2055・コード:ヒューマニティ 2
宇宙ステーション「ハビタット・ワン」に到着したアキラたちを待っていたのは、楽園ではなく、老朽化し資源が枯渇した鉄の棺桶だった。妹アオイの生命維持装置を守るため、アキラは理想と現実の狭間で苦悩する。
ある日、農作物が病気にかかる。効率重視のエンジニア・サトウは「全焼却」を主張するが、理想主義のケンジらの反対で治療を選択。結果、作物は全滅し、ステーションに飢餓の恐怖が広がる。さらに放射線漏れ事故が発生。「共感」で選ばれたはずの人々は死の恐怖に竦み、誰も動けない。アキラはサトウと共に決死の修理に向かい、サトウの冷徹さが、かつて仲間を救えなかった後悔から来る「責任感」であることを知る。
修理は成功するが、ステーションの崩壊は目前だった。アガルタへ向かう宇宙船の定員は45名に減らされ、5名が残留し、死を待たねばならない。パニックに陥る人々。アキラは残留を志願するが、サトウはそれを制止する。「泥を被るのが大人の役目だ」とサトウは自ら残り、異なる意見をまとめる潤滑油としてアキラに未来を託す。サトウたちに見送られ、アキラはアオイと共に、痛みと覚悟を背負って新天地へと旅立つ。
第一章:錆びついた楽園
プシュウ、という気の抜けたような音がして、エアロックが開いた。
俺たちが想像していたのは、光り輝く未来への入り口だった。
あるいは、マザーAIが用意した、緑溢れる第二の地球だったかもしれない。
だが、最初に俺たちを出迎えたのは、鼻が曲がりそうになるほどの強烈な悪臭だった。
「うっ……」
誰かが嘔吐く音が聞こえる。
古い機械油と、湿ったカビ、そして何年も循環し続けて淀んだ空気の匂い。
地球の無菌室のような、あの無臭の清潔さはどこにもない。
ここは、楽園なんかじゃなかった。
巨大な、古びた鉄の棺桶だ。
「ようこそ、ハビタット・ワンへ」
マザーAIの声だけは、相変わらず透き通るように美しい。
その声が、錆びついたスピーカーからノイズ混じりに流れてくるのが、皮肉に聞こえた。
俺たちは、重たい足取りでステーションに乗り込んだ。
足元の床はグレーチング(格子状の金網)で、下を覗くと、太いパイプやケーブルが内臓のようにうねっているのが見える。
照明は薄暗く、時折チカチカと点滅しては、俺たちの影を不安げに揺らした。
「タカギさん、これ……本当にここなんでしょうか?」
隣を歩くケンジが、不安そうに俺の顔を覗き込む。
彼の眼鏡は、急激な温度変化のせいで白く曇っていた。
「ああ、マザーがそう言うなら、そうなんだろうよ」
俺は短く答えるのが精一杯だった。
胃の奥が重い。
緊張と、宇宙船の加速によるGの残滓、そしてこの空気の悪さのせいで、軽い船酔いのような状態が続いている。
俺たちの最優先事項は、ポッドの搬入だった。
50人の生存者と、それぞれの家族が眠るコールドスリープポッド。
それを、貨物船からステーションの「医療区画」へと運ばなければならない。
もちろん、運ぶのは俺たち自身だ。
便利な作業用アンドロイドなんていない。
「そっち持て! 足元気をつけろよ!」
「重い……もう少しゆっくり!」
怒号と悲鳴が飛び交う。
俺は、妹のアオイが眠るポッドの取っ手を握りしめていた。
汗で滑る。
指の関節が白くなるほど力を込める。
この中には、アオイがいる。
絶対に落とすわけにはいかない。
ようやく辿り着いた「医療区画」は、ただの広い倉庫だった。
壁には計器類が並んでいるが、その半分はランプが消えている。
床に這わせた電源ケーブルに、ポッドを一つずつ接続していく。
カチリ。
接続音がして、ポッドのモニターが光る。
俺は息を詰めて画面を見守った。
『電力供給:接続』
『生命維持:安定』
緑色の文字が表示され、俺は肺の中に溜まっていた空気をすべて吐き出した。
膝の力が抜けそうだ。
よかった。
とりあえず、繋がった。
だが、その安堵は一瞬で消え去った。
部屋の隅で、誰かが叫んだからだ。
「おい! こっちの電圧が安定しないぞ!」
見ると、照明が一瞬暗くなり、いくつかのポッドのランプが、緑から黄色へと点滅を始めた。
警告色だ。
「電力リソースが不足しています」
