『メガネをとったら担当アイドル達の様子が激変した』 第3話
第3話「戸惑うメンバーたち」
四期生九人がレッスン室へ向かっていた。
先頭を歩く浅井恋乃未は、手にした資料へ何度も視線を落としている。
「今日って、最初に全体の流れを確認してから通しリハーサルだよね?」
「そうだよ」
隣を歩く山川宇衣が答える。
「昨日、○○さんから連絡来てたやん。立ち位置の変更もあるって」
「うん。見たんだけど、一応確認しておこうと思って」
「恋乃未、真面目すぎるんよ」
勝又春が笑いながら、恋乃未の肩を軽く叩いた。
「でも、今日は大事なリハーサルだから」
「分かってるって。うちらも加入して一年やし、いつまでも先輩に引っ張ってもらってばっかりやとあかんからな」
そう口にした春は、いつもどおり明るい。
だが、その足取りにはほんの僅かな違和感があった。
後ろを歩く山田桃実は、そのことに気付いている。
しかし、今は本人が何も言わないため、あえて口には出さなかった。
「緊張してきたかも」
稲熊ひなが小さな声で呟く。
「昨日まで普通だったのに、今日になったら急に」
「本番じゃなくてリハーサルだから」
中川智尋が落ち着いた口調で答える。
「間違えるなら今日の方がいい。修正できるから」
「智尋ちゃんは緊張してないの?」
「してるよ」
「全然そう見えない」
「顔に出さないようにしてるだけ」
智尋の言葉を聞き、目黒陽色が小さく笑う。
「でも、○○さんもいますし。何かあっても大丈夫ですよね」
「それはそう」
松本和子が頷く。
「○○さん、私たちが言う前に気付くことも多いから」
「多いどころか、ほとんど気付かれるよね」
宇衣が苦笑した。
「体調悪い時も、悩んでる時も」
「隠せたと思ったこと、一回もないかも」
桃実が静かに続ける。
その言葉に、四期生たちがそれぞれ頷いた。
加入してから、約一年。
山下○○は、四期生にとって最も身近な先輩の一人だった。
新しい環境に馴染めず、不安を抱えていた時。
自分だけが遅れていると焦った時。
初めて大きな仕事を任され、眠れないほど緊張した時。
○○はいつも、必要以上に踏み込むことなく、それでも決して一人にはしなかった。
誰かが失敗して泣けば、落ち着くまでそばにいた。
誰かが自信を失えば、できるようになったことを具体的に伝えた。
誰かが無理をすれば、本人よりも先に気付いて休ませた。
四期生にとって、○○は頼れるマネージャーだった。
困った時に必ず助けてくれる人。
何を話しても受け止めてくれる、安心できる年上の存在。
「○○さん、もうレッスン室にいるかな」
佐藤愛桜が口にする。
「いると思うよ」
恋乃未が答えた。
「二期生さんと三期生さんの確認もあったみたいだし」
「じゃあ、今日の修正点も聞けるね」
愛桜は少し安心したように笑う。
九人はまだ知らなかった。
今日、レッスン室で待っている○○が。
彼女たちの知っている姿とは、あまりにも違って見えることを。
◇
レッスン室の扉が開く。
「おはようございます」
先頭の恋乃未が、いつもどおり挨拶した。
室内にはまだ楽曲が流れていない。
壁際では、二期生と三期生の数人が何やら話している。
その少し離れた場所で、○○が一人、手元の資料を確認していた。
メガネを掛けていないため、紙をいつもより顔へ近付けている。
だが、四期生たちはまだそのことに気付かない。
「○○さん、おはようございます」
恋乃未が改めて声を掛けた。
「おはよう」
○○が資料から顔を上げる。
「……」
恋乃未の動きが止まった。
声も出ない。
○○の後ろから入ってきた宇衣が、立ち止まった恋乃未の背中へ軽くぶつかる。
「恋乃未、急に止まらんといて――」
恋乃未の肩越しに、○○の顔が見えた。
「……えっ!?」
宇衣の声がレッスン室へ響く。
続いて入ってきた春、桃実、和子、ひな、智尋、陽色、愛桜も、次々に○○の姿を目にした。
そして。
四期生九人が、一列に並んだまま固まった。
「どうしたの?」
○○は不思議そうに首を傾げる。
誰も答えない。
恋乃未は目を見開いたまま、○○の顔を見つめている。
宇衣は口元を手で押さえている。
桃実と和子は声を失い。
ひなはすでに頬が赤い。
智尋は落ち着こうとするように何度も瞬きをしている。
陽色は驚きと戸惑いの混ざった表情を浮かべている。
愛桜は、○○から視線を外せないまま立ち尽くしていた。
最初に声を発したのは春だった。
「めっちゃ格好ええやん……」
あまりにも自然に零れた言葉だった。
室内が静まり返る。
春自身も、何を口にしたのか理解するまで数秒掛かった。
「……あ」
全員の視線が春へ集まる。
春は勢いよく両手で口を塞いだ。
「い、今の忘れてください!」
「何を?」
「聞こえてたんですか!?」
「かなりはっきり聞こえたよ」
「忘れてください!」
「別に悪いことは言われてないと思うけど」
「そういう問題ちゃうんです!」
春は顔を真っ赤にしながら、宇衣の後ろへ隠れた。
「宇衣、ちょっと壁になって」
「無理やって。春ちゃん、背高いやん」
「しゃがんで隠れるから!」
「もう全員に見られてるよ」
