朝になると消えてしまうベンチ #3つのお題に空想のひらめきを
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「また、そんな濡れたところに。……風邪を引いても知らねぇぞ」
背後から呆れた声が降ってきた。
私は苦笑して肩をすくめる。振り返らなくてもわかる。開発部の高城くんだ。
私の戦友。もしくは宿敵。
「いいのよ。このベンチは、その冷たさで仕事の熱を奪いにくるところがいいんだから」
私はタオルを取り出し、キラキラと宝石細工のように輝く座面を丁寧に拭く。
キュッ、キュッ、と小気味いい音が響いた。
このベンチは、少しだけ特別だ。
夜の水分が夜露となって固まり、闇の中でだけ形を成す。
空気中の湿気が、私たちの重さを支えるほどの強度を持って結実した、ひと晩だけの奇跡。
腰を下ろすと、ひんやりとした瑞々しい感触が伝わってくる。熱を持った脳が、スッと冷やされていくのがわかった。
「……ふん。相変わらず、コスパの悪いリフレッシュだな」
毒づきながらも、高城くんは私の隣に腰を下ろした。
その瞬間、結晶化した夜露が微かに軋み、彼の体温に当てられた雫が一粒、私の指先にこぼれ落ちた。
「効率だけじゃ、深夜二時の空気は吸えないわよ」
「手慣れたもんだな。掃除のバイトでもしていたのか」
「失礼ね。広報部は、見えない努力を可視化するのが仕事なの」
私たちはそれ以上、言葉を重ねなかった。
都会の静寂は案外騒がしい。遠くを走る車の走行音、ビルの室外機の唸り。けれど、このベンチの上だけは、真空に放り出されたような静けさが支配している。
お互いの肩が触れるか触れないかの距離で、夜露の冷たさを共有する。
「……なあ、佐々木」
ふいに、彼が私の名前を呼んだ。
「朝になって、この魔法が消えても……俺がここにいた証拠は、お前のタオルに残るのか?」
不意打ちに心臓が跳ねた。
私はわざと意地悪く返した。
「さあね。ただの湿った布切れよ。洗濯機に入れればおしまい」
「……可愛くねぇな」
高城くんが大きな溜息をつき、私の頭に手を置いた。
髪をかき乱す乱暴で優しい手つき。
東の空が、群青から薄紅へと溶け始める。
足元から、パキパキと小さな音を立てて結晶が崩れ始めた。夜の奇跡が終わり、現実の湿り気へと還っていく合図だ。
私たちはどちらからともなく腰を浮かせ、消えゆくベンチに「お疲れ様」と小さく声をかけた。
完全に日が昇り、オフィス街が戦場へと戻ったとき、そこにはもう何もなかった。
ただ。
湿ったタオルの重みと、隣にいた彼の体温の余韻。
それだけは、消えずに残っていた。

