ASAP Rocky、8年の沈黙
新作に刻んだ試練と愛
2010年代初頭、ヒップホップシーンに彗星の如く現れた一人の男がいた。その名はASAP Rocky。出身地であるハーレムの空気感を纏いながら、ハイファッションとストリートカルチャーを軽やかに横断する独自のスタイルは、音楽シーンのみならず、世界中の若者の価値観を根底から揺さぶった。しかし、2018年の実験的アルバム"Testing"以降、彼のスタジオアルバムは沈黙を続ける。その期間、実に8年。
ファンが待ち焦がれた新作"Don't Be Dumb"が、ついにそのベールを脱ぐ。この長い年月は、彼に何をもたらしたのか。一つのインタビューから見えてきたのは、法的トラブルという「試練」、リアーナとの間に生まれた家族という「祝福」、そして亡き盟友への変わらぬ想いを乗り越え、成熟した一人の芸術家の姿であった。
沈黙の8年間。創作を阻んだ「試練」と「祝福」
前作"Testing"から8年という月日は、アーティストにとって決して短くない。その長い空白の理由を問われたRockyは、自身の楽曲の一節を引用し、「いくつかの裁判と、いくつかのリーク」そして「子供たち」の存在を挙げた。彼はこの8年間、順風満帆な日々を送っていたわけでは決してない。
最初の大きな障壁は、度重なる法的なトラブルだった。特に、スウェーデンでの暴行罪による有罪判決や、元友人から銃撃で訴えられた裁判は、彼の創作活動に暗い影を落とした。これらの経験は、彼の精神を蝕み、音楽制作に集中することを困難にさせた。彼はインタビューで、同じような状況に再び陥ったことへの無力感を吐露しつつも、そこには学ぶべき教訓があったと語る。それは、成功者が陥りがちな「サバイバーズ・ギルト(生存者の罪悪感)」との戦いであった。仲間を成功させたい一心で、本来切るべきだった不健全な人間関係を維持し続けた結果、自身が引き戻されるという悪循環。神は、彼にその鎖を断ち切るための厳しい試練を与えたのかもしれない。
もう一つの現代的な苦悩が、インターネットによる楽曲のリークだ。Rockyは、ハッカーがレーベルやマネジメントのシステムに侵入し、関係者を装って未発表音源を盗み出す巧妙な手口を明かす。ファンコミュニティ内で「Grail」と呼ばれる未発表曲が高値で取引され、リークがビジネス化している現状。彼はこれを、完成前にデザインを盗まれ、ファストファッションブランドが粗悪な模倣品を市場に出すようなものだと例える。リークされた楽曲は、たとえ一部の熱狂的なファンにしか届いていなくても、彼にとっては「ネタバレ」であり、芸術的なサスペンスを台無しにする行為だ。その多くをお蔵入りにせざるを得なかったという事実は、彼の創作意欲を削ぐに十分な出来事だっただろう。新作の実に85%がここ1年で制作されたという事実が、この問題の深刻さを物語っている。
しかし、この8年間は苦難だけではなかった。最大の「祝福」は、パートナーであるRihannaとの間に3人の子供を授かり、父親になったことだ。彼は当初、子供の存在を活動停滞の言い訳にしたくないと語っていたが、父親としての役割に深くコミットしたいという強い意志が、結果として彼の時間を家族へと向けさせた。子供たちと真摯に向き合う時間は、彼に新たなインスピレーションと、語るべき新しい物語を与えた。法的な試練、リークという裏切り、そして家族という愛。これらのすべてが複雑に絡み合い、彼の内面を豊かにし、新作"Don't Be Dumb"の血肉となったのである。
芸術家としての純粋性。「ヒット不要」と語る独自の美学
ASAP Rockyは、自身のキャリアにおいて一度も全米トップのような大ヒット曲を持っていない。これは、現代のポップシーンで成功を収めるラッパーとしては異例のことだ。しかし、彼はその事実を意に介さないどころか、むしろ誇りに思っているようにさえ見える。彼は「ヒットの作り方は誰もが知っている」と断言する。特定のプロデューサーとアーティストを組み合わせれば、ヒット曲は生まれる。しかし、彼はその安易な方程式を拒否する。
