夜想のジャズ喫茶〜『Track 7:息苦しい熱帯夜にアバターと』
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Track 7「息苦しい熱帯夜にアバターと」
♪ Jim Hall & Ron Carter - Alone Together (1972)
8月下旬の金曜日、午後11時過ぎ。
深海涼は、VR空間の夏祭りで花火大会のクライマックスを見ていた。アバター「Ryo_Deep」として。
「最高だね、Ryo!」
「来年もまた一緒に見ようね!」
「この瞬間を共有できて嬉しい!」
100人以上のフレンドたちの歓声が、空間オーディオで360度から聞こえてくる。大輪の花火が次々と打ち上がり、VRの夜空を極彩色に染めていく。涼しい仮想の夜風が頬を撫で、浴衣のテクスチャーが肌に心地よい。気温は23度に設定。湿度40%。完璧な夏の夜。
「みんな、写真撮ろう!」
誰かの提案で、フレンドたちが集まってくる。涼のアバター「Ryo」は180センチの長身。整った顔立ち。現実の自分より10センチ以上高く、顔のパーツも「理想値」に調整してある。
「Ryoはいつもイケメンだなー」
「モデルみたい!」
褒め言葉が飛び交う。涼は慣れた手つきでポーズを決める。VR内での振る舞いは完璧にマスターしている。どの角度が一番映えるか、どんな表情が好感度が高いか、全て計算済み。
花火のフィナーレ。音楽と同期した演出が始まる。
そして——
ブツン。
画面が暗転した。
「は?」
VRゴーグルを外す。真っ暗な部屋。エアコンの送風音が消えている。PCのファンも止まっている。
停電だ。
「うわ、現実暗っ」
涼は思わずつぶやいた。暗闇に目が慣れるまで、何も見えない。手探りでスマートフォンを探す。画面の光で部屋を照らすと、見慣れた光景が浮かび上がる。
脱ぎ散らかした服。空のペットボトル。昨日から放置しているコンビニ弁当の容器。
そして何より——暑い。
エアコンが止まってわずか数分で、部屋の温度が上昇し始める。8月下旬の熱帯夜。外気温は30度を下回らない。窓を開けても、生ぬるい空気が入ってくるだけ。
「これがデフォルトの環境音かぁ」
窓の外から聞こえてくる音。コオロギの鳴き声。遠くを走る車の音。停電で静まり返った街に、普段は聞こえない小さな音が浮かび上がる。
VRの中の音は全て計算されていた。必要な音だけが、必要なタイミングで鳴る。でも現実の音は雑多で、不規則で、コントロールできない。
汗が噴き出してくる。Tシャツが肌に張り付く不快感。VRの中では汗をかくことなんてない。常に快適。常に清潔。
「停電でログアウト...これが一番確実かも」
苦笑いを浮かべながら、涼は立ち上がった。
部屋を見回す。6畳のワンルーム。家賃7万8千円。駅から徒歩15分。このスペックだけ見れば普通の一人暮らしだが、中身は異常だ。
部屋の半分をゲーミングPCとVR機器が占領している。RTX 4090搭載のハイエンドマシン。Meta Quest 3にPICO 4。フルトラッキング用のVIVEトラッカー。触覚フィードバックグローブ。総額200万円を超える機材たち。
でも、生活空間は最小限。布団とローテーブル。それだけ。
「俺の優先順位、バグってるよなぁ」
独り言が漏れる。最近、独り言が増えた。VRの中では常に誰かと話しているから気づかなかったが、リアルでは話し相手がいない。
朝9時:Zoom朝会にログイン。カメラは「故障中」。
9時半〜18時:VRゲームのプログラミング。GitHubに緑のマスを増やす日々。
18時以降:自分が作ったVR空間で「Ryo_Deep」として活動。
深夜:鏡を見ないようにしながらシャワー。
「最後にリアルで人と話したのって...」
涼は指折り数える。
「あ、3ヶ月前かな。コンビニでセルフレジ故障して、店員さんと話した時」
「その時以外はセルフレジオンリー。人間との接触ゼロで買い物完了」
レジでの「すみません、エラーが出てまして」「あ、カード読み取り部分を...」のやり取りを会話と呼べるかは疑問だが。
Slackの通知音が鳴る。スマートフォンの画面を見ると、同僚からのメッセージ。
「深海さん、月曜のデモの準備どうですか?」
深海さん。それが会社での涼だ。優秀なVRエンジニア。納期は必ず守る。コードは美しい。ただ、顔を見せないだけ。
「順調です。土日で仕上げます」
嘘ではない。VRの中でもコーディングはできる。むしろ、巨大な仮想モニターの方が効率的。現実の27インチモニターなんて、もう小さすぎて使えない。
返信を送ってから、涼は気づいた。
「俺、どれが本当の自分かバージョン管理できてないなぁ」
VRでは180センチの人気クリエイター「Ryo」。
Slackでは優秀で真面目な「深海さん」。
でも、素顔の深海涼は?
