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【4夜の物語 第2話】夜想のジャズ喫茶〜『Track 3:捨てた傘、降る雨』

~あらすじ~

街の片隅にある、地図には載らないジャズ喫茶「夜想」。

働くことに行き詰まった4人の客――就活生・建築家・SNSインフルエンサー・音楽療法士――が一夜を過ごす連作短編です。

本作はその2話目。

推奨読書順: Track 4 →「Track 3(本作)」→ Track 11 → Track 12

♪ Paul Desmond feat. Jim Hall - Here's That Rainy Day (1963-65)

4月下旬の金曜日、午後9時過ぎ。

武田晴人は、ガラス張りのビルから外に出た。建築事務所のエントランスを抜けると、春雨が静かに降っていた。

新緑の匂いを含んだ雨。アスファルトに落ちる雨粒が、街灯の光を受けて、小さな宝石のように輝いている。冬の冷たい雨とは違う、命を育む雨の匂いがした。

「武田さん、お疲れ様でした」

振り返ると、部下の若い女性が傘を広げながら微笑んでいた。

「ああ、お疲れ様」

「今日は特別な日でしたね。受賞、本当におめでとうございます」

「ありがとう」

晴人は曖昧に笑った。今夜は確かに特別な夜だった。手がけた美術館が名誉ある建築賞を受賞。37歳での快挙に、業界は沸いていた。祝賀会でのスピーチも無事に終え、同業者からの賞賛を一身に受けた。

でも、心は奇妙に静かだった。

「傘、お持ちじゃないんですか?」

部下が心配そうに尋ねる。

「ああ、大丈夫。歩いて帰るから」

「でも、濡れますよ」

「春の雨は気持ちいいよ」

部下は不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も言わず、小さく会釈をして駅へと向かっていった。他の同僚たちも、三々五々に傘を広げて散っていく。金曜の夜、皆どこか華やいでいる。家族の待つ家へ、恋人との約束へ、友人との飲み会へ。

晴人は一人、雨の中に立っていた。

パリから帰国して9年。独立して事務所を構えて5年。仕事は順調すぎるほど順調だった。国内外のコンペで次々と勝利し、作品は雑誌の表紙を飾る。収入も申し分ない。港区の高層マンションの最上階に住み、愛車はポルシェ。誰もが羨む成功者の人生。

でも……

スーツの肩に雨が染み込んでいく。高級な生地が、少しずつ重くなっていく。晴人はそれを感じながら、歩き始めた。

今日の祝賀会で、ある評論家が言った言葉が頭から離れない。

「武田さんの建築は、完璧に計算されていて隙がない。まるで誰も寄せ付けない要塞のようだ」

褒め言葉のはずだった。でも晴人には、それが自分の人生そのものを言い当てられたような気がした。

完璧に計算された人生。隙のない成功。誰も寄せ付けない孤独。

雨は少しずつ強くなってきた。春雨にしては激しい。まるで、天が何かを洗い流そうとしているかのように。

晴人は雨に顔を向けた。冷たい雫が頬を伝い、唇に触れる。かすかに土の味がした。

「晴人」

ただそう呼んでくれる人は、もういない。敬称もなく、距離もなく、ただ名前だけで呼んでくれる人は。

事務所では「武田さん」か「社長」。打ち合わせでは「武田先生」と呼ばれることも増えた。でも、ただ「晴人」と呼んでくれる人は……

雨音が、記憶の扉を叩いている。12年前の、同じような春の雨の日。あの日も、傘を持っていなかった。

「一人で大丈夫」

あの時の自分の声が、雨音に混じって聞こえてくる。若さゆえの言葉。そして、何かを失った瞬間。

歩道橋の下で、晴人は立ち止まった。このまま雨に濡れて歩き続けるか、どこかで雨宿りをするか。普段なら迷わずタクシーを呼ぶところだが、今夜はなぜか、この雨と一緒にいたい気分だった。

でも、さすがに寒い。4月下旬とはいえ、夜の雨は体温を奪っていく。

向かいに、大型書店の看板が見えた。金曜の夜9時過ぎでも、煌々と明かりが灯っている。晴人は雨宿りがてら、そこへ向かうことにした。

自動ドアが開くと、暖かい空気と本の匂いが迎えてくれた。

書店の建築コーナーは3階にあった。

エスカレーターを上がりながら、晴人は濡れたスーツの裾を気にした。高級な書店だけあって、床は磨き上げられた大理石。水滴が落ちるたびに、小さな水たまりができる。

建築コーナーに着くと、自然と自著のコーナーに足が向いた。『都市と対話する建築』。半年前に出版した作品集が、平積みになっている。表紙には、今日受賞した美術館の写真。ガラスと鉄とコンクリートが織りなす、シャープで洗練された造形。

