【過去の薬害事件の教訓の無視】
「かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。日の下には、新しいものなど何もない。」(伝道の書 1:9)
繰り返される悲劇の構造
古代の知恵が示す通り、人類の歴史は皮肉にも同じ過ちの反復で彩られている。特に医療・公衆衛生の分野において、私たちはその残酷な真理を幾度となく突きつけられてきた。
1960年代のサリドマイド事件、70年代の薬害スモン、そして80年代から90年代にかけての薬害エイズ事件。これらの悲劇に共通していたのは、科学的な不確実性がある中で「安全性が確認されていない」ことを「安全である」とすり替え、被害の拡大を黙殺した行政と企業の不作為である。
当時、被害者たちの血の滲むような訴えを経て、社会は「命の重さは利便性や経済効率に優先されるべきである」という教訓を骨を刻むように学んだはずであった。慎重な臨床試験、徹底した市販後調査、そして何よりも疑わしきは使用を止めるという「予防原則」の徹底。それが薬害を繰り返さないための、社会の最低限の倫理規範となったはずだった。
霧散した「慎重な姿勢」
しかし、現在の状況を俯瞰したとき、かつての教訓はどこへ消え去ったのかと問わざるを得ない。科学の進歩という美名の下で、本来踏むべき手続きが簡略化され、懸念を表明する専門家の声は「非科学的」として封じ込められる。かつての薬害事件においても、行政が重い腰を上げたのは常に、取り返しのつかない規模まで被害が拡大し、司法の場へと持ち込まれてからであった。
今の行政の体質も、その根幹において変わっていない。リスクの情報を透明化せず、メリットのみを強調するプロパガンダに近い姿勢は、国民の「知る権利」と「自己決定権」を著しく侵害している。過去の薬害を「終わったこと」として棚上げし、現在の政策にその反省を反映させない姿勢は、もはや不注意による過失とは呼べない。
確信犯的な加害への変質
歴史を直視すれば、今の政府の振る舞いは、不作為の罪を通り越し、国民に対する「確信犯的な加害行為」と言わざるを得ない。過去の事例という明確な「答え」が歴史に刻まれている以上、同じ轍を踏むことは予測可能な事態であるからだ。情報の独占と責任の回避が繰り返される中で、国民の生命は再び、巨大な組織の論理という歯車に組み込まれている。
「日の下には、新しいものなど何もない」という言葉は、私たちの慢心への警告である。過去を忘却した社会は、再び同じ場所で躓き、同じ痛みを味わうことになる。今こそ、私たちは歴史の教訓を血肉化し、行政の暴走を止めるための「慎重さ」を奪還しなければならない。
【コロナワクチンを振り返る】
https://my159p.com/l/m/gGrSHO7u29lwYg
「新型コロナワクチン後遺症 患者の会」
