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【4夜の物語 第3話】夜想のジャズ喫茶〜『Track 11:承認欲求という麻薬の向こう側』

~あらすじ~

街の片隅にある、地図には載らないジャズ喫茶「夜想」。

働くことに行き詰まった4人の客――就活生・建築家・SNSインフルエンサー・音楽療法士――が一夜を過ごす連作短編です。

本作はその3話目。

推奨読書順: Track 4 → Track 3 →「Track 11(本作)」→ Track 12

♪ Art Pepper - Everything Happens to Me (1981)

12月29日の金曜日、午後9時。

桜木レオは六本木ヒルズのイルミネーションの前で、三脚にスマホを固定していた。青い光の海が足元から天井まで広がり、まるで深海にいるような幻想的な空間。でも、レオの目には数字しか映っていない。

「OK、これで六本木は完璧」

独り言をつぶやきながら、撮影した動画をその場でチェック。画面を高速でスワイプし、構図、露出、色味を確認。表情は真剣そのものだが、瞳の奥は死んでいる。

「渋谷、表参道、丸の内、お台場……全部回った」

今日だけで15箇所目。朝の7時から、ずっとこの調子だ。朝食はコンビニのサンドイッチを撮影の移動中に。昼食は撮れ高の良いカフェで「映える」ランチを撮影しながら。でも、味なんて覚えていない。すべては12月31日23時59分の投稿のため。

「年末総集編の素材、あと2日で完成させないと」

レオは震える手でスマホの画面を確認した。さっきの投稿、もう8,432いいね。1時間で1万いかない。削除。すぐに角度を変えて撮り直し。フィルター変更。再投稿。

顔は笑っている。完璧な角度で、完璧な笑顔。50万人のフォロワーが求める「キラキラした桜木レオ」を演じている。でも、頬の筋肉が痙攣し始めていた。1日中、作り笑顔を続けた代償。

周りには同じようにスマホを構えた人々。みんな必死に「映え」を求めている。レオは彼らを見下ろしながら思った。素人たちは1枚撮って満足。俺は同じ場所で30テイク。光の角度、表情の微調整、すべてが計算されている。

「フォロワー50万の責任がある」

そう自分に言い聞かせる。でも、本当は違う。50万人の目が怖い。監視されている感覚。24時間365日、誰かに見られている。いや、見られていないことの方が怖い。投稿して5分、いいねが100を超えなければ動悸が始まる。

ポケットの中で、別のスマホが振動した。仕事用、プライベート用、サブアカウント用。3台のスマホを使い分ける生活。全部の通知をオンにしているから、数分おきに何かが鳴る。

三脚を畳みながら、レオは明日の予定を頭で整理した。朝5時起床、日の出からゴールデンアワーまで都内5箇所撮影。10時から12時は動画編集。午後は……

「年間ベストショット、まだ決まってない」

焦りが募る。365日分の写真から選ぶ「今年の1枚」。去年は富士山をバックにしたジャンプショットで10万いいね獲得。今年はそれを超えなければ。フォロワーは成長を求めている。停滞は死を意味する。

歩きながら、過去の投稿を見返す。1月の雪景色、3月の桜、7月の花火、10月の紅葉。すべて「年末総集編」のワンピース。今を楽しむことなんてない。すべては12月31日のために。

信号待ちで立ち止まり、DMをチェック。500件以上の未読。ほとんどが「相互フォローお願いします」「コラボしませんか」の営業メッセージ。本当の友達からの連絡は、もう何ヶ月も来ていない。

「レオ、最近会わないけど大丈夫?」

半年前の大学時代の友人からのメッセージが既読のまま残っている。返信する暇もない。いや、返信する言葉がない。「インフルエンサーとして順調だよ」なんて言えば嘘になる。

