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夜想のジャズ喫茶〜『Track 10:またいつか母と...』

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Track 10「またいつか母と...」

♪ Bill Evans Trio - Some Other Time (1968)

東京のマンション、11月下旬の金曜日。

木村時子は畳の上に新聞紙を広げ、母の形見の着物を一枚ずつ虫干ししていた。

今年は遅くなってしまった。例年なら10月には済ませているのに。検査入院やら何やらで、気がつけばもう11月も終わりに近い。

「お母さん、東京も今年は寒いよ」

仏壇の写真に語りかける。白黒の写真の中で、母は相変わらず52歳のまま微笑んでいる。時子が27歳の時に撮った最後の写真だ。

「新潟はもう雪かな」

桐箪笥から取り出した深い紫の訪問着。母が嫁入りの時に持ってきたものだという。防虫剤の匂いに混じって、かすかに白檀の香りが残っている。母はいつも控えめに香を焚いていた。

この訪問着を母が着ていたのを最後に見たのは、45年前の正月だった。その年の11月に、母は逝ってしまった。

「45年...長いようで、昨日のよう」

着物を畳の上に広げ、しわを伸ばす。72歳の手は、かつて広告代理店で企画書をめくっていた頃とは違い、節くれだっている。でも、着物の扱い方は母から教わった通り、丁寧で正確だ。

テレビのニュースが初雪の予報を告げている。11月の東京で雪とは、異常気象だ。都心でも積雪の可能性があるという。時子は手を止めた。

虫干しが11月下旬までずれ込んだのは初めてだ。来年10月まで、この体がもつだろうか。

「来年は、もうこの虫干しもできないかも」

声に出してみて、その現実味に自分でも驚く。先月の検査結果。がんの再発。余命一年という医師の言葉が、まだ実感を伴わない。

「私も、そろそろお母さんのところへ...」

訪問着の袖を撫でながら、時子は深いため息をついた。

「でも、会えるのかな。あの世で、本当に」

そして小さく首を振る。

「会えたとしても、許してもらえるだろうか」

45年前の11月28日。大阪のホテルで、時子は重要なプレゼンテーションの準備をしていた。女性初のディレクター昇進がかかった大一番。その時、新潟から電話が入った。母が倒れたという。

「『仕事が終わったら帰る』って」

時子は写真に向かって呟く。

「大阪から駆けつけるって言ったのに」

でも、仕事は終わらなかった。いや、終わらせなかった。プレゼンは成功し、その後もクライアントとの会食、追加資料の作成、上司への報告。どれも「今すぐでなくても」という仕事ばかり。でも離れられなかった。新潟に着いたのは3日後。母はもう、冷たくなっていた。

「嘘つきな娘でごめんなさい」

毎月の墓参りで、墓石に向かって謝った。でも、墓石は何も答えない。母がそこにいるのかも分からない。この胸の奥の重たいものは、45年経っても消えない。

着物を一枚ずつ確認しながら、時子は母の匂いを探していた。来年の今頃、自分はどこにいるのだろう。母のそばだろうか。それとも——

そっと鼻を近づけてみる。

「まだ、お母さんの匂いがする」

涙がひとつ、着物の上に落ちた。慌てて拭き取る。

「この匂いも、いつか消えるのかな」

窓の外を見ると、街の灯りがいつもより優しく見えた。初雪の前の、あの特別な空気。新潟の冬を思い出させる。

「お母さん、私、ちゃんと冬支度したよ」

でも、本当の冬支度は、この着物のことだけではない。時子は分かっている。人生最後の冬を越すための準備。45年間抱えてきた後悔との向き合い方。母への想いの整理。でも、45年経っても、その整理はつかない。


