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短編小説『月を啜る』


月を啜る

月の味は、涙に似ていた。
冷たく、しみ入り、命の奥で甘く光る。
昔、吸血鬼がまだ“夜叉”と呼ばれていた頃。
夜叉は人を喰わず、風の匂いと月の光だけを糧としていた。
夜ごと空を仰ぎ、満ち欠けの味を舌でなぞりながら生きていた。

――その味は、静けさの味であった。

やがて夜叉は、山里の女に恋をした。
女は村の機織り娘で、月明かりに糸を染める姿は霜のように白かった。
夜叉は山を下り、女に名を問うた。
女は笑って「名など、月が知っていれば足りましょう」と答えた。

ふたりはやがて夫婦となり、子を授かる。
夜叉は人の形をとり、薪を割り、畑を耕した。
村人たちは最初こそ不思議がったが、やがて笑って酒を酌み交わすようになった。
誰もが「山の神の加護だ」と噂し、幸せは続くように思われた。

――十年が過ぎた。
子は夜ごと、母の膝で月を見上げながら、小さく唄っていた。
「お月さま、また明日ね」
その声を聞くたびに、夜叉は人としての幸せを噛みしめていた。

だが村では、影がささやき始めていた。
「神じゃない、あれは鬼だ」「人の姿を借りた妖だ」
村の神主は言った。
「この者は月の呪いを連れてきた。祈りではなく火で祓え」
凶作が続き、子の産声も減った年のことだった。恐れは噂に油を注ぎ、焚き火のように広がった。

夜叉が野良仕事から戻ると、風は煤の匂いを運び、
家は炎に包まれていた。
崩れ落ちた梁の下で、女と子は抱き合ったまま灰となっていた。

夜叉は泣かなかった。
ただ、燃え残った月見団子を拾い上げ、口に運んだ。
甘いはずの味が、血のように苦かった。

胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
それは怒りでも涙でもなく、
“守るものを失った者の空洞”が、初めて音を立てたのだ。

