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【小説】こきあけのペンダント 6


死の滑降


3月。
まだ暗いうちから、ふたりは久手の牧場から乗鞍スカイラインに向かって深雪を登り始めていた。
杉本の両足には、亨のスパチュラV2が輝いていた。
星の降る夜。
東の空はいくらか白みはじめてはいるが、新月の底の抜けたような宇宙の色は美しかった。
放射冷却によりマイナス15度を下回る気温は手足と顔面を凍てつかせ、登れど登れど体が温まるのには程遠かった。

夫婦松で乗鞍スカイラインと合流し、道路を大胆にショートカットしながら猫の小屋を過ぎると道路は直線的になり、森林限界を超えた。
いつもはここまで登ると急に風が吹き荒れるのだが、その日は驚くほどおだやかで、気温が低かった。
いくつかのピークを横目で見ながら畳平2702メートルまでたどり着くと右の最奥に、なだらかな容姿の里見岳が現れ、その向こう側がペンダントの入り口だった。

里見岳と摩利支天を結ぶ稜線まで登ると、そこでシールを外し、緩やかな斜面をペンダントに向かって静かに滑り降りてゆく。
途中右側には、亨が滑落した蛇出谷への入り口が不気味に見えていた。
ここから先は未知の領域だ。
平たんな雪原は次第にせばまり、飛び込み板のように突き出した尾根の先はいきなり崖のようになっていて、とてつもない露出感が襲ってきた。
何という眺望だろうか。まるで大空を飛んでいるかのようである。
下方には広大な五色ヶ原の原生林と、中央を流れる岩井谷の窪みが一筋の糸切れのように見て取れる。
そしてはるか彼方には、おぼろげながら高山の街並みが確認できた。

崖の際に立ってみると、あきれるほどに途切れることなく、どこまでも奈落の底に落ちるような急斜面の恐ろしい絵ずらが展開されている。こんな地形の存在自体がどうかしているし、もはやバックカントリースキーという概念を越えているのではないかとさえ思った。
「うわ、想像はしてたけどそれ以上ね。でも・・・亨クンはこの景色を見てないんだよね」
普通、バックカントリーの急斜面でもところどころに平たんな箇所があり、そこで一息つけるものなのだが、こいつは2000メートルの距離にわたって平均斜度32度という恐怖が延々途切れることなく続いている。
この斜面、直下の「女の首筋」は、ハイマツ帯の開けたバーンであり、自由度は比較的高そうなのだが、その下の「ペンダント」からは樹林帯の中の極めて幅の狭いシュートとなっている。予定しているペンダントの右側入り口は辛うじて確認できるものの、最下部の「胸の谷間」と呼んでいる左右ペンダントが合流した先は、ここからでは皆目見当もつかない。
我ながらバカなことをしたものだと自分にあきれる。

「別にお前、やらなくてもいいんだぜ。こんなことに意味は無いんだ。バカのやることだよ。今ならまだ引き返せるぞ」
ユーリは蒼太を睨んだ。
「あのさあ、今さら蒼太ここに置いて帰れるわけないじゃん。悪いけどアンタが滑るとこはしっかり見届けるよ。それがわたしの役目」
俺は思い切り息を吸い込んだ。
「あーあ!亨の奴め!余計なことしてくれるよなあー」
杉本は高山の地に向かって思い切り叫んだ。
「蒼太こそ何でこのペンダントに固執するのよ」
「・・・俺も、取りつかれたんだろうな。このペンダントの魔性に」
「しっかり見ててあげるよ。多分・・・誰も滑ったことないよね、こんなとこ」
「ああ、何度でも言うよ。こんなことやろうとするバカいるわけねえよ。亨以外に」
自然とふたりは肩を抱き合った。ユーリの頬が、冷たかった。

握り合った手を離す。あとは覚悟を決めるだけだ。
「気を付けて」
「ペンダントの合流点で待っている」
「シケた面してっとホントに死ぬぞ!笑っていけ」
「了解ィ!オラいけえー」