最後のカットを撮り終え、レオは六本木の街を見下ろした。きらびやかな夜景。でも、レオにはグリッド表示された投稿画面にしか見えない。この景色も、ただの素材。

「完璧な年末総集編」を作る。それだけが、今のレオを動かしている。でも、心の奥底では分かっている。投稿した瞬間から、また来年の総集編の準備が始まることを。永遠に続く、終わりのないマラソン。

撮影を終えて帰路につこうとした瞬間、レオは最後にもう一度だけ全体を撮ろうとスマホを構えた。「年間ベストショット」の候補。イルミネーション全体が入るアングル。

もっと上から撮りたい。手すりの向こうに身を乗り出し、限界まで腕を伸ばす。その瞬間、手が滑った。

「あっ」

メインのスマホが手から離れ、石畳に落下。鈍い音と共に画面が蜘蛛の巣状にひび割れた。

「嘘だろ……」

慌てて拾い上げる。画面をタップしても反応しない。サイドボタンも効かない。完全に操作不能。50万人との唯一の接点が、突然断たれた。

慌ててしゃがみ込み、ポケットから予備機を取り出そうとした。 焦る指から、プライベート用とサブアカウント用の2台も滑り落ちた。

プライベート用は、弾んで歩道に転がった瞬間、忘年会帰りの集団の足元へ。

誰かが踏み、誰かが蹴り、最後は赤ら顔のサラリーマンが全体重をかけて踏み抜いた。

バキッ。

「あれ?なんか割れた音した〜?」
「知らね〜、行こうぜ次〜!」

泥酔した集団は、そのまま二次会へと消えていった。

「待って、待って!」

震える手でサブアカウント用を拾い上げる。 こちらは無事だ。画面もタッチも正常。 でも、これはサブアカ専用機。メインアカウントのIDもパスワードも保存していない。 この完璧に動く予備機も、ただの文鎮だった。

「修理店……メイン機を直せば……」

掠れた声で呟く。でも、年末だ。深夜の六本木、どこも閉まっている。明日は30日、明後日は大晦日。

「大晦日の投稿が……1年かけて準備したのに……」

50万フォロワーが離れていく光景が頭に浮かぶ。

「新しいの買っても……」

そこで完全に理解した。

二段階認証のSMSは、壊れたメイン機の番号にしか送られない。新しいiPhone買っても、番号の移行が必要。キャリアショップは深夜で閉まっている。明日は年末の土曜で予約も取れない。