彼の哲学は明快だ。「自分のセレブリティ性を利用して音楽を売る必要はない」。彼は自らを、ビジネスマンではなく「クリエイティブ・ジーニアス」と位置づける。彼の関心は、大衆に受けることではなく、自身の美的感覚を純粋な形で表現することにある。その姿勢を、彼は高級ブランド"Chanel"とファストファッション"Fashion Nova"に例える。"Fashion Nova"が年間40億ドルを売り上げようとも、"Chanel"が持つブランドとしての誠実さや価値は揺るがない。Rockyの音楽は、まさに"Chanel"のようなものだ。それは誰もがすぐに理解できるものではないかもしれないが、時間をかけてその価値がわかる「獲得されるべきテイスト」なのである。
この芸術的探求心は、音楽制作のプロセスにも色濃く反映されている。新作"Don't Be Dumb"の制作において、彼は長年敬愛してきた映画監督、Tim Burtonに協力を仰いだ。幼少期に観た"A Nightmare Before Christmas"に始まり、Burtonの持つゴシックで奇抜な世界観に魅了されてきたRockyは、特に彼の初期作品に見られる「ドイツ表現主義」からの影響に深く共感していた。ドイツ表現主義とは、第一次世界大戦後のドイツで生まれた芸術様式で、内面的な不安や感情を、歪んだ遠近法や極端な光と影のコントラストで表現するのが特徴だ。Rockyは、この美学を現代のアーバンカルチャーと融合させた「ゲットー表現主義」という新たな概念を創造しようと試みた。Tim Burtonは、そのアイデアを具現化するための相談役となり、アルバムのキャラクターデザインなどを手掛けたという。
彼の芸術への探求は、音楽やファッションの領域にとどまらない。俳優としても活動の幅を広げ、名優Denzel WashingtonとSpike Lee監督の映画で共演を果たした。彼は、Denzelとの撮影現場で、彼が単なる大御所俳優ではなく、Moneybag Yoなどを聴く現代ヒップホップの真摯な「生徒」であったことに驚き、深い敬意を抱いたという。台本を覚え、役を演じることは、リリックを暗記し、ステージでパフォーマンスすることと本質的に変わらない。彼はあらゆる表現活動を地続きのものとして捉え、自身のクリエイティビティを解放し続けている。新作"Don't Be Dumb"は、「2011年の自分が2026年に作るであろうアルバム」だと彼は言う。これは、シーンの流行に流されることなく、自身のルーツに忠実でありながら、芸術家として進化を遂げた現在の自分を表現した、最もピュアな作品であることの宣言に他ならない。
リアーナ、そして亡き盟友Yams。彼を支える「魂の羅針盤」
ASAP Rockyの人生とキャリアを語る上で、二人の人物の存在は欠かせない。一人は、公私にわたるパートナーであるRihanna。そしてもう一人は、彼の才能を見出し、A$AP Mobの精神的支柱であった亡き盟友、ASAP Yamsだ。
Rihannaとの関係は、彼の人生に劇的な変化をもたらした。彼は、彼女と出会う前の自分を「たくさんの女性と無意味な時間を過ごし、虚しさを感じていた」と振り返る。そんな彼に、Rihannaは新たな視点を与えた。Rocky曰く、彼女は「どの友人が本物で、どの友人がそうでないか」を明確に見抜く力を持っているという。彼が前述の人間関係のトラブルに巻き込まれた際、彼女の存在が、誰を信じ、誰と距離を置くべきかを見極めるための羅針盤となった。Rockyは「女性は人生を変える。特に、それが伴侶であれば」と語る。彼女との出会いは、まるで目隠しを外されたかのような経験であり、それまで見えなかった世界の真実を彼に示した。二人が共に過ごしたコロナ禍でのロードトリップは、彼らの絆をさらに強固なものにした。その生活は、セレブリティのそれとは程遠く、ウォルマートの駐車場で車中泊をし、タイダイ染めで服を作るような、まるでジプシーのような日々だったという。この経験が、彼らを本物のパートナーへと昇華させた。