宇衣はそう言いながらも、本人も平静ではない。
○○の顔をもう一度確認しようとする。
だが視線が合いそうになると、すぐに目を逸らした。
「何? そんなに変?」
○○が尋ねる。
四期生たちは一斉に首を横へ振ろうとした。
「変じゃないです」
「変じゃないですよ」
「全然変じゃないです」
言葉が重なる。
「じゃあ、どうして全員止まったの?」
○○の問いに、誰もすぐには答えられなかった。
恋乃未がようやく口を開く。
「メガネ、どうしたんですか?」
「今朝、移動中に壊れたんだ。片方のつるが折れて」
○○は机に置いていたケースを開き、壊れた黒縁メガネを見せた。
「予備もコンタクトも自宅だったから、今日はこのまま」
「そうだったんですね」
恋乃未は納得したように頷く。
だが、○○の顔を正面から見ることはできない。
「仕事、できますか?」
「近くは見えるから大丈夫。細かい文字はスマートフォンで拡大すれば確認できるよ」
「でも、不便ですよね」
「少しだけね」
「無理しないでください」
恋乃未は心配そうに言う。
その態度はいつもと変わらない。
○○の体調や仕事の負担を気遣う、普段どおりの恋乃未だった。
しかし。
○○が笑顔で「ありがとう」と答えた瞬間。
恋乃未はまた視線を逸らした。
「どうした?」
「何でもありません」
「やっぱり何か変?」
「変じゃないです」
「ならいいけど」
○○には、四期生たちの動揺の理由が分からなかった。
メガネがなくなっただけだ。
顔そのものが変わったわけではない。
それでも二期生も三期生も、そして四期生まで同じような反応をしている。
やはり、五年間同じメガネを使い続けたせいで、その印象が強く残りすぎていたのだろう。
○○は、その程度に考えていた。
◇
「……似合っています」
小さな声で言ったのは桃実だった。
「ありがとう」
○○が振り向く。
桃実は少しだけ驚いたように瞬きをしたあと、視線を下げた。
「メガネがない姿も、似合っています」
「やっぱり、ある時とはかなり違う?」
「はい」
桃実は正直に頷いた。
「でも、どちらも○○さんですから」
「そうだね。中身は何も変わってないよ」
「……はい」
桃実は微笑む。
その笑顔は穏やかだったが、頬がうっすらと赤い。
隣に立つ和子も、落ち着きを保とうとしていた。
同期の中でも、和子は周囲の状況を冷静に見ることが多い。
誰かが動揺していれば支える。
話がまとまらなければ整理する。
だから今日も、自分だけは平静でいようと思っていた。
しかし。
目の前にいる○○を見た瞬間。
その考えは簡単に崩れた。
「和子?」
名前を呼ばれる。
「はい」
「さっきから何か言いたそうだけど」
「いえ」
「本当に?」
「……格好いいです」
思わず本音が漏れた。
和子の目が僅かに見開かれる。
すぐに顔を背けた。
「すみません」
「謝ることじゃないよ。ありがとう」
○○は素直に礼を言った。
その声が優しい。
和子はさらに顔を上げられなくなった。
「和子、大丈夫?」
「大丈夫です」
「顔、赤くない?」
「気のせいです」
「そう?」
「はい」
和子はきっぱり答えた。
ただし、耳まで赤くなっていたため、まるで説得力はなかった。
「ひなちゃんは?」
○○がひなへ視線を向ける。
「……っ」
いつもの呼び方。
加入してから何度も呼ばれてきた。
それなのに今日は、「ひなちゃん」と言われただけで、心臓が大きく跳ねた。
「どうした?」
「な、何でもないです」
「顔が赤いけど」
「大丈夫です」
「体調悪くない?」
「悪くないです!」
ひなは勢いよく答えた。
○○が心配そうに一歩近付く。
「本当に?」
「本当です」
「無理してない?」
「してません」
ひなの声が少しずつ小さくなる。
近付かれれば近付かれるほど、○○の顔を見られなくなる。
最後には完全に俯いてしまった。
「もし体調が悪くなったら、すぐに言ってね」
「はい……」
「ひなちゃんは我慢しようとするから」
「……はい」
○○はそう言い残し、他のメンバーへ視線を移す。
ひなは胸元へ手を当て、小さく息を吐いた。
「ひな、分かりやすいなあ」
宇衣が小声で囁く。
「宇衣ちゃんも同じ顔してるよ」
「うちはしてへんよ」
「してる」
「してへんって」
「二人とも、普通に聞こえてるよ」
○○が苦笑する。
宇衣とひなは同時に口を閉ざした。
◇
「○○さん」
目黒陽色が、一歩前へ出た。
陽色は少し緊張した表情を浮かべている。
それでも、○○の顔を正面から見ようとしていた。
「すごく、素敵です」
「ありがとう」
「メガネがある時も素敵でしたけど」
「うん」
「ない姿も、本当に素敵だと思います」
陽色は最後まで言い切った。
その直後。
恥ずかしくなったのか、すぐに俯く。
「陽色は素直だね」
「……思ったことを言っただけです」
「嬉しいよ」
○○が笑う。
陽色はそれ以上顔を上げられなくなった。
「智尋は?」
○○が尋ねる。
智尋は腕を組み、できるだけ平静を装っていた。
「何がですか?」
「俺の顔。みんなみたいに驚いた?」
「驚きました」
「やっぱり」
「思っていた以上に、印象が変わったので」