杉本は競技スキーのスタートのように、跳ねて一直線に飛び込んだ。
ゴウッという風切り音と同時にチューニングされた亨のスパチュラV2は恐ろしい加速をしてみせる。雪は新雪だが3000m級の高度にさらされ、32度の斜面にへばりついたそれは締まっていてものすごい反力を感じる。
この雪を踏んだ音、安定している。雪崩れる感じではない。
そう判断すると、思い切りスパチュラに荷重をかけてターンを試みた。
「うお」
曲がらない!この板、曲がることを拒みやがる。どうしろというのだ。このまま真っすぐ行けば、ほどなくして落下速度に達するだろう。時速200㎞オーバーだ。それをテレマークでか?バカいってんじゃねーよ。
「うおおおー」
元スラローマーの意地にかけて、杉本はスパチュラを曲げにかかった。
「亨!何だこの板は!自殺行為だ」
降りてすぐの女の首筋は開けたバーンなので、ラインは比較的自由に取りやすいのが幸いした。杉本はスパチュラをねじ伏せて大回転で女の首筋をなぞっていった。
急激に高度が下がってゆく。明らかに酸素の密度と気温の上昇を感じる。
開けたバーンの谷が深くなってゆくと、ハイマツ帯から樹林帯のエリアとなり、そこはペンダントの入り口である。入り口の両側には岩が露出しており、雪が続いているのは中央2mほどの狭き門だった。そこを狙いすまして杉本は直滑降で侵入した。
この先が、あの、ペンダントのシュートだ。
傾斜が・・・きつい、スピードが・・・恐ろしい。
杉本は飛んだ。
肩幅ほどの狭い雪のスロープを、岩をかすめるようにして飛び越えるとそこはペンダントの最上部だった。だがバスンと着地した瞬間、明らかに今までとは異なる不吉な音を感じた。
まずい、これは崩れる音だ。

雪の上にいると、普通の人間は音を捉えるのが難しいらしい。
それが落石であっても、雪崩であっても、そいつは音もせずにいきなりやってきて、気がついた時には岩に足を粉砕され、あるいは雪崩の衝撃ではじき飛ばされるのだ。だが杉本はそれが理解できなかった。
過去に幾度となくそういう場面に遭遇したのだが、その前兆は確実に感じ取ることができた。音と言えばそうかもしれないのだが、何かイヤな波動が沸き上がる感覚。そう、亨が、あの時、蛇出谷の雪庇崩落の際もギィーという不吉な波動を感じたのだ。雪と雪がズレる音。このペンダントに着地した時、確かにそれを感じた。

来る!

杉本は目いっぱい前後に脚を開き、最大限のテレマークポジションを取ってターンをし、足元をすくわれるのに備えた。
その直後、背後から不気味な雪のズレる音が音速で杉本の耳をかすめて追い抜いて行った。
それを追うように、無数のひび割れがこのペンダント全体の雪面を、網の目状に覆ってゆくのを目撃した。
平らだった雪の急斜面は全てが一瞬にして瓦礫と化し、雪煙とともに一斉に崩落を始めた。

杉本は、構わず滑り続けた。

雪崩の上を、滑り落ちてゆく無数の雪の瓦礫の上を、目のくらむようなスピードで滑り続けた。
杉本は理解したのだ。この板は乗ったら最後、悪魔に魂を売ったのと同じだということに。

俺は今、滑りながらも雪崩の雪の破片がひとつひとつよく見える。
薄暗い森を背景に、あるものは衝突し粉々になって雪煙と化し、またあるものは凝縮してデブリの核となっているようだ。この狂ったスピードと共に、目の前で雪たちが新たに生まれ、はじけ、消滅するその一連の生涯を傍観しているようだ。スパチュラV2よ。お前はこれを、俺に見せたかったのか?
お前の存在理由は一体何なのだ・・・

その時、左足にガツッと固いものが引っかかった。
瞬間的に足を取られ、頭から雪崩の真っただ中に突っ込んだ。
「ゲバしたあー」
転がりながら、雪崩の深いところに押し込まれてゆく。
上も下も分からず、鼻から口から雪が入り込み呼吸を奪われた。そして、圧倒的な暴力を全身に受けた。
そしてそこは、真の闇だった。
成す術もなく、意識が遠のいた。

