『絶望名人カフカの人生論』を読んで
ほんのりとしたネガティブな気分を自覚したので、波長を合わすために『絶望名人カフカの人生論』という本を読んだ。
奇しくも、悲しいときに悲しいものに触れて心を癒す、という私のこの試みは本書では音楽療法の枠組みのなかで語られていた。
音楽療法としてのネガティブの活用
「そのときの気分と同じ音楽を聴くことが心を癒す」という考えは「アリストテレスの同質効果」として紹介されていた。
本書の編訳者である頭木弘樹さんは、「つまり、悲しいときには悲しい音楽を聴くほうがいい、というのです」とアリストテレスの主張を誰にでも伝わるように説明している。
同質効果とは逆に、心が辛いときに悲しみを打ち消すような明るい曲を聴くことは「ピュタゴラスの逆療法」として紹介され、現代でも「異質への転導」と呼ばれているようだ。
異質への転導…このことばの持つ響きは、詩作が好きな私にはとても刺さるが、療法の効果を期待したいときは圧倒的に前者を選択する。
ネガティブ気分にはネガティブ要素に浸る「同質効果」が自分の肌には合うと思うから。
ちなみに、一見対立する2つの療法は実はどちらも正しくて、最も効果を発揮するのは両方を同質⇒異質の順で使用したときらしい。
さて、本書による癒やしの効果のほどはいかに。
それは後ほど語りたい。
本書との出会い
たしか今年の2月頃に購入した。
通勤時間や休憩時間に読む本を探していた。
もともとはダニエル・キイスのとある本を求めて書店めぐりをしていたのだが、なかなか見つからず途方に暮れていたところ、『絶望名人カフカの人生論』という黄色い背表紙が目に飛び込んできた。
好きな作家の名前が冠されている時点で購入したい気持ちはあったが、ただの「教訓」や「格言」にはあまり興味を持てない性質なので、念のために内容を確認してから購入することにした。
目次をみてみようかな、と本に指をかけパラパラめくろうとすると著者紹介のすぐ横のページが黒いことに気づく。
本来なら書籍のタイトルや著者名などが書かれているであろうそこには、黒地に白抜きで次のように記されていた。
すべてお終いのように見えるときでも、
まだまだ新しい力が湧き出てくる。
それこそ、おまえが生きている証なのだ。
頭に?マークが浮かんだ。
これのどこが「絶望」なのだろう。
帯には「至高ネガティブ名言集」という文字が踊っていたが、この本はネガティブの皮を被ったポジティブで構成されているのでは…と疑念を抱きながら、もう1ページめくった。
先ほどのことばの続きがあった。
もし、そういう力が湧いてこないなら、
そのときは、すべてお終いだ。
もうこれまで。
なんともドライで、清々しい諦め。
絶望というタイトルから、「おぉ、神よ…!」で始まる苦悩や嘆きに満ちた粘性の高い文章を勝手にイメージしていたが違った。
カフカが語るこの「乾いた絶望感」が気に入り、私は意気揚々とレジへ向かった。
帰宅後、思わぬ収穫が得られたな~とやや興奮しながら続きを読む。
ミルクのコップを口のところに持ちあげるのさえ怖くなります。
そのコップが、目の前で砕け散り、破片が顔に飛んでくることも、起きないとは限らないからです。
街中で道路にポツンと置かれたペットボトルをみて、自分が通り過ぎるときに急に爆発したらどうしよう、と不安を感じたことはたしかにあるな…。
そう思いながら読み進めてみたが、日常に追われて完全に余裕をなくし、本書は閉じられたまま歳月が過ぎた。
「乾いた絶望」による癒しの効果
購入から半年が経ち、昨日。
仕事を辞め、ストレスは随分軽減されたはずなのに心身ともに体調は安定しにくいな…とネガティブな気持ちが込み上げてきた。
そして「そういえばあの本があったな。読んでみようか」と本書に手を伸ばしたのだった。
ページを開くと、将来・世の中・自分の心の弱さ・親・仕事・不眠…あらゆることに対するカフカの絶望が並んでいた。
ジェットコースターのような乱高下とは全く無縁な、安定した「下」の連なりは私にある種の凪を感じさせた。
たまに共感しすぎて苦しくなることばもあったが、憧れの偉人と同じようなことで悩めるなんて…と不謹慎な小さな喜びも感じた。
とくに刺さった「カフカの絶望のことば」を少しだけ紹介させてほしい。
ぼくは人生に必要な能力を、
なにひとつ備えておらず、
ただ人間的な弱みしか持っていない。
まるで自分のことのように思えた。
実際は、カフカは死後、世界的な文豪となったのだから自分とは天と地の差があるのは分かっているのだが、彼の当時の「無力な自分への嘆きと諦め」が静かに私のこころを打つ。
彼は、彫像を彫り終えた、と思い込んでいた。
しかし実際には、たえず同じところに鑿を打ち込んでいたにすぎない。
一心に、というより、むしろ途方にくれて。
自己改善をめざして様々な書籍に触れているが、変わったなと言い切れたためしはない。なりたい自分を思い描きつつも、半ば途方にくれながら「到達不可能に思える高み」を目指している自分にどこか重なる。
ぼくは父親になるという冒険に、決して旅立ってはならないでしょう。
自分の面倒も自分で見切れないようなやつが子どもなんて持つ資格がないし、自分の性質や特性を引き継いでしまったら…と考えた結果、子どもを持つことを人生の選択肢から外した昔のことを思い出し、「うん、私も」と静かに同意した。
本書ならではの魅力
いくぶん湿っぽくなってしまったが、最後に本書ならではの魅力を紹介したい。
いまさらになってしまうが、本書はカフカのあらゆる絶望を並べるだけでは終わらず、全編を通じて彼の絶望のことばに対して編訳者、頭木弘樹さんの解説が付されている。

(『絶望名人カフカの人生論』p.98-99より)
カフカのことばだけでは、知り得ない/汲みとれないことを頭木さんは事実に基づいて教えてくれる。
たとえば、カフカの置かれていた環境や彼をとりまく人間との関係性など。
そして、そうした背景を示すだけではなく、甘すぎない優しさでカフカの絶望に少しだけ寄り添うことばを残す。
カフカの乾きと差がないような、あまり熱のない頭木さんの語り口調を私は好ましく思った。
頭木さんによる「あとがき」では、彼自身の突然の難病発症に伴い、引きこもり生活を余儀なくされたこと、そしてそのなかでカフカの日記や手紙に何より支えられた、ということが打ち明けられていた。
青年がある朝巨大な毒虫になってしまった、というところから始まるカフカの『変身』を挙げ、「突然身体に異変が起きて、部屋から出られなくなり、家族に面倒をみてもらうしかなくなる」という事態を身をもって体験した、と述懐する頭木さんの姿が印象的だ。
以上をふまえて、もう一度軽く読み直してみた。
恩人とも言えるカフカの「絶望の温度」に合わせながら、頭木さんは本書を執筆されたのかな、と感じた。
もっと熱を込めてカフカのすごさを訴えたり、彼の絶望に深く寄り添うこともできたのに、頭木さんはそうしなかった。
彼は中立的で、少し距離をとった語りを貫いた。
そこに、彼のカフカの絶望への尊重と、カフカという人間への敬愛を感じて、素敵な作品だなとしみじみ思った。
パタン、と本を閉じたとき、私のこころはすっかり凪いでいた。