「そんなに?」
「はい」
智尋は○○の顔を分析するように見る。
メガネがないことで、普段は目立たなかった目元がはっきり見える。
穏やかさの中に、思っていたよりも鋭い印象がある。
鼻筋も整っている。
長く使っていた太い黒縁メガネが、その輪郭をほとんど隠していたのだ。
「……反則ですよ」
智尋が小さく呟く。
「何が?」
「いえ」
「今、反則って聞こえたけど」
「気のせいです」
「気のせいかな」
「気のせいです」
智尋は表情を崩さずに言い切った。
だが、視線は○○から外れていた。
「智尋まで変だな」
「私は変ではありません」
「さっきから全員そう言うけど」
「皆さんと一緒にしないでください」
その言葉に、宇衣がすぐ反応する。
「智尋ちゃん、自分だけ冷静みたいな顔してるけど、『反則ですよ』って言ってたやん」
「言ってない」
「言ってたよ」
「聞き間違い」
「○○さんも聞いとったで」
「気のせいです」
智尋は同じ言葉を繰り返した。
宇衣は楽しそうに笑う。
そんな宇衣を、○○が見る。
「宇衣は、もう落ち着いた?」
「もちろんです」
「さっきかなり大きな声を出してたけど」
「最初だけです」
「じゃあ、もう平気?」
「平気です」
宇衣は自信を持って答えた。
○○が一歩近付く。
「本当に?」
「……」
宇衣の声が止まる。
「宇衣?」
「近いです」
「近付いたからね」
「なんで近付くんですか」
「表情を見ようと思って」
「見んでいいです」
「どうして?」
「どうしてもです」
宇衣は○○の胸元を軽く押し、距離を取った。
強く押したわけではない。
それでも○○は素直に一歩下がる。
「ごめん」
「謝らんでください」
「でも、近いって言われたから」
「○○さんが悪いわけやないです」
「じゃあ、誰が悪いの?」
「……メガネです」
「壊れたメガネ?」
「そうです」
「やっぱり、みんなメガネがない俺に慣れてないだけか」
○○は納得したように頷いた。
宇衣は何も言えない。
確かにメガネがきっかけではある。
しかし、問題はそこではない。
メガネの奥に隠れていた○○の顔を見たことで。
今まで安心できる年上の人としてしか見ていなかった相手を、一人の男性として意識してしまった。
けれど、そんなことを本人へ説明できるはずがなかった。
◇
最後まで、ほとんど言葉を発していなかったのは愛桜だった。
○○は、少し離れた場所に立つ愛桜へ視線を向ける。
「愛桜」
「……はい」
呼ばれてから、返事まで僅かな間があった。
「どうした?」
「何がですか?」
「ずっと黙ってるから」
「すみません」
「謝らなくていいよ。何か気になることがある?」
「いえ」
愛桜は一度、深く息を吸った。
そして、意を決したように○○の顔を見る。
「……すごく、格好いいです」
室内が少し静かになった。
他の四期生も同じようなことを口にしていた。
だが、愛桜の言葉には、何か別の意味が込められているように聞こえた。
「ありがとう」
○○はいつもどおり穏やかに笑う。
「でも、そんなに違う?」
「違います」
「即答だね」
「目が、よく見えるので」
「目?」
「今までより、表情が分かりやすいです」
「そうなんだ」
「はい」
愛桜は○○の目元を見つめた。
どこか懐かしい。
そう思った。
もちろん、○○とは一年間一緒にいる。
顔を知らないわけではない。
だが、メガネを外した目元を真正面から見た瞬間。
ずっと昔に見た、誰かの姿が頭をよぎった。
幼い頃。
小さなコンテスト会場。
自分より一回りほど年上に見えた少年。
ステージの上で、本当に楽しそうに踊っていた。
顔も。
名前も。
今ではもう思い出せない。
けれど、その動きだけは心のどこかに残り続けている。
愛桜がダンスを好きになり。
もっと上手くなりたいと思い続けた、最初のきっかけ。
その少年と、目の前にいる○○の姿が、一瞬だけ重なった。
「愛桜?」
「……はい」
「本当にどうした?」
「何でもないです」
「ぼーっとしてたけど」
「少し驚いただけです」
「メガネがないことに?」
「はい」
愛桜はそう答えた。
今の感覚を、上手く言葉にできなかった。
似ていると思っただけ。
それも、ほんの一瞬。
幼い頃の曖昧な記憶だ。
○○と結び付ける理由など、何もない。
「体調が悪いわけじゃないならいいけど」
「大丈夫です」
「無理しないでね」
「はい」
愛桜は小さく頷いた。
だが、その後も何度か、○○の横顔を目で追っていた。
◇
「じゃあ、そろそろ仕事の話を始めようか」
○○が手を叩く。
その一言で、四期生たちは慌てて気持ちを切り替えた。
今日の中心は、数日後に控えた新年度ライブの通しリハーサル。
○○の顔に驚くために来たわけではない。
「今日はライブ前の通しリハーサルだから、無理はしないこと」
○○はモニターへ進行表を表示する。
「気になるところがあったら、すぐに言って。痛みや違和感を我慢して、本番に影響が出るのが一番良くない」
変わらない声だった。
加入した頃から何度も聞いてきた、落ち着いた話し方。
四期生が不安にならないよう、必要な情報を簡潔に伝える。