時間が、少しだけ遡ったようだ。
俺とユーリはペンダントに向けて、里見岳の脇の緩斜面をゆっくり滑り降りていた。
ユーリは何を思ったのか、右にそれて蛇出谷の雪庇の上に向かっている。
やめろ。
やめろ。
やめろ!
「おい、そっちに行くな、そっちにゆくと全ての歯車が狂いはじめる」
亨が振り返り、ニヤッとすると、あのギィーという音が聞こえた。
「やめろーーー」

そう叫ぶと雪崩の只中で、一瞬体勢が整うのを感じた。両足は雪の大地をとらえ、頭のうえにはおぼろげながら青白い光が輝いている。
力を溜めろ。今だ、踏め。
スパチュラV2を思い切り踏み込むと、強大な反力を受け、体が押し上げられた。
その直後、杉本の体は雪崩の中から空中に向けてドシュッと飛び出した。

俺は、青黒い空を飛んでいた。そこでは時間が止まっていた。
周りの木々は眼下にあり、大空を自由に飛び回る力を得たのではないかと錯覚した。体にまとわりついた雪は冷たい空気で吹き飛ばされ、スプレーとなり後方で尾を引いていた。
それはまるで、スパチュラV2という戦闘機に乗って暗雲の中から澄み渡った成層圏目がけて飛び出すかのようであった。
この乗鞍の、飛騨のがけっ淵は、宇宙に通ずる入り口なのか、あるいは・・・地獄の一丁目なのか?

「杉本さん、俺のが遠くまで飛べますよ」
「亨、山でそんなスピード出していたらそのうち死ぬぞ」
「まあ、そんときはそんときですよ」
「大体何でテレマークなんだよ。アルペンでいいじゃねーか」
「アルペンだったらいくらでもいますからね。イカれた連中が」
「そうだな。テレマークでお前くらいブッ飛んでる奴は見たことねー」
亨が、うつむいた。
「でも今、杉本さん俺より飛んでますよ」

杉本は空中から足下を見た。
そこは、何と滝の上、今まさにそこからダイブしようとしていた。
雪崩が、大量の雪の瓦礫が、滝の上からダムの放水の如く、もの凄い勢いで噴出し滝壺に降り注いでいる様が見えた。
「やべえ」
まずい、滝に落ちる。その前に噴出している雪にはじき飛ばされる。
ええい亨、この板を信じるぞ。俺は悪魔と契約でも何でもしてやる。そうすれば、この板でどこでも滑れるんだろーが!
杉本は滝から噴出している雪に、スパチュラで乗った。
ダダダッという衝撃とともに体ははじき飛ばされ、滝の左側の尾根に飛んで行った。
グキュッという雪が潰れる音がして、杉本は新雪のクッションに背中から埋もれて停止した。
「あつーっ」
しばらく動くことができず、茫然としていた。
「ああ、しんど」
気がつけばスマホがピコピコなり続けている。
どこだ、スマホどこだっけか。アタマが痛え。
「おー、ユーリ」
「ちょっと、アンタ生きてんの?」
「しゃべってんだから生きてんだろ」
「すごい雪けむりがみえたよ」
「すごいの何のって・・・雪崩の・・・表面と、中と、空中。全部滑った。今多分、ペンダントの合流点の上あたりかな。あ、あと滝があるから落ちるとヤバい」
「雪崩の中?空中?何言ってんだか意味わかんないし。いいよ、そっちの右はヤバそうだから私、左いくね」
「はあ?ちょっと待て」
「合流地点で待っててよ!ヒヤッホー、ドロッピーング!」
まじか、あのバカ怖いもの知らずだ。
「アタタタタ、いってー」
雪崩の中でフルボッコにあったにもかかわらず、骨一本折れていないのは奇跡としかいいようがない。ヘルメットを外すと中にまで雪が詰まっていてそれを払いのける。ペンダントの合流点まで少し下って左側の斜面を下から見上げた。左のペンダントは暗く、少し狭いものの、滝などは無さそうで、その代わり雪は深そうだ。
はるか上方から雪煙が筋になって何本も平行に落ちてくるのが見える。雪崩ではない。急斜面のためユーリの蹴散らす雪が先行して落ちてきているようだ。これはもう、エクストリームスキーと言って差し支えないレベルだ。
その煙の中から、ユーリの青いシェルが落ちてくるのが見えた。
コケてんのか?いや、凄い勢いで滑っている。抜重するたび宙を飛んで切り返しているが、ラインは直線的だ。下半身は完全に雪煙で見えない。何てことだ。俺は完全に選択を誤ったらしい。ペンダントの左右どちらを滑るか。これは完全にユーリが正解を引き当てた。
それにしてもあいつ、アルペンとはいえ上手いな。クソッ。
「ワッフウー!ここスゲーよお最高!」
満面の笑みでディープパウダーを蹴散らしてきたユーリとハイタッチをした。

