。
明日からもう、あの素顔を見られなくなる。
それを少し残念だと思う自分もいた。
「どっちがいいんだろう」
凪紗が呟く。
「何が?」
「メガネありと、なし」
「どっちでも○○さんは○○さんでしょ」
優が答える。
「そうなんだけどね」
凪紗は苦笑した。
「今までと同じ○○さんなのに、同じじゃないみたい」
誰も答えなかった。
同じなのに、同じではない。
近いのに、近付けない。
信頼しているのに、今までのように自然には接することができない。
三年間かけて築いてきた距離が。
メガネ一つなくなっただけで、急に分からなくなってしまった。
◇
レッスン室の外。
三期生たちの会話を、偶然通り掛かった山﨑天が聞いていた。
隣には田村保乃と増本綺良がいる。
「やっぱり三期生も同じやな」
天が小声で呟く。
「同じやね」
保乃も複雑な表情で頷いた。
綺良だけは、楽しそうに笑っている。
「これは大事件ですよ」
「綺良、面白がりすぎ」
「だって、皆さん分かりやすすぎますもん」
「綺良は平気なん?」
天が尋ねる。
「何がですか?」
「○○の顔」
「格好いいとは思いますけど、私は皆さんみたいにはなりませんよ」
「皆さんみたいって何」
「そこを私に言わせるんですか?」
綺良は意味深に笑う。
保乃は顔を逸らした。
天はレッスン室の扉を見たあと、廊下の反対側へ視線を向ける。
ちょうどその時。
さらに奥から、賑やかな声が近付いてきた。
「今日、通しリハですよね?」
「緊張するなあ」
「大丈夫だよ。分からないところがあったら、○○さんに聞けばいいし」
九人分の足音。
四期生たちだった。
彼女たちは、まだ何も知らない。
今日の○○が。
これまで一年間見てきた姿とは、まるで違って見えることを。
天は近付いてくる四期生たちを見ながら、ぽつりと呟いた。
「四期生、絶対もっと大変なことになるよ」
保乃が四期生と、廊下の向こうにいる○○を交互に見る。
「……せやろなあ」
綺良は楽しそうに目を輝かせた。
「いよいよ本番ですね」
「何の本番?」
「四期生の反応観察です」
「遊びちゃうねんで」
天はそう言いながらも、少しだけ笑っていた。
浅井恋乃未を先頭に。
山川宇衣。
勝又春。
山田桃実。
松本和子。
稲熊ひな。
中川智尋。
目黒陽色。
佐藤愛桜。
四期生九人が、何も知らないままレッスン室へ近付いてくる。
その先では。
○○がメガネのない顔で、資料を確認していた。
長い間、安心できるマネージャーとしてしか見ていなかった人を。
一人の男性として意識し始めた二期生と三期生。
そして次は。
加入した日から一年間、誰より○○を頼り、慕い続けてきた四期生たちの番だった。
第2話「変わってしまった距離」 終
