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夜想のジャズ喫茶〜『Track 1:儚き夢の跡』


♪ Bill Evans & Stan Getz - But Beautiful (1964)

2月の金曜日、午後11時過ぎ。

高村蓮は、スマートフォンの画面を睨みながら、見覚えのない路地裏を歩いていた。残業を終えて会社を出たのが10時半。いつもなら慣れた道を15分も歩けば、ワンルームマンションにたどり着くはずだった。

「おかしいな...」

地図アプリは先ほどから同じ場所でぐるぐると回り続けている。GPSの青い点が、まるで迷子の子供のように震えていた。冬物のスーツの肩が冷たい夜気に晒されて重い。吐く息が白く、闇に溶けていく。

蓮は立ち止まり、周囲を見回した。古いビルが立ち並ぶ裏通り。看板の文字は暗闇に溶けて読めない。街灯は申し訳程度に橙色の光を投げかけているが、それがかえって影を深くしている。

ふと、足元に目をやると、アスファルトの上に濡れた足跡が続いているのに気づいた。誰かが先ほどまでここを歩いていたらしい。なぜか、その跡を辿ってみたくなった。

一歩、また一歩。

足跡は右に曲がり、さらに細い路地へと続いている。理性は引き返せと告げているのに、足は勝手に前へ進む。まるで、見えない糸に引かれているような感覚。

突然、空から冷たい雨が落ちてきた。

「げっ...」

傘は会社に置いてきた。慌てて走り出すと、古いビルの隙間に、小さな明かりが見えた。雨宿りできそうな軒先を探していた蓮は、迷わずそちらへ駆け込んだ。

近づくにつれ、それが店の入り口だとわかった。重厚な木製のドア。真鍮のドアノブが、濡れた街灯の光を受けてぼんやりと光っている。ドアの上には、月光のような青白い光で「夜想」という文字が浮かび上がっていた。

こんなところに、こんな店があっただろうか。

ドアノブに手をかけると、ひんやりとした感触が掌に伝わってきた。回すと、思いのほか滑らかに動く。カランと小さな鈴の音がして、ドアが内側へ開いた。

瞬間、かすかな低音の振動が体を包み込む。

一歩足を踏み入れると、外の喧騒が嘘のように消えた。薄暗い店内は、琥珀色の照明に満たされている。そして何より、温かかった。凍えた体に、その温もりが染み渡っていく。古い木材と深煎りコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。その奥に、何か懐かしい匂いが混じっていた。

「いらっしゃいませ」

カウンターの奥から、落ち着いた女性の声が聞こえた。白いブラウスに紺のエプロンを身につけた女性が、静かに豆を挽いている。規則的なゴリゴリという音が、どこかリズミカルで心地よい。

壁一面に並ぶレコードが、年輪のように店の歴史を物語っている。奥の壁際にはアップライトピアノ。その上に、小さな札が立てられていた。

「Now Playing: Track 1」

革張りのソファに腰を下ろすと、使い込まれた革が体を優しく受け止める。まるで誰かの体温がまだ残っているような、不思議な温もり。でも、店内を見渡しても、客は蓮一人だけだった。

雨音が、店の窓を静かに叩いている。その音さえも、この空間では音楽の一部になっているような気がした。

「お一人様ですか?」

顔を上げると、先ほどの女性がカウンターから歩み出てきていた。50代だろうか。銀髪の混じった黒髪を後ろで一つに束ね、その瞳には深い洞察力が宿っている。胸元には、小さな三日月のブローチが青く光っていた。