晴人は本を手に取った。ずっしりと重い。300ページを超える大判の本。定価は8,000円。それでも、増刷を重ねているという。

ページをめくる。自分が設計した建築たちが、美しい写真で紹介されている。どれも隙がない。完璧に計算された美。でも、今見ると、どこか冷たい。

「晴人くん?」

背後から声がした。

その声を聞いた瞬間、時が止まった。12年経っても、忘れられない声。

ゆっくりと振り返る。

そこに、梨花がいた。

「やっぱり、晴人くんだ」

梨花は優しく微笑んでいた。12年前とほとんど変わらない笑顔。でも、確実に時を重ねている。髪は少し短くなり、目尻には笑いじわが刻まれている。そして何より……

左手の薬指に、小さな指輪が光っていた。

「梨花……」

声がかすれた。まさか、こんなところで会うなんて。

「久しぶりね。元気にしてた?」

梨花の声は、昔と変わらず穏やかだった。責めるでもなく、懐かしむでもなく、ただ静かに、そこにある。

「ああ、まあ……君は?」

「私も元気よ。あ、これ」

梨花は手に持っていた本を見せた。子供向けの建築の絵本。

「息子が建築に興味があるみたいで。6歳なんだけど、ブロック遊びが大好きなの」

息子。その言葉が、現実を突きつける。梨花は結婚して、子供もいる。当たり前のことだ。12年も経っているのだから。

「そう……それは、いいね」

「晴人くんの本も見せたけど、さすがに難しすぎて」

梨花は晴人が手に持っている本を見て、少し笑った。

「でも、すごいね。夢が全部叶って」

「ああ……」

「今日のニュースで見たよ。受賞、おめでとう」

「ありがとう」

晴人は本を棚に戻した。なぜか、梨花の前でそれを持っているのが恥ずかしかった。

「相変わらず、傘は持たないのね」

梨花が晴人の濡れた肩を見て言った。その言葉に、晴人の爪が、掌に食い込んだ。

「……ああ」

ただそれだけしか言えなかった。

「覚えてる。いつも私の傘に入ってきて」

一瞬、時が巻き戻る。大学時代、急な雨。梨花の水色の傘。二人で入るには少し小さくて、肩が触れ合って。あの距離が、たまらなく幸せだった。

「『一緒に濡れる方が楽しいから』って言ってたよね」

梨花の言葉に、晴人は答えられなかった。あの頃の自分は、確かにそう言っていた。一緒に濡れることを楽しんでいた。でも、いつから一人で濡れることを選ぶようになったのだろう。