風が凪ぎ、闇が息をひそめた。
その瞬間、頬を伝った涙が凍り、牙へと変わった。

そして、夜叉は村へ踏み込んだ。
「人は月を汚した。ならば、月もまた血を求めよう」

その夜、村は赤い月に染まり、
夜叉は初めて“血”を啜った。
血が地を染め、月光を赤く滲ませた。

ああ、月とは人の命の味だったのか。

その声が山に響き、月が一度だけ、凍るように欠けた。

それから、どれほどの時が過ぎただろう。
夜叉は月を仰ぐたび、子の唄が風に溶け戻るのを待ったが、
聞こえるのは己の空洞が鳴らす、乾いたひびきばかりだった。

満ちても欠けても、妻と子は眠ったままだった。
風が祠を撫でるたび、誰かの名を呼ぶように響く。
それを幻だと知りながら、夜叉は毎夜、耳を澄ませた。

あの夜から、彼は血の味を覚えた。
けれど、飢えを満たしたことは一度もない。
人を喰らえば喉は潤うが、胸の穴は広がるばかりだった。

妻と子が眠る寺を離れられず、やがて村は藩の手に渡り、
寺は“不要の地”として取り壊されることになった。

役人や大工たちが縄を張り、灯を持って墓を測り始めた夜、
夜叉の喉は久方ぶりに裂けるように乾いた。

風が止み、月が異様に明るかった。
あれほど白い月を、彼は見たことがない。

気づけば、男の首を抱えていた。

指の間から血が流れ、地を染めていた。

――またやってしまった。

墓の前で膝をつき、
「守りたかっただけなのだ」と声を洩らした。
だが月は黙して、ただ照らすだけだった。

その晩を境に、寺に近づく者がひとり、またひとりと消えた。
血を見ぬ夜が続くたびに、
夜叉の身体はさらに薄く、影のようになっていった。

寺は苔むし、名を刻んだ石だけが月光に浮いていた。
時は幾度も満ち欠け、祠の木目さえ白く乾いている。

秋の夜気が工房の隙間を抜けていた。
しらすが釘を数え、ピーちゃんが机の上で首を傾げている。
湯気の立つ茶碗を前に、若侍が深々と頭を下げた。

「恐れながら――この村では、月が欠けぬのです。
 満ちたまま、落ちもしない。
 そして、夜ごとに人がひとりずつ……血の跡だけを残して消える」

ラビは煙管を鳴らし、ぼんやりと天井を見上げた。
「月が壊れとるんやろ」
「壊れ……?」
「月も建物と同じや。形あるもんは、いつか歪む」

若侍は困惑したように眉を寄せた。
「寺を取り壊すことになりまして……その夜から、祟りのようなことが」

ラビは立ち上がり、煙を吐いた。
「月が欠けんのは、まだ誰かが縫い止めとるからや。
 ――古い“縁”の匂いがする」

外では風が起き、薄雲の向こうに赤い月が浮かんでいた。
その光は、まるで誰かが見下ろしているように重たかった。

「場所は?」
「山の廃寺、“天月庵”です」
「ほぉ……ええ名やな」

ラビは作業台の上から木槌を手に取り、ひと振りして肩に担いだ。
「行くわ。月、壊してくる」

寺の中は、朽ちた木の匂いで満ちていた。
灯もなく、月光だけが瓦の割れ目から差し込んでいる。
その光の中に、ひとりの男がいた。

膝を組み、煙管をくゆらせ、静かに瞑想している。
灰が落ちるたび、音がやけに大きく響いた。

夜叉は躊躇した。
この地に入る者は、久しくいなかった。
だがその男は、恐れも祈りもない顔で、ただそこに座っている。

「……まだ、人を喰うとるんか」
静かに男が言った。
夜叉は息を止めた。
その声は、月よりも冷たかった。

「もう、飢えも忘れた」
「なら、何を守っとる」
「この地だ。あの者らが眠るこの場所を」

ラビは煙を吐き、低く笑った。
「墓は壊れても、縁は残る。
 残るものを手放さんと、新しい月は満ちん」

夜叉はゆっくりと語り始めた。
もう誰に聞かせるでもない、ひとり言のように。

「わしはあの夜、すべてを失った。
 血を啜っても、月を喰っても、喉は渇くばかりだった。
 それでも、あの子の声だけは消えぬ。
 ――“お月さま、また明日ね”と」

ラビは煙管を指で鳴らした。
「知らんがな」

夜叉は小さく首を振った。
「その唄だけは、どうしても手放せん」
「そなら――月がその子を預かっとるわ。お前は両手、空けとき」

ラビは木槌を取り、祠の柱をひと打ちした。
乾いた一打が夜を裂き、古い木の肌が悲鳴を上げた。

夜叉の身体がひび割れ、灰が風に舞う。
それでも目だけは、月を見ていた。

あの白い光の中に、
母と子の笑顔が浮かんだ。

月を仰ぐ喉の奥で、長く凍っていた唄が、ほどける音を立てた。

――“お月さま、また明日ね”

口がそれをなぞった瞬間、
夜叉の姿は静かに崩れ落ちた。

ラビはしばらく立ち尽くし、木槌を腰に戻した。
「……よう眠れや」

その声は、風に溶けていった。
外では、欠けた月がゆっくりと夜を明けに導いていた。


あとがき

シロクマ文芸部のお題「月の味」に参加させていただきました。

「月の味」と聞いて最初に浮かんだのは、「いや、月って食べられんやろ(笑)」という素朴なツッコミでした。
そこから“月にまつわるお菓子”とか、“月見団子の由来”みたいな話を考えていたのですが、ふと「月の光を食べる生き物」ってどうだろうと思いつきまして。

その瞬間、頭に浮かんだのが“夜叉”でした。
人を襲わず、月光を糧に生きる古の存在。けれど、不幸な出来事をきっかけに“人の血の味”を知ってしまい、もう後戻りできなくなる――あ、これバンパイアやん、と(笑)

最初は吸血鬼の物語として書いていたのですが、どうにも舞台が洋風すぎて、やっぱり自分の好きな“和風テイスト”で行きたいと思い直しました。
調べてみると、吸血鬼は日本では“吸血夜叉”と訳されていたらしく、「じゃあその前段階として“月光を食らう夜叉”がいたのでは?」という妄想が膨らんでいったんです。
月の光を糧にしていた夜叉が、人の血の味を覚え、吸血夜叉になってしまう。
その悲しみと渇きをどう描くか――そこが今回の主軸になりました。

そして、ここで話を終えても良かったのですが……やっぱり和風ファンタジーと言えば、あの人しかいない。
そう、“解体師ラビ”です。

ただ、「前作も月読奇譚で月出てたやん」と思いながら(笑)、それでも彼を出した瞬間に世界がぐっと締まる感じがしたので、自然と登場してもらいました。
今回も出番はわずかですが、「知らんがな」の一言がラビらしい存在感を放ってくれたと思っています。

タイトルの『月を啜る』は、もともと吸血鬼の設定から生まれたもの。
血を啜るというより、月の光や記憶、そして“人の想い”を啜る――そんなイメージに変わっていきました。
結果として夜叉はあんまり啜ってないんですけど(笑)、物語の余韻としてはちょうどよかったかなと。


🌕 宣伝パート 🌕

月が欠けても、物語は続く。
もしこの夜叉の話に“光”を感じたら――
ぜひ「スキ」「フォロー」「コメント」で照らしてください。

同じ夜の向こうでは、『配達員ろること2号』が走っています。
月明かりではなく、ネオンと雨に濡れた街を舞台に、
配達員たちが“生きる夜”を運ぶ物語です。
少し笑えて、少し沁みる。
そんな夜を、あなたにも読んでほしい。

Xでは、フードデリバリーの話や創作の裏側、
AIイラストの制作過程などを発信しています。
フォローやコメントで声を届けてもらえると、
次の物語を描く灯りになります。


※本作はフィクションです。

登場する人物・団体・地名・出来事などは実在のものとは関係ありません。
また、一部の描写は実在するXユーザーの投稿や活動に着想を得ていますが、
特定の個人・団体との関連性はなく、内容は創作に基づいて構成されています。

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