オンラインでeSIM再発行?マイページのパスワードが分からない。バックアップコードも……メイン機のメモアプリにしか保存してない。

完全に詰んだ。

指が、勝手に動く。いいねチェックも、DMの確認も、ストーリーの更新も。この瞬間にも、フォロワーが離れていく気がする。

立ち上がろうとして、よろめいた。

膝が、笑い始める。冷や汗が首筋を伝う。呼吸が浅く、早くなる。アルコール中毒者がグラスを求めるように、レオの指は存在しないスマホの画面をなぞろうとしていた。

ふらふらと歩いていると、見慣れない路地に迷い込んだ。六本木の裏通り。ネオンの光も届かない、静かな一角。普段なら絶対に来ない、「映えない」場所。

震える手で顔を覆った時、指の隙間から光が見えた。

深い青の宝石のような、瑠璃色の光。高貴で人工的な輝き。まるで、スマホの画面のような、でも違う、もっと深い青。

「夜想」

文字が瑠璃色に浮かんでいる。カフェ?こんな時間に開いてる?でも、その光に引き寄せられた。スマホという光を失った今、別の光を求めているのか。

「とりあえず……座れる場所……」

藁にもすがる思いで近づく。重厚な木製のドア。真鍮のドアノブが瑠璃色に輝いている。回すと、思いのほか滑らかに動いた。

カラン、と小さな鈴の音。

一歩足を踏み入れた瞬間、外の喧騒が嘘のように消えた。

古い木材と蜜蝋の混じった匂い。かすかに残るタバコの残り香。そして何より、深煎りコーヒーの香ばしさが、疲れた鼻腔をくすぐる。

店内も瑠璃色の静かな光に満ちている。深海の底のような、でも不思議と温かい空間。

「ここなら……」

レオはまだ震えが止まらない。とりあえず座って、考えなければ。どうやってアカウントを取り戻すか。50万人が離れていく前に。

店内は想像以上に広く、でも客は誰もいなかった。壁一面のレコード、年代物のスピーカー、そして奥の壁際にはアップライトピアノ。

その上に、小さな札が立てられていた。

「Now Playing: Track 11 - ♪ (0:00)」

まだ何も始まっていない。でも、これから何かが始まることを予感させる表示。すべてがアナログで、レオの知る世界とは正反対。

「いらっしゃいませ」

カウンターの奥から、落ち着いた女性の声がした。50代だろうか。銀髪の混じった黒髪を後ろで一つに束ね、白いブラウスに紺のエプロン。その佇まいは、時間に追われていない人特有の優雅さがあった。

胸元で、小さな三日月のブローチが光っている。今夜は瑠璃色。店の照明と同じ、深い青の輝き。

「あの……Wi-Fiって使えますか?」

レオは震え声で尋ねた。まだ手は小刻みに震えている。スマホが壊れてから、もう20分。いいねの数を確認できない。フォロワーが減っているかもしれない。

「Wi-Fiですか」

マスターは優しく微笑んだ。

「ここでは、しばらく繋がらない時間を」

「何になさいますか?」

「あ……ブレンドで」

上の空で答える。コーヒーなんてどうでもいい。ただ、どうすればアカウントに戻れるか、それしか考えられない。

マスターは静かに豆を挽き始めた。その手つきは、豆と対話しているようだった。今日の豆の声を聞き、必要な挽き方を見極める。まるで、音楽家が楽器と向き合うような真摯さ。

ゴリッ、ゴリッ。

規則的で、でも機械とは違う不規則さも含んだ音。スマホの通知音、シャッター音、編集ソフトの効果音。デジタルな音に囲まれて生きてきたレオには、この原始的な音が新鮮だった。手動で何かを作る音。時間をかけて、ゆっくりと。効率とは真逆の、でも確実に何かが生まれていく音。いつの間にか、震えが少し収まっていた。

促されるまま、レオは革張りのソファに座った。

ひんやりとした革が、徐々に体温で温まっていく。使い込まれた革の柔らかさが、緊張した体を包み込む。指先が革の表面をなぞると、細かい皺が年月を物語っていた。インスタ映えしない、でも確かな存在感。

マスターの歩き方には、音がない。足音を立てないのではなく、まるで店の一部として存在しているような、自然な移動。

コーヒーが運ばれてきた。立ち上る湯気が瑠璃色の光を受けて幻想的に見える。

一口飲むと、深い苦味が口の中に広がった。いつも飲んでいるカフェラテとは違う、ごまかしのない味。でも、飲み込んだ後に、ほのかな甘みが残る。

もう一口。

これは「映える」ための飲み物じゃない。写真も、いいねも、関係ない。ただ、この瞬間だけのコーヒー。

舌の奥に残る苦味。でも嫌な苦さじゃない。大人になって初めて理解できる、複雑な味の層。甘い、苦い、酸っぱい。すべてが混ざり合って、一つの味になっている。

コーヒーカップを置く。

低いベースの音が、静かに店内を満たしている。ジャズのリズムは穏やかなのに、レオの心臓は早鐘を打つ。

手が、また震え始めた。

「12月31日23時59分」

レオは独り言のように呟いた。

「この投稿のために、1年間生きてきた」

マスターが静かに耳を傾ける。その沈黙が、レオの言葉を引き出していく。

「桜、花火、紅葉、イルミネーション。全部、年末の1コマのため」

声が震え始めた。

「365日が、総集編の素材。完璧な総集編を作らないと。去年より良いものを。フォロワーが期待してる」

コーヒーカップを置き、顔を上げる。

「見てくださいよ、俺の投稿」

サブアカウント用を取り出す。メインアカウントのページを表示。

「統一感のあるフィード、計算された配色、エンゲージメント率15%超え」

マスターは答えない。ただ、深い理解を含んだ眼差しでレオを見つめている。その瞳には、不思議な深さがあった。見透かすでもなく、同情するでもなく、ただそこにいる。まるで、深い湖のような静寂を湛えて。