「...誰だっけ、俺」
暗闇の中で、その問いだけが響いた。
胸の奥で、何かがざわつく。名前のない不安。VRゴーグルを外すたびに感じる、自分が溶けていくような感覚。「Ryo」でも「深海さん」でもない時間。この空白が、最近どんどん怖くなっている。
鏡を見れば答えがあるはずなのに、見たくない。そこに映るのは、誰でもない顔かもしれないから。
汗が止まらない。熱帯夜特有の、まとわりつくような湿度。
「ちょっと外行ってくるか」
涼は軽い調子で立ち上がる。
「3ヶ月ぶりの、目的なしお散歩タイム」
ドアノブに手をかけて、ふと自分を見下ろす。
「あ、このまま出るとこだった」
3日間着っぱなしのTシャツとスウェット。さすがにマズい。
「着替えとか...どこにしまったっけ」
クローゼットを開けると、洗濯してない服が山積み。比較的マシなパーカーを引っ張り出す。
エレベーターホールに出る。他の住人と会わないよう、扉の隙間から音を確認。
「ステルスモード発動」
小声で呟きながら、エレベーターのボタンを押す。
下降中、鏡に映る自分を見ないよう下を向く。
一瞬、横目で見えてしまった顔。知らない人だった。いや、これが深海涼のはずなのに、認識できない。VRの「Ryo」に慣れた目には、現実の自分は別人にしか見えない。
170センチ弱の身長。やせ細った体。伸びきった髪。
でも一番怖いのは、その顔に宿る表情を読み取れないこと。笑ってるのか、泣いてるのか、怒ってるのか。無表情という名の、誰でもない顔。
外に出ると、8月末の湿った夜気が全身を包む。
「うへー、湿度ヤバ...」
街は停電で薄暗い。でも遠くに、コンビニの明かりが見える。非常用電源で営業しているらしい。
「あそこがいつものセーブポイント」
最短ルート、42歩。いつもなら迷わず向かう。でも今夜は違った。
「たまには違う道も...」
足は勝手に、普段行かない方向へ向いた。商店街を通る。シャッターの閉まった店が並ぶ。昼間はきっと賑わっているのだろう。でも涼は昼間の姿を知らない。
「VRの商店街の方が活気あるな」
自分で作ったVR商店街を思い出す。24時間営業。NPCたちは常に笑顔。プレイヤーが近づくと必ず挨拶してくれる。でも、全部プログラムされた反応。
リアルの商店街は静かだ。でも、シャッターの隙間から漏れる光、2階の窓から聞こえるテレビの音、そこに確かに人の生活がある。プログラムされていない、予測不能な生活。
路地を曲がる。また路地。気がつくと、知らない場所にいた。
「あれ、ここどこだ」
スマートフォンの地図を開こうとするが、なぜか現在地が表示されない。GPSは受信しているのに、地図上のどこにも該当しない。
「バグかな」
でも、不思議と不安はなかった。VRでも時々、マップの端に到達して虚無空間に落ちることがある。その感覚に似ている。
古いビルが立ち並ぶ。1階は店舗だったらしいが、今は使われていない。看板の文字も読めないほど色褪せている。
ふと、顔を上げる。
ビルとビルの隙間に、光が見えた。
深い青緑の光。ティールブルーというのだろうか。モニターを長時間見続けた後の残像のような、でも確かにそこにある光。
「夜想」
文字が、光の中で浮いたり沈んだりしている。深海魚の瞬きのように、規則的で、でも有機的。
「なんだこれ、隠しダンジョン?」
涼は興味深そうに近づく。こんな路地裏に喫茶店。しかも深夜に営業している。現実にはあり得ない設定。
でも、だからこそ惹かれた。
ドアの前に立つ。重厚な木製。真鍮のドアノブが、青緑の光を受けて鈍く光っている。
「...どうせ現実も仮想も、大差ないし」
そう呟いて、ドアノブに手をかけた。
カランという鈴の音。
それは、デジタルでは再現できない、物理的な振動を伴う音だった。金属と金属がぶつかり合い、空気を震わせ、鼓膜に届く。あまりにもアナログで、あまりにもリアル。
