虹色の切符 #3つのお題に空想のひらめきを
約1500字・ショートショート
その日、僕の人生はガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
銀行員として、僕は「やってはいけない一線」を越えてしまった。
経営が苦しくなった幼馴染の工場を救いたくて、書類の数字を書き換え、不正にお金を貸し付けたのだ。
けれど、奇跡は起きなかった。工場は倒産し、僕は仕事をクビになり、家族からも見放された。
絶望という名の、冷たくて深い水の中に、一人で沈んでいる気分だった。
そんな時に、病床の父が亡くなった。
父は市役所の窓口で、ただの一度も遅刻をせず、ただの一度も目立たずに定年を迎えた男だ。
毎日、決まった時間に家を出て、決まった時間に帰ってくる。
真面目なだけの、灰色で退屈な人生。
僕は心のどこかで、そんな父を「つまらない人間だ」と見下していた。
葬儀が終わり、父の遺品を整理していた時のこと。
古びた木箱の底に、見たこともない虹色の切符が落ちていた。
『後悔のやり直し駅行き』
「やり直し、か……」
自嘲気味に笑って、僕はその切符を強く握りしめた。
どうせすべてを失ったのだ。
あの日、融資の書類にハンコを押そうとする自分を、殴り飛ばしてでも止めに行けるなら。
その瞬間、心臓が跳ねた。
景色から色が消え、視界がセピア色の霧に包まれる。
そこは昭和の夕焼けが居座る、知らない路地裏だった。
古い機械の油と、雨上がりの土の匂い。
こんな景色を僕は知らない。
これは僕の過去じゃない。
そのとき、耳の奥を激しく揺さぶるような、低くて重い、弦楽器の音が聞こえてきた。
一人の青年が、チェロを弾いていた。
……父だ。
だとすると、これは父の過去なのか……。
役所の窓口でペコペコしていた、あの猫背の面影はない。
その背筋は一本の鋼のように真っ直ぐ伸び、奏でられる音色は、焼けつくような情熱で空気を震わせていた。
音楽なんて知らない僕でも、その演奏が魂を削って生み出されたものだとわかる。
父の足元には、ドイツの名門音楽大学からの招待状が落ちていた。
けれど、その隣にはもう一通、別の封筒があった。
――市役所の採用通知。
そう言えば、父が就職した頃、親戚から聞いたことがあった。父さんは若くして両親を亡くし、幼い妹たちを一人で養わなければならなかったのだと。
父は、最後の一節を弾き終えると、愛おしそうにチェロの弦をなぞった。その指先は、泣いているみたいに小刻みに震えている。
父はそのまま、チェロをケースに収め、鍵をかけた。
――カチリ。
乾いた音が響いた。それは、父が自分の夢を、自分の心の一番深い場所に閉じ込めた音に聞こえた。
父は一度だけ夕焼け空を見上げ、深く、重い溜息をついた。
そして、二度とチェロを手に取ることはなかった。
あの日から死ぬまで、父は大好きな音楽を一度も口にせず、ただの地味な公務員として僕たちを守り抜いたのだ。
「……後悔、してたんだね」
切符が指の中で熱を持ち、砂となってこぼれ落ちていく。
気づけば、僕は冷え切った自室の床に座り込んでいた。
自分の右手のひらを見つめた。
僕は大失敗をした。
でも、それは僕が自分のやりたいように歩いた結果だ。
父は、歩き出すことさえ自分に禁じて、誰かのためにその場に踏みとどまり続けた。
その背中が、どれほどの痛みを隠していたか。
涙が止まらなかった。
仕事も、信用も、全部なくなった。
これから厳しい責任も取らなきゃいけない。
でも、僕の人生は、まだ死んでいない。
僕は散らかった部屋のカーテンを、力いっぱい開けた。
窓から差し込む朝日の中に、あの路地裏で聞いたチェロの音が鳴り響いている。
それは、「お前はお前の道を行け」と背中を押してくれる、父からの勇気の音色だった。