着物を箪笥に戻し終えた時、時計は9時を回っていた。部屋の中が急に息苦しく感じられ、時子は外に出ることにした。

マンションを出ると、空気が変わっていた。雪の匂い。東京でも、降る前にはこんな匂いがする。

足は無意識に、いつもの散歩道を歩いていた。でも今夜は、なぜか違う道を選んでいる。まるで何かに導かれるように、普段は通らない路地へと入っていく。

45年前の今頃、大阪のホテルにいた。あの時も、部屋が息苦しくて一度外に出た。でも、すぐに戻った。プレゼンの資料を何度も見直し、新潟からの続報を待ちながら。姉から「まだ持ちこたえてる」という電話が来るたび、安堵と罪悪感が入り混じった。結局、朝まで一睡もできなかった。

ふと、頬に冷たいものが触れた。見上げると、初雪が舞い始めていた。11月の東京で雪。まるで45年前を思い出させるように。街灯に照らされて、雪の結晶がきらきらと光る。

「45年前、新潟は大雪だったって」

時子は、姉からの電話を思い出しながら呟いた。母が倒れたという連絡が来た時、大阪は快晴だった。青空が恨めしかった。

「『雪で列車が遅れてる』って言い訳も使った」

時子は自分に向けて呟いた。でも本当は、雪のせいじゃなかった。プレゼンが成功した瞬間、周りが祝福ムードになった。「初の女性ディレクター誕生だ」と。その空気の中で、「母が危篤で」とは言い出せなかった。皆の期待を裏切るのが怖かった。ここで仕事を離れたら、「やっぱり女は」と言われる。そんな恐怖に支配されていた。

雪は次第に本降りになってきた。時子は商店街のアーケードに入り、そのまま歩き続ける。見慣れた景色のはずなのに、雪が降ると街は別の顔を見せる。

路地を曲がったところで、足が止まった。

「こんな路地、あったかしら」

時子は首を傾げた。

ふと、顔を上げる。

ビルとビルの隙間に、光が見えた。

白銀の光。雪の結晶のような、冷たくも美しい光。初雪を月光に透かしたような、幻想的な輝き。

「夜想」

文字が、光の中で静かに明滅している。雪が舞い落ちるように、ゆらゆらと、でも確実にそこにある。

「喫茶店...?こんな時間に、こんな路地裏で」

時子は訝しげに呟いた。でも、雪の夜に灯る温かな光に、抗えない引力を感じた。

引き寄せられるように近づくと、重厚な木製のドア。真鍮のドアノブが、ひんやりと冷たい。回すと、カランと小さな鈴の音がした。

なぜだろう。今夜だけは、一人でいたくない。でも、誰かと話したいわけでもない。ただ、この雪の夜を、どこか温かい場所で過ごしたかった。


扉を開けると、温かい空気と珈琲の香りが時子を包んだ。

一歩足を踏み入れた瞬間、外の雪の音が嘘のように消えた。まるで、時間の流れる速度が違う場所に迷い込んだような感覚。

店内は思いのほか広く、でも客は誰もいない。看板と同じ白銀の光が、店内を優しく満たしている。雪の結晶のような、冷たくも美しい光。でも不思議と、温もりを感じる。母が着ていた銀糸の帯を思い出させるような。

壁一面に並ぶレコードが、年輪のように店の歴史を物語っている。ジャケットの色合いも、古いものから新しいものまで様々。一つ一つが大切に扱われているのがわかる。カウンターの背後の棚には真空管アンプがオレンジ色の光を灯し、壁際には年代物のスピーカーが鎮座している

奥にはアップライトピアノが佇んでいる。鍵盤蓋は閉じられたまま、まるで長い眠りについているかのよう。その上に、小さな札が立てられていた。

「Now Playing: Track 10 - ♪ (0:00)」

まだ何も始まっていない。これから何かが始まる予感。

「いらっしゃいませ」

カウンターの奥から、落ち着いた女性の声がした。白いブラウスに紺のエプロンを身につけた女性が、静かに豆を挽いている。50代だろうか。銀髪の混じった黒髪を後ろで一つに束ね、その瞳には深い洞察力が宿っているように見えた。胸元で、小さな三日月のブローチが光っている。今夜は白銀色。雪の結晶のように、静かに輝いていた。