沈黙が流れる。

書店のBGMが、かすかに聞こえる。誰かがページをめくる音。エスカレーターの機械音。でも、二人の間には、12年分の沈黙が横たわっている。

「あの……パリはどうだった?」

梨花が沈黙を破った。

「勉強になったよ。3年間」

「そう」

「君は……インテリアの仕事は?」

晴人も聞かざるを得なかった。梨花も建築を学んでいた。インテリアデザイナーになるのが夢だった。

「やめちゃった。結婚を機に」

「そうか……」

「でも、後悔はしてないよ」

梨花はそう言って微笑んだ。でも、その笑顔の奥に、晴人は何か別のものを見たような気がした。

「旦那さんは?」

「商社勤務。優しい人よ」

優しい人。その言葉が、妙に晴人の胸に刺さった。

「良かった」

晴人は精一杯の笑顔を作った。

「晴人くんは? 結婚は?」

「いや、仕事が忙しくて」

「そう……」

梨花の目に、一瞬、別の感情が浮かんだ。憐れみ? いや、違う。もっと複雑な、言葉にできない何か。

晴人の髪から、雨の雫が落ちた。それが、梨花の持っていた絵本に小さなシミを作る。

「あ、ごめん」

「大丈夫」

梨花はハンカチを取り出して、絵本を拭いた。そして、少し躊躇してから、晴人の方へ差し出す。

「髪も、拭いたら?」

「いや、大丈夫」

反射的に断ってしまった。梨花は少し寂しそうに、ハンカチをしまう。

また沈黙。

「じゃあ、私はそろそろ」

梨花が先に動いた。

「家族が待ってるから」

家族。その言葉の重さ。晴人には、待っている人などいない。

「ああ、引き止めて悪かった」

「ううん」

梨花はレジへ向かいかけて、振り返った。

「晴人くん」

「ん?」

「夢が叶って、本当に良かったね」

「ありがとう」

晴人は、それしか言えなかった。

梨花は小さく頷いて、エスカレーターを降りていった。その後ろ姿を、晴人はじっと見つめていた。

彼女は振り返らなかった。

12年前も、振り返らなかった。

『頑張って。一人で』

あの日の最後の言葉が、今も耳に残っている。呪いのような、予言のような、あの言葉。

晴人はしばらく書店の建築コーナーを動けなかった。やがて、自著の隣の本を一冊、意味もなく手に取り、棚に戻した。それから階段を降りた。

書店を出ると、雨は本格的な春の嵐になっていた。

風も出てきて、街路樹が大きく揺れている。新緑の葉が雨に打たれて、激しく音を立てる。

成功した建築家。若い頃の夢は全て叶えた。パリでの修業、独立、数々の受賞。計画通りの人生。けれど──

この雨の中を、一人で歩いている。

歩きながら、梨花の言葉が頭の中でリフレインする。

『相変わらず、傘は持たないのね』

『家族が待ってるから』

『夢が叶って、本当に良かったね』

良かった。本当に良かったのか。

梨花には家族がいる。待っている人がいる。

自分には……

「はっ」

晴人は自嘲的に笑った。37歳にもなって、昔の恋人との偶然の再会で動揺している自分が情けない。

それでも、認めるしかなかった。梨花を見た瞬間、12年前の自分が、何も変わらないまま中に座っていたことに気づいてしまった。

雨は容赦なく降り続ける。春の雨とは思えない激しさで、晴人を打つ。スーツは完全にずぶ濡れになり、靴の中にも水が入ってきた。

それでも、晴人は歩き続けた。

ふと、顔を上げる。

見慣れない路地に入り込んでいた。オフィス街の裏通り。古いビルが立ち並び、街灯もまばら。普段なら絶対に通らない道。

来た道を戻ろうとしたが、雨に滲んだ路地は、どこも同じ顔をしていた。

路地の奥に、かすかな光が見えた。

雨に滲んで、よく見えない。近づくにつれて、それが看板の光だとわかった。

琥珀色の光。

雨に濡れた看板は、まるで涙で滲んだように、文字がぼやけて見える。それでも、確かに読める。

「夜想」

こんなところに、喫茶店?

晴人は立ち止まった。古いビルの一階。周りの店はとっくに閉まっているのに、ここだけが開いている。

琥珀色の光が、雨の中で優しく揺れている。温かい記憶の色。手の届かない時間の色でもある。

ドアに手をかけようとして、晴人は躊躇した。

びしょ濡れの姿で、見知らぬ店に入る。普段の自分なら、絶対にしない行動。今夜の自分は、武田晴人という成功した建築家ではない。ただの、雨に濡れた一人の男。

ドアノブに手をかける。

ひんやりとした真鍮の感触が、掌に伝わってくる。不思議と、懐かしい感触だった。まるで、ずっと前にも触れたことがあるような。

回すと、思いのほか滑らかに動いた。

カランと、小さな鈴の音がした。

ドアを開けた瞬間、かすかなベースの振動が体を包み込む。ジャズだ。低く、温かく、懐かしい音。

そして、コーヒーの香り。深煎りの、濃厚な香り。

一歩足を踏み入れると、外の雨音が嘘のように消えた。

店内は薄暗く、琥珀色の照明が全体を包んでいる。壁一面に並ぶレコード。カウンターの向こうには年代物のスピーカー。そして奥の壁際には、アップライトピアノ。

その上に、小さな札が立てられていた。

「Now Playing: Track 3」

晴人は、濡れた髪を手で払いながら、店内を見渡した。

客は自分一人。

静かで、温かくて、どこか懐かしい空間。

「いらっしゃいませ」

カウンターの奥から、女性の声がした。

顔を上げると、白いブラウスに紺のエプロンを身につけた女性が、静かに立っていた。50代だろうか。銀髪の混じった黒髪を後ろで一つに束ね、その佇まいには独特の品格があった。

