人を判断する“物差し”は、誰のもの?
人は“捉えたいように”しか捉えない
時々ふと思います、案外人間は「思い込みが強い」生き物なのかもしれません。
「あの人って、たぶんこういう性格だよね」
「こういうの苦手そうだし、きっとこの仕事も厳しいんじゃない?」
「たぶん、ああいう考え方なんだろうな」
そんなふうに、無意識のうちに他人を決めつけてしまった経験、きっと誰しも一度くらいはあるのではないでしょうか。
私にも、もちろんあります。
とくに社会に出て後輩ができてからは、それが増えたように思います。
たとえば仕事の場面。
「この子には、こういう伝え方が合いそうだな」とか、
「このタイプのミスは、こうフォローしておこう」とか。
相手の特性を“想像”して、それをもとに関わり方を最適化しようとする。
人間関係において、これはある種の思いやりでもあるし、効率でもあると思っています。
でも同時に、それは“諸刃の剣”でもあります。
新人時代に感じた、レッテルの重み
思い返せば、私が新人だった頃。
私のせいではないミスに対して、「新人だから」という理由で、注意を受けたことが何度もありました。
仕方のないこと、と割り切って受け流すことはできます。
でも、そういう経験を重ねるたびに思うんです。
「私自身は、他人を“決めつける側”にならないようにしよう」と。
たとえば、何か問題が起きたとき。
決めつけないのはもちろんのこと、
「これ、やったの誰?」と場で大々的に聞くのではなく、
そっと確認して、個別に話を聞く。
そんなふうに、できるだけ冷静に、相手の立場に立って関わりたい。
ただ、もしかすると――
私のいる環境が少し特殊なのかもしれません。
たとえば小さなミスでさえ、会社の存続を左右するような大事件のように扱われてしまう。
そんな空気感の中で仕事をしていると、
「いや、まずは“次に同じことを起こさない仕組み”を考えようよ」と言いたくなることもあります。
ミスを注意することは、大事だし、いつか取り返しのつかないミスをするかもしれない可能性に教育をしているだけかもしれない。
けれど、その前に、人と関わることが前提であることを念頭に置いてほしい。
きっとそうすれば、それぞれにとっての最善が出せる環境に近づいていくだろう。
期待もまた、“善意のレッテル”かもしれない
逆に、よく見られすぎるのも、考えようです。
「あなたなら大丈夫!」
「なんでもできそうだよね」
「頼りにしてるから!」
一見ポジティブな言葉。
でも、実際の自分がそうじゃないとき。
疲れていたり、余裕がなかったりするとき。
こういう言葉は、ときに「その期待に応えなければならない」プレッシャーになってしまいます。
私は、思うんです。
「言葉」よりも「行動」が大事であり、すごくありがたい。
「大丈夫?」と声をかけてくれた人より、
実際に忙しいときに手を差し伸べてくれる人の方が、
気づけば、心を許していたりするものです。
自分も言葉だけになっていないか、その文面だけは常に、肝に銘じています。
言葉と行動が伴って初めて、助けになるのではないかと、私は思うのです。
決めつけず、向き合うことの難しさ
人は、自分が正しいと思いたいからこそ、
無意識のうちに他人を“定義”しがちです。
「この人はこういう人だ」
「この人は、たぶんできる/できない」
「この人は、頑張れる/頑張れない」
良くも悪くも、そうやって振り分けて、関係性を“わかりやすく”してしまう。
でも、それは本当にその人自身を見ていると言えるのでしょうか。
私は、できれば――
決めつけず、こういう人だということも考えず、その時その時で接する意識をしています。
話した内容やその人が言っていた情報は、覚えつつ、
その人が今どんな状況に置かれているのか、今どんな気持ちなのか、何が得意で、何がしんどいのか。
言葉だけじゃなくて、行動で支えて、関わっていきたい。
……それって、もしかすると私自身の“エゴ”なのかもしれません。
最後に
他人は、自分のことを都合よく解釈するもの。
けれど、せめて自分だけは、自分をちゃんと見てあげたい。
誰かのことも、わかったつもりにならないように。
どう頑張っても人間というものは未知に覆われていて、理解しようとしても難しいものだ。
だからこそ、その時々の関わりは儚く、互いに良いものでありたい。
その願いの積み重ねが、少しずつ、人間関係の景色を変えていくのかもしれません。