「まだ開いていたんですね。よかった」

時子は安堵の息をついた。

「11月の雪は珍しいですね。初雪の夜は、特別なお客様が多いんです」

マスターの声は、古いレコードのように温かみがあった。

時子はコートを脱ぎながら、革張りのソファに腰を下ろした。使い込まれた革が、体を優しく受け止める。

「何になさいますか?」

「ブレンドコーヒーを...お願いします」

マスターは微笑み、カウンターへ戻っていく。その動きには無駄がなく、まるで音楽を奏でているかのような流れがあった。

ゴリッ、ゴリッ。

豆を挽く音が、規則的なリズムを刻む。最初は単調に聞こえた音が、次第に独特のテンポを持ち始める。機械では出せない、人の手が生み出す微妙な間。それは母が台所で何かを刻んでいた音を思い出させた。トントントン、と包丁がまな板を叩く音。45年前、最後に実家に帰った時も、母は台所に立っていた。

その音が、雪の降る静けさの中で、心地よく響く。急がない、焦らない。ただ、必要な時間をかけて、豆を挽いていく。

陶器のカップが、そっとテーブルに置かれた。立ち上る湯気が、白銀の光を受けて幻想的に輝く。

一口飲むと、苦味の奥にほのかな甘みが広がった。後味は不思議なほど清涼で、まるで雪解け水のようだ。

「懐かしい味がする...」

時子は目を細めた。昔、母が淹れてくれたコーヒーとは全然違うのに、なぜか懐かしい。

窓の外を見ると、雪はますます激しくなっていた。街灯に照らされた雪が、斜めに流れていく。

「45年前も、雪だった...」

時子は窓を見つめたまま、ぽつりと呟いた。

「長い間、何かを抱えていらっしゃるようですね」

マスターが優しく水を向けた。

時子は振り返った。初対面のはずなのに、この人には話してもいい気がした。いや、話したくなった。母のことは、姉にさえ詳しく話したことがないのに。不思議だった。72年生きてきて、簡単に人を信用しなくなった。広告代理店で揉まれ、裏切りも経験した。でも、この店主の前では、そんな警戒心が意味をなさない。まるで、ずっと前から知っているような、そんな錯覚さえ覚える。