胸元で、小さな三日月のブローチが光っている。今夜は琥珀色に、まるで店の照明に呼応するように。

「こんな時間に、すみません」

晴人は濡れたスーツを気にしながら言った。

「お気になさらず。雨の夜は、特別なお客様が多いんです」

マスターの声は、晴人のずぶ濡れの姿に驚いた様子もなく、ただ静かだった。

「お席は、お好きなところへ」

促されて、晴人は店内をもう一度眺めた。客は自分一人。窓際のテーブル席、カウンター席、そして奥の革張りのソファ席。なぜか、ソファに惹かれた。深く沈み込んで、今夜のことを整理したい気分だった。

ソファに腰を下ろすと、長年使い込まれた革が優しく体を受け止める。濡れた体が、じんわりと温まっていく。

「何になさいますか?」

「ブレンドコーヒーを」

「かしこまりました」

マスターはゆっくりとカウンターへ戻っていく。その所作は水のように流れ、一つ一つの動きが次へと自然に繋がっていく。

やがて、豆を挽く音が店内に満ちた。低く、深く、まるで遠い雷鳴のような響き。その振動が、ソファを通じて晴人の体にも伝わってくる。目を閉じると、音が雨音と重なって、不思議な和音を奏で始めた。

梨花の顔が浮かんだ。書店での再会。幸せそうな笑顔。そして、左手の指輪。

なぜ、あの時……

記憶が、12年前の春へと遡っていく。


12年前、3月の日曜日。

朝の光が、キッチンのテーブルを白く照らしていた。まだ肌寒い春の朝。窓の外では、小鳥がさえずっている。

晴人はコーヒーカップに視線を落としてから、向かいに座る梨花に切り出した。

「パリの建築事務所から正式なオファーが来た」

梨花の手が、コーヒーカップを置く途中で止まった。でも、驚いた様子はない。むしろ、ずっと待っていたかのような表情。

「いつから?」

声は落ち着いていた。

「来月から。最低でも3年」

「……私も一緒に行く」

即答だった。晴人は驚いて顔を上げる。

「でも、君の仕事は?」

「やめる。インテリアの勉強なら、パリでもできるし」

「家族は?」

「説得する。晴人と一緒なら」

梨花の瞳には、迷いがなかった。晴人は首を振った。

「それは君の人生を捨てることになる」

「捨てるんじゃない。選ぶの」

梨花の声に、初めて強い意志が宿った。

窓の外で、雨が降り始めた。春の雨。さっきまでの晴天が嘘のように、空は灰色に染まっていく。

「僕は一人でも大丈夫だから」

晴人は言った。それは準備していた台詞だった。

「一人で?」

梨花の声に、初めて険しさが混じる。

「君に頼る必要はない。僕は自分で立てる」

「頼るって……そういうことじゃないでしょう?」

梨花は立ち上がり、窓の外を見た。雨が強くなってきている。ガラスを伝う雨粒が、彼女の横顔に影を落とす。

「私たちって、何なの?」

振り返った梨花の目に、痛みが浮かんでいた。

「もちろん恋人だよ」

「恋人は、お互いに支え合うものじゃない?」

晴人は答えに詰まった。支え合う。その言葉の意味を、本当に理解していたのだろうか。

「僕は君を守りたい。だから……」

「守る?」

梨花が振り返る。その目には、悲しみと怒りが混じっていた。

「私は子供じゃない。晴人のお荷物でもない」

「そんなつもりじゃ……」

「じゃあ、どういうつもり?」

梨花は窓際に立ったまま、晴人を見つめた。雨音が、二人の間の沈黙を埋めていく。

長い沈黙の後、梨花は深いため息をついた。

「晴人は、人生に雨の日が来ないと思ってる?」

「……どういう意味?」

「今日みたいに、晴れてたのに急に雨が降ることもある」

梨花は手のひらを窓ガラスに当てた。冷たいガラスの向こうで、雨が激しく降っている。

「一人だったら、ずぶ濡れになるだけ。でも二人なら……」

「梨花……」

「覚えてる? いつも相合傘してたこと」

梨花の声が、少し遠くなった。

「雨の日は、よく一緒に帰ってた。水色の傘、あれ小さくて」

「ああ……」

晴人も思い出していた。肩が触れ合う距離。濡れても構わないと思えた、あの頃。

「でも最近、気づいたの」

梨花は振り返った。その目には、もう涙が浮かんでいた。

「相合傘って、ただ雨をしのぐだけじゃない。一本の傘を分け合うことで、お互いの歩調を合わせることを学ぶ。相手を思いやることを覚える」

晴人は黙って聞いていた。確かに、あの頃はそうだった。