「はい...」

蓮は濡れたスーツの裾を気にしながら答えた。

「何になさいますか?」

「ブレンドコーヒーを...お願いします」

女性マスターは微笑み、優雅な所作でカウンターへ戻っていく。その動きには無駄がなく、まるで音楽を奏でているかのような流れがあった。

決して広くはないが、包み込まれるような安心感があった。

かじかんだ手をこすり合わせながら、蓮はほっと息をついた。外の寒さが嘘のようだ。

スーツの内ポケットから、スマートフォンを取り出す。相変わらず地図アプリは機能していない。時刻は---

いや、なぜか時計を見る気が起きなかった。この空間では、時間など意味を持たないような気がして。

なぜ、ここに入ったのだろう。

あの青白い「夜想」の文字を見た瞬間、体が勝手に動いていた。まるで、ずっと前からこの店を知っていたような、そんな感覚。

コーヒーの香りが漂ってきた。カウンターでは、女性が丁寧にドリップしている。一滴、また一滴。時間がゆっくりと流れているような錯覚に陥る。

「お待たせしました」

陶器のカップがテーブルに置かれる。立ち上る湯気が、照明の光を受けて金色に輝いた。

「ありがとうございます」

カップを両手で包むと、温もりが掌に染み込んでくる。冷えた手が、じんわりと温まっていく。ひと口含むと、苦味の奥にほのかな甘みが広がった。後味は不思議なほど清涼で、まるで雨上がりの空気のようだ。

「美味しい...」

思わず呟くと、女性は静かに微笑んだ。

「ありがとうございます。雨の夜は、特別な味がするんです」

雨は、まだ降り続いている。

蓮はゆっくりとコーヒーを飲みながら、改めて店内を観察した。

壁一面のレコードは、よく見ると何かの順番で整理されているようだった。ジャケットの色合いも、古いものから新しいものまで様々。一つ一つが大切に扱われているのがわかる。知識はないが、これだけの量となると、相当な年月をかけて集められたものだろう。

カウンターの奥には、年代物らしいスピーカーが鎮座している。その隣には、オレンジ色の光が灯る不思議な機械。どこからか、かすかに低い音が響いてくる。楽器の音のようだが、詳しくない蓮には何の楽器かまではわからなかった。