店内は深い青緑の光に包まれている。でも、それは画面の光とは違う。有機的で、呼吸しているような光。海の底にいるような、モニターの中にいるような、不思議な感覚。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、落ち着いた女性の声がした。50代だろうか。銀髪の混じった黒髪を後ろで一つに束ね、白いブラウスに紺のエプロン。その佇まいには、長年何かを極めた人特有の静けさがあった。
胸元で、小さな三日月のブローチが光っている。今夜は青緑色。店の照明と呼応するように、静かに輝いていた。
「こんな時間にすみません」
涼は慌てて謝った。
「こんな時間だと、もう閉店ですよね、普通」
「いいえ。夜は長いですから」
マスターの声には、すべてを受け入れる響きがあった。
「誰にでも眠れない夜はありますし」
その言葉に、涼は少し救われた気がした。
店内を見回す。壁一面のレコード。年代物のスピーカー。奥にはアップライトピアノ。その上に小さな札。
「Now Playing: Track 7 - ♪ (0:00)」
まだ始まっていない。これから何かが始まる予感。
「お席はお好きなところへ」
促されて、窓際の革張りのソファを選んだ。深く腰を下ろすと、長年使い込まれた革が体を優しく受け止める。
「あ、これ物理演算じゃない」
思わず呟いてしまう。VRのソファは完璧に計算された沈み込みをする。でも、この感触は計算では作れない。使い込まれた革の、予測不能な柔らかさ。
「何になさいますか?」
「ブレンドコーヒーを」
「かしこまりました」
マスターはゆったりとした動作でカウンターに戻る。豆を挽く音が始まる。
ゴリッ、ゴリッ。
最初はランダムに聞こえた音が、次第にリズムを刻み始める。不規則なようで、その奥に一定のテンポ。まるでジャズドラマーのブラシワークのように、計算されていない自然な揺らぎ。
デジタルのクリック音とは違う、有機的なビート。BPMで測れない、人間の呼吸に近いリズム。
涼は深呼吸をした。いつの間にか、豆を挽く音と自分の呼吸がシンクロしている。プログラムされていない、でも確かにそこにある調和。
この音は、サンプリングできない。データ化できない。今、この瞬間だけの音楽。
3ヶ月ぶりの、生身の人間との会話。声が震えないよう気をつけたが、たぶんバレている。
コーヒーの香りが漂ってくる。深煎りの、濃厚な香り。嗅覚はVRでもまだ完全には再現できない。この香りは、間違いなく本物。
「お待たせしました」
陶器のカップがテーブルに置かれる。立ち上る湯気が、青緑の光を受けて幻想的に輝く。
「ありがとうございます」
一口含む。熱い。舌が温度を感じている。苦味の奥にほのかな甘み。複雑な味。VRで飲む仮想コーヒーは味のパラメータを設定できるが、この複雑さは数値化できない。
しばらくの沈黙。居心地の悪い沈黙ではない。むしろ、必要な沈黙。常に音に囲まれていた涼にとって、この静けさは新鮮だった。
「仕事帰りですか?」
マスターが、カウンターから穏やかに問いかける。
「あ、いえ、その...」
涼は言葉を探す。どう説明すればいいのか。
「家にいたんですけど、停電で」
「それは大変でしたね」
「まあ、おかげで強制ログアウトって感じで」
言ってから、しまったと思う。一般人に「ログアウト」なんて言っても通じない。
でもマスターは、特に違和感を示さなかった。
「ログアウト...」
マスターは少し考えるような間を置いた。
「何かから、抜け出されたのですね」
曖昧だが、的を射た返答。涼は驚いた。
「あ、はい。実はVRを...」
涼は一度言葉を切った。どこから説明すればいいのか。でも、なぜかこの人になら話せる気がした。
「仕事でVRゲーム作ってるんです」
「素敵なお仕事ですね」
「開発者って言っても、まあプログラマーなんですけど」
涼は照れ笑いを浮かべる。
「で、仕事でVR作って、プライベートでもVR入って」
肩をすくめる。
「気づいたら、ログアウトの仕方忘れてた、みたいな?」