マザーの事務的なアナウンスが流れる。
「本ステーションのメインジェネレーターは老朽化しており、最大出力が低下しています。全ポッドの生命維持と、居住区の環境維持を同時に行うには、エネルギー配分の最適化が必要です」
最適化。
また、その言葉だ。
俺の胃がキリキリと痛み出した。
最適化という言葉の裏には、いつだって「切り捨て」の意味が含まれている。
「どういうことだ! 妹は大丈夫なのかよ!」
俺は思わず叫んでいた。
アオイのポッドを見る。
今はまだ緑色だが、いつ黄色に変わるか分からない。
その恐怖が、冷や汗となって背中を伝う。
騒然となる医療区画の入り口に、一人の男が立っていた。
サトウだ。
彼は腕組みをして、冷ややかな目で俺たちを見回していた。
その手には、ステーションの管理端末が握られている。
「騒ぐな」
低い、よく通る声だった。
「マザーの言っていることは単純だ。全員が快適に過ごして、全員の家族を完璧に守るだけの電気はない。シャワーも、空調も、照明もだ。何かを得るには、何かを削らなきゃならない」
サトウは、俺の方を――いや、俺の後ろにあるアオイのポッドを一瞥した気がした。
「居住区の食堂に集まれ。これからの『ルール』を決める」
彼はそれだけ言うと、踵を返して出て行った。
その背中は、俺たちに対して「ついて来れる奴だけ来い」と言っているようだった。
居住区の食堂と呼ばれた場所は、長机が並べられただけの殺風景な部屋だった。
壁には、かつての居住者が残したと思われる、意味不明な落書きが残っている。
窓の外には、巨大な青い地球が浮かんでいるが、ガラスが汚れていて薄ぼんやりとしか見えない。
50人が席に着く。
皆、疲労困憊の顔をしている。
作業着のまま床に座り込む者、不安げに爪を噛む者。
第1部の最後、あの白い部屋で見せた希望に満ちた表情は、もうどこにもなかった。
あるのは、現実という重力に押し潰されそうな、生身の人間の顔だけだ。
「配給の話をしよう」
サトウが口火を切った。
彼は皆の前に立ち、端末の画面を壁に投影した。
そこには、ステーションの水と食料、そして電力の残量がグラフで示されていた。
どれも、赤いラインぎりぎりだ。
「見ての通りだ。全員が腹一杯食って、毎日シャワーを浴びていたら、一ヶ月で底をつく。アーク(恒星船)の出発準備が整うまで、最低でも半年はここで耐えなきゃならない」
サトウの言葉に、どよめきが広がる。
半年。
この臭い缶詰の中で、半年も。
「だから、提案がある」
サトウは淡々と言葉を続けた。
「配給に差をつける。ステーションの維持管理、修理、船外活動。そういった専門技能を持ち、労働負荷の高い人間のカロリー摂取量を優先する。逆に、特別な技能を持たず、軽作業しかできない人間の配給は、生存に必要な最低限に絞る」
静寂が落ちた。
誰もが、隣の人間の顔を盗み見た。
自分はどっちだ?
「優先」される側か、「絞られる」側か。
「そ、そんなのおかしいですよ!」
立ち上がったのは、ケンジだった。
彼は顔を真っ赤にして、拳を震わせている。
「僕たちは選ばれたんじゃなかったんですか? 助け合うためにここに来たんでしょう? なのに、最初から差をつけるなんて……そんなの、地球にいた頃と同じじゃないですか!」
ケンジの言葉に、数人が頷く。
そうだ、俺たちは「共感」の価値を認められたはずだ。
ここで弱者を切り捨てるような真似をしたら、何のためにここに来たのか分からない。
「きれいごとを言うな」
サトウの声が、ケンジの言葉を断ち切った。
その声には、怒りよりも深い、諦めのような響きがあった。
「いいか、ここは病院じゃない。沈みかけた船だ。穴を塞ぐ人間が倒れたら、全員死ぬんだぞ。平等に分け合って、全員で栄養失調になって、誰がこのボロ船を修理するんだ?」
正論だった。
憎らしいほどに、正論だった。
サトウの言う通りだ。
技術者が倒れれば、アオイのポッドの電気も止まるかもしれない。
アオイを守るためには、ステーションというシステム自体を守らなければならない。
俺の心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。
俺は、どっちだ?