「フォロワー50万、月間5000万インプレッション。すごいでしょう?」

得意げに言ったつもりだったが、静寂の中で自分の声が空虚に響く。

「でも……5分ごとにチェックしないと息ができない」

沈黙。

マスターは何も言わない。ただ、待っている。

「100人減ったら眠れない」

また沈黙。今度はもっと長い。

店内のベースの音だけが、低く響いている。

「朝起きて最初にすることも、寝る前の最後も、全部数字の確認」

深い息をつく。

「DMは500件来ても」

声が掠れる。

「誰も俺の本当の名前を知らない」

静寂。

「礼二だって、知ってる人いないんです」

レオは震える手でコーヒーカップを持ち上げた。

「いいねが人生のすべて。それ以外に、価値を測る物差しがない」

「食事も『美味しい』じゃなくて『映える』で選ぶ。友達も『楽しい』じゃなくて『フォロワー数』で判断する」

「26歳。普通なら仕事して、恋愛して、将来を考える歳。でも俺は、画面の中の数字しか見てない」

長い、長い間。

ピアノが静かに流れている。誰かの指が紡ぐ、繊細な音の連なり。時折、音と音の間に余白を作りながら。

「最後に心から笑ったのは、いつだったか……」

レオは顔を上げ、マスターを見た。

「これって……」

レオの言葉が宙に浮く。

マスターの眼差しだけが、その言葉を受け止めていた。

マスターはゆっくりとカウンターから離れ、レコード棚へと向かった。その間、レオは店内を見回した。

革張りのソファの隣、小さなサイドテーブルの上に何かが置かれている。

レンズキャップ。

使い込まれた、黒い円形のキャップ。裏を見ると、小さくマジックで文字が書かれている。

「小さな光の集まりが、大きな輝きになる - 悠太」

レオは手に取った。プラスチックの質感が、妙に温かい。誰かが大切にしていたもの。

「小さな光の集まり……」

レオは凍りついた。

「俺の50万フォロワーは、光じゃない」

声が掠れる。

「ただの数字だ。顔も名前も知らない数字。俺の本名も知らない数字」

レンズキャップを握りしめる。

「『小さな』光……」

その言葉が胸に刺さる。

「小さくても、一つ一つが光だったんだ。この人にとっては」

深い溜息。

「俺は巨大な数字を追いかけて、一つ一つの光を見てなかった」

涙がこぼれそうになる。

「50万の中に、光は一つもない」

レンズキャップをそっとテーブルに戻す。 誰かが、ここで何かに気づいて、置いていったもの。

他にも、そんな痕跡があるのだろうか。

視線を巡らせると、本棚の間に一枚の紙が挟まっていた。企画メモ帳から破られたページ。几帳面な文字で何かが書かれ、最後に走り書きで。

「45年前の11月28日、母の最期に間に合いませんでした。 でも毎日が、母との対話でした。 後悔を手放さなかったのは、愛していた証。 『またいつか』は、ずっと『今』でした。 - 時子」