軽い調子で言ったつもりだったが、マスターの表情が少し変わった。心配そうな、でも理解しているような表情。
「どのくらい?」
「え?」
「どのくらい、その中にいらっしゃるんですか」
ストレートな質問。でも、責めるような響きはない。
「えーと、15、16時間くらい?」
指折り数えながら答える。
「起きてる時間のほぼ全部。トイレとシャワーとZoom会議以外は」
自分で言っていて、異常さに気づく。でも、もう止まらない。
「VRではRyoって呼ばれてます。180センチの設定で」
涼は苦笑いを浮かべる。
「現実は...まあ、170ないくらい? 最近測ってないけど」
「10センチの差」
マスターが静かに言う。
「大きいですか?」
「めちゃくちゃ大きいです」
涼は身を乗り出す。
「面白いのが、たまに現実でも180センチの感覚が残っちゃって」
苦笑いが深くなる。
「この前、自販機でボタン押そうとしたら空振りして。10センチ上を押してた」
「バグってますよね、俺の空間認識」
マスターは何も言わず、ただ聞いている。その沈黙が、涼の言葉を引き出していく。
「VRだとフレンド100人以上いるんですよ。人気者設定」
声が少し明るくなる。でも、すぐにトーンが落ちる。
「でも誰も俺の部屋の匂い知らないし...」
一瞬、言葉を切る。
「あ、なんか重い話してますね」
照れ笑いでごまかそうとするが、もう遅い。堰を切ったように言葉が溢れ出す。
「母親からLINE来ても既読つけられなくて」
あっけらかんとした調子に戻す。
「だって『元気?』って聞かれても、どっちの俺の話か分かんないし」
「VRの俺は超元気。フレンド100人、イベント皆勤賞」
「でもリアルの俺は...えーと、今日シャワー浴びたっけ?」
マスターを見て、また照れ笑い。
「記憶のログが混線してる」
カップを両手で包む。温もりが掌に伝わってくる。この温度は、確かに現実。
「でも、どっちが本当の俺なんですかね」
声が、少し真剣になった。
「VRの『Ryo』か、Slackの『深海さん』か、それとも...」
言葉が途切れる。
「それとも?」
マスターが優しく促す。
「それとも、バラバラになっていなくなってしまったのか」
涼は天井を見上げた。
青緑の光が、海の底のように揺らめいている。
長い沈黙。
コーヒーを飲み終えて、ふとテーブルの端を見ると、赤いペンが置かれている。その下に、小さなメモ。
「これは...」
マスターが静かに言う。
「春先にいらした方が、お忘れになったようで」
メモを手に取る。女性の文字で書かれている。
『一人の時間も悪くない - 香織』
そしてもう一枚。
『金曜の夜は原稿を読む時間。美月との土曜日がもっと楽しみになる』
写真を見る。遊園地で撮られたツーショット。40代の女性と14歳くらいの女の子が、観覧車の前で笑っている。二人の距離感が自然で、無理に寄り添っていない。でも、確かに繋がっている。
写真の裏に小さな文字。
『編集者として、作家さんの言葉も、自分の言葉も大切にできるようになりました』
「一人の時間?」
涼は困惑した表情を浮かべる。
「...俺、一人の時間なんてあったっけ?」
頭の中で整理する。朝起きてすぐDiscordチェック。仕事中もSlackは常時接続。VRにログインすれば即座に「おはよう、Ryo!」の通知が10件以上。寝る直前までX。
「VR外しても、Discord繋ぎっぱなし」
指折り数えながら続ける。
「Slackは常に緑のアクティブ表示」
「XでもVRでも、常に『Ryo_Deep』」
涼は小さく笑った。でも、それは乾いた笑い。
「あー、俺っていつの間にか一人になる方法忘れてた」
その言葉が、自分でも衝撃だった。
メモをもう一度見る。香織という人の、シンプルな言葉。
赤ペンを手に取る。透明窓から見えるインクは半分以下、最近まで頻繁に使われていたようだ。キャップの側面には細かい傷。毎日の仕事で活躍している証拠。
「編集の仕事、充実してるんだ」
