風の渡し舟 #3つのお題に空想のひらめきを
約1000字・ショートショート
開演前から、満員の客席には重い緊張感が漂っていた。これから始まる舞台への抑えがたい期待と興奮。
開演を告げる弦楽の調べに、私は凍りついたように前のめりになった。
漆黒の衣装を纏い、仙道が登場する。その佇まいは玄武岩のように静かで、動かない。
だが、そこにいるだけで観客の意識を吸い寄せる静かな重力があった。
俳優が感情の風を操り舟を漕ぎ出しても、観客が乗ろうとしなければ舟は進まない。
俳優の呼吸や間がもたらす風を感じ取り、観客自ら没入するという能動的な姿勢があってこそ、渡し舟は進む。
その渡し舟を自在に操るのが、「風の渡し舟」と呼ばれる仙道の真骨頂だ。
百歳を迎えても舞台に立ち続ける、まさに生きる伝説だった。
劇が進む。共演者の激情の嵐の後、仙道の間が私の心臓を無慈悲に掴む。彼の沈黙は、雄弁な台詞よりも多くの感情を運び、客席との壁を溶かしていく。
主人公がすべてに決着をつけたラストシーン。私の鼓動は雷のように激しく打ち鳴らされた。
早く台詞を。早くこの張り詰めた空気に風を。
しかし仙道は、微動だにせず、ただ静かに目を閉じた。
その瞬間、劇場は真空になった。体中の酸素が一気に抜き取られ、肌が粟立つのを感じた。
己の心臓の鼓動以外、何も聞こえない。舞台上のすべての存在が消滅したような、恐怖にも似た純粋な沈黙。
言葉は一つもない。無限の余白。それなのに、仙道の胸中が、鮮やかな色彩を伴った津波となって、私の脳裏に流れ込んできた。
仙道が、永劫の時を経て、ゆっくりと瞼を開いた。
彼は何も言わなかった。
その一瞬の間が、すべての台詞を言い終えていた。舞台は終演を迎える。
「あれが、本物の間だ……」
誰かの嗚咽のような声が、研ぎ澄まされた静寂を破った。次の瞬間、観客が堰を切ったように立ち上がり、雷鳴のような拍手喝采が鳴り響いた。劇場全体が、猛烈な感情の奔流に包まれた。
カーテンコール。
再び舞台に光が灯る。仙道は、ホッとしたように表情を和らげ、嵐のような拍手を全身で深く静かに受け止めていた。
私は言葉では表現できない感謝と、深い敬意に満たされていた。
マイクを受け取った仙道は、疲労の色が滲む目元を緩めて微笑んだ。
「えー」
マイクを持つ手がプルプル震えている。
「最後の台詞、完璧に忘れちゃいました」
申し合わせたように、観客全員がずっこけた。