「広告代理店で働いていました」

時子はカップを両手で包みながら、ゆっくりと語り始めた。

「女性初のディレクター昇進がかかった、大事なプレゼンの日に...母が倒れたんです」

陶器の温もりが、凍えた心に染み渡る。45年前の記憶が、雪とともに蘇ってきた。

「『今帰ったら、もう戻れない』」

1978年。女性が総合職として働くことさえ珍しかった時代。ましてやディレクターなど、前例がなかった。

「時代が、そういう時代でした」

マスターは静かに相槌を打つ。

「大阪から新潟まで、当時は6時間以上。上越新幹線もまだなくて、在来線を乗り継いで」

時子はコーヒーを一口飲んだ。深煎りの苦味が、記憶を呼び覚ます。

「母が倒れる数日前、最後に電話で話した時...」

声が震える。

「大阪出張のこと、大事なプレゼンのことを話したら」

時子は続けた。

「私が『終わったら新潟に顔を出すね』って言ったんです。そしたら母は...」

「『無理しなくていいよ』って」

今思えば、母は自分の体調が悪いことを隠していた。娘の大事な仕事を邪魔したくなかったのだろう。本当は会いたかったはずなのに。

「母は自分の体調のことを、最後まで言わなかった。だから余計に...」

時子は言葉を詰まらせた。

「そして倒れた日、姉から電話が来て」

時子は続けた。

「『仕事が終わったらすぐ帰る』と答えました」

その言葉が嘘だと、自分でも分かっていた。でも、姉は『お母さんも待ってるから』と言った。その「待ってる」という言葉が、今でも胸に刺さっている。

時子は窓の外を見た。雪は静かに降り続いている。

「45年間、ずっと後悔していらしたんですね」

マスターが静かに言った。

「ええ...」

時子は力なく頷いた。

「もう72歳」

時子は自嘲気味に笑った。

「人生の大半を、後悔とともに生きてきました」

そして深く息をついた。

「でも、もう謝ることはできない。謝る相手がいないから」

沈黙が流れる。

「毎月墓参りには行くんです。でも、墓石は何も答えてくれない」

「実は先月、検査で...」

マスターの手が、一瞬止まる。

「がんが、再発してて」

店内には、低いベースの音がかすかに響いている。ジャズのリズムが、静かに時を刻んでいる。

「余命、1年だそうです」

時子は顔を上げた。

「あと1年で、母のところへ行く。でも...」

涙が一筋、頬を伝う。

「本当に会えるのか、許してもらえるのか、分からない」

「死ぬまで、この後悔を抱えて。いや、死んでも消えない」

カップを置き、両手で顔を覆う。

「地獄ってこういうことかもしれません」

肩が小さく震えている。

「45年苦しんで、あと1年苦しんで」

顔を上げ、虚ろな目でマスターを見る。

「そして母に会えたとしても、この後悔は消えない」

マスターは何も言わず、白いハンカチを差し出した。ほのかにラベンダーの香りがする。時子はそれを受け取り、静かに涙を拭いた。


隣のテーブルの上に、小さなチラシが置かれていた。

「高村サッカースクール 新規生徒募集中」

写真には、子供たちに囲まれて笑う若い男性。その笑顔は、挫折を知った人だけが持つ優しさに満ちていた。

チラシの裏に、手書きのメモ。

「プロにはなれなかった。でも今、50人の子供たちに夢の素晴らしさを教えている。夢の跡も美しい。叶わなかった夢が、違う形で花開くこともある。儚いからこそ、永遠に輝き続ける。-高村蓮」

時子の胸が、静かに締め付けられた。

「違う形で花開く...」

時子は気づいた。広告代理店で、何百人もの若い女性を育ててきた。みんな「お母さん」と呼んでくれた。母との最後の時間は失ったけれど、母から受け継いだ愛情を、違う形で注いできたのかもしれない。

窓際のテーブルに、小さな名刺が置かれていた。

「星の川出版 編集部 小野寺あかり」

裏面にメッセージ。

「青い鳥はそばにいました。蜃気楼を追うのをやめたら、足元に本物の幸せが。東京の大手より、地元で子供たちに物語を届ける仕事を選びました。-あかり」

時子は微笑んだ。この人は故郷に帰った。私は東京に残った。でも、どちらも間違いじゃない。大切なのは、どこにいるかじゃなく、何を残すか。

そして、ピアノの近くで紫陽花模様のレース編みドイリーを見つけた。

その下に挟まれていた写真。釣り竿を持った父と息子。裏には震える字で書かれていた。

「父は認知症で、僕を息子と認識できません。でも毎週会いに行きます。『部長』と呼ばれても構わない。忘れられても、そばにいる。形を変えても、愛は続く。-田中誠」

時子の手が震えた。

「忘れられても、そばにいる...」

涙がこぼれた。

この人も、相手に認識されない愛を生きている。息子として見てもらえなくても、父のそばにい続ける。

「私も同じだ」

時子は深く理解した。

「母はもういない。でも私は45年間、母に語りかけ続けている」

墓石は答えない。写真も黙っている。でも、それでも語りかける。田中さんが「部長」と呼ばれながら父のそばにいるように、私も一方的に見える愛を続けている。

「でも、本当に一方的なのか?」

時子は三つの置き土産を見つめた。

高村さん——夢は形を変えて続く。
小野寺さん——幸せは身近にある。
田中さん——愛は形を変えても続く。

「もしかして...」

時子の中で、新しい理解が生まれた。

「母も、違う形で答えてくれていたのかも」

後輩たちが「お母さん」と呼んでくれる時、それは母が私を通して生きている証拠だったのかもしれない。45年間の後悔が私を優しくし、母のような存在にした。それも、母との対話の一つの形。

