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Tyler, the CreatorがJAY-Zを断った夜

2011年2月。Tyler, the Creatorは19歳だった。

アルバム"Goblin"の前夜、まだレーベルも事務所もまともに持たなかったOdd Futureオッド・フューチャーが、深夜のテレビ番組で暴れた。"Late Night with Jimmy Fallon"でのパフォーマンスを観た視聴者の多くが、「なんだこいつらは」と画面に釘付けになった。The RootsのドラマーQuestloveクエスト・ラブは後に「来る前からJAY-Zに存在を教えてもらっていた」と明かしている。ヒップホップ界の最高権力者が、当時無名に近いLAエルエーのストリートクルーに目を向けていたのだ。

その後、JAY-Zはパーティへの招待という形でOdd Futureに接触した。Los Angelesロサンゼルスの自宅、小さな橋を渡った先にある邸宅。水面を歩いてタコスを食べながら、世界一有名なラッパーが「お前たちと契約したい」と告げた。

Tylerの答えは「No」だった。


タコスと橋の向こうにあったもの

Fallonでのパフォーマンスが放映された直後から、Odd Futureには業界関係者からの接触が相次いだ。複数の企業、エージェント、ミュージシャンが「何かやろう」と声をかけてきた。しかしその中でも際立っていたのが、JAY-Zからのアプローチだ。LAの邸宅で過ごしたその時間は、19歳の彼らにとって現実離れした空間だった。水の上を歩くような不思議な構造の邸宅で、世界を支配するラッパーが自分たちの才能を認めてくれる。多くの若手アーティストにとって、それは人生を変える「夢のような瞬間」だったはずだ。

Tylerは後にこう振り返っている。

「彼の家には小さな橋があって、水の上を歩いてタコスを食べた。そこで彼は俺たちと契約したがったんだ。俺は『あなたは素晴らしい人だけど、お断りします』と伝えた。ただクリエイティブな主導権を握り、すべてを自分たちでやりたかったんだ」

多くの人がその立場なら「Yes」と言っただろうことを、Tylerも認めている。「あの立場なら、あんな大きな名前の人間からのオファーを、多くの人は簡単に受け入れたはずだ」と彼は言う。しかし彼は続けた。「俺はPhotoshopに座って、変なビートを作りたかっただけだ。そこから始まると思っていた」。

この発言の背後には、ある種の静かな確信がある。今すぐ大きくなることよりも、自分のやりたい形で大きくなることの方が重要だという判断だ。それはビジネスの常識とはかけ離れているようで、実は長期的なアーティストシップの観点からは合理的な選択でもある。

デビュー曲が引き寄せたもの、そして押し返したもの

Yonkersヨンカーズ」のリリースは2011年2月、Fallonでのパフォーマンスも同じ月に行われた。曲のミュージックビデオは、当時のYouTubeで異常な速度で拡散した。タランチュラを食べて白目を剥くTylerの映像は、それまでのヒップホップのビデオ文法を完全に無視したものだった。Tyler自身は当時「悪くも良くもなく、ただ自分たちのことをやりたかった」と振り返っており、Fallon出演の機会を得た時もバックステージで「信じられない、俺たちがテレビに出るなんて」と感じていたと語っている。バス代すら持っていなかった彼らが、全国放送のステージに立った。

Questloveが「JAY-ZがTylerたちに注目するよう事前に知らせてくれた」と述べたエピソードは、Yonkersが業界内にもたらした衝撃の大きさを物語る。ヒップホップのファンだけでなく、業界の頂点にいる人間が「これは本物だ」と反応した。Tyler自身はFallon出演時点では「JAY-Zが自分を知っているとは思っていなかった」と語っており、ヒップホップ界の最高権力者が彼らを先に発見していたという事実は後から知ったことだ。

その注目を受けて、Odd Futureには複数の企業・アーティストから接触があった。「みんな何かしようとしていた」とTylerは語る。その「みんな」の中にJAY-Zもいた。業界の誰もが、この新しい現象を手中に収めようとしていた。それはある種の正常な反応だ。Yonkersが証明したのは、新しいオーディエンスへのリーチ可能性であり、どのレーベルにとっても見逃せない話だった。

しかしここで重要なのは、TylerがYonkersによって得た注目をどう使ったかだ。多くのアーティストにとって、この種のオファーはキャリアの転換点になる。署名一枚で、資金も流通もプロモーションも手に入る。しかし彼はそれを使わなかった。むしろ、そのオファーの存在をほぼ使わずに、自分の内側に向かって進んだ。

結果として見えてくるのは、TylerにとってYonkersは、自分がどこへ向かうかを試すリトマス試験紙だったという事実だ。あの曲は世間への向かい合い方を変えたのではなく、自分がすでに持っていた方向性を確かめる機会になった。実際、Yonkersによって得た最大の恩恵は、JAY-Zからの電話でも業界との繋がりでもなく、「自分たちが信じた方向に進めば通じる」という経験だったのではないだろうか。