「昨日から、二曲目の移動が一部変わってる。恋乃未と桃実は立ち位置を一つ内側へ。宇衣と智尋はその分、移動を少し遅らせる」
手元の資料を確認しながら、○○は説明を続ける。
メガネがないため細かな文字は見えづらいはずなのに、進行に迷いはない。
大部分を頭へ入れているのだろう。
「春は、今日のリハーサル前に足を見てもらおうか」
突然名前を呼ばれ、春の肩が跳ねた。
「え?」
「さっきから、右足を少し庇ってる」
「そんなことないですよ」
「あるよ」
○○は迷いなく答える。
「歩幅がいつもより小さい。階段を上がる時も、右足へ体重を乗せるのを避けてた」
春は言葉を失った。
ここへ来るまで、誰にも言っていなかった。
昨夜から、右足首に僅かな違和感がある。
痛みと呼ぶほど強くない。
リハーサルを休むほどでもないと思い、黙っていた。
「昨日、少し捻った?」
「……ちょっとだけです」
「やっぱり」
「でも、踊れます」
「踊れるかどうかは、今決めない」
○○の声は穏やかだったが、はっきりしていた。
「専門のスタッフに見てもらってから決めよう。軽い違和感の段階で対応した方が、結果的に早く戻れるから」
「でも、今日の通しに出ないと」
「出ないとは言ってないよ」
○○は春の不安を見抜き、すぐに言葉を付け加えた。
「状態を確認して、問題がない範囲で参加する。必要なら一部だけ動きを抑える。それでいい」
「……はい」
「隠してたことは、後で少し話そうか」
「怒ってます?」
「心配してる」
○○はそう答えた。
春は俯いた。
叱られるよりも、その方が胸に響いた。
「ごめんなさい」
「謝るなら、次から早めに言って」
「はい」
「春が頑張りたいのは分かってるから」
○○の言葉に、春は小さく頷いた。
一年間。
こうして何度も見つけてもらった。
元気に振る舞っている時ほど、無理をしていないか気に掛けてくれた。
外見は変わっても。
自分たちを見ている○○の目は、何も変わっていない。
その事実が嬉しくて。
同時に、今までよりも強く胸が高鳴った。
◇
「恋乃未」
「はい」
○○は一人ずつ、今日の状態を確認していく。
「最近、少し焦ってない?」
「焦っているつもりはないです」
「先輩たちの動きを見すぎて、自分も同じようにしなきゃと思ってるように見える」
恋乃未は黙った。
図星だった。
加入から一年。
いつまでも新人ではいられない。
後輩ではあるが、もう何も知らない存在ではない。
そう思うほど、先輩たちとの差が気になるようになっていた。
「追いつこうとすることは悪くないよ」
○○は続ける。
「でも、先輩と同じになる必要はない。恋乃未は恋乃未の見せ方を見つければいい」
「……はい」
「一年で、できることはかなり増えてる」
「本当ですか?」
「本当。俺は加入した時から見てるから分かるよ」
その言葉に、恋乃未の表情が少し緩む。
「焦らなくていい」
「分かりました」
恋乃未は素直に頷いた。
続いて、○○は宇衣を見る。
「宇衣」
「はい」
「最近、疲れてない?」
「元気ですよ」
「その答え方をする時は、だいたい少し疲れてる」
「そんなことないですって」
「昨日も、みんなが帰ってから残ってたよね」
「少し確認してただけです」
「その前の日も」
「……見てたんですか?」
「担当だからね」
当然のように返される。
宇衣は何も言えなくなった。
「明るく振る舞うのは宇衣の良いところだけど、疲れてる時まで元気なふりをしなくていいよ」
「ふりしてるつもりはないです」
「なら、今日は休憩中にちゃんと座ること」
「子供扱いしてません?」
「してない。無理しそうなメンバーを管理してるだけ」
「それ、結局子供扱いやん」
「じゃあ、自分で休める?」
「……休みます」
「よし」
○○が笑う。
宇衣は不満そうな顔をした。
だが、口元は少しだけ緩んでいた。
「桃実」
「はい」
「何か気になってることある?」
「特には」
「本当に?」
「はい」
○○は数秒、桃実の表情を見る。
「桃実は、周りのことを気にしすぎる時があるから」
「そうですか?」
「春の足にも気付いてたよね」
桃実の目が僅かに動いた。
「どうして」
「春を見る回数が多かったから」
○○は静かに答える。
「気付いてたなら言ってくれてよかったんだよ」
「春が自分で言うと思って」
「それも間違いじゃない。でも、桃実自身が気になってるなら伝えていい」
「……はい」
「周りを気遣うだけじゃなくて、自分の意見も言っていいからね」
桃実は少し考えたあと、頷いた。
「分かりました」
「和子も」
○○が和子へ向き直る。
「はい」
「同期をまとめなきゃって考えすぎないこと」
「考えてません」
「本当に?」
「……少しは考えています」
「責任感があるのは良いことだよ。でも、全部一人で抱えなくていい」
「一人で抱えているつもりはありません」
「ならいいけど」
○○は一度言葉を切る。
「和子が誰かを支えるように、和子も誰かに頼っていいから」
「……誰にですか?」
「同期でも、先輩でも、俺でも」
○○は自然に答えた。
「いつでも話を聞くよ」
その言葉に、和子はしばらく返事ができなかった。