レオは立ち尽くした。

45年。気の遠くなるような時間を、後悔と共に生きた人がいる。でも、それも愛だったと。

「俺は何を後悔するだろう」

独り言が漏れる。

「いいねが少なかったこと?」

首を振る。

「フォロワーが減ったこと?」

それも違う。

長い間。

「分からない……」

答えが出ない。でも、それが数字じゃないことだけは、なんとなく分かった。

指先で、紙の縁をなぞる。そっとメモを戻した。

「50万人が見ていても」

声が掠れる。

「誰も本当の俺を知らない」

ピアノの音が、静かに流れている。

「俺も、本当の俺を知らない」

深い溜息。

「誰に何を認めてもらいたいのかも、分からない」

レオは二つの置き土産をもう一度見つめた。レンズキャップと企画メモ。どちらも、誰かの人生の断片。でも、そこには確かな重みがあった。数字では測れない、本物の重み。

ふと、店内を見回した。

「みんな、ここに来たんだ」

「俺みたいに、迷って、苦しんで」

でも、彼らは何かを見つけて帰っていった。そして、次の誰かのために、小さな希望を残していった。

50万人の承認より、この瞬間、この場所で見つけた小さな真実の方が、ずっと重い。

「お聴きいただきたい音楽があります」

レコード棚の前から、マスターが静かに言った。その声には、深い確信があった。

指が背表紙をなぞっていく。同じ痛みを知る者を探すような、理解と共感を含んだ動作。そして、ある場所で手が止まった。

慎重に一枚を引き出す。

黒い背景に、ネオンのような矢印の看板が浮かび上がるジャケット。「ART PEPPER」の文字が左上に、「ROADGAME」が右上に紫色で配置されている。夜の道路沿いに立つ、どこか寂しげな看板の写真。

「1981年8月15日、ロサンゼルスのメイデン・ヴォヤージュでの録音です」

マスターはジャケットから慎重にレコードを取り出した。

「アート・ペッパーの『Everything Happens to Me』」

レコードをターンテーブルに載せる。

「12分19秒。長い演奏ですが……」

針を手に取りながら、マスターは続けた。

「SNSの15秒動画とは、真逆の時間ですね」

レオの心臓が、どくんと鳴った。

「でも、その12分間で、彼は人生のすべてを語ります」

マスターは針をレコードに近づけながら続けた。

「『Everything Happens to Me』――すべてが私の身に起こる、という歌。雨に降られ、電車に乗り遅れ、日常の小さな不運が次々と重なる。彼の人生そのものを映し出す曲です」

そして、少し微笑んだ。

「彼はそれを、恨みでも嘆きでもなく、自嘲と告白の二層で演奏します。技巧の誇示ではなく、即興の必然性だけで」

「彼は薬物依存と、ずっと闘っていました。1950年代から、この録音の時も。完璧ではなかった。でも、音楽は続けた」

針がレコードの溝に近づく。

「あなたと同じように、何かに依存しながら」

カチッという小さな音。

針がレコードの溝に触れる。

一瞬の静寂。

そして――

ピアノが、静かに空間を作り始める。 続いて、アルトサックスが入ってくる。

最初の一音が、拍よりわずかに後ろに寄せて入る。急がない。誰かのペースに合わせない。自分の呼吸で、自分のタイミングで。

「これは……」

レオは息を呑んだ。

リアルタイム投稿の競争から降りたような、自由な入り方。

ペッパーのサックスは、メロディーを崩さずに進んでいく。でも、フレーズの終端に長い息を置く。ため息のような、言い切らない余白。

まるで、人生の不運を一つ一つ語るような音。自嘲的で、でもどこか優しい。

レオも苦笑いする。自分の不運を、数え上げて。

フォロワー50万いても、アルゴリズム変更で表示率は激減。炎上を避けようと無難な投稿したら「つまらなくなった」。コラボ相手は契約違反で逃げた。昨日の投稿、誤字一つで100人アンフォロー。

そして今夜、完璧な一枚を撮ろうとして、メイン機が石畳に落下。プライベート用は酔っ払いに踏み潰され、サブ機があっても二段階認証で詰んだ。年間ベストショットを狙って、すべてを失った。