「でも、この人は一人の時間を『悪くない』って言える」
涼は深呼吸をした。
「俺にはまだ、そう言えない」
「でも...」
言葉を探す。
「まず『一人』になることから始めないと、本当の『自分』も分からないのかも」
「お聴きいただきたい音楽があります」
マスターが立ち上がった。
壁一面のレコードの前で、マスターは立ち止まった。指が二枚のアルバムの間で一瞬躊躇する。
「Alone Together...」
呟きながら、一枚を手に取る。そして、別の一枚も。
「同じ曲名で、まるで違う世界」
片方を棚に戻し、もう片方を見つめる。
「あなたは今、100人の前で演じ続けている」
マスターが静かに言った。
「でも、本当の自分との対話を忘れている」
涼は頷く。図星だった。
「VRの中の大勢より、まず...」
マスターはレコードジャケットを涼に見せる。
「二人から始めてみませんか」
『ALONE TOGETHER・JIM HALL - RON CARTER DUO』
迷路のような幾何学模様のジャケット。淡い緑色の立体的なデザイン。
「これ、二人だけ?」
「ギターとベース。必要最小限の編成です」
マスターはレコードを慎重に取り出す。
「でも聴いてください。二人だけで、全てを表現している」
針を手に取る。
「1972年の録音。でも、今のあなたに必要な音かもしれません」
カチッという小さな音。
静寂。
そして——
カーターのベースが、深い海のように響いた。低く、重く、でも澄んでいる。一音一音が、部屋の空気を物理的に震わせる。
その上で、ホールが静かに音を重ねていく。スチール弦なのに、まるでナイロン弦のような柔らかさ。温かく丸い音色。
二人の呼吸が聞こえてきそうなほど、親密な距離感。
ホールが一音弾くと、カーターがそれを受け止める。カーターが提案すると、ホールが応じる。まるで古い友人同士の会話のように、言葉はなくても通じ合っている。
点のように、一つ一つ音が置かれていく。急がず、焦らず、必要な音だけを選んで。
カーターのピチカートが応える。指の肉厚な部分が弦を弾く、温かく豊かな音。また点が加わる。
点と点が繋がって、絵になる。まるでピクセルアートのように。
「VRも、点の集まりだ」
涼は気づく。
「でも、これは生きた点描画だ」
計算されたピクセルじゃない。二人の人間が、リアルタイムで描いている絵。予測不能で、でも美しい。
アップライトピアノの上の札が、いつの間にか変わっていた。
「Now Playing: Track 7 - Alone Together (5:51)」
5分51秒。二人だけの音楽にしては、長い時間。でも聴いていると、あっという間に感じる。
「これは...ドラムもピアノもない」
涼が驚く。
「必要最小限ですね」
「でも、欠けているんじゃない」
マスターが静かに言った。
「選んだ結果です」
涼は自分の部屋を思い出す。6畳のワンルーム。ベッド、机、PC、VRゴーグル。必要最小限。でも、そこに全世界があった。
「省略の美学...」
「この曲、なんか長い?」
涼が気づく。
「44小節。通常より12小節も長いんです」
マスターが説明する。
「特異な構造の曲。だから、予測がつかない」
そして突然、ベースが予想外の音を弾く。別のコードへ跳躍。空気が一瞬緊張する。ギターが驚きながらも、すぐに新しい道を見つけて追いつく。
「あ、今ベースが...」
涼が身を乗り出す。
「なんか仕掛けた?」
「カーターが挑発したんです」
マスターが楽しそうに言う。
「『先に到達したい』という音楽的な駆け引き」
今度はホールが仕掛ける。繊細なフレーズの途中で、突然違う方向へ。カーターが低い音で笑うように応じる。
「音楽でPvPしてるみたい」
涼が興奮する。
「でも、対決じゃなくて...協力プレイ?」
二人の音が絡み合い、離れ、また寄り添う。予定調和じゃない、生きた対話。
「二人で会話してる」
涼がつぶやく。
「ええ」
マスターが頷く。