「お客様たちが、残していかれたものです」

マスターが静かに言った。

時子は頷いた。

「みんな、誰かのためにメッセージを残していったんですね」

「私も知らない誰かに、こうして支えられた」

顔を上げてマスターを見る。

「私にも、あと一年で何か残せるでしょうか」

時子は三つの置き土産をもう一度見つめた。

「母と私の対話は、まだ終わっていないのかもしれません」

でも、相手がいない対話をどう続ければいいのか。田中さんには会いに行く父がいる。私には——

時子は仏壇の写真を思い出した。毎朝の挨拶。返事のない語りかけ。

「本当に、母は聞いているのかな」

その疑問が、店内に静かに響いた。


「お聴きいただきたい音楽があります」

マスターが静かに言った。その声には、深い確信があった。

マスターは壁一面のレコードの前に立った。指が背表紙をなぞっていく。記憶の層を一枚一枚確かめるような、静かで確実な動き。そして、ある場所で手が止まった。

慎重に一枚を引き出す。

黒い背景に、大きく「BILL EVANS」の黄色い文字。その下に白で「SOME OTHER TIME」。サングラスをかけたビル・エヴァンスの横顔が右側に配置され、深い陰影を帯びている。下部には小さく「THE LOST SESSION FROM THE BLACK FOREST with EDDIE GOMEZ and JACK DE JOHNETTE」の文字。

「ご存知ですか?」

マスターがジャケットを時子に見せる。

「Bill Evans...名前は聞いたことがあります」

「1968年6月、ドイツの黒い森で録音された演奏です」

マスターはジャケットから慎重にレコードを取り出した。

「でも、この録音は48年間も倉庫で眠っていました。2016年になって、初めて世に出たんです」

「48年...」

時子の声が震えた。自分が母と別れてから過ごした年月より、さらに長い時間。

「時に、大切なものは長い時を経て、違う形で私たちの元に帰ってきます」

マスターはレコードをターンテーブルに載せた。

「『Some Other Time』...またいつか、という意味です」

針を手に取りながら、マスターは続けた。

「でも、エヴァンスの演奏には、もっと深い意味が込められています」

「どんな?」

「来なかった『またいつか』への、静かな受容です」

カチッという小さな音。

針がレコードの溝に触れる。

一瞬の静寂。

そして――

ピアノが、静かに歌い始めた。

同時に、Eddie Gomezのベースが寄り添うように響く。そしてJack DeJohnetteのブラシ中心の繊細なシンバル・ワーク。最初から三人の対話。独白ではなく、静かな会話として始まる。

Bill Evansの指が紡ぐ音は、慎重で、繊細。メロディラインは崩さず、内声の動きで陰影をつける。届きそうで届かない音の連なり。まるで、言いそびれた言葉が、少しずつ形になっていくような。

「これは...」

時子は息を呑んだ。

「対話してる」

そう、最初から対話だった。エヴァンスのピアノが主題を提示し、ゴメスのベースが歌うようなカウンターラインで応える。デジョネットは控えめに、でも確実にそこにいる。

間(ま)。

エヴァンスは、音と音の間に豊かな空間を作る。その余韻の中で、何かが語られている。聞こえない声が、確かにそこにある。

「母の声みたい...」

時子がつぶやいた。

ゴメスのベースが、ピアノと対話するように響き合う。それは伴奏ではなく、もう一つの声。時に寄り添い、時に問いかけ、時に慰める。まるで母が娘の言葉を受け止めるように。