「Everything happens to me」

本当に、すべてが俺の身に起こる。

最初は、苦笑いで聴いていた。

でも、演奏が進むにつれて、音は深くなっていく。

音の語尾に、かすかなビブラート。強くかけない、にじませる程度。完璧に整えるのではなく、震えも含めて表現。

「技巧じゃない……語ってる」

レオがつぶやく。

ジョージ・ケイブルスのピアノは、ペッパーの後ろ乗りを静かに支える。主張しない、でも確実にそこにいる。呼吸を合わせ、間を大切にする。時折、高い音をそっと重ねて、温かさを加えていく。

「これが……」

レオの目から涙がこぼれそうになる。

「本当のフォロワー」

50万の「いいね」より、一人の静かな支え。数字じゃない、存在そのものの重み。

ベースとドラムが作る土台は、音数を抑えて裏の呼吸を作る。派手さはない。でも、確実にペッパーを支えている。

アップライトピアノの上の札が、いつの間にか変わっていた。

「Now Playing: Track 11 - Everything Happens to Me (12:19)」

12分19秒。TikTokの15秒とは真逆の時間。じっくりと、自分と向き合う時間。

中盤、ペッパーのソロが深みを増していく。最初の自嘲的な語り口から、次第に本音が顔を出す。本当の痛み、本当の孤独が、音になって溢れ出す。でも、それは悲劇的じゃない。むしろ、その痛みを受け入れて、共に生きていく覚悟のような。