「ただPhotoshopに座っていたい」という美学

JAY-Zのオファーを断った後のTylerの言葉に、彼の美学の核心がある。

「俺はPhotoshopに座って、変なビートを作り、そこに辿り着くと思っていた」。

これは謙虚さではない。ビジョンだ。

Tylerは13歳の頃から「グラミーを取る」「これをやる、あれをやる」とツイートで宣言していた。夢を持っていなかったわけではない。むしろ夢の解像度は並外れて高かった。しかし夢への到達方法として、他者のプラットフォームを借りることは彼の設計図に含まれていなかった。自分がソフトウェアに向かって作業する時間そのものが、彼にとってのキャリアだった。

この姿勢は、Odd Future全体の動き方とも一致している。2009年末にTylerが初ミックステープ"Bastard"を出した時、従来の音楽メディアに相手にされないことへの反発心が原動力にあった。「なぜこのLAのアーティストだけが取り上げられるんだ」という怒りを、彼はTumblrとストリーミングという直接配信に変えた。プロモーションを外注せず、リリーススケジュールも自分で管理した。Earlを「2月に出す」と、まるでレーベルのA&Rのように仲間の作品を捌いていた。

そしてその怒りとセルフマネジメントがFader誌での掲載、有能なマネージャーの獲得、そしてFallonへの出演という流れを生み出した。どのステップも、自分たちの力で地盤を作り、その結果として次の扉が開いた。大手のバックアップを使って扉を強引にこじ開けるのではなく、扉が自然に開くだけの密度を内側から作っていったのだ。

その一貫した姿勢の延長線上に、JAY-Zへの「No」がある。Photoshopという言葉が象徴するのは、単なるデザインツールではない。誰にも邪魔されず、自分のペースで作業に没入できる状態だ。それを守ることが、彼にとって最優先事項だった。メジャーレーベルとの契約は、そのPhotoshopの時間を侵食するリスクがあった。だから断った。理由はそれだけだ。

「いつかそこに辿り着く」という確信

Tylerの判断を単なる若者の無謀さや反骨心として読むことはできない。なぜなら彼には「いつかそこに辿り着く」という確信があったからだ。その確信は根拠のない自信ではなく、自分の成長曲線を正確に読んでいたことから来ている。

DJ Dramaとの共作"Call Me If You Get Lost"(2021年)に関して、Tylerはこう語っている。「2011年のFallonの時点では、まだそのレベルに達していなかった。"Goblin"の時代は、まだホットドッグとか過激なことばかり歌っていた。でもあと数年すれば、ミックステープに自分のすべてを捧げられるレベルに達するとわかっていた」。

これは後付けの美化ではない。目標があり、自分が今どこにいるかが見えており、そこに至るプロセスをある程度把握していた。だからこそ、今のタイミングでJAY-Zのラベルに入ることが「そのプロセス」に含まれないと判断できた。

つまりTylerには、現在の自分のレベルと、目指す到達点の両方が見えていた。JAY-Zのオファーを断ったのは、「今の自分」と「なりたい自分」の間の距離を正確に把握していたからだとも読み取れる。

JAY-Zのラベルに入ることは、その距離を埋めることにはならない、と彼は判断した。外からの力を借りることで速くなれるかもしれないが、それは自分が「なりたい形」の自分ではないかもしれない。Tylerはその違いを、19歳の時点ですでに感じ取っていた。

この確信の正しさは、後のキャリアが証明している。グラミー賞を受賞し、"Chromakopia"で世界ツアーを行い、東京・有明アリーナを満員にした。あの夜の有明の記録はここに残しておく

「ノー」と言えるということ

ヒップホップにおいて、メジャーレーベルや大物アーティストとの契約は長らく「夢の実現」と同義だった。それを断るのは、プロの世界での自殺行為に近いと見なされることも珍しくない。

しかしTylerの判断は、後にインディペンデントな活動を選ぶアーティストたちの姿勢と重なる部分を多く持つ。「クリエイティブコントロール」という言葉自体は珍しくない。誰もがそれを大切だと言う。しかし、JAY-Z規模の相手を前にして、タコスを食べながら笑顔で「No」と言える人間は多くない。

Tylerが自分について語る時、一貫して現れるのは「自分がやりたいことのリスト」だ。客観的なトップ5のランキングには興味がない、とも明言している。「客観的なトップ5に固執する奴らはダサい。数字やヒット曲を基準にした誰が一番優れているかよりも、その人が何を好み、愛し、お気に入りとしているかを聞く方がずっといい」とも語った。カリフォルニア代表みたいな肩書きにも執着しない。LAのラッパーとして認識されることへの執着もない。実際、「LAのラッパーに見られていないのは、俺がLAっぽいサウンドを作らないからだ。でも海外でアリーナを埋めていれば、リストに乗っているかどうかなんて関係ない」とも語っている。あるのは、Photoshopに向かって作業する時間と、自分が作りたいものを作る自由だ。

JAY-Zへの「No」は、その自由を守るための最初の大きな選択だった。誰かの力を借りて速く進むことよりも、自分の力で着実に進むことを選んだ。その選択が、今日のTyler, the Creatorという存在の輪郭を形作っている。ヒップホップが「大きなレーベルと組むことで成功する」という時代に、彼は「自分のペースで自分のビジョンを実現する」という別の道を歩いた。その道が正しかったことは、今となっては誰の目にも明らかだ。タコスを食べながら「No」と言えた19歳の判断が、世界中のアリーナを満員にするアーティストを生み出した。

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