レフト イズ ライト 密室蒸発事件4
-蒸発01-
「死にたい」と書かれたメモを渡すと、坂下様は左手で握りしめて、固まってしまった。
「ど、どうすれば。沙織、沙織」
坂下様は気が動転して、娘さんの名前を繰り返すばかりだ。神野さんが慎重に確かめる。
「それはお子さんの字で間違いありませんか?」
「はいっ、沙織の字です」
坂下様は機械に疎いらしく、何時に帰る、スーパーでの買い出しに必要なもの、どこに出かけるなど、沙織さんとの日々のやり取りもメモ用紙で行っていたのだと言う。それで、沙織さんの字を見慣れているとのことだ。
「一応部屋の中を探そう」
神野さんが的確な順序でみんなに指示を出している。フロントのカードキー管理システムでは、沙織さんは部屋の中にいることになっている。だが、いないとしたら、結構前に出たことになる。そして、もしもホテルの外に出ていたら、遠くに行っている可能性もある。まずいぞ。それに、沙織さんはフロントに知られずにどうやって部屋の外に出たのだろう。これではまるで蒸発したみたいだ。神野さんは三根さんと麻田くんにも話を聞いている。
「掃除の時に何か変わったことは?」
「そう言えば」と三根さんが、ドアが勝手に閉まったこと、ストッパーの位置がおかしかったことを説明している。
「どうせ兄貴がドアストッパーをいいかげんに扱ったんだろう」
かき氷のように冷たい声でそういうのが聞こえた。ぼくは部屋の中をざっと確認する。沙織さんは十四歳だから可能性は少ないが、小さい子どもの場合には、カーテンの裏に隠れていたりするものだ。念のため、カーテンをめくってみたが、案の定誰もいない。ベッドの下はさっき神野さんが確認していた。樺沢さんはバスルームでバスタブの蓋を取って中を確認したらしく、誰もいないことを神野さんに報告している。
トランクは二人分あり、持ち出された形跡はない。沙織さんがなにか荷物を持っていたとしてもせいぜいハンドバッグやショルダーバッグだろう。やはり、部屋にはいないようだ。けれど、沙織さんが蒸発した理由と方法はなにかという謎が生まれてしまった。沙織さんはホテルに宿泊することに慣れているのか、父親の書くミステリー小説にホテルのシーンがあって、カードキーの使用履歴から部屋への出入りが監視されていることを知っていたのかもしれない。だから、何らかの手を使って、坂下様が出掛けた後に、自分がドアを開閉した記録を残さずに部屋を出たのだ。そして、おそらく遠くに行くための、最悪の場合死ぬまでの時間稼ぎをしたということだ。ぼくたちは、沙織さんにしてやられたわけだ。
「沙織さんがいつ部屋を出たのか、確認してくれ」
神野さんはインカムを通して保安部ともやり取りをしている。ぼくが「かなり前に出ただろうな」と呟くと、神野さんが眉をひそめた。たしかに確定してもいないのに、心配を増すようなことを言ったのはいけなかったと反省する。もちろん、沙織さんが部屋にいないことは入った時点で神野さんも気付いていただろう。カードキーで出入りを確認するシステムだけではなく、最初から監視カメラも確認すればよかったと、今更ながら思う。
「一時間前だな?わかった。引き続き頼んだぞ。こちらはカメラの死角を探す」
保安部の監視カメラからわかったことは、坂下様が部屋を出てすぐに沙織さんも部屋を出たということだ。それは予想通りだ。神野さんはみんなにすぐさま指示を出す。
「坂下様は沙織さんの財布や荷物を確認してください。端末や財布が置いてあるなら、遠くには行けないはずです。支配人はここに残ってゲストのフォローとケア、それから情報を逐次インカムに入れてください。三根さんと兄貴は念のため、開けっ放しになっていたかもしれない備品室を確認」
そう言いながら、神野さんはぼくたちを外へ出るように促す。部屋を出て、ゲストに声が届かないところまで来ると、神野さんは
「ナイフを持ち出しているかもしれない」
とぼくたちに囁いてきた。さっきのトレイにはたしかにナイフは一本しかなかった。沙織さんが持ち出したとすると、やっかいなことになる。ルームサーヴィスでナイフを使用する料理だったかどうかを確認したほうがいいだろうか。いや、仮にそうでなかったとしても、他の部屋の前にもルームサーヴィスの台車が置いてある。そこからナイフを取ったのなら、把握するのに時間がかかりすぎる。坂下様によると、沙織さんは白いスカートに、白い長袖のシャツを着ているそうだ。長袖とナイフという言葉が不穏な結びつきを生む。沙織さんは日ごろからリストカットをしていて、それを坂下様に知られないように、長袖を着ているのではないだろうか。とにかく早く探さないと。チェックインの時に顔色が悪かったと帯さんが言っていたのも、今回のことを計画していたからなのかもしれない。
「それから三根さんは備品室を探したら、もう時間だろう。心置きなく帰宅してくれ。後はこっちに任せろ」
どんな事態が持ち上がっても残業なし、早出もなしというのが、このホテルに人が居つく理由で、それはこんな時にでも徹底されている。三根さんと麻田くんは頷くと、急いで備品室を確認しに行った。
各階には備品室があり、シーツやベッドカヴァー、枕カヴァー、ベッドスローなどのリネン類、トイレットペーパー、椅子、ツインに三人泊まりたいという要望に応えるためのエキストラベッドなどが置いてある。このホテルではリネンも備品もまとめて各フロアの端の小部屋に置いていて、ハウスキーパーが部屋を掃除する時には、この備品室は施錠することになっている。そして、必要なものを台車に載せて、各部屋を移動する。汚れたタオルなどの回収も同時に行うが、これも回収用の台車に備え付けられた大きな袋の中で、仕切られたスペースごとにタオル、シーツなどと分けて入れていく。ただ、マニュアルはあっても、麻田くんのように入って間がない新人だと、備品室の部屋を開けっぱなしにしていることもあるようだ。時折、他のホテルでは子どもがそうした部屋に入り込んでしまい、スタッフが気づかずに外から鍵をかけてしまう何ていう事件を耳にすることもある。神野さんはぼくにも指示を出す。
