見出し画像

#9「嵐に思う」

一昨日、ラストコンサートを行った国民的アイドルグループの話ではない。
明朝、近畿地方に接近する「嵐」のことである。

私には顔も知らない祖母がいる。
祖母は私が生まれる数十年も前に、台風で山が崩れ土砂とともに川に流され亡くなっている。母が中学一年の秋のことだ。
写真嫌いだった祖母の一枚きりの写真は、新聞社が台風の翌日に持っていったきり戻ってこなかったらしい。
だから、私は祖母の顔を知らない。

大阪の私鉄南海高野線に「三日市町」という駅がある。
府南部の河内長野市にある駅で、市中心部の河内長野駅のひと駅高野山よりになる。何十年と訪れていないため駅前の今の姿を知らないが、私が小学生のころは中途半端にさびれた田舎の駅だった。
「三日市」という名から推測できるように、毎月三日にいちが立つ高野街道の宿場町として古くはそれなりに賑わっていたらしい。往時は、三日市があたりの中心だった。それがあざとなって、駅前は道幅の狭い三叉路でゆるやかに曲折しており、車の往来には向いていなかった。駅のすぐ裏に崖が迫り、駅前をなだらかに下る道の先には天見川が流れている。天見川は蛇行しながら北上して石川となる。

駅の真裏のうっそうとした小山が墓地だった。
盆や彼岸には、駅のロータリー前にあるスーパーと呼ぶのもおこがましい食料品と雑貨をいくらかおいている小さな店で花を買う。山の斜面を縫うようにして幾基もの墓が肩を寄せ合い、びっしりと並んでいた。
そのもっとも奥に祖母の墓があった。
わりと新しく増設された区画で、崖の縁にあり、崖下を走る市道がのぞめ、他の墓地よりも明るかった。ここに「おばあちゃんが眠っている」といわれても、子どものわたしには実感がほとんど湧かなかった。

三日市の二駅(現在はひと駅新設され三駅)向こうに、「天見駅」がある。
母たち一家四人は、千早口駅と天見駅の間、天見川沿いの間口の狭い借家に暮らしていたそうだ。今は道も整備されているが、両側から山が迫る山間やまあいの村落だ。
紀伊半島に上陸した台風は、紀伊山地にある紀見峠を越えて村を直撃した。
祖父(母にとっては父)は南海電鉄の線路工だった。
母の昔語りによると、台風で線路の信号が倒れていることに気づいた祖母は嵐の中、駅に知らせに出て行き、途中で山崩れに遭い川に流されたという。
実母を亡くした悲しみも癒えぬうちに、祖父は後添えをもらった。
母にいわせると、出戻りの義妹を「押しつけられた」ということになる。
当時は家と家の婚礼である。
嫁いだ姉が亡くなれば、「では、代わりに妹を」というのはよくあったそうだ。継母となったのは、血のつながった叔母で連れ子がいた。
それが、まだ中学生の母の心情を複雑にした。
末の妹となった連れ子も、もとは従妹である。

血縁の複雑な縄は、ひと筋縄とはならない。
単純な継母と継子よりも感情のもつれをからめた。

たいへんに不謹慎なのだが。
母の普通とは異なる生い立ちに、子どものわたしは物語をみた。継母と継子の物語が身近にある。なんと稀有なことか、と。
実母を失った母の哀しみを思いやるよりも、その物語性に心を強く惹かれた。

顔も知らぬ祖母の墓前で形だけ手を合わせながらわたしは、この物語をいつか書かねばならないと幼心に強く思った。なんの根拠もなく、「書く」としたらわたしなのだと。
とんでもない娘である。

作家をめざした原点はいつかと問われれば、残暑の厳しい墓地を思い出す。
まだ、あの夏の独りよがりな誓いを実現していない。
いいかげん、そろそろ手をつけなければなあ、と嵐を前に思う。


その走りのような物語が、こちらになります。
続きを放置したままになっています。



いいなと思ったら応援しよう!

朝野にわ サポートをいただけたら、勇気と元気がわいて、 これほどウレシイことはありません♡