短編小説『アキアカネの命名者』#虹色創作部

アキアカネの命名者
明治四十二年の秋。
村外れの停車場には、石炭の匂いが漂っていた。
昆虫学者・松村晋太郎は、夕空を渡る赤とんぼの群れを見上げていた。
翅は燃えるように赤いのに、名はただ「赤とんぼ」。
「もっと、この季節にふさわしい名があるはずだ……」
彼はノートを埋めては閉じ、また開いては溜息をついた。
その帰り、村の診療所の前で一人の娘とすれ違った。
名を茜という。白い着物に、頬だけが夕焼けのように紅い。
診療所の前には、水桶を担いだ子どもたちの声が響いていた。
父親が診療所で働いており、よく庭の花を手入れしているらしい。
「先生、赤とんぼ……子どもの頃によく追いかけました」
「そうか。今でも、こうして飛んでいる」
「懐かしい色ですね」
その言葉に、晋太郎の胸の奥で何かが灯った。
それから二人は、よく河川敷を歩くようになった。
夕暮れの風の中、群れ飛ぶトンボを見上げて、茜が言った。
「先生、見てください。陽に透ける翅が、宝石みたいでキレイですね」
そう言って両手を広げる仕草が、空の色に溶けていた。
茜はしばらく空を見上げたまま、ぽつりと呟いた。
「どうしてでしょうね……見ていると、胸が少し痛くなるんです。
でも、嫌いじゃないんです。こんな色。」
晋太郎は答えず、帽子の影に目を落とした。
――茜、お前の方が、美しいに決まっている。
春の終わり、茜は結核に倒れた。
幼いころから体が弱く、外の風にあたるのを好まなかった。
それでも、トンボの話をすると目を輝かせた。
診療所の白い壁に、咳の音だけが薄く響く。
医師は静かに首を振り、「秋までは……」とだけ告げた。
初夏、晋太郎は標本箱を抱えて茜のもとを訪ねた。
「見てみろ、今朝 羽化したばかりなんだ」
茜は興味深そうに覗き込み、指を伸ばしてはためらった。
「触れたら、壊してしまいそう……」
「大丈夫だ。翅は案外、強い」
その言葉に、茜は小さく笑った。
「私も、そうだといいな……」
晋太郎は答えず、標本箱をそっと閉じた。
窓の外では、風が青く光っていた。
夏が過ぎ、蝉の声が遠ざかるころ。
学会の会場はガス灯の明かりに照らされ、
洋装の学者たちが英語混じりの議論を交わしていた。
晋太郎は静かに立ち上がり、一枚の標本を掲げた。
赤く透けた翅が、光の中で小さく震えている。
「この種に名を与えたい。――アキアカネ。」
その声はかすかに震えたが、誰も気づかなかった。
やがて秋。
ひとり河川敷を歩く晋太郎の肩を、風が撫でた。
空は茜色に染まり、赤い翅が陽を透かして舞う。
遠くで童謡が流れていた。
「茜……見ているか」
彼は立ち止まり、メガネを押し上げた。
「お前の色は、いまも空を飛んでいるよ。」
風が吹き抜け、アキアカネの群れが一斉に空へと舞い上がった。
その翅は、夕陽の中でひととき茜の頬のように輝いた。
📝あとがき
虹色創作部のお題「赤とんぼ」に参加させていただきました。
赤とんぼ――子どもの頃はよく見かけたのに、最近はもう何年も見ていない気がします。
そもそも「赤とんぼ」って、正式名称はなんだろう?と調べてみたところ、
どうやらアキアカネというそうで。
「いや、赤とんぼでええやん!」
そう突っ込みながら、最初はちょっとユーモラスな物語を書き始めました。
選民意識の強い学者が、“後世に残る名前”をつけようとする話――そんな軽やかな導入でした。
けれど、書き進めるうちに何かが足りないと感じ、
そこに茜という娘を登場させました。
不思議なもので、彼女が現れた瞬間、物語の方向が変わりました。
学者の棘は消え、気づけば静かな恋の物語になっていたのです。
本作の舞台を明治後期にしたのは、
ちょうど日本の昆虫学が体系化され、和名の整理が進んだ時代だからです。
アキアカネの命名者は実際には不明で、
1900〜1920年頃の空白の時代――その“名を与えた誰か”を想像して書きました。
そしてもう一つ。
当時は結核の流行期でもありました。
命名の背景に、儚く散る命と、それを見送る人の祈りを重ねたかったのです。
この物語の中で、茜の名が“空を飛ぶ”ことを願って。
それが、僕の中の「赤とんぼ」への祈りでもあります。
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読後、もし心のどこかに“茜色の風”が残っていたら――
ぜひ「スキ」「フォロー」「コメント」で、あなたの想いを届けてください。
物語は風に乗って広がるものです。あなたのひと押しが、次の翅を動かします。
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赤とんぼとは真逆の“都会の疾走”を描いています。
スマホ片手に夜風を切る配達員たちの群像劇、
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※本作はフィクションです。
登場する人物・団体・地名・出来事などは実在のものとは関係ありません。
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