俺には特別な技術はない。
ただの事務屋上がりだ。
ここでサトウの案に賛成すれば、俺の配給は減るかもしれない。
だが、反対してシステムが崩壊すれば、アオイが死ぬ。
「タカギさん」
不意に、ケンジが俺に話を振った。
すがるような目だ。
「タカギさんもそう思いますよね? みんなで等しく分けるべきだって。あの森で僕を助けてくれた時みたいに、正しいことを言ってくださいよ」
全員の視線が俺に集まる。
胃が痛い。
キリで刺されるように痛い。
やめてくれ。俺を巻き込まないでくれ。
俺はヒーローじゃない。
ただ、妹を生かしたいだけの、エゴの塊なんだ。
俺は口を開こうとしたが、喉が張り付いて声が出なかった。
サトウが、冷ややかな目で俺を見ている。
『お前はどうするんだ?』と試すような目だ。
「……俺は」
絞り出した声は、情けないほど小さかった。
「俺は……アオイのポッドの電力が確保されるなら、それでいい」
最低の答えだった。
ケンジの顔が歪むのが見えた。失望の色だ。
サトウは鼻で笑い、視線を外した。
「正直でいいな。だが、個人の要望を聞いていたらキリがない」
結局、議論は平行線をたどったまま、時間切れで終わった。
とりあえず今日は「暫定的に」平等に配給されることになったが、明日以降はどうなるか分からない。
食堂で配られたのは、灰色のブロック状の合成食と、コップ半分の水だけだった。
合成食をかじる。
味はしなかった。
ただ、古雑誌を噛んでいるような、パサパサとした不快感だけが口に残る。
俺は早々に食事を切り上げ、医療区画へと向かった。
薄暗い倉庫の隅で、アオイのポッドが静かに稼働している。
ランプの色は、今は緑色だ。
でも、時折チカッと瞬く気がする。
「……ごめんな」
俺はポッドの冷たいガラスに手を触れた。
指先から伝わる振動だけが、アオイの命の証だ。
「お兄ちゃん、やっぱり駄目だな。かっこいいこと言えないや」
ケンジの失望した顔が脳裏に焼き付いている。
でも、俺は選ばなきゃいけない。
「みんなのための正義」と、「アオイのための現実」を。
サトウの言う「何かを削らなきゃならない」という言葉が、呪いのように頭の中を回っていた。
削られるのは、誰だ?
俺か?
それとも、役に立たない誰かか?
頭上の通気口から、ガタガタという異音が聞こえる。
錆びついたファンの音だ。
その音は、これから始まる日々の過酷さを予感させる、不吉なBGMのように響いていた。
ここは楽園じゃない。
俺たちは、地獄の入り口で、ただ立ち尽くしているだけだ。
第二章:正義の天秤
楽園が腐り落ちる音を、俺たちは聞いた。
ハビタット・ワンでの生活が始まって二週間。
ステーション内の「農業ブロック」が、俺たちの生命線だった。
巨大なガラスドームの中で、水耕栽培の野菜や穀物が育てられている。
そこだけは、緑があり、湿り気があり、生き物の匂いがした。
唯一、心が休まる場所。
……のはずだった。
「これ、なんだ?」
朝の見回りで農業ブロックに入った俺は、異変に気づいた。
トマトの葉が、黒く変色している。
一枚だけじゃない。
隣の株も、その隣も。
まるでインクを垂らしたように、黒い斑点が広がっている。
湿度が異常に高い。
肌にまとわりつくような、生温かい空気。
そして、甘ったるい腐敗臭が漂っている。
「空調システムの不調です」
駆けつけたサトウが、端末を見ながら顔をしかめた。
「換気ファンが二基、停止している。湿度が上がりすぎて、カビの一種が繁殖したらしい」
「カビ……? じゃあ、このトマトは」
「全滅だ」
サトウは短く言い切った。
「このカビは胞子を飛ばす。放っておけば、他の区画の野菜にも飛び火する。特に、隣の区画の小麦がやられたら終わりだ。半年分の食料計画が破綻する」
「そ、そんな……」
農業担当のケンジが、へなへなと座り込んだ。
彼が手塩にかけて育ててきた作物だ。
「対策は?」
俺が尋ねると、サトウは冷酷な答えを返した。
「感染したA区画を、全て焼却処分する。高温で焼き払って、胞子を死滅させるしかない」
焼却。
つまり、収穫直前のトマトを、全て灰にするということだ。
「だめです!」
ケンジが跳ね起きた。
「まだ全部が黒くなってるわけじゃない! 手作業で悪い葉を取り除いて、殺菌剤を使えば……助かる株もあるはずです!」
「リスクが高すぎる」
サトウは取り合わない。
「手作業でやっている間に、胞子が拡散したらどうする? 人間が媒介する可能性もある。お前が服に胞子をつけて、他の区画に入れば一発でアウトだ」
「でも、やってみなきゃ分からないじゃないですか! これを焼いたら、来月分のビタミン源がなくなるんですよ! みんなの食事が、もっと惨めになるんです!」
ケンジの叫びは、切実だった。
食料事情はすでに限界に近い。
ただでさえ味気ない合成食に、新鮮な野菜が加わることを、誰もが楽しみにしていたのだ。
それを燃やすなんて。
「タカギさん!」
まただ。
ケンジが俺を見る。
縋るような、濡れた子犬のような目。
「タカギさんはどう思いますか? 命を……まだ生きている作物を、可能性も試さずに殺すなんて、間違ってますよね?」
俺の胃が、きりりと縮み上がった。
また、天秤だ。
俺の目の前に、見えない天秤がぶら下がっている。
片方には「共感」。
片方には「安全」。
感情的には、ケンジに賛成だ。
せっかく育った野菜を燃やすなんて、忍びない。
それに、もし焼却して、結局食料が足りなくなったら?