そして、もう一人の重要な存在が、2015年に急逝したASAP Yamsだ。Yamsは単なる友人ではなく、Rockyにとっての「スピリット・ガイド」であり、彼のキャリアの方向性を定めた音楽的メンターだった。Yams亡き後、Rockyはクリエイティブな判断を下す上で、誰を頼ればいいのかという喪失感を抱えていた時期があった。その空虚な穴は今も完全には埋まっていないと彼は言う。しかし、彼はYamsが亡くなった後に出会った重要な人々は、彼が天国から送ってくれたのだと信じている。
興味深いことに、RihannaとYamsは生前から親しい友人関係にあった。RihannaはA$AP Mobを自身のツアーに起用するなど、早くから彼らの才能を評価していた。Rockyは、自分たちが結ばれたのは偶然ではなく、Yamsや神、そして彼の父親が導いた運命だと感じている。Yams亡き後、Rockyは最終的に「自分自身を信じる」ことでクリエイティブな決断を下すようになった。自分のテイストに絶対的な自信を持つ彼は、誰かの承認を必要としない。しかし、その自信の根底には、かつてYamsが認めてくれたという確固たる事実がある。そして今、彼の隣にはRihannaという絶対的な理解者がいる。過去の導きと現在の支え。この二つの魂の羅針盤が、ASAP Rockyを芸術の荒波の中で正しき方向へと導いているのだ。
世代のアイコンから父親へ。ヒップホップシーンへの影響と未来
ASAP Rockyが2011年に登場した時の衝撃は計り知れない。彼とA$AP Mobは、ヒップホップのサウンドスケープとファッションの常識を塗り替えた。彼らが持ち込んだモッシュピットで暴れる「レイジ」のカルチャーは、その後のTravis ScottやPlayboi Cartiといったアーティストに受け継がれ、現代のライブシーンのスタンダードとなった。ファッションにおいても同様だ。彼が着用したRick OwensやRaf Simonsといったブランドは、ヒップホップコミュニティにおけるステータスシンボルとなり、多くのフォロワーを生んだ。インタビューアーが「君が着ていた服が、今や誰もが着るようになった」と指摘するように、彼が蒔いた種は、10年以上の時を経てヒップホップカルチャー全体に深く根付いている。
彼は自身のレガシーについて、「光栄なことだ」と語る。自分より前にはKanye WestやPharrell Williamsがいたように、自分の後にも多くの才能が現れる。それがカルチャーの自然な流れだと理解している。しかし、その寛大な態度の裏で、彼は自身のスタイルを安易に模倣する者に対しては厳しい視線も向けている。新作に収録されている"Stole Ya Flow"という楽曲は、明らかに特定の誰か、おそらくは長年複雑な関係が続くDrakeに向けられたものだろう。かつてはツアーに同行する仲だったが、いつしか疎遠になり、敵対するようになった関係性。この曲は、単なる個人的な確執を超え、オリジネーターとしてのプライドの表明でもある。
そして今、彼は「世代のアイコン」から「父親」という新たなフェーズに移行した。3人の子供の父親となった彼は、自分がかつて理想としていた「クールな父親」になっていると語る。彼は、子供たちに自分の価値観を押し付けるつもりはない。自身はベジタリアンだが、子供たちには肉食を許している。善悪の判断や、異性との関わり方など、人生の重要な教訓は自分が直接教えたいと考えている。父親になったことで、彼の「スワッグ」はさらに増したと彼は言う。毎日スリーピースのスーツを着る理由ができたし、ジャズバーで静かな夜を過ごすことにも意味を見出すようになった。
この人間的な成熟は、間違いなく彼の音楽にも深みを与えるだろう。8年という歳月は、ASAP Rockyから多くのものを奪い、同時にかけがえのないものを与えた。"Don't Be Dumb"は、単なる待望の新作アルバムではない。それは、一人の男が試練と祝福を経て、芸術家として、そして人間として、新たな高みに到達したことを証明するドキュメントなのである。
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