○○にとっては、マネージャーとして当然の言葉。
だが今の和子には、あまりにも近く感じられた。
「ありがとうございます」
ようやくそれだけを答え、視線を下げる。
「ひなちゃん」
「はい」
「背伸びしすぎなくていいからね」
「してません」
「最近、先輩らしくしようとしてない?」
「一年経ったので」
「うん。でも、一年経ったからって急に全部できるようになるわけじゃない」
ひなは少し不満そうに○○を見る。
「私、成長してないですか?」
「してるよ」
○○はすぐに答えた。
「だから、無理に大人っぽく見せなくても成長は伝わってるって言ってる」
「……本当ですか?」
「本当」
「○○さんが見てて、そう思いますか?」
「一番近くで見てるからね」
ひなの頬が再び赤くなる。
「じゃあ……信じます」
「うん」
「○○さんが言うなら」
小さな声だった。
○○には聞こえたが、その意味を深く考えなかった。
「智尋」
「はい」
「周囲をよく見られてるのは、智尋の良いところだよ」
「ありがとうございます」
「でも、人の動きを分析しすぎて、自分の集中が途切れる時がある」
「……あります」
「今日は特に、他のメンバーの様子ばかり見てた」
「それは」
智尋は言葉に詰まる。
実際には、他のメンバーが○○へどんな反応をしているのか気になっていた。
「ライブでは、自分のパフォーマンスに集中していい。周りを見るのは俺やスタッフの仕事でもあるから」
「分かりました」
「全部把握しようとしなくていいよ」
「はい」
智尋は頷く。
冷静に状況を整理する自分の性格を、○○はよく理解している。
それを否定せず、必要な部分だけ修正してくれる。
今までも嬉しかった。
けれど今日は、その言葉を受け取るたび、胸の奥が落ち着かなかった。
「陽色」
「はい」
「最近、少し笑顔を作りすぎてる?」
陽色は目を見開く。
「分かりますか?」
「分かるよ」
「そんなに違います?」
「他の人には分からないかもしれないけど、俺は何度も見てるから」
○○は優しく答えた。
「無理に笑わなくてもいい。陽色が真剣な顔をしてても、怒ってるなんて思わないから」
「でも、周りを心配させたくなくて」
「心配させたくないからって、自分を苦しくする必要はないよ」
「……はい」
「笑いたい時に笑えばいい」
陽色は○○の顔を見つめる。
「○○さんの前でも?」
「もちろん」
「笑えない時でも?」
「その時は、笑えないって言ってくれればいい」
陽色は少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
その表情は、先ほどよりも自然だった。
「愛桜」
「はい」
最後に呼ばれた愛桜が、○○を見る。
「最近、ダンスの表現が柔らかくなったね」
「……本当ですか?」
「うん。前は正確に踊ることへ意識が向きすぎて、少し力が入ってた」
○○は資料ではなく、愛桜本人を見ながら話す。
「今は、音をちゃんと楽しめてるように見える」
愛桜の目が僅かに見開かれた。
「楽しんでるの、分かりますか?」
「分かるよ」
「どうして?」
「踊ってる時の表情が違うから」
○○は穏やかに笑った。
「前より、ずっと良くなってる」
「……ありがとうございます」
愛桜は胸の前で手を握る。
ダンスを褒められることは嬉しい。
それが○○からの言葉なら、なおさらだった。
けれど。
先ほど感じた、幼い頃の記憶との重なりが、また頭をよぎった。
この人は。
どうして、こんなふうにダンスを見ることができるのだろう。
愛桜は一瞬そう考えたが、すぐに思考を切り替えた。
○○は以前、ダンスをしていた。
それは四期生も知っている。
だから動きを細かく見られるのは当然だ。
それ以上の理由など、今はない。
◇
通しリハーサルが始まった。
四期生九人が、音楽に合わせて動き出す。
○○はレッスン室の前方に立ち、一人一人の動きを確認していた。
メガネがないため、いつもより少し近い。
その距離が、四期生たちをさらに緊張させる。
恋乃未は振りを間違えないよう集中しながらも、何度か○○の方を見てしまう。
宇衣は明るい表情を保っているが、○○と目が合うたび僅かに動きが硬くなる。
桃実と和子は比較的落ち着いているものの、○○が近付くと呼吸が浅くなる。
ひなは視線が合うだけで頬が赤くなる。
智尋は全体を分析しようとしては、自分の「反則ですよ」という発言を思い出して集中を乱す。
陽色は自然に笑おうとするが、○○が見ていると意識した瞬間、逆に表情がぎこちなくなる。
愛桜もまた、○○の目を意識していた。
曲が終わる。
「一回止めよう」
○○が声を掛ける。
四期生たちは息を整えながら、○○の言葉を待った。
「全体的には悪くないよ」
その一言で、九人の表情が少し緩む。
「ただ、今日は全員少し硬い」
すぐに全員が黙った。
「緊張してる?」
「してます」
恋乃未が素直に答える。
「ライブ前だから?」
「それもあります」
「それも?」
○○が聞き返す。
恋乃未はそれ以上言えなくなった。
「まあ、今日のうちに硬くなるのは悪くないよ」
○○は深く追及しない。
