一日一節「倫理経営原典」(041)
第七章 決め事の遵守、ツミの浄化 第四節
性を乱すツミは恐ろしい。性をもてあそび、生命を冒涜する者に、
天の捌きのないはずがない。性の神聖を讃えよ。
・男女は性の統一力で結ばれる
・性の神聖を保つ
・健全な性生活が繁栄のもと
・性を乱すツミは重い
・夫婦の破約は天に裁かれる
・性の尊さを忘れている現代人
・性を尊ばずして喜びはない
避けては通れない主題
本節は、現代人にとってもっとも向き合いにくいテーマの一つである。
「性」という言葉を前にすると多くの人が戸惑い、あるいは身構える。
しかし原典が語るのは道徳的な禁忌でも旧来の家族観の押しつけでもない。
生命の根源にかかわる営みをどのように敬いどのように扱うかという、人間存在の核心である。
人類生命の存続が男女両性の統一力によって支えられてきたことは誰も否定できない。
だからこそ、丸山敏雄は「健全な性生活が繁栄のもと」と断言する。
ここで言う「健全」とは単なる医学的健康ではなく、人格と信頼に根ざした関係性の健全さであろう。
「性の神聖性」とは何か
性の神聖性とは、性行為を生理的快楽の手段としてのみ扱うのではなく、
生命を生み出す力
人と人を結びつける絆
精神的な統合
共同体と自然への連なり
として尊ぶ視点を指す。
日本の伝統において、性は「聖」と「俗」がゆるやかに溶け合う領域にあった。祭礼や民俗の中に性の象徴が息づき、生命の循環と結びついて理解されてきた。
それは抑圧ではなく畏敬を伴う肯定であった。
ところが戦後の急激な価値転換の中で性は二つの極端に引き裂かれていく。
一方では「個人の自由」「快楽の選択」として消費され、
他方では「汚れ」「タブー」として語られる。
そのどちらも、性の本来の尊さからは遠い。
原典が警鐘を鳴らすのは、まさにこの点であろう。
性を軽く扱うことは、生命そのものを軽んじることだと。
なぜ「乱れ」はツミとなるのか
ここで言うツミは法律違反の話ではない。
私情とわがままから発した行為が、繰り返されて性癖・傾向となり、人格と運命に染み込んでいく過程を指す。
性は人間のもっとも深い領域で他者と交わる営みである。
だからこそ、そこに欺きや打算が入り込むとき、人は知らず知らず自分自身の尊厳を傷つけている。
夫婦の破約が「天に裁かれる」とまで言われるのは、制度としての婚姻を守れという意味ではない。
信頼と約束によって結ばれた関係を裏切ることが、
生命の秩序を壊す行為だからである。
現代社会へのまなざし
戦後から今日に至るまで、性をめぐる価値観は大きく揺れ動いた。
経済発展と個人主義の進展は性を「自己実現の一要素」へと変化させ、
インターネットは性を情報として氾濫させた。
その結果、
家族形成の弱体化
セックスレスの広がり
関係性の断片化
といった現象が同時に進行しているのが実情だ。
これは道徳の後退というより、性の意味づけを失った時代の迷子なのではないだろうか。
原典の言葉を現代に引き寄せるなら、
「性の神聖を讃えよ」とは、
同意と尊厳、責任と信頼に基づく関係を築けという呼びかけであろう。
経営者にとっての性の倫理
一見、経営と無縁に思えるこの主題は、実は深くつながっている。
家庭が不安定な経営者は、判断が揺れやすい。
関係を軽く扱う人は、顧客との信義も軽くなる。
逆に、私生活に誠実な人は、仕事にも芯が通る。
性に向き合う姿勢は人との関わり方そのものなのである。
生命への畏敬を取り戻す
性を尊ぶとは、欲望を否定することではない。
生命を生み、育み、つなぐ力として畏れることである。
それは特定の宗教観に閉じた教えではなく、人類が長い時間をかけて培ってきた普遍の知恵に近い。
私たちは今、性をめぐる混乱のただ中にいる。
だからこそ、原典の言葉は重い。
「性を尊ばずして喜びはない」
この一文は快楽の否定ではなく、
真の喜びは尊厳ある関係の中にしか生まれないという静かな真理である。
問いとしての結び
性をどう扱うかは、その人の生命観そのものだ。
私は他者の尊厳を守れているか。
関係を消費していないか。
生命の連なりを敬っているか。
経営も人生も、結局はこの問いに帰ってくる。
性の神聖を讃えるとは、
自分と他者のいのちを、軽く扱わないと誓うことである。