「あなたはいつも『濡れる方が楽しい』って言ってた。でも、それは一緒だったからでしょう?」

「私は晴人の傘になりたかった。晴人も、私の傘になってほしかった。お互いがお互いの傘。それが一緒に生きるってことじゃない?」

「それは依存じゃないか」

晴人の言葉に、梨花の表情が凍りついた。

「依存……?」

声が震えている。まるで、大切にしていたものを踏みにじられたような。

「私たちの思い出を、そんな言葉で?」

梨花は小さく首を振った。

「違う。それは信頼よ」

雨音が強くなった。春の嵐が、二人の未来を押し流していくように。

「晴人は強い人。一人で立てる人。それは知ってる」

梨花の声が、少しだけ低くなった。

「でも、強いことと、一人でいることは違う。誰かと一緒にいることは、弱さじゃない」

晴人は何も言えなかった。25歳の自分には、その違いがわからなかった。いや、わかろうとしなかった。

「わかった」

梨花が静かに言った。

「晴人が一人でいたいなら」

「梨花、そうじゃない」

「じゃあ、どういうこと?」

晴人は答えられなかった。守りたいのか、頼りたくないのか、自分でもわからなかった。ただ、一人で成功を掴みたかった。誰の助けも借りずに。

「頑張って。一人で」

彼女は部屋を出ていった。振り返ることなく。

窓の外では、春の雨が降り続いていた。


「お待たせしました」

マスターの声で、晴人は現実に引き戻された。

目の前に、陶器のカップが置かれている。立ち上る湯気が、琥珀色の光を受けて金色に輝いた。

「ありがとうございます」

晴人はカップを両手で包んだ。温もりが、掌から腕へとゆっくりと伝わっていく。

マスターは、カウンターには戻らず、近くに腰を下ろした。手には古い手帳のようなものを持ち、時折ページをめくりながら、じっと何かを読んでいる。

「今夜は随分と激しい雨ですね」

マスターが静かに言った。手帳から顔を上げることなく。

「春の雨にしては、確かに」

晴人は窓の外を見た。雨は容赦なく街を打っている。

「でも時には、こういう雨も必要なのかもしれません」

マスターの言葉に、晴人は顔を向けた。

「必要……ですか」

「閉じている扉を、開けることもありますから」

晴人は苦笑した。

「確かに、今夜は扉が開きっぱなしです」

ソーサーには、白い小さな包みの角砂糖が添えてあった。

晴人は包み紙を開き、砂糖を一つコーヒーに落とした。包み紙は無意識にソーサーの脇へ置く。

コーヒーを一口飲む。深い味わいが口の中に広がった。砂糖の甘みが、苦味の角を丸めていた。

カップを置く。すぐには口を開かなかった。マスターも、何も問わなかった。

「実は……」

普段なら、知らない相手にこんな話はしない。それでも、今夜は声が出た。

「12年ぶりに、昔の恋人に偶然会いました」

マスターの手が、一瞬止まった。

「過去は、思わぬ時に現在と交差するものです」

「彼女は結婚していて、子供もいて」

晴人は言葉を探した。

「幸せそうでした」

「そう感じられたのですね」

「……はい」

本当にそう感じたのだろうか。それとも、そう思いたかっただけなのか。

「でも、彼女が『夢が叶って、本当に良かったね』と言った時……」

晴人は天井を見上げた。

「まるで、皮肉のように聞こえて」

マスターは静かに頷いた。その沈黙が、晴人に続きを語らせる。

「建築家として成功しました。賞も取った。収入も十分。でも……」

カップを見つめる。コーヒーの表面に、自分の顔が歪んで映っている。

「今夜、雨の中を一人で歩いていて思ったんです。成功って何だろうって」

「12年前……」

晴人はカップの縁を指でなぞった。

「彼女が差し出してくれた傘を、僕は『必要ない』って突き返したんです」

「傘?」

「一緒に生きようという提案を、です」

晴人は苦い笑みを浮かべた。

「若い僕は、一人で立つことが強さだと思っていた。誰にも頼らず、誰の世話にもならず。それが大人の男だと」

「でも今、成功したはずの僕は、雨の中を一人で歩いている」

晴人は両手でカップを包み直した。

「強がって『傘なんていらない』と言った男が、ずぶ濡れになって震えている──それが今の私です」

長い沈黙が流れた。雨音だけが、静かに店内に響いている。

「晴人という名前なのに」