「本番までに修正できるから」
一人ずつ、細かな修正点を伝えていく。
春については足の状態を考え、動きを抑える部分を決める。
衣装スタッフとトレーナーにも確認し、無理のない範囲で参加できるよう調整する。
○○が一人で判断するのではない。
専門スタッフの意見を尊重し、必要な人へ繋ぐ。
その間も、春が置いていかれた気持ちにならないよう、変更点を丁寧に説明した。
「春、今日はここだけ動きを小さくしよう」
「でも、みんなと合わなくなりません?」
「位置は合わせる。足へ負担が掛かる動きだけ調整するから」
「本番までには」
「本番のことは、今日の状態を見てから決める」
○○はきっぱり言った。
「今無理をして悪化したら、もっと踊れなくなる」
「……はい」
「焦らなくて大丈夫。春が出られる形を、みんなで考えるから」
その言葉に、春は少し安心したように頷いた。
○○は、いつも「自分が何とかする」とは言わない。
必要なスタッフと連携し、最善の形を作る。
けれど、最後までメンバーを一人にはしない。
四期生たちは、その姿を一年間見続けてきた。
頼れるマネージャー。
信頼できる年上の人。
そこに今日から。
格好いい一人の男性という印象まで加わってしまった。
以前と同じように接しろと言われても、できるはずがなかった。
◇
数時間後。
通しリハーサルが終わり、四期生たちは休憩に入った。
それぞれ水分を取り、床や椅子へ腰を下ろす。
○○はスタッフとの確認のため、レッスン室を出ていた。
扉が閉まった途端、宇衣が春を見る。
「春ちゃん」
「何?」
「めっちゃ格好ええやん、やって」
「言わんといて!」
春がすぐに顔を赤くした。
「しかもレッスン室中に聞こえる声で」
「勝手に出たんやって!」
「本音が?」
「違う!」
「違わんやろ」
「違わへんけど!」
言い返してから、春は自分の口を押さえた。
宇衣が声を上げて笑う。
「認めたやん」
「もうやめて!」
春は近くにあったタオルを宇衣へ投げた。
宇衣は笑いながら受け取る。
「でも、春ちゃんだけちゃうよ」
「何が?」
「みんな、同じような顔してた」
「宇衣ちゃんもね」
ひなが口を挟む。
「うちはしてへんって」
「○○さんが近付いた時、すごく慌ててたよ」
「近かったからやん」
「近かったら、どうして慌てるの?」
「それは……」
宇衣は言葉に詰まった。
「ひなちゃんかて、名前呼ばれただけで真っ赤やったで」
「それは」
「それは?」
「……急だったから」
「いつも呼ばれてるやん」
「今日の○○さんは、いつもと違うから」
ひなの言葉に、全員が静かになった。
「違うって、何が?」
桃実が尋ねる。
「分からないけど」
ひなは膝の上へ視線を落とす。
「同じ○○さんなのに、違う人みたい」
「それは、メガネがないからでしょ」
智尋が冷静に答えようとする。
宇衣がすぐに反応した。
「反則ですよ」
「……何?」
「智尋ちゃんが言ったやつ」
「言ってない」
「○○さんにも聞かれてたやん」
「聞き間違い」
「まだそれで押し通すつもり?」
「事実だから」
智尋は表情を変えない。
だが、頬が僅かに赤い。
「反則って、どういう意味だったの?」
陽色が純粋に尋ねる。
「何の意味もない」
「でも、○○さん見て言ってたよね」
「独り言」
「何を考えてたの?」
「何も考えてない」
智尋はそれ以上答えなかった。
恋乃未が小さく笑う。
「でも、○○さんは○○さんだよ」
全員の視線が恋乃未へ集まる。
「メガネがなくても、私たちのことをちゃんと見てくれてるのは変わらないし」
「それはそうだね」
桃実が頷く。
「春の足にもすぐ気付いた」
「隠せてると思ったんやけどな」
春が苦笑した。
「宇衣ちゃんが疲れてることも」
「うちは元気やって」
「和子が周りを支えすぎてることも」
桃実の言葉に、和子は少しだけ視線を下げる。
「全部、今までと同じ」
恋乃未は続けた。
「外見が変わっても、信頼できる○○さんなのは変わらないよ」
「うん」
愛桜が頷いた。
「同じだと思う」
「じゃあ、どうしてこんなに緊張するんだろうね」
陽色が小さな声で呟く。
誰も答えられなかった。
信頼できる。
安心できる。
優しい。
いつでも助けてくれる。
それらは、今までと何も変わらない。
けれど、そこへ新しい感情が混ざり始めている。
その感情に、まだ誰も名前を付けることができなかった。
◇
休憩後。
愛桜は一人、鏡の前で振り付けを確認していた。
他のメンバーたちは衣装や次の予定を確認している。
愛桜は先ほど○○から褒められた言葉を思い返しながら、同じ部分を繰り返していた。
音を楽しむ。
力を入れすぎない。
柔らかく。
以前より良くなっていると言われた。
そのことが嬉しかった。
だが、自分の中ではまだ納得できない部分がある。
動きの流れが、一瞬だけ途切れてしまう。
もう一度。
足を置き。
重心を移し。
身体を回す。
「そこ、少しだけ重心が外に流れてる」
背後から声がした。
愛桜が振り返る。
○○が立っていた。
「見てたんですか?」
「少しだけ」
「どこが違います?」
