Maxoとは何者か?
「この業界に向いていなかった」と語るラッパーが、なぜ音楽を続けるのか
「正直に言うと、俺はこの業界に向いて生まれてきた人間じゃない」。Truth Hurts Podcastの収録中、LAのラッパーMaxoはそう言い切った。ホストのFreeとJeff Weissを前に、穏やかだが確信に満ちた声で。売れ線を追いかけるでもなく、SNSで自分を誇張するでもなく、ただ「純粋でありたい」と繰り返す30歳のアーティスト。彼の言葉を追っていくと、ロサンゼルスという都市が持つ音楽的多層性、インランド・エンパイア(IE)の文化的純度、そして「自分であること」を貫く困難と喜びが、一本の糸のように見えてくる。
ベーカーズフィールドからインランド・エンパイアへ:二つの故郷が育てた感性
中央カリフォルニアの少年
Maxoの原風景は、ロサンゼルスのヒップホップシーンが想像させるそれとは異なる。生まれはベーカーズフィールド、カリフォルニア州の中央部に位置する街だ。父はシカゴやセントルイスを含む中西部の出身でジャズに傾倒し、母はイングルウッド出身。家庭にはSteely DanからJay-Zまで、あらゆるジャンルの音楽が流れていた。中産階級の労働者家庭、両親は9時5時で複数の仕事を掛け持ちし、三人兄弟の真ん中であるMaxoに注がれたのは、「注意深く見守る」という最もシンプルで最も重要な教育だった。
「親がしてくれた一番の祝福は、ただ注意を払ってくれたこと。今の時代、画面に育てられる子供が多すぎる」。この言葉には、自身の幸運への感謝と、現代の子育てへの静かな警鐘が同居している。
やがて高校進学を機にポモナ方面へ移り住み、インランド・エンパイア(IE)が彼の第二の故郷となる。Claremont高校に通い、チノヒルズの従兄弟の家を拠点に、アップランド、ランチョ・クカモンガ、サン・バーナーディーノ、リバーサイドを巡る日々。16歳から19歳まで、LAのクラブには一度も足を踏み入れなかった。パーティーはすべてIEのハウスパーティーだ。
インランド・エンパイアの「純度」
Maxoが語るIEの文化には、独特の引力がある。「LAになろうとしていない。それがIEの良さだ」。ドレスコードもなく、ブーツカットにクロップトップとスニーカーで十分に場が成立する街。LAのクラブのように着飾る必要がない、その気取らなさの中にこそ、Maxoは「純粋さ」を見出している。
音楽的にも、ベーカーズフィールドとIEは独自の磁場を持っていた。ベーカーズフィールドはベイエリアの音楽と強く共鳴し、E-40やHyphy文化が街を席巻した。一方でMaxo自身はLil Wayne、Drake、Curren$y、MF Doomまで雑食的に吸収していく。兄のMilesがMF Doomを教え、学校の昼休みにはフリースタイルを回し、放課後はBiggie(The Notorious B.I.G.)の動画を何時間も掘り続ける。iPhoneすら持っていなかった時代の話だ。2016年にようやくiPhone 4を手に入れるまで、彼らの音楽教育はYouTubeと口伝によるものだった。
「俺たちはインターネットキッズだ。テクニカルなバックグラウンドなんてない。でも、無意識のうちにこのカルチャーを研究していた」。この言葉に凝縮されているのは、正規ルートではなく、渇望と好奇心によって培われた音楽的素養だ。
兄のマイク、そして「ガレージのマイクの子供」
音楽への入り口
Maxoがラッパーになった経緯は、よくある「夢を追い続けた少年」の物語とは根本的に異なる。「兄がマイクを握らなければ、俺はラップなんてしていない」と彼は断言する。3歳年上の兄Miles。ハリウッドでのPay-to-Play(出演料を自分で払うタイプのライブ)に付き添い、スタジオに出入りし、誰かと揉めないように見張る。それが弟としてのMaxoの役割だった。
しかし、人生は兄に別の道を歩ませた。「人はそれぞれ、異なる不純物に対して脆い。若くて、学んでいる最中で、繊細だから」。詳細を語ることは避けながらも、兄がラップを続けられなくなった事情を、Maxoは慎重に、しかし誠実に示唆する。
2016年、Maxoは兄が閉じかけたドアを開けたまま保つために、マイクを握った。当時の動機は音楽的野心ではなく、表現の場を持たない苦しみからの解放だった。「あの頃、自分を表現できる場所がどこにもなかった。家族のことで色々あって、鬱のようだった。音楽が声をくれた。意図する前に」。
この「意図する前に」という一語が、Maxoの音楽観の核心を突いている。彼は計画的にキャリアを構築したのではない。必要に迫られて声を発し、その声がたまたま音楽の形を取った。だからこそ彼は自らを「ガレージのマイクの子供」と呼ぶ。レーベルのオーディションでもなく、バイラルヒットでもなく、ガレージに置かれた安価なマイクが、すべての始まりだった。
「純粋さ」への固執
「金もクラウト(影響力)もどうでもいい。ただこの音楽を純粋なまま保ちたい。根っこがあまりに深い場所にあるから」。この言葉は、Maxoの活動を貫く唯一のテーゼと言っていい。彼はトレンドセッターであることに自覚的だが、フォロワーであることは断固拒否する。