「蒼太残念だったねー。そっちで何が起こったのか知らないけど、どうやらこっちが正解みたいね」
「・・・・・」
「何黙ってんのよ」
「そっちの出だし、もの凄い急斜面だっただろ」
「あー、ペンダントの入り口まではさすがに怖かったよ。多分斜度で50度くらいはあったんじゃないかな。チビりそうだったよ」
「そりゃテレマークじゃ無理だ」
「こんなところテレで来る方が悪いのよ。あとそのヘンテコな板」
「そりゃごもっともだ。でもまあこの板に救われたのかも、だよ」

俺は事の一部始終をユーリに話した。
「ぎゃはははは!あーっはっはっはっは!嘘でしょ。話盛りすぎじゃない」
「嘘じゃねえよ」
「雪崩がドドドドって滝から飛び出してる上に着地してはじき飛ばされた?いやあ、信じらんない、ドドドドってって、笑いすぎておなか痛い」
ユーリは半泣きで身をよじって雪にバフっと倒れ込んだ。
「いいよ信じなくても」
「あー苦し。でも、こっから下、ものすごいデブリ※だらけで滑るのは無理ね」
「ああ、胸の谷間はかぶれているってね」
「おとなしく樹林帯の中をくだりまっしょ。こんな危険地帯早く脱出しないと」
「ああ。でもちょっとその前にやることがある」
俺はザックから一本のワインを取り出した。
「え?こんなところで開けるの」
「そうだよ。本当だったら亨と五色で飲むやつだったんだ」
リーデルのタンブラーふたつとシェラカップに赤ワインを注いだ。
あの時、蛇出谷に落ちた亨が持っていたワインだ。
その名は、カリフォルニアの「スリー」フィールドブレンド。
あいつは何故このワインを選んだのだろう。このラベルに描かれている老木を、五色ヶ原の原生林にでもなぞらえたのか。
「ほれ、お前も飲め」
「えー、何で私だけシェラカップなのよ」
「グラスは2個。一個は俺。もう一個は亨のだ。ガマンしろ」
「うわ、すごい濃い紫色」
「深緋色さ」
「こきあけ色?なんかブランデーのような甘くて濃厚な香りが上がってくる・・・って、何で冷たくないのこのワイン」
「へへへ、貼るタイプのホッカイロ瓶に貼ってきた。凍りそうな冷たいワインなんて旨くも何ともねーだろが」
「恐れいりました」

俺は、陽の光にグラスをかざした。
「準備はいいかー、亨ー!ペンダント滑ったぞー!」
俺はタンブラーに注いだワインを、このペンダントの合流地点に思い切り振りまいた。大きく弧を描いて散った赤ワインの粒子は、頬を刺す寒気の合間に降り注ぐ午後の太陽光線に弾かれ煌めいた。
そしてそのワインは、深緋の色彩をまとうペンダントの石となり、いつまでも輝きつづけるだろう。

いつの日にも、記憶の中に。


※デブリ   雪崩によって流れ落ちた雪の堆積物。でこぼこで、その上を滑ることは不可能。時に登って乗り越えなければならないほど巨大な塊が無数に生まれることもある。

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