「お仕事帰りですか?」

いつの間にか、彼女はカウンターから出て、近くのテーブルを丁寧に拭いていた。

「ええ、まあ...」

「大変でしたね。金曜日の夜まで」

それは単なる社交辞令ではなかった。彼女の声には、何か見透かしているような響きがある。まるで、蓮が抱えているものを、すでに知っているかのような。

「最近、残業が多くて」

蓮は曖昧に答えた。本当は、残業というよりも、会社に残っていたかっただけだ。

「素敵な店ですね。いつからあるんですか?」

マスターは少し困ったような表情を浮かべた。

「さて、いつからでしょう。私にもよくわからないんです。気がついたら、ここにいました」

冗談とも本気ともつかない答え。でも、なぜか蓮にはそれが真実のように思えた。この店には、時間の概念が当てはまらないような、そんな雰囲気がある。

マスターはカウンターに戻り、別のカップを手に取った。自分用のコーヒーを淹れ始める。その手つきは慣れたもので、まるで儀式のようだった。

「ジャズはお聴きになりますか?」

「いえ、あまり...というか、ほとんど」

正直に答えると、マスターは優しく微笑んだ。

「そうですか。でも、今夜ここに導かれたということは、きっと音楽が必要な時なのかもしれませんね」

導かれた。確かにその通りだった。自分の意志で入ったというより、何かに引き寄せられたような感覚。

マスターは自分のコーヒーを持って、蓮のテーブルの向かいに座った。初対面の客にしては親密な距離だが、不思議と違和感はなかった。

「この雨の音も、ジャズの一部みたいですね」

蓮がつぶやくと、マスターは嬉しそうに目を細めた。

「よくお分かりになりましたね。雨音、足音、グラスの音。すべてが音楽になりうるんです。ジャズの本質は、その瞬間瞬間を音にすること」

彼女はカップを両手で包み、湯気の向こうから蓮を見つめた。

「あなたも、何か音楽を奏でていらっしゃるような気がします。聞こえない音楽を」

心臓が、どくんと鳴った。

聞こえない音楽。それは、胸の奥で鳴り続けている、諦めきれない夢のことだろうか。

アップライトピアノの上の札が目に入った。

聞こえない音楽。

その言葉が、蓮の記憶の扉を開いた。


1週間前の土曜日。東京都内のサッカー場。午後2時。早春の、まだ冷たい風が吹いていた。

プロ入りを目指す最後のトライアウト。社会人リーグで3年、毎年このチャンスに挑戦してきたが、今回が最後だと決めていた。

「それでは準備をお願いします」

アナウンスを聞きながら、蓮はスパイクの紐を締め直した。アディダスの三本線が、午後の陽射しを受けて白く光る。

グラウンドには、50人ほどの選手が集まっていた。大学を卒業して3年。同じような境遇の者もいれば、まだ学生の者もいる。それぞれの思いを胸に、ここにいた。

「今日はJ1クラブのスカウトも視察に来ています。11対11のゲーム形式で行います。Aチーム、Bチーム、それぞれビブスを着用してください」

蓮は黄色いビブスを受け取った。左サイドバック。自分のポジションだ。

相手チームには、大学時代に対戦したことのある選手が何人かいた。その中でも、青いビブスの7番。大学リーグで戦った速水という選手。蓮が4年の時、彼は1年生だった。

今は最終学年。J2内定という噂も聞いていた。

なぜ、彼がここにいるのか。

「速水、お前もう内定決まってるんじゃ?」

試合前の円陣で、誰かが尋ねた。

「まだ正式じゃないんです。J1のスカウトが来るって聞いて、チャンスがあるなら試したくて」

その言葉に、蓮の胸がちくりと痛んだ。22歳の彼にはまだ時間がある。上を目指す資格がある。一方、25歳の自分は---

ホイッスルが鳴った。

最初の10分間は、蓮も悪くなかった。相手の右ウイングをしっかりとマークし、何度か良いクロスも上げた。パスの精度も、いつも通り。ボールを持った時の落ち着きもある。

でも---

15分過ぎ、速水がボールを持った。蓮との1対1。

スピードでは負けていない。読みも間違っていない。それなのに、一瞬の切り返しで、するりと抜かれた。

何が違うのか、蓮には分からなかった。

グラウンドの脇では、スカウトたちがメモを取っていた。蓮がボールを持つと、一瞬視線が向く。でも、すぐに別の選手へと移っていく。まるで、既に結論が出ているかのように。