ピアノが「ごめんなさい」と言い、ベースが「いいのよ」と答える。ピアノが「会いたかった」と訴え、ベースが「知ってる」と包み込む。

二つの楽器が紡ぐ対話。それは、時を超えた母と娘の会話のようだった。

「仕事が終わったら帰る」
「無理しなくていいよ」
「でも、約束したから」
「あなたの道を行きなさい」

45年前には交わせなかった会話が、今、音楽の中で実現している。

アップライトピアノの上の札が、いつの間にか変わっていた。

「Now Playing: Track 10 - Some Other Time (5:28)」

5分28秒。短いようで、45年分の対話を含む永遠の時間。

デジョネットのドラムは、最初から最後まで、シンバル中心の柔らかな推進を保つ。ブラシで描く繊細なリズム。それは時間の流れを表すかのよう。45年という歳月が、音になって流れていく。

でも、その時間は重くない。むしろ、全てを優しく包み込むような、許しの時間。抑制と呼吸。昂揚ではなく、静かな浮遊感。

「Some other time...」

歌詞はないけれど、時子には「またいつか会いましょう」という想いが聞こえた。

その「いつか」は来なかった。母とは二度と会えなかった。でも、この音楽の中で、別の形の再会が起きている。

トリオの対話は深まっていく。三者の間合いが完璧に一致する瞬間。スタジオ録音ならではの、至近距離のやり取り。呼吸が合い、間(ま)が共有される。それぞれが自分の音楽を奏でながら、結果として美しい調和が生まれている。

エヴァンスは要所で短い装飾音を加え、フレーズの終端でわずかな"溜め"を作る。ゴメスはそれを察知して、カウンターラインを調整する。デジョネットは微細なダイナミクスで応える。

まるで、長年連れ添った家族のような、言葉のいらない会話。

「これは...」

時子は気づいた。

「孤独な懺悔じゃない。温かい対話だ」

自分はずっと、一人で後悔していると思っていた。墓石に向かって、写真に向かって、独り言を言い続けていると。

でも、違った。

このトリオのように、母は答えていた。ベースがピアノに応えるように、見えない形で応答していた。自分が気づかなかっただけで、ずっと対話は続いていた。

4分を過ぎて、音楽は静かなクライマックスへ。

内声の動きが複雑になり、和音が落ち着く場所を探しながら、遠回りをする。解決しそうで、しない。届きそうで、届かない。でも、その揺らぎこそが美しい。

三つの楽器が最も親密になる瞬間。境界は曖昧になるけれど、それぞれの個性は失われない。むしろ、違いがあるからこそ調和が生まれる。

母と私も、そうだったのかもしれない。

離れていても、会えなくても、つながっていた。形は違うけれど、愛は続いていた。

「お母さん...」

時子は呟いた。

涙が静かに流れた。でも、もう苦い涙ではなかった。

最後の音が、ゆっくりと空気に溶けていく。

5分28秒。

音楽は終わった。でも、余韻は続いている。45年前の録音が、今この瞬間、新しい意味を持って響いている。

「Some other timeは、来なかった」

時子は深く息をついた。

「でも、今、ここで会えた」

音楽の中で、時を超えて、母と対話ができた。それは幻想かもしれない。でも、この温かさは本物だ。

「この録音も、48年間眠っていたんですね」

時子はレコードを見つめた。

「でも、今、私に届いた」

マスターが優しく頷いた。

「必要な時に、必要な形で、大切なものは帰ってきます」

「母も...」

時子は窓の外を見た。雪が降り始めていた。

「いえ、母はずっとそばにいてくれた。この録音のように帰ってきたのは、それに気づく私の心なのかもしれません」


レコードの針が上がり、かすかなノイズだけが残った。そして、それも消えて、完全な静寂が戻ってきた。

でも、その静寂は、もう重くない。

「不思議です」

時子は窓の外を見ながら言った。雪は止んで、街灯が濡れた路面を照らしている。

「45年間、私は独り言を言い続けていると思っていました」

マスターが静かに耳を傾ける。

「でも、違ったんですね。母はずっと答えていた」

「どんな風に?」

マスターの問いかけは優しい。

時子は言葉を探した。

「このトリオの対話のように。ピアノが問いかけ、ベースが答えるように、母も見えない形で応えていた。部下たちを通して、私の選択を通して、45年間の後悔を通してさえも」