「最後に右足へ乗る時。愛桜は次の動きを急いで、身体だけ先に行ってる」
○○は愛桜の隣へ立つ。
「足の位置を、ほんの少し内側にしてみて」
「このくらいですか?」
「もう少しだけ」
○○は自分の足を使い、位置を示した。
本格的に踊るわけではない。
負傷した左膝へ大きな負担を掛けないよう、必要最低限の動きだけを見せる。
「ここで一回、床を踏む」
身体を大きく動かさず。
手の角度と足の位置だけで、動きの流れを説明する。
「そのまま次へ行けば、上半身を無理に振らなくても自然に見えるよ」
愛桜は○○の動きを見つめていた。
ほんの僅かな動作。
ダンスと呼ぶほど大きなものではない。
けれど。
床を捉える足。
重心の移し方。
次の動きへ繋がる身体の使い方。
その全てに、無駄がなかった。
「……」
愛桜の中で、遠い記憶が蘇る。
幼い頃に見たコンテスト。
ステージの上で踊っていた、名前も知らない少年。
誰よりも楽しそうに。
音そのものになったように動いていた。
顔は覚えていない。
それでも。
今、目の前で足の位置を示した○○の動きは。
あの日の少年と、どこか似ていた。
「愛桜?」
○○の声で、意識が現実へ戻る。
「どうかした?」
「いえ……」
「分かりにくかった?」
「違います」
愛桜は首を横へ振った。
「すごく、分かりやすかったです」
「ならよかった」
「もう一回やってみます」
愛桜は教えられた位置へ足を置く。
床を踏み。
重心を乗せ。
次の動きへ繋げる。
先ほどまで感じていた引っ掛かりが消えた。
「どうですか?」
「うん。今の方が自然」
○○が頷く。
「愛桜は感覚を掴むのが早いね」
「○○さんの教え方が分かりやすいからです」
「昔やってたことが、少し役に立っただけだよ」
昔。
その言葉に、愛桜はもう一度○○を見る。
「○○さんって、いつまでダンスしてたんですか?」
「高校生の頃までかな」
「コンテストとかにも出てました?」
「少しだけね」
「そうなんですね」
愛桜の胸が僅かに高鳴る。
だが。
それだけで、幼い頃に見た少年と○○を結び付けることはできない。
ダンスをしていた少年など、いくらでもいる。
コンテストへ出ていた人も珍しくない。
何より、自分はその少年の顔も名前も覚えていない。
「どうして?」
○○が尋ねる。
「何でもないです」
「そう?」
「はい」
愛桜は小さく笑った。
「昔、ダンスがすごく上手な人を見たことがあって」
「へえ」
「その人に、少し動きが似てた気がしただけです」
「俺が?」
「ほんの少しだけです」
「それは、その人に申し訳ないな」
○○は苦笑した。
「今の俺は、本格的には踊れないから」
「でも、綺麗でした」
「足の位置を示しただけだよ」
「それでも分かります」
愛桜は真剣に答えた。
○○は一瞬だけ言葉を止める。
それから、穏やかに笑った。
「ありがとう」
愛桜の胸に、また小さな違和感が残る。
懐かしい。
けれど。
その正体へ辿り着くには、まだあまりにも記憶が遠すぎた。
◇
愛桜が同期たちのもとへ戻ると、宇衣がすぐに近付いてきた。
「何話してたん?」
「振り付けを見てもらってた」
「二人で?」
「うん」
「近かった?」
「何が?」
「距離」
「普通だったよ」
「愛桜、顔赤いけど」
「踊ったから」
「ちょっとしか踊ってへんやん」
「暑いから」
「今日、みんなそれ使うなあ」
宇衣が笑う。
春も会話に加わる。
「○○さん、何か踊ったん?」
「足の位置を見せてくれただけ」
「それだけ?」
「うん」
愛桜は少し考えたあと、続ける。
「でも、すごく綺麗だった」
「足の位置だけで?」
智尋が尋ねる。
「うん。動きに無駄がなかった」
「愛桜がそこまで言うなら、相当なんだね」
恋乃未が感心したように言う。
「○○さん、昔ダンスしてたもんね」
「もっと見せてもらいたいな」
陽色が口にする。
「でも、膝があるから」
桃実が静かに答えた。
○○は、一日数曲程度なら踊れる。
だが、かつてのように長時間、本格的に踊ることはできない。
四期生も、そのことは知っている。
「無理はしてほしくないね」
和子が言う。
「うん」
愛桜は頷いた。
それでも。
いつかもう一度。
今度は足の位置を示すだけではなく。
○○が本当に踊る姿を見てみたい。
そんな思いが、胸の奥へ静かに生まれていた。
◇
午後の仕事が進み。
二期生、三期生、四期生が、一つのレッスン室へ集まった。
新年度ライブへ向けた全体確認。
これほど多くのメンバーが揃えば、普段なら賑やかな空気になる。
先輩と後輩で振りを確認し。
冗談を言い合い。
○○の周囲にも、自然と誰かが集まる。
しかし今日は。
全員が、○○の近くへ行きたそうにしながら。
いざ近付くと、まともに顔を見られなくなる。
「○○さん、この立ち位置なんですけど」
愛季が資料を持って近付く。
「どこ?」
「ここです」
○○が資料を見るため、愛季の横へ並ぶ。
肩が触れそうな距離。
「……」
「愛季?」
「はい」
「資料、もう少し上げてくれる?」
「あ、すみません」
愛季は慌てて資料を持ち直す。
その後ろでは、恋乃未が○○へ質問するタイミングを窺っている。