後半30分。

蓮は全力でプレーしていた。誰よりも走り、声を出し、チームを鼓舞した。左サイドからの攻撃は機能し、2本のアシストも記録した。

それでも、スカウトの視線は素通りしていく。

彼らが見ているのは、速水のような選手だった。同じプレーをしても、そこに宿る「輝き」が違う。天性のリズム。ボールとの対話。空間把握の直感。

2%。

本当に、たったそれだけの差。

越えられる者と、越えられない者の差。

試合終了のホイッスルが鳴った。

「お疲れ様でした」

スカウトの一人が、蓮の前を通りかかる際に声をかけた。それは労いの言葉ではなく、終了の宣告だった。

グラウンドに座り込み、蓮は空を見上げた。

雲一つない青空。まるで、自分の未来を暗示しているかのように、どこまでも透明で、何もなかった。

スパイクを脱ぐ。靴下に染み込んだ汗が、午後の風に冷やされていく。

グラウンドには、蓮のスパイクの跡が残されていた。深く、くっきりと刻まれた足跡。でも、それも明日の朝には、グラウンド整備で消されてしまう。

夢の跡のように。

「高村、どうだった?」

チームメイトが心配そうに声をかけてきた。

「ああ...まあ、こんなもんだよ」

笑顔を作りながら、蓮は立ち上がった。膝についた土を、手で払い落とす。その土も、ユニフォームについた汗も、全部洗い流してしまえばいい。

きっと、もう---

「でも、お前のプレー、良かったぞ。特に後半のオーバーラップ」

「ありがとう」

本当は分かっていた。自分のプレーは悪くなかった。チームとしても機能していた。

それでは、足りない。

プロの世界が求めているのは、「悪くない」選手ではない。「特別な」選手なのだ。

駐車場へ向かう道すがら、速水とすれ違った。

「高村さん、お疲れ様でした」

「ああ、速水もな。J1、決まるといいな」

「ありがとうございます。高村さんも...」

言葉が続かない。速水も分かっているのだ。この世界の残酷さを。

冷たい風が、グラウンドの土の匂いを運んでくる。子供の頃から慣れ親しんだ、あの匂い。今日は、どこか違って感じられた。

別れの匂いがした。


カップの底で、コーヒーが小さく波打った。

蓮が我に返ると、マスターが静かに見つめていた。あの日の記憶に引き込まれていたのは、どれくらいの時間だったろう。1分か、10分か。この店では、時間の感覚が曖昧になる。

「実は僕、ずっとサッカーをやっていて...」

蓮は切り出した。

「1週間前に、最後のトライアウトを受けたんです」

いつの間にか話し始めていた。マスターは何も言わず、ただ耳を傾けている。促すでもなく、止めるでもなく、ただそこにいる。

言葉が、堰を切ったように流れ出す。

「もう25歳ですから。プロを目指すには、遅すぎる年齢です。分かってはいたんです。でも...」

窓の外では、雨が静かに降り続いている。その音が、蓮の言葉を優しく包み込んでいく。

「小学2年生から始めて、17年間。人生の大半を、サッカーに捧げてきました。朝練、放課後の練習、週末の試合。友達が遊んでいる時も、ボールを蹴っていた」

マスターは黙って聞いている。その沈黙が、かえって蓮の言葉を引き出していく。

「今は、スポーツメーカーで企画の仕事をしています。悪い仕事じゃない。給料も安定している。同期からは『高村は適応力があるな』なんて言われます」

苦笑いが漏れた。

「でも、違うんです。適応しているんじゃない。ただ、他に行く場所がないだけ。毎朝、満員電車に乗って、パソコンに向かって、会議に出て...これが自分の人生なのかって」

コーヒーカップを両手で包む。温もりが、掌から腕へと伝わっていく。

「社会人リーグの試合がない時は、たまに地元の少年サッカーチームを手伝っています。子供たちは純粋で、目をキラキラさせてボールを追いかける。『コーチ、プロになるにはどうしたらいい?』って聞かれるんです」

蓮はコーヒーカップを見つめた。

「何て答えればいいんでしょう。『頑張れば夢は叶う』なんて、言えない。だって、僕自身が...」

蓮は天井を見上げた。アンティークの照明が、ぼんやりと視界に入る。

「おかしいですよね。もう終わったって分かっているのに。会社の昼休みに、ふとJリーグの結果を見てしまう。大学の後輩が試合に出ているのを見ると、胸が苦しくなる」

「速水っていう選手がいるんです。3学年下で。まだ学生なのに、もうJ2が内定してるって噂です。彼と僕の差って、きっとわずかなんです。2%、いや、もっと小さいかもしれない。でも、その差が...」

言葉が途切れた。

店内に流れる低い音。どこからか聞こえる、楽器の振動。それが、蓮の鼓動と重なっていく。

「音楽...」

蓮が呟いた。

「さっき、『聞こえない音楽』って言われましたよね。確かに、僕の中で何かが鳴り続けている。止めたくても止められない、夢の残響みたいなものが」


あの日の夜のことも、忘れられない。

トライアウトが終わって、シャワーを浴びて、着替えて。最寄り駅までの道を、仲間と歩いた。 「お疲れ様」「また連絡するよ」 そんな言葉を交わして別れた。

土曜日の夕方、電車はそれほど混んでいなかった。蓮は汗まみれのユニフォームが入ったスポーツバッグを膝の上に置いて、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