「あなたの中の複数の自分も、こんな風に対話できるはずです」
涼は目を閉じた。VRの「Ryo」と現実の自分。Slackの「深海さん」と素顔の涼。みんなバラバラだと思っていた。でも——
「対立じゃなくて、対話か」
聴いているうちに、曲の印象が変わっていく。同じメロディなのに、底を流れる河が変化している。コード進行が、リアルタイムですり替わっていく。
「同じ俺でも...」
涼は呟く。
「底を流れる河が変化するように、心の持ち方を変えられる」
演じている自分から、選んでいる自分へ。偽物から本物へ。
でも、VRの「Ryo」もSlackの「深海さん」も消さなくていい。
「メロディが同じように全部、本当の俺の一部にできるんだ」
音楽が終わりに近づく。
音が止まった瞬間、静寂が訪れる。でも、それは空虚な静寂じゃない。
窓の外で、風鈴が鳴っている。遠くを走る車の音。冷蔵庫の低いうなり。
現実の音が、音楽の余韻と混じり合う。
「Alone Together...」
涼は、初めてその意味を理解した。
「孤独と連帯が、同時にそこにある」
一人でいること。でも、誰かといること。それは矛盾じゃない。むしろ、それが人間の本質なのかもしれない。
「聴き終わっても...」
涼が言う。
「まだ音楽が、心の中で鳴ってる」
「それが本物の音楽です」
マスターが微笑む。
「データじゃない。体験として、あなたの中に残る」
音楽を聴きながら、涼の中で何かが変わり始めていた。
「あ、そうか」
涼はパチンと指を鳴らす。
「全部が俺なんだ」
マスターが見守る中、涼は続ける。
「引きこもりエンジニアも、VRの人気者も、Slackの真面目な深海さんも」
両手を広げる。
「分裂じゃなくて...なんていうか、マルチバース?」
照れ笑いを浮かべる。
「中二病みたいだけど」
でも、すぐに真剣な顔に戻る。
「この音楽みたいになりたい」
「音楽?」
「ギターとベース。独立してるけど、確かに繋がってる」
「それが本物の関係なんだ」
涼は身を乗り出す。
「今の俺は、100人と繋がってるフリして、実は誰とも本当の意味では繋がってない」
「自分自身とも繋がってない」
深い理解が、涼の表情に浮かんだ。
「本物の『Alone Together』は、まず全部の自分を受け入れること」
「そして誰かと本当に繋がること」
苦笑する。
「順番みたいだけど、最終的には同時に起きるんだ」
音楽は続いている。二人の楽器が、完璧な距離感で響き合っている。近すぎず、遠すぎず。
「だから、まず小さな一歩から」
涼は微笑む。
「今まで分けていた自分を、少しずつ繋げていく」
「明日...」
涼は決意を口にする。
「明日、Zoom会議でカメラONにしてみます」
すぐに付け加える。
「でも、部屋着のままで。上だけスーツとかダサいし」
「VRの『Ryo』でも、Slackの『深海さん』でもない、素の俺を見せる」
マスターが優しく頷く。
「それから、VRの友達にも正直に話してみようかな」
涼の声は軽いが、その奥に覚悟がある。
「『実は俺、リアルではほぼ引きこもりです』って」
肩をすくめる。
「まあ、フレンド半分くらいに減るかもだけど」
「でも、それでも残ってくれる人が、本当の友達かな」
涼は香織のメモをもう一度見る。
「この人は一人の時間を受け入れた」
「俺は、複数の自分を受け入れる」
深呼吸をする。
「全部の自分と向き合うために、一度ちゃんと『Alone』になる必要がある」
決意は小さい。革命的な変化じゃない。でも、確実な一歩。
「あと、母親にLINE返します」
涼は苦笑する。
「『元気だよ、色々あるけど』って」
「正直に」
「そう、正直に」
「ありがとうございました」
涼は心から言った。音楽はまだかすかに響いている。
「貴重な体験でした」
立ち上がると、不思議と体が軽い。随分と長く座っていたはずなのに。
涼は会計をしようとするが、レジらしきものは見当たらない。
「また、来てもいいですか?」