深く息をつく。

「墓石は黙っていても、母との対話は続いていた」

マスターが微笑んだ。

「音楽も、演奏が終わっても心の中で響き続けますね」

その言葉に、時子は頷いた。

「ええ。母の声は聞こえなくても、私の中で響き続けている」

窓の外を見る。


「Some Other Time...またいつか」

時子は呟いた。

「でも『いつか』を待つ必要はなかった。この音楽のように、母との対話は今も続いている」

その気づきに、涙が止まらなくなった。

時子は、先ほどもらったハンカチで涙を拭いた。ラベンダーの香りがまだ残っている。

「涙は、心の雪解けのようなものです」

マスターが優しく言った。

「そう...雪解け」

時子は窓の外を見た。11月の初雪を思い出しながら。

「母を失った日から、私の心は冬でした。45年間の長い冬」

「でも今夜、雪が解け始めた気がします」

立ち上がると、体が軽い。重荷を下ろしたような、でも大切なものは失っていない、不思議な軽さ。

「これから一年、どう生きようか考えていました」

時子は続けた。

「謝罪の一年にしようか、償いの一年にしようか。でも違う」

新しい決意が声に宿る。

「母との対話を、違う形で続けます」

「どんな形で?」

「かつての部下たちに、会いに行きます。みんなもう40代、50代になっているけれど」

時子の声が温かくなる。

「お礼を言いたい。『お母さん』と呼んでくれたことが、母との対話の証だったと」

「そして、母から受け継いだものを、次の世代へつなぎたい」

「それが、この対話の続きになる気がします」

マスターが優しく言った。

「素敵な冬支度ですね」

「冬支度...」

時子は、その言葉の新しい意味に気づいた。

「人生最後の冬への準備。でも、それは終わりじゃなくて、次への橋渡しなんですね」

「母との音楽は、私が去った後も、誰かの中で奏でられる」

時子は微笑んだ。

そして、窓の外を見ながら付け加えた。

「48年間眠っていたこの録音が、今夜私に届いたように」

「私の残すものも、いつか誰かに届くかもしれない」

マスターは静かに頷いた。

「必要な時に、必要な形で」

「はい。母の愛が私を通して続いたように、私の愛も誰かへ続いていく」


時子はバッグから、使い古した企画メモ帳を取り出した。広告代理店時代からの癖で、今でも持ち歩いている。1ページを破り取り、ペンを走らせた。

「45年前の11月28日、母の最期に間に合いませんでした。 でも毎日が、母との対話でした。 後悔を手放さなかったのは、愛していた証。 『またいつか』は、ずっと『今』でした。 - 時子」