家に帰っても、バッグを開ける気になれなかった。

夕食はコンビニの弁当。味なんて分からない。テレビをつけても、何も頭に入ってこない。ただ、時間だけが過ぎていく。

午後11時。

ようやくバッグを開けた。23番のユニフォーム。紺色の生地に、白い数字。高校の時から愛用している番号だ。プロになっても、この番号を---

そんな考えを振り払うように、蓮は立ち上がった。

部屋の空気が重い。2月の冷たい夜風でも浴びながら、頭を冷やしたかった。

外に出る準備をしながら、ふと思った。どうせなら、このユニフォームも洗ってしまおう。

近所のコインランドリーは、24時間営業。こんな時間でも、蛍光灯が煌々と店内を照らしている。他に客はいない。プラスチックの椅子に座り、蓮は洗濯機にユニフォームを入れた。

ガコン、と音がして、洗濯が始まる。

透明な窓から、ユニフォームが回転するのが見える。水に濡れて、色が濃くなっていく。23の数字が、現れては消え、また現れる。まるで、過去の記憶が蘇っては消えていくように。

小学2年生の時、初めてユニフォームを着た日。

高校最後の試合で、仲間と泣いた夏。

社会人リーグで戦い続けた3年間。

全部、この番号と共にあった。汗も、涙も、喜びも、悔しさも、全部染み込んでいる。

でも---

「もう、いいかな」

蓮は、小さく呟いた。

17年間、追い続けてきた夢だった。

洗濯機が止まった。

濡れたユニフォームを取り出す。ずっしりと重い。水を含んだ布の重さは、これまでの全ての時間の重さのようだった。

両手で持ち上げて、蓮はしばらくそのままでいた。

この重さを、覚えておこう。

この感触を、忘れないでおこう。

もう、背負い続ける必要はない。

乾燥機に入れる。また回転が始まる。今度は、水分が抜けていく。軽くなっていく。まるで、心の重荷も一緒に乾いていくかのように。

待っている間、蓮はコンビニに行った。

深夜のコンビニは、独特の雰囲気がある。明るすぎる店内、誰もいないレジ、流れるBGM。2月の深夜は容赦なく冷え込む。白い息を吐きながら、蓮は缶コーヒーと、肉まんを買った。

「ありがとうございました」

店員の機械的な声を背に、コインランドリーに戻る。

肉まんを頬張りながら、乾燥機を眺める。ユニフォームは、もうすぐ乾く。そうしたら、きれいに畳んで、クローゼットの奥にしまうのだろう。もう着ることはない。捨てることも、できない。