さらにその後ろでは、ひなが恋乃未の背中から○○を見ていた。
麗奈は何かを伝えようと近付くものの、○○が振り向くと一度立ち止まる。
夏鈴は離れた場所から、その様子を静かに見ている。
ひかるもまた、資料を持つ○○の横顔を目で追っていた。
誰もが○○のそばへ行きたい。
だが。
正面から素顔を見ることには、まだ慣れない。
昨日まで自然だった距離感が、完全に崩れていた。
「今日の皆さん、分かりやすすぎません?」
部屋の隅で様子を見ていた増本綺良が、楽しそうに呟いた。
隣にいた大沼晶保が首を傾げる。
「何がですか?」
「○○さんが近付くたび、誰かの顔が赤くなってます」
「確かに、今日は皆さん顔が赤いですね」
「晶保さんは、そのままの晶保さんでいてください」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味です」
綺良は室内を見渡す。
二期生。
三期生。
四期生。
程度の差はあれど、全員が○○を意識している。
本人たちは、まだその感情へ明確な名前を付けていない。
だが、綺良には分かっていた。
「これは、これから大変になりますね」
「ライブがですか?」
「違います」
「じゃあ、何が?」
「○○さんです」
晶保はますます分からないという顔をした。
綺良は説明せず、一人で楽しそうに笑った。
◇
全体確認を終える頃には、外はすでに夕方になっていた。
○○はスタッフと最後の打ち合わせを終え、メンバーたちの予定をもう一度確認する。
「今日はここまで。みんな、忘れ物がないようにね」
「はい」
「春は帰ったら足を冷やして。明日の朝、状態を連絡して」
「分かりました」
「宇衣も今日は残らないこと」
「分かってますって」
「恋乃未は、今日の修正を考えすぎないで一回休む」
「はい」
「理子とひなちゃんは、水分をちゃんと取ること」
二期生から四期生まで。
○○は、最後まで一人一人の状態を気に掛ける。
全員が返事をする。
その声には、朝とは違う感情が混じっていた。
信頼。
安心。
尊敬。
そして。
まだ本人たちさえ認めていない、小さな恋心。
「俺は帰りに新しいメガネを見てくるよ」
○○が机の上を片付けながら言った。
その瞬間、メンバーたちの表情が微妙に変わる。
明日には、いつもの黒縁メガネへ戻るかもしれない。
そうなれば、今日のように落ち着かなくなることもない。
以前の距離感へ戻れるかもしれない。
けれど。
素顔が隠れてしまうことを、残念だと思う自分たちもいた。
「同じようなメガネにするの?」
ひかるが尋ねる。
「そのつもり」
「今日買うん?」
保乃が続ける。
「時間があればね」
「別に、急がなくてもいいんじゃないですか?」
麗奈が言う。
「でも、仕事がやりづらいから」
「コンタクトは?」
天が尋ねた。
「今日は持ってなかった。家にはあるけど、普段ほとんど使ってないから」
「じゃあ明日からコンタクトにしたら?」
「メガネの方が楽なんだよ」
○○はそう答えた。
メンバーたちは、それ以上強くは言えない。
仕事に支障があるなら、新しいメガネが必要だ。
○○が決めることでもある。
「じゃあ、お疲れさま」
「お疲れさまでした」
全員が挨拶し、それぞれ帰り支度を始める。
○○も鞄を持ち上げた。
その時。
スマートフォンが震えた。
「……はい」
画面を確認し、すぐに電話へ出る。
「お疲れさまです。今、大丈夫です」
○○は少し離れた場所へ移動し、相手の話を聞く。
「会場側の導線が、また変更になった?」
メンバーたちの動きが止まる。
「分かりました。今日中に確認します。衣装の搬入時間にも影響が出る可能性がありますよね」
電話を切る。
○○は短く息を吐いたあと、すぐに別のスタッフへ連絡を始めた。
「すみません。会場側から修正が入ったので、今から確認してもいいですか?」
帰るはずだった○○の鞄が、再び机へ置かれる。
「○○さん」
恋乃未が心配そうに声を掛ける。
「大丈夫。少し確認が増えただけだから」
「メガネを買いに行くんじゃ」
「今日は無理そうだね」
○○は苦笑した。
「ライブが終わるまでは、このままでいいか」
その言葉を聞いた瞬間。
二期生。
三期生。
四期生。
その場にいた現役メンバーたちが、一斉に落ち着かない表情を浮かべた。
「何?」
○○が尋ねる。
「いや」
ひかるが答える。
「何でもない」
「そう?」
「うん」
○○は不思議に思いながらも、すぐに仕事へ意識を戻した。
メガネを買い直せなかった。
本人にとっては、ただそれだけ。
仕事が少しやりづらい状態が、あと数日続くだけだった。
だが。
メンバーたちにとっては。
素顔の○○と、明日からも同じ時間を過ごすことが決まった瞬間だった。
近くへ行きたいのに、近付けない。
話したいのに、目を合わせられない。
今までと同じ人なのに。
今までと同じ距離には、もう戻れない。
頼れるマネージャーとして。
優しい先輩として。
安心できる年上として。
一年間慕い続けてきた○○の姿が。
一人の男性として、四期生たちの心に刻まれ始めていた。
第3話「戸惑うメンバーたち」 終
