小説『ポルカ・ドットで、こんにちは』Dot:8 最終話
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白い砂の海が続いている。
砂は丘となり、ときに稜線となり、崖となる。定まった形はなく、風のほしいままに波打ちながら刻々と姿を変える。
けれども、と凛子は思う。
海原をゆらす波はつかまえることも、形をとどめることもできないけれど。砂の波は美しい波紋を、しばしであろうとも、存在の痕跡をはっきりと残して移動する。砂のわずかばかりのレーゾンデートル? いいえ、砂はそんなくだらないことにこだわらない。掬っても指のあいだから、たちまち、自由に逃げていく。
波のアイデンティティはどこにあると思う?
と、キリが水のグラスを傾けながらきく。波は水と風が作るけれど。あの白い泡だちは、透きとおった水でも、色のない風でもない。だからといって、波という名の物質があるわけでもないだろ、と。
そうね。
水の粒子と空気がぶつかり合って、せめぎ合って、互いを抱きあい、干渉しあって生まれる。白い飛沫の呼吸。
それ自身だけで完結しているものなんて、この世にはないのかもしれない。呼吸をつかさどるミトコンドリアは、はるか遠い昔に細胞核にとりこまれたバクテリアだという。生命のハンドルを握っているのは、よそ者。なのに、人類の母といわれるミトコンドリア・イブは、ミトコンドリアDNAをたどって明らかになったというのだから。ヒトのアイデンティティなんて、どこにあるのかしら。
自我と彼我をわけるものは、何?
境界線なんて必要?
アイデンティティって、それほどたいせつ?
人も、動物も、生きものも、無生物も、みんな。互いに影響しあい、響きあって生きている。
それでいいじゃない。
ヘディンが「さまよえる湖」とよんだロプノールも、いつか、どこかに忽然とまた姿を現わすかもしれない。流砂のなかに消えた楼蘭の夢。地形は生きもののように絶えず姿を変え、人を翻弄する。
砂漠をキャラバンが行く。隊列を組んで、テュルクの地へ。千夜一夜の物語さながらに。ターバンを巻いてラクダにまたがり先頭を行くのは。あれは、キリね。
だとしたら、わたしはどこから眺めているの。
視点は高い空にあって、どんどんロングで遠離っていく。
ああ、やっと翼を手にいれることができたのね。
砂の海が、白く白く透けていくわ。
「凛子、凛子」
誰かが呼ぶ声が、潮騒のように耳膜の奥にこだまする。
視線の先にあるのは、白い砂の海ではなく、たいらでのっぺりとした白い天井だ。ここは、どこ?
アンティークレースのカーテンも、海をのぞむテラスも、港で汽笛をあげる船も、リラの花のゆれるブールヴァールも、遺跡発掘の緑の丘も。海馬にかすかな痕跡を残して、四角い窓の向こうの空に消えてしまったみたい。
無機質な白い壁とベッド。
私を見つめているのは、夫の圭介だ。
「よくがんばったね。元気な男の子だよ。ありがとう」
傍らのベビーベッドで、世界を呼吸したばかりの小さな命が、しわだらけで目をつぶっている。
二重螺旋がほどけて、圭介のDNAと手をとり、種が宿ったその日から。私の子宮は海となった。原初の海でめざめた生命。おそらくそれも、原子と原子の偶然のぶつかりと干渉によって生まれたのだろうけれど。そのはるか遠い記憶をどこかにとどめて螺旋の階段をのぼる。38億年の生命の進化の歴史を子宮の海のなか、高速でたどる。
「海、遠い海よ!と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」
凛子は三好達治の詩の一節を口ずさみ、小さなベッドで規則正しい寝息をたてる頬をなでる。
長い長い旅をしてきたのね。
私も、あなたの幻を追いながら長い夢を見ていた。
きっと、あなたはこれから、私にたくさんのことを気づかせてくれる。
あなたが見る世界は、あなたのもの。無数の影響を受けて、与えて、干渉しあって広がっていく未知の世界。
だから。
私はあなたの港になろう。いつでも私の指をすり抜けて、船出し、自由に羽ばたけるように。世界は驚きに満ちている。
コネクティング・ドットといったのは、スティーブ・ジョブズだったわね。あなたがこれから体験する無数の点は、天にまたたく星のように、いつかつながって一篇のストーリーを描きだす。ひとつとして無駄な点などないのだから。そのことを忘れないで。
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか。」
この根源的な問いを、何度も繰り返そう。
いつか、ボストン美術館にほんものを観に行きましょうね。
「ねぇ、この子の名前、キリはどうかしら」
(The End)

* * * * *
ほとんどストーリーのない物語に
最後までお付きあいいただき、ありがとうございました。
モノローグのような、詩のような、つぶやきのような。
そんな思いつきや思惟が、ポルカ・ドットのように
気まぐれに、軽快に、あちらこちらに跳ぶものを描いてみたくて。
知識を知識として提示すると、たちまち色褪せ固くなってしまうけれど。
無数の砂粒のあいだにひそませれば、シーグラスのように
ほどよくきらっと光ってくれるのでは。
そんな勝手な考えからの実験的な、
とても小説とは呼べない独白に、
お付き合いいただいた皆さまに、
心より感謝申しあげます。
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