「完璧じゃなくても……本物だ」

レオがつぶやく。

50万人に見せる完璧な笑顔より、この震える音の方が、ずっと真実に近い。

演奏は終盤に向かう。

ペッパーの音は、諦めていない。12分以上、語り続けても、まだ言いたいことがある。まだ、生きている。

「Everything happens to me」

すべては自分に起こる。良いことも、悪いことも、全部。

「でも、まだ音楽を続けている」

それがペッパーの答えだった。

最後の一音が、静かに消えていく。

長い余韻。

12分19秒が終わった。でも、その時間は永遠のように感じられた。一瞬一瞬に、人生が詰まっていた。

レオは動けなかった。

「俺も……向き合い方を変えればいい」

声が、一度詰まる。

「SNSは……俺の楽器かもしれない」

ペッパーにとってのサックスのように。完璧に吹けなくても、震えながらでも、それでも音を出し続ける。

マスターが静かに針を上げた。

「12分19秒、お疲れさまでした」

その言葉が、妙に心に響いた。

「はい……お疲れさまでした」

レオは、自分自身に向けて言った。26年間、お疲れさま。これからは、完璧じゃないまま、続けていこう。

肩の力が、抜ける。

「俺が、使う側になればいい」

声に、新しい確信が宿る。

「今まではずっと、使われてた」

マスターが静かに言った。

「承認は、おまけのようなものですね」

「そう!」

レオは身を乗り出した。

「ペッパーだって、拍手のために吹いていたわけじゃない」

「50万人が5万人になってもいい」

レオは宣言するように言った。

「5千人になっても構わない」

そして、微笑んだ。

「500人でも、50人でも」

数字から解放される感覚。軽くなる心。

「明後日……」

レオは決意を口にした。

「大晦日の総集編は投稿しない」

マスターの眉が、わずかに上がる。

「1年かけて準備したんでしょう?」

「はい。365日分の素材があります」

レオは苦笑いを浮かべた。

「でも、それは『さっきまでの俺』が作ったもの」

深呼吸をする。

「代わりに、元日の朝は初日の出を見に行く」

「撮影に?」

「いえ」

レオは首を横に振った。

「自分の目で見るだけ。スマホは持っていくけど、撮らない」

窓の外を見る。六本木の夜景が、瑠璃色の光を通して幻想的に見える。

マスターは、何も言わなかった。

「Everything happens to me」

呟いて、微笑む。

「でも、俺はまだここにいる」


レオは顔を上げ、マスターを見た。

「ありがとうございました」

深く頭を下げた。

「こんな夜中に……本当に」

マスターは優しく微笑んだ。

「年の瀬は、新しい始まりの前夜ですから」

レオは立ち上がった。来た時の震えはもう止まっている。ポケットから、壊れたスマホ本体を取り出した。蜘蛛の巣状にひび割れた画面、もう二度と光ることのない黒い鏡。

「これ、置いていってもいいですか?」

マスターは静かに頷いた。

レオはバッグから油性マジックを取り出した。いつも撮影用の小道具にメモを書くために持ち歩いているもの。壊れた画面の上に、小さく、でもはっきりと書いた。

『50万人が見ていなくても、星は輝いていた
承認されなくても、心臓は動いていた
いいねがゼロでも、今日という日は美しかった
いいねも炎上も全部引き受ける、でも俺はここにいる
完全に断てなくても、少しずつ自由になれる
レオ、26歳、依存症と共に生きる人間』

壊れたスマホをそっとテーブルに置いた。次に来る誰かへの、小さな励ましになれば。

「また、来てもいいですか?」

ドアに向かいながら、レオが尋ねる。

「それは、あなた次第です」

マスターの言葉には、深い理解が込められていた。もしかしたら、もう来る必要はないのかもしれない。でも、それでいい。

ドアノブに手をかける。冷たい真鍮の感触。でも、その冷たさが今は心地よい。

カランと、鈴の音。

外に出ると、12月下旬の冷たい空気が肺を満たした。

六本木の街は、まだ週末の賑わいを残している。ビルの窓明かりが、都会の夜を彩っている。

「撮らなくても、綺麗だ」

レオは小さくつぶやいた。

初めて、ファインダー越しじゃない景色を見ている。誰にも見せない、誰にも評価されない、ただ自分の目で見る景色。でも、確かにそこにある。

深呼吸をする。冷たい空気が、生きている実感を与えてくれる。

数歩歩いてから、レオは立ち止まった。もう一度、あの瑠璃色の光を見ておきたくなった。深い青の宝石のような、自分を変えてくれた光を。

振り返ると------

もう、そこには何もなかった。

古いビルの壁があるだけ。瑠璃色の光も、「夜想」の看板も、重厚な木製のドアも、すべて消えている。まるで最初から、何もなかったかのように。

ポケットに手を入れると、小さな紙包みが触れた。

取り出してみると、未開封のシュガースティックだった。瑠璃色の細長い包みに「夜想」のロゴが銀色で印刷されている。

裏返すと------

「Track 11: Everything Happens to Me - 承認欲求という麻薬の向こう側」

レオはそれを大切に胸ポケットにしまった。これが今夜の証。夢じゃなかった証拠。

サブアカウント用を取り出し、音楽アプリを開く。

「Art Pepper Everything Happens to Me」で検索。

1981年のライブ録音がすぐに見つかった。『Roadgame』のジャケット、夜の道路沿いの寂しげな看板。

ダウンロードボタンを押す。

12分19秒。急ぐ必要はない。

歩き始める。六本木の深夜、まだ人々が行き交っている。でも、レオはもう急がない。

空を見上げる。星が、一つ、二つ。

撮らない。

【おしまい】


♪ Now Playing: Your Life - Track ∞


作者から一言

Art Pepperの「Everything Happens to Me」(1981年『Roadgame』)を聴きながらお読みいただけたなら、嬉しく思います。12分19秒。TikTokの15秒とは真逆の時間。薬物依存症と闘いながら、それでも音楽を続けた人の、自嘲と告白の二層が重なる演奏です。

あなたにとって「数字ではないものさし」を思い出させる音楽があれば、ぜひコメントで教えてください。

お読みいただき、ありがとうございました。


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音影【音楽小説家】 人とAIの境界で物語を紡ぐ旅にお付き合いいただきありがとう。私の言葉があなたの心に響いたなら、チップが創作の新たな種となります。共に想像の先へ。