この姿勢は、彼のサウンドにも反映されている。Jill Scottのイントロの質感、Party Next Doorの「Colors」のシーケンシング、Dweleのパパのイントロ。Maxoが挙げるインスピレーション源は、ヒップホップの文法に収まらない。「俺は西海岸の人間だ。でもこっちの音楽の多くは、正直、感じない」。この大胆な告白は、LAのラッパーとしては異端だが、彼の誠実さを裏付けている。
「ヴォーカルのアプローチをシンガーのように扱っている」という自己分析も興味深い。テクニカルな技巧ではなく、フィーリングを優先する。リリシストとしての評価よりも、「器(ヴェッセル)」としての在り方を重視する。自分はあらゆるものの組み合わせであり、スポンジのように吸収してきた経験のすべてが音になる、と彼は言う。
Def Jamでの「大学時代」:妥協しなかった男の卒業証書
Maxoのキャリアにおいて避けて通れないのが、Def Jamとの契約期間だ。SoundCloudのDMを通じてレーベルからコンタクトがあったのは、”Smile”リリース直後のこと。当時のMaxoはショッピングモールで働いていた。
「あそこは大学に行くようなものだった。サンプルクリアランスが何かすら知らなかった」。業界の内部構造を初めて目の当たりにした21歳の青年。当時のDef JamはPlayboi Cartiのトレンドを追おうとしていたが、Maxoは「俺はただのラップ好きな人間だ」と自分のスタイルを曲げなかった。
彼が在籍した期間には、Paul RosenbergからTunji Balogunまで複数のトップが交代している。「あいつらにもボスがいるんだと気づいた。南アフリカに鉱山を持っているような人間が上にいて、俺らのことなんか気にしていない」。この覚醒は若くして訪れた。レーベルがPlayboi Cartiに似た10組のアーティストを契約し、一か月後に全員ドロップしたのに、Maxoだけが残り続けたというエピソードは、彼の音楽的頑固さの証左であると同時に、レーベルシステムの機能不全を物語っている。
しかしMaxoは、この経験を嘆かない。「俺はDef Jamの上でMadlibのビートを使い、Lojiiをフィーチャーし、Pink Siifuを出した。Def Jamのレコードでだぞ?」。メジャーレーベルという制約の中で、自分の美学を一切妥協せずに貫いた事実を、彼は誇りに思っている。”Little Big Man”も”Even God Has a Sense of Humor”も、当時のトレンドとはかけ離れた作品だったが、それこそが価値なのだと。
「あの経験が俺にとっての前例を作った。俺のことを思い浮かべるとき、こいつは流れに逆らうこともあるヤツだ、と。それが大事だった」。
LAの地下水脈:ジャズ、ブルース、そしてDrakeoの複雑さ
「LAとは何か」を問い直す
Maxoのインタビューで最も知的な温度が上がる瞬間は、LAの音楽的アイデンティティについて語るときだ。ギャングスタ・ラップやGファンクだけがLAではない、と彼は主張する。
「LAはヘビーなジャズの街だ。Billy Higgins、Terrence Martin。あれが失われたら、ブラックヒストリーの多くが失われる」。Maxoの友人Benjaminの父がジャズドラマーのBilly Higginsであること、Billy HigginsがTerrence Martinを教えたことなど、LAの音楽史における人的ネットワークの深さを彼は具体的に語る。
さらに彼は、アフリカ系アメリカ人のグレートマイグレーション(大移動)にまで言及する。ミシシッピからLAへ移住した曾祖父母たちが持ち込んだジャズとブルース。それは教会の音楽であり、70年代にはギャング文化が始まる以前からLAに根付いていた。やがてクラック禍、そしてNWAに代表される「反逆の声」が生まれる。Dr. Dreが引用していたのもまた、そのジャズとブルースの伝統だった。
「この伝染性のある何かが、俺たちにはある。普通すぎて、自分たちが異常だということを忘れている」。LAのアーティストたちの影響力は、当人たちが意識していないほど根深く広範だという指摘は、街の文化的自画像への鋭い批評である。
Drakeo the Rulerへの敬意
Maxoが語るDrakeo the Rulerの肖像は、メディアが描くそれとは異なる。「Drakeoはレジェンドだ。あいつもジャーキン(LAのダンスムーブメント)をやっていた。スケーターであり、フッドの人間であり、カルチャーにどれだけ深く関わっていたかを語るなら、Rulerになる前のDrakeoから語るべきだ」。
黒人の複雑さ、人間の複雑さが「他人にとって分かりやすい箱」に押し込まれることへの怒り。Maxoはこの問題を、Drakeoを通じて、しかし普遍的なテーマとして提起する。Drakeo the Rulerの人物像と遺した音楽的遺産については、以前の記事でも詳しく取り上げている。
「俺たちは多くのものになれる。でも公の場では、売れるために箱に入らなければならない。俺はそれに向いていない」。