書き終えると、そっとテーブルに置いた。次に来る誰かへの励ましになればいい。

マスターが、メモを静かに受け取った。

「きっと、必要な方に届きます」

時子は立ち上がった。

「お代は...」

「結構です」

マスターは微笑んだ。

「新しい冬支度の、お祝いです」

「また...来てもいいですか?」

「それは、あなた次第です」

その謎めいた答えに、時子は静かに頷いた。もしかしたら、もう来る必要はないのかもしれない。答えを見つけたから。

ドアに向かう。真鍮のドアノブに手をかけると、来た時とは違う温もりを感じた。

カランと、小さな鈴の音。

外に出ると、11月下旬の冷たい空気が肺を満たした。でも、その冷たさが心地よい。生きている実感。

深呼吸をする。雪の匂いはまだ残っているが、空は晴れ始めていた。雲の切れ間から、星が顔を覗かせている。

数歩歩いてから、時子は立ち止まった。もう一度、あの白銀の光を見ておきたくなった。自分を変えてくれた、あの優しい輝きを。

振り返ると——

もう、そこには何もなかった。

古いビルの壁だけ。白銀の光も、「夜想」の看板も、重厚な木製のドアも、すべて消えている。まるで最初から、何もなかったかのように。

時子は驚かなかった。むしろ、そうだろうと思った。必要な人にだけ現れ、答えを見つけたら消える店。

「ありがとう」

壁に向かって、小さくつぶやく。

ポケットに手を入れると、小さな紙袋が触れた。

白い紙袋。コーヒー豆を入れるような、しっかりとした厚手の紙。銀色で「夜想」の文字が印刷され、雪の結晶の透かし模様が美しい。

裏返すと——

「Track 10: Some Other Time - またいつか母と...」

時子は紙袋を大切に胸ポケットにしまった。これが今夜の証。夢ではなかった証拠。

スマートフォンを取り出し、音楽アプリを開く。「Bill Evans Some Other Time」で検索。すぐに見つかった。1968年の録音、48年間眠っていた音源。

ダウンロードボタンを押す。

「これから毎朝、仏壇の前で聴こう」

時子は微笑んだ。

「母との対話のBGMとして」

明日、墓参りに行こう。

いつもの月命日ではない、特別な墓参り。新しい始まりの報告。

『お母さん、これから部下たちに会いに行きます。みんなにきちんと伝えます、あなたから受け継いだものを』

そして、冬が本格的に来る前に、手紙も書こう。会えない部下たちには、心を込めた手紙を。

「最後の冬支度」

それは着物の虫干しだけじゃなかった。人生の最後の冬に向けて、愛を次の世代へ手渡す準備だった。

歩き始める。

東京の街に、自分の足音だけが響く。でも、もう孤独ではない。母の足音が、心の中で一緒に響いている。

「着物の冬支度は終わった。でも本当の冬支度は、これから」

時子は空を見上げた。

あと一年。短いようで、永遠にも等しい時間。母と共に生きる、最後で最高の冬。

雪が、また静かに降り始めた。

でも今度は、温かく感じられた。まるで母が、空から見守ってくれているような——

【おしまい】


♪ Now Playing: Your Life - Track ∞


作者から一言

この物語は、「取り返しのつかない後悔」を抱えて生きる全ての方に向けて書きました。

Bill Evansの「Some Other Time」は、1968年にドイツの黒い森で録音され、48年間も倉庫に眠っていました。2016年に初めて世に出た時、多くの人が「なぜ今まで埋もれていたのか」と驚きました。でも、私はこう思うのです。必要な時に、必要な人のところへ届くために、48年間待っていたのだと。

時子が選んだ道——仕事を優先し、母の最期に間に合わなかった——それは1978年という時代の中で、女性が職業人として生きることの重さを物語っています。今なら違う選択ができたかもしれません。でも、その時代、その瞬間には、それが精一杯の選択だったのです。

「Some Other Time」——またいつか。その「いつか」は永遠に来ませんでした。でも、45年間の後悔そのものが、母への愛の深さの証明だったのかもしれません。苦しみを手放さないこと、それも愛の形なのです。

最後に——

この物語を読みながら、実際に「Some Other Time」を聴いてくださった方へ。トリオの対話は、どんな会話に聞こえましたか?独白ではなく、温かい対話として響いたでしょうか。

そして、あなたが「謝りたいけれど、もう謝れない人」は誰ですか?

その後悔も、きっと愛の証明です。『またいつか』が『ずっと今』である愛の。

後悔と共に生きる勇気を与えてくれる曲があれば、ぜひコメントで教えてください。

2025年 初雪の夜に

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音影【音楽小説家】 人とAIの境界で物語を紡ぐ旅にお付き合いいただきありがとう。私の言葉があなたの心に響いたなら、チップが創作の新たな種となります。共に想像の先へ。