ドアに向かいながら、涼が尋ねる。
「それは、あなた次第です」
マスターの言葉には、深い意味が込められているようだった。
店を出る前に、涼は無意識にVRゴーグルのストラップを外していた。予備のもの。
「これ、置いていってもいいですか?」
マスターは優しく微笑んだ。
「どうぞ。きっと、必要な方が現れます」
涼はストラップをテーブルに置く。香織の赤ペンの隣に。
「現実と仮想を繋ぐもの、として」
外に出ると、熱帯夜の湿った空気が全身を包む。
「うわ、やっぱ暑っつ...」
でも、さっきより息苦しくない。同じ湿度のはずなのに。
振り返ると——もう店はなかった。
「あ、やっぱり」
涼は小さく笑う。古いビルの壁があるだけ。看板も、ドアも、すべて消えている。
「まあ、そうだよね」
涼は驚かない。プログラマーとして、この手の「条件分岐」は理解できる。必要な人にだけ表示される店。
「必要じゃなくなったから、非表示になったと」
納得したように頷く。
ポケットに手を入れると、小さなシュガースティックの袋があった。青緑色の文字で「夜想」と印刷されている。
裏返すと——
「Track 7: Alone Together - 息苦しい熱帯夜にアバターと」
涼は微笑む。
「バグじゃない証拠、ゲットだぜ」
部屋に戻ると、電気が復旧していた。
「お、復活してる」
でも、エアコンはつけなかった。窓から入る夜風で十分だった。
外を見ると、深夜の街が静かに眠っている。遠くのビルの明かりが、まるでピクセルアートのように点在していた。
「現実も、案外グラフィックがいいな」
スマートフォンでDiscordを開く。
「今日は少しオフラインにします」とステータスを変更。
Slackにも月曜の朝会で顔出しすることを予告。
そして、母に久しぶりにLINEを返す。
『元気だよ。色々あったけど、大丈夫』
最後に、VRにログイン。でも、今度は違う。
フレンドたちへのメッセージ:
『実は僕、リアルではほぼ引きこもりです。でも、みんなとの時間は本物です。これからは、両方の自分で付き合ってください』
送信。
「熱帯夜で寝苦しいかもしれない」
涼は布団に入りながら呟く。
「でも、それも仕様ってことで」
窓から入る風が、風鈴を鳴らした。デジタルじゃない、本物の音。
初めて、その音が心地よく感じられた。
【おしまい】
♪ Now Playing: Your Life - Track ∞
作者から一言
この物語は、複数の自分を演じ分けているうちに、本当の自分を見失ってしまった方々に向けて書きました。
SNSのアカウントごとに違う人格、仕事用の顔、プライベートの顔。現代は誰もが複数の「自分」を使い分けています。でも、どれが本当の自分なのか、わからなくなることがありませんか?
深海涼が見つけた答え——VRの「Ryo」も、Slackの「深海さん」も、引きこもりの自分も、すべてが本当の自分。心の持ち方を変えれば、「演技」が「本物」になる。
Jim Hall & Ron Carterの「Alone Together」が教えてくれたのは、独立しながら調和する生き方。複数の自分を否定せず、すべてを本物として生きること。
もしあなたが今、「どれが本当の自分か」と悩んでいるなら、答えは「全部」です。大切なのは、演じているのではなく、選んでいると思うこと。
最後に——
この物語を読みながら「Alone Together」を聴いてくださった方へ。あなたにとって「複数の自分」について考えさせてくれる音楽があれば、ぜひ教えてください。
熱帯夜も、きっと明けます。
すべての自分と共に、新しい朝を。
2025年 夏の終わりの熱帯夜に
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人とAIの境界で物語を紡ぐ旅にお付き合いいただきありがとう。私の言葉があなたの心に響いたなら、チップが創作の新たな種となります。共に想像の先へ。