月の裏側のバス停で #3つのお題に空想のひらめきを
約1800字・短編小説・SF
微かな重力に身を任せ、私は月の裏側のバス停のベンチに座っていた。
今日、私は医者に見放された。静かに、月の静寂の中で命を終えるよう促された。
最後の地球行きの連絡バスが、砂塵一つ立てずに遠ざかる。
車輪の駆動音は、音を吸い込む漆黒の空間に溶け、私の死にゆく心臓の微かな鼓動だけが、耳の奥で虚しく響いていた。
この数十年間、地球の喧騒から逃れ、宇宙の漆黒と、青い故郷の孤独をテーマに絵を描き続けた。
もの好きな男が買ってくれたおかげで、食い扶持には困らなかった。
最後の一枚。漆黒のカンヴァスに描いた、孤独な青の地球は、隣に置いた遺品処理カプセルに入れた。
人生という重荷を、ようやく下ろそうとした、その時だった。
バス停の背後、影のない世界から、黒いフードの小さな影が現れた。
十代半ばに見える少女はゼェゼェと息を荒げ、月の薄い空気を掻きむしるように尋ねた。
「あ、あの……ごめんなさい。もうバスは行っちゃいましたか?」
「ああ。最後の一本だ。遠ざかっていったよ」
少女は顔を歪ませ、その場に膝から崩れ落ちた。
「嘘。……そんな。間に合わなかった」
微重力の中で、彼女の熱い涙は頬に張り付き、その絶望は凍りついた結晶のように見えた。
「次は来年だ。君はまだ若い。急がずとも、のんびりと待てばいい」
「待てない!今、帰らなきゃ、リオが死んじゃう!」
病気の妹、リオの命が残り少ないらしい。今、地球に帰らないと永遠に後悔すると、彼女は喉を詰まらせて語った。
彼女の強烈な焦燥は、私が求めた死に至る静寂と衝突し、枯れかけた心臓を激しく波立たせた。
私は、長い、重い溜息とともに立ち上がった。
「連絡バスはもうない。だが、バスは迂回しながら宇宙船の発着場まで行く。ここから発着場まで急いで向かえば、まだ宇宙船の出発には間に合うかもしれん」
「こんな時間にタクシーなんて走ってない。あんな遠いところまで、とても走れない……無理だよ!」
そうだろうな。
だとしたら、残る手段は一つしかない。
私は遺品整理カプセルから、無骨な金属のトランクを取り出した。
稼働スイッチを押すと、トランクはガチャリ、ガチャリと金属の悲鳴を上げながら展開し、瞬く間に簡素な宇宙バイクに姿を変える。
長年使われなかった機械油の匂いが鼻孔を掠めた。
遺品整理カプセルを荷台に固定し、座席にまたがり、「乗れ」と短く指示した。
「送ってくれるの?」
「早くしろ」
これを運転するのは十数年ぶりだが、身体が覚えている。
「ありがとうございます。私はリラです。おじいさん」
リラはパッと顔を輝かせ、まるで微重力下を跳ねるように私の後ろに座った。
「アルベルトだ。さあ、行くぞ。しっかり掴まってろ」
背中に触れる彼女の温かい体温が、私の心臓を奮い立たせた。
それは、数十年ぶりに感じた「生きている」他者の熱だった。
フルスロットルで加速する。
宇宙バイクも久しぶりの仕事に、古びたエンジンを歓喜させているようだった。
発着場に到着すると、リラは宇宙船がまだ飛び立っていないことを確認し、安堵のあまり私に抱きついてきた。
「ありがとう。アルベルトおじいちゃん」
「間に合ってよかった」
「アルベルトおじいちゃんは船に乗らないの?」
「ああ」
リラは私の返事に、何かを察したようだったが、何も尋ねてはこなかった。
私は遺品整理カプセルから、最後の絵を取り出し、リラに手渡した。
「私が描いた」
漆黒のカンヴァスの上に、孤独に、圧倒的な青の美しさを放つ地球。
それは私の人生の写し鏡だった。
リラは絵を見て、うっとりとため息を漏らした。
「素敵……。もらってもいいの?」
「ああ。持っていけ。私から、リラへの贈り物だ」
「私、何も返せるものないけど」
「もう貰ったよ」
リラは不思議な顔をしたが、「いいから。リラに貰ってほしいんだ」と言うと、彼女はニッコリと微笑んだ。
「ありがとう。大事にするね」
年若い少女は、絵を抱きしめ、搭乗ゲートに走り去った。
少女の温もりも、最後の絵も手放した。
全身を満たしたのは、完全な解放感と、ほんの微かな寂しさだった。
私は発着場から少し離れたベンチで、再び身を横たえた。
頭上の地球が、静かに、ただ優しく輝いていた。
その青さには、もう孤独の感情は伴わなかった。代わりに、深い充足感の光が満ちていた。
カチリ。
ベンチの横に立っていた、月面自動販売機が、全ての電源を落とした。
視界が急速に狭まり、あの青い地球の光だけに満たされていく。
絶対的な静寂の中で、微かな心臓の鼓動すら聞こえなくなった。
この場所が、私の人生の終着駅だと悟った。
満足の溜息を一つ吐き出し、私は静かに瞼を閉じた。