この文脈で彼が訴えるのが、メディアの責任だ。「黒人同士のビーフを煽るのはやめてくれ。人が死ぬ。それが行き過ぎた結果だ」。ポッドキャストや音楽メディアが持つ影響力の大きさと、そこに伴う倫理的責任について、Maxoは真剣に、しかし押し付けがましくなく語る。
セブンイレブンの奇跡と、DJ Quikからの祝福
The Alchemistとの邂逅
Maxoの音楽的な人脈は、計画ではなく偶然と誠実さによって築かれてきた。その象徴的なエピソードが、The Alchemistとの出会いだ。
「セブンイレブンで飲み物を取ろうとしたら、冷蔵庫の中が空だった。ガラス越しに向こう側を見たら、Alchemistがいて、彼がドリンクを手渡してくれた」。神秘的とも言えるこの出会いから、二人の関係は始まった。
Maxoは、Alchemistを「フィットインしなかったが、自分より大きなサウンドを作ったことでフィットインした人間」と評する。The Alchemistの制作哲学とキャリアについては、当ブログでも複数回取り上げてきた。
Beverly HillsとSanta Monica出身のAlchemist。MadlibはValley出身。Anderson .PaakもValley。LAには常に多様なサウンドが存在してきたが、その事実が十分に認知されていないことへの歯がゆさを、Maxoは吐露する。
DJ Quikからの言葉
もう一つの運命的な出会いが、DJ Quikとの邂逅だ。バーバンクのスタジオでレコーディング中、偶然Suga FreeとDJ Quikが同じ場所にいた。エンジニアの仲介でQuikがスタジオに来てくれた瞬間、Maxoは”quicktoldme”という楽曲を本人に聴かせるチャンスを得る。
「緊張していた。彼はこう言った。『出身がどこであれ、自分の人々と自分自身のために発信しろ。他のことは気にするな』」。そしてQuikは冗談めかして「使用料1500ドルな」と言い、すぐに「嘘だ」と笑った。この何気ないやり取りの中に、世代を超えた音楽家同士のリスペクトが凝縮されている。
MaxoはDJ Quikを「Dreより上」とする立場を共有し、Quikの「自分のやるべきことをやれば、必要とされる」という哲学を自らの活動指針にしている。
NBA YoungBoyという「声なき者の声」
インタビューで意外な熱量を見せたのが、NBA YoungBoyへの言及だ。ホストが「トップ5、生死問わず」とまで宣言する場面。Maxo自身もYoungBoyの音楽的価値を高く評価している。
「NBA YoungBoyがすごいのは、話し方を知らない人々全員のために声を上げていること」。インタビューでの言語化が苦手なYoungBoyが、マイクを握った瞬間に感情が溢れ出すという矛盾。それはMaxo自身が経験したこととも共鳴する。言葉にならない感情が、音楽という形式を通じて初めて形を得る。その普遍的な体験を、Maxoは深く理解している。
「どこにでもフィットするが、どこにも属さない」
インタビューの随所でMaxoが口にする言葉がある。「俺はどこにでもフィットするが、同時にどこにも属さない」。白人の多い地域でも、フッドでも、自分は自分であり続ける。バスケットボール選手としての過去、ヒップホップの世界、どの場所にいても「少し違う」存在。それを彼は「ブラックシープ」と呼ぶが、そこに悲壮感はない。
「俺を固定してきたのは、家の中で起きていたこと。両親、叔父たち、家族の強さ」。外の世界でどれだけ浮いていても、家庭という錨があった。だからこそ彼は、トレンドに流されることなく、自分の表現を続けられる。
Maxoはアヤワスカ(南米の伝統的な精神的儀式に用いられる茶)の体験にも触れ、「愛する人すべてのハートとマインドにタップインできた。生きている人も、亡くなった人も」と、静かに語る。この精神的な深度もまた、彼の音楽の底流にあるものだ。
Princeへの愛を語る場面も印象的だ。「Princeは黒人男性でありながら、非常に多くのものを体現していた。セクシュアリティにおいても、表現においても、最も『自分に心地よい』アーティストの一人」。Princeがいなければ、Lil BもYoung ThugもLil Wayneも存在しなかっただろう、と彼は断言する。
おわりに
Maxoは、ヒップホップのメインストリームが求める「箱」に入ることを拒絶し続けている。Def Jamという巨大な機構の中でも妥協せず、アルゴリズムという新しいゲートキーパーにも屈しない。その代わりに彼が選んだのは、ガレージのマイクから始まった「純粋さ」を守り続けるという、途方もなく地味で途方もなく困難な道だ。
彼の言葉を借りれば、「俺は21歳のときより殉教者的なマインドセットじゃなくなった。30歳の今は、誰のためにも死ぬつもりはない」。かつてはこの音楽のために命を削る覚悟だったが、今は「人間を保ったまま創り続ける方法」を模索している。それは弱さではなく、成熟だ。
LAという街の地下を流れる、ジャズとブルースとストリートの水脈。Maxoの音楽は、その水脈の一つの湧出点である。DJ Quikが言ったように、「自分の人々のために発信しろ」。Maxoはそれを、静かに、しかし揺るぎなく実行し続けている。
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