魔法のリップスティック #風まかせ文芸部
約1500字・短編小説・ラブストーリー
沙織に出会ったのは大学の学園祭だった。
彼女はダンスサークルの舞台衣装をまとい、スポットライトを浴びていた。
鮮烈な真紅に彩られたその唇に、僕は一瞬で目を奪われた。
その色に吸い寄せられるように、ステージの後で声をかけたのが、全てのはじまり。
ある日、公園のベンチで僕たちは並んで座っていた。沙織はレザーバッグから、小さな箱を取り出した。
「なにそれ?」
「昨日買ったリップ」
パッケージには、『エロス・ノワール』という、いかにも怪しげな名前が刻まれていた。
沙織が箱を開けると、中身は紛れもない真紅のリップスティックだった。
「綺麗な色だね」
「でしょ? 昨日、古いアンティークショップで見つけたんだけど」
沙織は僕に顔を近づけ、ひそひそ声で囁いた。
「実はね、これ、ただのリップじゃなくてね。これを塗った唇でキスすると、キスをするたびに相手を好きになる魔法がかかるらしいの」
僕は思わず笑い出した。
「そんなわけあるか。騙されてるって、沙織」
沙織は無邪気に頬を膨らませた。
「じゃあ、試してみる?」
「え?」
沙織は素早く、真紅のリップスティックを唇に沿わせた。彼女の唇が鮮烈な真紅に染まる。
そして、僕が戸惑いで声を出せないうちに、彼女は僕の顔を両手で包み込み、その真紅を僕の唇に押しつけた。
その瞬間、僕の心臓が跳ね上がった。
「……どう?」
いたずらっ子のように照れた笑みを浮かべる沙織に、僕は心臓の爆発音を聞きながら、正直な気持ちを打ち明けていた。
「好きだ、沙織」
彼女は一瞬、ポカンとした顔をして、それから声を上げて笑った。
「ヤバい。効果ありすぎ!」
好きだった女の子から突然キスされたら誰だってこうなる。
僕は必死に冷静さを装ったが、鼓動は荒れたままだった。沙織は親指を僕の唇に優しく添えた。
「あ、リップついちゃった。赤くなってる」
その一言が、熱を持った心を煽った。
「もう1回、試してみる?」
「……うん」
そうして僕たちは恋人同士となった。
デートの終わりには、必ず魔法のルージュを塗った沙織とキスをする。そのたびに沙織への愛が強くなっていった。
ある日、沙織は鏡の前で、リップスティックをじっと見つめていた。
「それ、もうすぐなくなるんじゃない?」
僕の問いに、沙織は鏡越しに背中を向けたまま答えた。
「うん。これが最後かな」
その時、僕の胸に冷たい不安が走った。
もしこのリップスティックがなくなったら、この気持ちはどうなってしまうんだろう。
僕は背後から彼女を強く抱きしめた。
沙織はリップの残りを惜しむように、ゆっくりと、念入りに唇に塗った。
そして、鏡の中から僕の顔を見つめて微笑んだ。
「最後の魔法のキスだよ」
僕たちは長く、深くキスをした。
キスを終えると、沙織は僕から少し離れ、リップをティッシュで丁寧に拭き取った。
彼女の唇は、いつもの何の飾り気もない優しいピンク色に戻っていた。
「ねぇ、私のこと好き?」
「うん」
あはは、と彼女が屈託なく笑った。
「このリップ、キスをするたびに相手を好きになる魔法がかかるって言ったの、覚えてる?」
「もちろん」
だから僕はこんなに沙織のことを大好きになったんだ。
沙織は優しく首を横に振った。
「勘違いしてる。あなたは魔法になんてかかってない」
「え、どういうこと?」
彼女は僕の目をまっすぐに見つめた。
「キスをするたびに好きなるのは、私のほうなの。そういう魔法」
つまりそれは、どういうこと?
言葉を失う僕の顔を、彼女が両手で包みこんだ。
「だから、こういうこと」
何の仕掛けもない温かい唇が、僕の唇と重なった。

