一日一節「倫理経営原典」(043)気づいたら行う、窮したら捨てる(1/7)
第八章 気づいたら行う、窮したら捨てる 第一節
昨日は今日の軌跡、明日は未来の今日、今日の他に人生はない。
今を置いてやるべき時はない。
・取り逃がせな今日と今
・永遠は今の連続
今日のほかに人生はない
「今」を生きるということの誤解と本質を端的に語る本章は、純粋倫理の中でも、とりわけ時間観に鋭く切り込む章である。
のっけから、本節の扉を読み下すほどに、逃げ場のない一文だと感じる。
人生は「いつか」ではなく、「いま」しかない。
それほど明白なことなのに、私たちの意識は、驚くほど頻繁に過去や未来へとさまよっている。
永遠とは「今」の連続である
丸山敏雄は、
「人の一生は、今日の連続である」
「永遠とは、今の連続以外の何ものでもない」
と繰り返し語っている。
過去に囚われ、未来を案じ、現在を通過点のように扱う。
それが常態化している現代人にとって、この言葉は静かな挑戦状でもある。
もっとも、思考が過去や未来へ向かっているその行為自体は、いま起きている。
「自分はいま過去のことを考えているな」「未来を心配しているな」と気づく意識―そのメタ認知が立ち上がった瞬間、人はすでに「今」に戻っているとも言える。
では、「今を生きる」とは、単に刹那的に快楽を味わうことなのだろうか。
アリとキリギリス、どちらが「今」を生きているのか
よく知られた寓話「アリとキリギリス」は、この問いを考えるうえで示唆に富む。
歌い踊り、今この瞬間を楽しむキリギリス。
来たるべき冬に備え、黙々と働くアリ。
一見すると、キリギリスこそ「今を生き」、アリは未来のために現在を犠牲にしているようにも見える。
しかし、価値観を変えて眺めてみるとどうだろうか。
使命感や責任感に支えられて働くアリは「将来のために我慢している存在」ではなく、その働く行為そのものに意味を見出し、納得して今を生きているとも言える。
つまり、「今を生きているかどうか」は行動の内容ではなく、その行動に向かう心の姿勢にあると思うのだ。
「Dance in the moment」と刹那主義の違い
コーチングの世界に
“Dance in the moment”(今この瞬間を踊る)
という表現がある。
それは、計画や型に固執せず、目の前のクライアントの反応・変化に即応しながら、柔軟に、創造的にプロセスを進めるあり方を指す。
この「Dance」は、
・コーチの柔軟性
・相手への深い注意
・場への没入
が同時に成立している状態の喩えだ。
一方で、キリギリス的な刹那主義はどうか。
丸山は、これを
「今を殺すもの」「永遠を軽蔑する姿勢」
だと断じている。
快楽のために未来を切り捨てることは、実は「今」を生きているようでいて、人生の連続性を断ち切っている行為なのだ。
「今」を生きるとは逃げないこと
純粋倫理が説く「今を生きる」とは、気分よく生きることでも、先のことを考えないことでもない。
気づいたことを、いま行う。
やるべきことから、いま逃げない。
その積み重ねによって、今日が昨日の延長となり、明日が今日の延長となり、人生が一本の線としてつながっていく。
永遠とは、遠い未来にある理想郷ではない。
この瞬間をどう扱うか―その選択の連続が永遠を形づくっていく。
「今日の他に人生はない」
この言葉は、焦らせるための標語ではない。
むしろ、足元に立ち返らせるための灯りなのだ。
今、気づいていることは何か。
今、手を伸ばせばできることは何か。
それを行うこと。
それが、人生を生きるということなのだ。