晴人は窓のほうへ目を向けた。

「いつも、降られている気がしてきました」

マスターは立ち上がった。

「でも、濡れて初めて、傘の温もりがわかることもあります」

マスターはゆっくりと壁一面のレコードへと歩いていく。その指が、背表紙をなぞりながら、何かを探している。

そして、ある場所で止まった。

「Paul Desmond feat. Jim Hall……」

取り出されたレコードジャケット。緑のソファに横たわる女性。慵懶な雰囲気の中、ワイングラスとフルーツが置かれたテーブル。

「Easy Living」というタイトルが、目に飛び込んでくる。

「雨の日の音楽です」

マスターが静かに言った。

「でも、ただの雨の歌ではありません」

レコードをそっとジャケットから取り出す。黒い盤面が、琥珀色の光を反射する。

「『Here's That Rainy Day』……」

マスターが曲名を呟く。

「若い頃は、人生がずっと晴れだと思うものです。大切なものも、いつでもそこにあると」

晴人は、カップを握る手に力が入った。

「でも雨が降って気づくんです。手放してしまったものの重さに」

マスターは静かにレコードをターンテーブルに載せる。

「この二人の演奏は、会話のようです。近くて遠い、触れそうで触れない。まるで、過ぎ去った日々を語り合うような」

針を落とす前に、マスターは晴人を見た。

「準備はよろしいですか?」

晴人は頷いた。何の準備なのかはわからない。でも、今夜は全てを受け入れる覚悟ができていた。

カチッという小さな音と共に、針がレコードに触れた。

アップライトピアノの上の札に目が行く。かすかに震えている。

「Now Playing: Track 3 - ♪ (0:00)」

もうすぐ、何かが始まる……

最初に聞こえてきたのは、静寂。

そして……

Jim Hallのギターが、静かに空間を満たし始めた。雨粒のような、繊細なタッチ。一音一音が、まるで天から落ちてくる雫のように、晴人の心に降り注ぐ。

続いて、Paul Desmondのサックスが入ってきた。

「ドライマティーニ」と評された、涼やかで知的な音色。でも、そこには深い哀愁があった。失われたものを知る者だけが出せる、透明な悲しみ。

二つの楽器が対話を始めた。

ギターが、低く一音を置く。

「やり直したいのか」

そう問うているのではなかった。問わずに、ただそこにいる。

サックスが、半拍遅れて応える。

「もう、戻れない」

答えているのでもなかった。答えずに、ただ並んで歩く。

晴人は目を閉じた。

音楽が、記憶の層を一枚一枚剥がしていく。成功という鎧を脱がせ、年齢という仮面を外し、素顔の自分をさらけ出させる。

梨花との日々が、走馬灯のように蘇る。

大学の図書館で一緒に勉強した夜。

建築の未来を語り合った時間。

二人で見上げた、工事中のビル。

「私たちが設計した家に、いつか住みたいね」

そう言った梨花の横顔。

全部、手放してしまった。

Paul Desmondのサックスが、高音部で切なく歌う。それは、届かない手紙のような音。送ることのできない想いが、音になって空に昇っていく。

Jim Hallのギターは、低音部で静かに寄り添う。雨音のように、優しく、でも確実に、心の奥底まで濡らしていく。

時折、二つの音が重なる瞬間がある。それは、過去と現在が交差する瞬間。あの時の自分と、今の自分が向き合う瞬間。

音楽は、ただ後悔を歌っているのではなかった。そこには、奇妙な美しさがあった。失ったものを認め、受け入れ、それでも前を向く強さ。

アップライトピアノの上の札が、いつの間にか変わっていた。

「Now Playing: Track 3 - Here's That Rainy Day (5:42)」

もうすぐ、この曲も終わる。でも、晴人の中で、新しい音楽が始まろうとしていた。

音楽が静かに終わりへと向かう中、晴人は深く息をついた。

「雨は避けるものだと思っていました」

声に、新しい響きがあった。

「でも、この音楽を聴いていて思うんです。雨も人生の一部なんだと」

マスターは手帳を静かに閉じ、晴人を見つめた。

「ええ」

晴人は言葉を探した。12年かけて、ようやく見つけた答え。

「本当の強さは、一人で立つことじゃない。弱さを見せられることかもしれません」