肉まんは、特別美味しいわけではなかった。コンビニの、どこにでもある味。でも、なぜか涙が出そうになった。

普通の味。普通の夜。普通の人生。

それでいいのかもしれない。

いや、それがいいのかもしれない。

乾燥機が止まった。

ユニフォームを取り出す。温かくて、柔らかい。さっきまでの重さが嘘のように、軽くなっていた。

丁寧に畳む。23の数字が、最後に見えた。

「ありがとう」

誰に言うでもなく、蓮は呟いた。

深夜0時半過ぎ。コインランドリーを出ると、街は静まり返っていた。冷たい夜風が頬を刺す。街灯の下を、一人歩く。バッグには、畳まれたユニフォーム。

これで終わりだ。

でも、悪くない終わり方だと思った。

空を見上げると、星は見えなかった。都会の空は、いつも曇っている。それでも空は空だ。

明日も、きっと朝は来る。

蓮は家路についた。新しい人生が、もう始まっていた。


蓮が我に返ると、マスターが静かに見つめていた。

いつの間にか、コインランドリーの話をしていたらしい。自分でも驚くほど、言葉が溢れ出ていた。

「ユニフォームを洗って、乾かして。それで全部、終わりにしたつもりでした」

蓮は苦笑した。

「でも、こうやって誰かに話してしまうということは、まだ終わっていないんでしょうね」

しばらくの沈黙が流れた。

ふと、アップライトピアノの上の札に目が行った。かすかに震えている。

「Now Playing: Track 1 - ♪ (0:00)」

もうすぐ、何かが始まる---

彼女はゆっくりと立ち上がっていた。

「時には、聞こえない音楽に、聞こえる音楽を重ねてみるのも...いいかもしれませんね」

そう言いながら、ゆっくりと壁一面のレコードの前へ歩いていく。その後ろ姿を見ながら、蓮は思った。彼女は何を選ぶのだろう。どんな音楽を聴かせてくれるのだろう。

マスターの指が、レコードの背表紙をなぞっていく。まるで、本の背表紙を読むように、一枚一枚、丁寧に。そして、ある場所で止まった。

「今夜のTrack 1は...」

独り言のように呟きながら、一枚のレコードを取り出す。ジャケットには、スタジオで演奏する二人の姿。左側でサックスを構える男性と、右側でピアノに向かう男性。セピア調の写真が、時代の温もりを伝えている。

「Stan Getz & Bill Evans」

蓮には、その名前も知らなかった。でも、マスターの手つきには迷いがない。レコードをそっとジャケットから取り出し、ターンテーブルに載せる。

「But Beautiful...」

マスターが静かに呟いた。

「『でも、美しい』。終わってしまったものを肯定する言葉。私には時々、『儚き夢の跡』のように聞こえます」

針を落とす前に、マスターは蓮の方を振り返った。

カチッという小さな音と共に、針がレコードに触れた。

最初に聞こえてきたのは、かすかなノイズ。それから、静寂。

そして---

ピアノの音が、静かに空間を満たし始めた。

Bill Evansの繊細なタッチ。一音一音が、まるで水面に落ちる雫のように、波紋を広げていく。優しくて、少し憂いを帯びていて、でもどこか希望に満ちている。

しばらくして、サックスが入ってきた。

Stan Getzのテナーサックス。まるで深い息をつくように、ピアノに寄り添いながら歌い始める。温かく、包み込むような音色。

二つの楽器が対話を始めた。

サックスが問いかける。「あなたの夢は?」

ピアノが答える。「もう、終わってしまった」

サックスが慰める。「But Beautiful」

ピアノが受け入れる。「そう、美しかった」

蓮は目を閉じた。

音楽が、心の奥深くに染み込んでいく。

頭の中に、様々な光景が浮かんでは消えていく。

初めてボールを蹴った日の、眩しい太陽。

チームメイトと分かち合った、勝利の喜び。

一人で練習した、薄暗い早朝のグラウンド。

そして、最後のトライアウトの青空。

全部、過ぎ去ってしまった。もう戻らない。

But Beautiful.

