短編小説『風に飛ばされた手帳』

風に飛ばされた手帳
公園のベンチに腰を下ろし、缶コーヒーを飲み干した。
ふと手帳を開き、今日の予定を書き込む。
買い物リスト、雑用、思いついたこと。
そして最後に──なぜか手が止まらなかった。
気まぐれで、意味もなく一言を書き残す。
会いたい。
誰に宛てたわけでもない。
ただ心の底からふと浮かんだ言葉だった。
そのままベンチに置き忘れたまま立ち上がったのは、ほんの数分前のことだ。
突風が吹き抜け、手帳は宙へ舞い上がる。
紙の端がばらばらと鳴り、風はまるで渡す相手を選ぶかのように、それを遠くへ連れていった。
慌てて追いかける。
最初に拾ったのは、犬の散歩をしていた老紳士だった。
「落とし物じゃないかね?」
差し出されたページには、買い物メモが覗いていた。
──パン 牛乳 目薬。
ただの走り書きのはずなのに、老紳士は目を細める。
「ちょうどいい。私も牛乳を切らしててね」
気取らない一言に、胸に小さな温かさが灯る。
再び風が吹き、手帳は老紳士の手をすり抜けて飛んでいく。
今度は自転車を止めた学生が追いつき、ページを開いた。
そこに書かれていたのは──英単語テスト 金曜。
「……やべぇ、俺も金曜だ」
彼は大げさに頭を抱え、笑って言った。
「このまま答案用紙に貼りてぇ。……いや、返すけど」
その軽口に、思わず吹き出した。
また風が吹き、ページがめくれる。
今度は花壇のそばでしゃがんでいた女性が拾った。
ページの隅には──母の誕生日 カーネーション。
彼女はしばらく黙り込み、ページを見つめた。
やがて小さく息をつき、「……そうなんです。明日、母の誕生日で」と呟く。
声はかすかに震えていた。
僕は返す言葉を見つけられず、ただ頭を下げて手帳を受け取った。
風はまだ止まらない。
まるで僕を試すかのように、手帳を遠ざけていく。
次々と知らない人に出会わせる風に、ふと考えてしまう。
──これは、誰かに会わせようとしているのか?
そんなはずはない、と首を振る。
けれど、さっき書いた一言が頭をかすめた。
会いたい──。
紙片のように翻るそれを追い、僕は息を切らしながら走った。
最後にそれを拾い上げたのは、ベンチのそばに立つひとりの人。
彼女はページを覗き込み、小さく笑った。
そこには、あの一言が残されていた。
会いたい──消えかけた文字が、風に押し出されるように残っていた。
風の音が遠ざかる。
彼女は顔を上げ、まっすぐ僕を見て言った。
「……もしかして、私に?」
頷くと、胸の奥で何かがほどけた。
風が連れてきたのは、出会いだった。
あとがき
初めて風まかせ文芸部に参加させていただきました。
お題は「手帳」。
風に吹かれて転がっていくのは、たいていビニール袋か落ち葉ですが、今回は手帳にしてみました。
誰かの落書きみたいな言葉が、知らない人の心に偶然届く──そんな小さな奇跡を描けたらと思って書きました。
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連載中の『配達員ろること2号』も、そろそろ風まかせじゃなく恋まかせ(?)っぽくなってきたので、ぜひ覗いてみてください。
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※本作はフィクションです。
登場する人物・団体・地名・出来事などは実在のものとは関係ありません。
また、一部の描写は実在するX(旧Twitter)ユーザーの投稿や活動に着想を得ていますが、特定の個人・団体との関連性はなく、内容は創作に基づいて構成されています。
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