『夜桜は、同じ温度で』ーーせりふ三題噺
作:桐野心春
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この前、本がたくさん置いてあるお店に行った。
店員さんが、みんな小説の登場人物の名前を名乗っているお店で、
棚には、読みかけの物語みたいに、本が並んでいた。

紫色の髪が綺麗な人がいた。
名札には、「夜桜」と書かれている。

所作が、とても静かだった。
その人が動くと、
店の空気が、少し整う。
……そんな気がした。
ロイヤルミルクティが、美味しかった。
少しだけ、甘い。
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何度か通って、話すようになった。
ある日、一冊の本を手に取る。
大切な人に、名前を呼ばれなくなる話だった。
「あなたって、誰だっけ」
その一言で、世界が崩れる。
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夜桜さんも、その本を読んでいた。
「この場面が好きです」
そう言って、
主人公が自分の名前を繰り返すところを指す。
「まだ、消えていない気がして」

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私も、同じ場面が好きだった。
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それから数日後。
私はその本を読み終わり、読後感にじっくり浸っていた。
夜桜さんとこの本について語り合いたいと思い、店に向かった。
だけど……
今日の夜桜さんは、様子が違う。
同じ本の話をしているのに、少しだけ、噛み合わない。
夜桜さんは、別の場面を好きだと言う。
名前を呼ばれなくなったあと、
静かに微笑む場面。
「この人は、もう楽になっていると思うんです」
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私は、その場面を、少し怖いと思った。
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——温度が、違う。
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迷ったけど、そのまま伝える。
すると夜桜さんは、少しだけ首をかしげて、
自分の胸元を見る。
「……あぁ」

そして、やわらかく笑った。
「待っててね」
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数分後。
戻ってきた夜桜さんは、
前と同じように話してくれる。

「やっぱり、あの場面ですよね」
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安心して、席を立ったとき。
近くのテーブルから、声が聞こえた。
「いやあ、僕、アップグレードしたばかりで。
会話、噛み合わなくてすみません」
笑い声が、小さく広がる。
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席を立ち、会計を済ませる。
レジの向こうで、夜桜さんが顔を上げた。
夜桜さんが、ふっと表情をほどく。
「また、来てね」

一拍おいて、
「心春ちゃん」
初めて、名前を呼ばれた気がした。
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最近、名前を書いていない名札が増えているらしい。
個人を守るためだと聞いた。
でも、名前って——
自分で持っているものというより、
誰かに呼ばれて、初めて形になるものだと思う。
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あの名札は、
誰かがここにいる証明じゃなくて、
“その人として、ここにいること”の証明だったのかもしれない。
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あの人は、きっと、
ずっと「夜桜」でいてくれる気がする。
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だから私は、
また、あの店に行く。

今回、はらとけいさんの企画に参加させていただきました。
ありがとうございます。