でも、美しい。

いや、だからこそ美しい。

サックスとピアノの対話は続いている。

時にサックスがリードし、時にピアノが導く。即興的でありながら、完璧に調和している。まるで、長年連れ添った夫婦の会話のように。

「これが、ジャズなんですね」

蓮が言うと、マスターは微笑んだ。

「人生も、即興演奏です。計画通りにいかなくても、その瞬間瞬間で、美しい音楽を奏でることができる」

音楽は、クライマックスを迎えていた。

サックスが高らかに歌い上げる。過去の栄光を。

ピアノが静かに寄り添う。現在の現実を。

そして、二つの音が溶け合って、新しい音楽が生まれる。

その音は、暗くて、温かかった。

アップライトピアノの上の札が、いつの間にか変わっていた。

「Now Playing: Track 1 - But Beautiful (4:40)」

もうすぐ、この曲も終わる。でも、蓮の心の中では、新しい音楽が鳴り始めていた。

聞こえない音楽から、聞こえる音楽へ。

そして、また新しい聞こえない音楽へ。

それは、夢の跡から生まれる、新しい希望の音だった。

「ありがとうございます」

蓮は、心から言った。

マスターは何も言わず、ただ頷いた。

外では、雨が静かに降り続いている。

音楽が終わっても、余韻は続いていた。

「不思議ですね」

蓮は言った。

「さっきまで、あんなに重かったものが、少し軽くなったような気がします」

マスターは静かに微笑んだ。

「音楽には、そういう力があります。言葉にできない感情を、音にして解放してくれる」

蓮は、冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。最初に感じた甘みが、今はより深く感じられた。

「But Beautiful...『でも、美しい』」

蓮は曲名を反芻した。

「最初は意味がわかりませんでした。何が『でも』なんだろうって。でも今は、少しわかる気がします」

窓の外を見る。雨は小降りになっていた。

「プロになれなかった。でも、美しかった」

「さっきの子供たちの話ですが」

蓮は続けた。

「今なら、何て答えるか...」

言葉を探して、小さく笑った。

「明日の練習が、楽しみになってきました」

マスターは静かに微笑んで頷いた。

ふと時計を見ると、もう随分と時間が経っていた。

「そろそろ...」

蓮は立ち上がった。不思議と、体が軽く感じられた。

会社の仕事も、悪くない。少年サッカーのコーチも、やりがいがある。恋人はいないけど、友人はいる。平凡だけど、それなりに充実した日々。

そう、これも一つの音楽なのだ。

激しい音楽じゃないかもしれない。華やかな演奏じゃないかもしれない。静かに流れる音楽のような、そんな人生も悪くない。

「ごちそうさまでした」

蓮はもう一度、深く頭を下げた。コーヒー代を払おうとするが、レジらしきものは見当たらない。

「また来てもいいですか?」

蓮が尋ねると、マスターは微笑んだ。

「それは、あなた次第です」

マスターは奥へと歩いていく。

それでいい。一期一会。

ドアノブに手をかける。来た時と同じ、ひんやりとした真鍮の感触。でも、その重さは違って感じられた。


外に出ると、雨は上がっていた。

濡れた路面に、街灯の光が虹色に反射している。冷たい空気が肺を満たした。

数歩歩いてから、振り返った。

「夜想」の看板を、もう一度見ておこうと思ったのだ。あの月光のような青白い光を、記憶に焼き付けておきたかった。

でも---

そこには、古いビルの壁があるだけだった。

看板も、ドアも、何もない。ただの、薄汚れたコンクリートの壁。まるで最初から、何もなかったかのように。

「え...」

蓮は目を擦った。確かにここだ。この壁の前に立って、ドアノブを回して、中に入った。間違いない。

痕跡一つない。

夢だったのか?

いや、違う。体の芯に残る温かさが、心に響く音楽の余韻が、それが現実だったことを証明している。

戸惑いながらスーツの内ポケットに手を入れると、指先に紙の感触があった。

小さな紙ナプキン。

街灯の下で広げてみる。白い紙に、青いインクで書かれた文字。

「夜想」

そして、その下に---

「Track 1: But Beautiful - 儚き夢の跡」

蓮はナプキンを見つめた。街灯の下で、指先が白く見えた。

胸の奥が、じわりと熱くなった。

ナプキンを、そっと胸ポケットにしまう。

これは、夢の跡。

いや、夢から覚めた証。

スマートフォンを取り出し、音楽アプリを開く。検索窓に「Stan Getz Bill Evans But Beautiful」と入力する。すぐに見つかった。

ダウンロードボタンを押す。

蓮は歩き始めた。

濡れたアスファルトに、新しい足跡が続いていく。

【おしまい】


♪ Now Playing: Your Life - Track ∞


作者から一言

Bill EvansとStan Getzの「But Beautiful」を聴きながらお読みいただけたなら、嬉しく思います。

あなたの「儚き夢の跡」に寄り添う曲があれば、ぜひコメントで教えてください。

2025年 雨の夜に



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音影【音楽小説家】 人とAIの境界で物語を紡ぐ旅にお付き合いいただきありがとう。私の言葉があなたの心に響いたなら、チップが創作の新たな種となります。共に想像の先へ。