「わたしたちは一緒に、階段でカメラの死角になっているところや庭を探すぞ」
「わかりました」
しばらく階段や庭を捜索していたが、庭で三人が合流したところで、神野さんがインカムからの情報を伝えてくれる。監視カメラに、沙織さんがホテルの外に出たところが映っていたらしい。外となるとやっかいだ。行先の手がかりがないだろうか。必死に考えるがわからない。支配人からは保安部経由で神野さんに連絡があり、ハンドバッグを持って出たそうだ。端末も部屋には見当たらないらしい。坂下様には行く先の見当もつかないとのことだ。親というのはそんなものだろう。ぼくたちはホテルの正面玄関を出た。どっちに行ったろう。死にたいなどという人間の心はたいてい下に向かう。坂を登るのは元気な時だ。神野さんに目をやると、顎で坂の下を差した。
「ですよね」
「ふん わかっているか」
わかってしまうぼくたちはなんなのだろう。やりきれない思いを抱えながら、坂を急いで下る。死を考える人間というのは昔から低い方に行くと相場が決まっている。地獄も墓も下にあるイメージだ。つまり坂の上は探さなくていい。樺沢さんだけはわけがわからないという表情でしきりに首を振りながら、黙って後を走ってくる。ぼくもわからない人生を歩みたかった、とつい沈思黙考してしまう。長い坂を下り終えると、左右に一本道がある。右は渋谷、左は代々木八幡に通じている。だが、バスも通るし、ろくな歩道もないこの道よりは、静かな川沿いを歩くのが気分には合っているだろう。
「まっすぐですね」
「だろうな」
二人の意見はまたも一致する。バス通りを越えて、5メートルもいかないうちに、宇田川に出る。さて、どっちだ。
「宇羽川、その子は左利きなのか?」
昨日チェックインした坂下様親子は、シフト上はぼくか目次さんがお相手をしたはずなのだ。ザ レフト ホテル神山に宿泊するゲストは、親が左利きというケースが圧倒的に多い。子連れの場合、家族全員が左利きということは稀だ。一説によると、右利きの両親から左利きの子どもが出現する確率は10%程度らしい。両親が左利きの場合は、子どもが左利きになる確率は25%程度だそうだ。つまり、沙織さんが右利きであってもおかしくない。
「わかりません。フロントでチェックインの対応をしたのがぼくだったのは間違いありません。坂下様の声を憶えているので。けど、沙織さんはその時話さなかったので」
「顔を憶えていないんだな?」
「はい。ぼくは人の顔を憶えるのが本当に苦手で」
「だから、近くにいたはずの沙織さんがトランクを左手で持っていたかどうかもわからない」
なんて駄目なんだ、ぼくは。
「はい」
我ながら消え入りそうな声で、返事をするのがやっとだ。それでも、意を決して口を開く。
「けど、たぶん左利きだと思います」
「なぜそう思う」
ぼくはドアストッパーの話を思い出して、考えたことを伝えた。
「三根さんが見た時に、ドアストッパーが五時三十分の位置にあったということは、内側からドアストッパーを使った人間がいて、使い終えた後に、ホテリエとは違う三時の位置に戻したということです。九時から六時を通り越して五時三十分の位置に行くことは不自然です。内側からだとドアを押すだけで出られるので、左利きの人間でも右手でドアを押します。そして、右手でドアを押さえて、左手でストッパーを扱う方が自然です」
「なるほど。そして、左手で扱うなら、手前に引く、三時の位置にストッパーが行くということか」
「お兄さんは いつもとは違うスタート位置にストッパーがあったので、しかも右手で扱ったので、うまく閉まらなかったんじゃないですかね」
お兄さんのフォローをしてみたが、それを無視した神野さんは端末を取り出して、操作すると話し出した。インカムは保安部としか通信できないし、そもそもホテルの外は圏外なのかもしれない。
「神野だ。沙織さんが左利きかどうかわかるか?」
かすかに梟という声が聞こえてくる。コンシェルジュの梟さんだろう。フロント近くのコンシェルジュデスクにいるから、沙織さんのことを憶えているかもしれない。
「わかった。左利きだな」
神野さんは端末を左のポケットにしまうと、「当たりだ」と言ってから、指示を出す。手が左利きだと、足もそうである可能性が高い。人間は無意識に利き足に力が入る。だから、必死で逃げている時や、死にまとわりつかれている時などは、自然と左足に力が入る。結果として、二叉路では右に曲がることが多い。岩男は足が遅いので、可能性の高い右を任された。ああいう精神状態の人間はふらふら歩くので、樺沢さんの足でも追いつけるだろう。予測が外れた場合、探索範囲が広くなるから、こちらは足の速い人間の方がいい。ぼくは宇田川を越えて井の頭通りを右へ曲がって下流へ、神野さんは代々木八幡のある上流に向かう左の方へと分かれて探すことにした。ぼくはベンチや木陰に気を配りつつ、早足で渋谷駅方面に向かう。しかし、見当たらない。どこかに隠れていたりしたら、お手上げだ。暫くすると、端末に神野さんから連絡が入った。
宇田川沿いのベンチにいる沙織が、隣に座った三根に向かってナイフを突き出している。それを目にした樺沢はこれ以上ないくらいの大きな声を出して、二人に向かって走った。
「やめろーーーーー!」
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