窓の外では、雨が少し弱まってきていた。春雨は、いつまでも激しくは降らない。でも、その優しさが、かえって心に染みる。

「傘を差し出してくれる人を、受け入れる勇気」

マスターが、初めて口元をほころばせた。

「Paul DesmondとJim Hallの演奏を聴いていて気づきました」

晴人は言った。

「対等なんです、あの二人」

短い言葉だった。

「僕は……」

声が、一度詰まる。

「梨花を守ろうとしたつもりで、上から目線で、彼女の選択を奪っていた」

カップを置く手が、止まった。

「そして、その同じ手で、誰の傘も受け取らずに生きてきた」

視線が、窓の外の雨に流れた。

「賞も、収入も、全部手に入れたんです。でも、『成功』だと思っていたものは、誰とも分かち合えるものではなかった」

晴人はカップの中のコーヒーを見つめた。もう冷めかけているが、不思議と美味しい。

「もう梨花は戻らない。彼女には新しい人生がある」

マスターは、何も言わなかった。ただ、窓のほうへ視線を移した。

晴人もそちらを見た。雨に濡れた新緑が、街灯の光を受けて輝いている。

「一人で立つことと、一人でいることは違う」

晴人は呟いた。12年前、梨花が同じことを言った。あのとき、聞こえなかった言葉だった。

レコードはとっくに終わっていた。でも、店内にはまだ音楽の余韻が残っている。

「ありがとうございました」

晴人は心から言った。

「今夜、ここに来られて本当に良かった」

その「良かった」には、皮肉も後悔もなかった。ただ、純粋な感謝があった。

「そろそろ、雨も上がりそうですね」

マスターが窓の外を見て言った。確かに、雨音は小さくなっている。

晴人は立ち上がった。濡れたスーツはすっかり乾いていた。いや、最初から濡れていなかったかのように。

「お代は……」

「結構です」

マスターは、ただ静かに頭を下げた。

店を出ようとドアに向かう。振り返ると、マスターは既にカウンターの奥に戻っていた。まるで、最初からそこにいたかのように。

ドアノブに手をかける。あの時と同じ、ひんやりとした真鍮の感触。でも、今度は違う。新しい始まりの感触だった。

「また、来てもいいですか?」

晴人が聞くと、マスターは謎めいた笑顔を浮かべた。

「それは、あなた次第です」

その言葉の意味を、晴人は理解していた。もう、この店は必要ないかもしれない。でも、それでいい。

外に出ると、春雨は完全に上がっていた。

雲の切れ間から、月が顔を覗かせている。濡れた路面が、月光を反射してきらきらと輝いていた。

振り返ると……

そこには、ただの古いビルの壁があるだけだった。「夜想」の看板も、琥珀色の光も、重厚な木製のドアも、すべて消えている。

でも、晴人は驚かなかった。むしろ、それが自然なことのように思えた。

ポケットに手を入れると、小さな紙の感触。

取り出してみると、さっき開いたはずの角砂糖の包み紙だった。掌の上で広げると、表に印刷された琥珀色の文字が読めた。

「夜想」

そして裏には手書きで──

「Track 3: Here's That Rainy Day - 捨てた傘、降る雨」

ソーサーの脇に置いてきたはずだった。

晴人は、それを胸ポケットにしまった。

空を見上げる。雲が流れていく。明日は、きっと晴れるだろう。

でも、晴人の名前の通り晴れてばかりいては、何も育たない。雨も必要だ。そして、その雨から身を守る傘も。

歩き始める。

明日、少し大きめの傘を。

【おしまい】


♪ Now Playing: Your Life - Track ∞


作者から一言

「Here's That Rainy Day」は、若い頃に笑い飛ばしていた「雨の日」が、いつか実際にやってくる──そんな曲です。Paul DesmondとJim Hallの演奏は、後悔の歌ではなく、失ったものを認めたうえで二人の楽器が対等に語り合う、対話そのものでした。

雨の日に聴いていただけたら嬉しいです。できれば、少し大きめの傘を持って。


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音影【音楽小説家】 人とAIの境界で物語を紡ぐ旅にお付き合いいただきありがとう。私の言葉があなたの心に響いたなら、チップが創作の新たな種となります。共に想像の先へ。