アオイに栄養のある食事をさせられなくなるかもしれない。
だが、サトウの言うリスクも怖い。
もし病気が広がって、全滅したら……。
「多数決をとろう」
俺は、逃げた。
自分の口で「燃やせ」とも「残せ」とも言えず、集団の意思に委ねることにしたのだ。
卑怯な大人だ。
自分でも反吐が出る。
緊急集会が開かれ、50人による投票が行われた。
結果は、圧倒的だった。
『治療・保存』:38票
『焼却処分』:12票
やはり、目の前の食料を捨てるという選択肢は、飢えに怯える人々には受け入れ難かったのだ。
ケンジは安堵の表情を浮かべ、サトウは……無表情だった。
彼はただ、小さく肩をすくめただけだった。
「決まりだな。責任は、お前らが取れよ」
その言葉が、不吉な予言のように耳に残った。
それから三日間。
農業ブロックは戦場になった。
ケンジたち若手グループを中心に、寝る間も惜しんで病気の葉を取り除く作業が続いた。
俺も手伝った。
蒸し風呂のような暑さの中で、汗だくになって作業した。
黒い葉を一枚一枚ちぎり取る。
指先が植物の汁で緑色に染まる。
「ほら、見てくださいタカギさん! 新しい芽が出てます!」
ケンジが嬉しそうに指差す。
確かに、黒い斑点のない、瑞々しい緑の葉が見えた。
俺たちの努力は無駄じゃなかった。
そう思いたかった。
だが、現実は残酷なほどあっけなく、俺たちの希望を踏み潰した。
四日目の朝。
農業ブロックに入った瞬間、俺は立ち尽くした。
匂いが変わっていた。
甘ったるい腐敗臭が、何倍にも濃くなっている。
そして、目の前に広がる光景。
A区画だけじゃない。
隣のB区画の小麦も、C区画の葉野菜も。
すべてが、べっとりと黒いカビに覆われ、ドロドロに溶け始めていた。
「あ……あぁ……」
ケンジが、膝から崩れ落ちる。
彼は、黒く変わり果てたトマトの残骸を呆然と見つめていた。
「嘘だ……昨日は、大丈夫だったのに……」
胞子だ。
サトウの言った通り、俺たちが作業で動き回ったせいで、胞子を撒き散らしてしまったのだ。
換気ファンが止まった淀んだ空気の中で、カビは爆発的に増殖した。
全滅。
その二文字が、重くのしかかる。
このシーズンの収穫は、ほぼゼロだ。
これから数ヶ月、俺たちはビタミン不足と、圧倒的なカロリー不足に苦しむことになる。
食堂に集まった50人の顔は、絶望に染まっていた。
今日の配給は、さらに減らされた。
皿の上には、消しゴムのような合成食の欠片が一つだけ。
「どうすんだよ……」
誰かが呟いた。
その矛先は、自然とケンジに向かう。
「お前が、残せって言ったんだろ」
「焼いておけば、半分は助かったんじゃないのか」
責める声。
敵意を含んだ視線。
ケンジは青ざめ、震えながら下を向いている。
あの時、彼に賛成した38人は、今は誰も彼を庇おうとしない。
俺も含めて。
俺は、自分の皿を見つめたまま、何も言えなかった。
喉が詰まって、水さえ飲み込めない。
俺も同罪だ。
あの時、俺がサトウの意見を支持して、みんなを説得していれば。
アオイのための安全策をとっていれば。
深夜。
俺は一人で医療区画にいた。
アオイのポッドのそばだけが、俺の居場所だった。
薄暗い倉庫の中で、ポッドの駆動音だけが響いている。
「……よう」
背後から声をかけられた。
サトウだ。
彼は手すりに寄りかかり、缶詰を開けていた。
貴重な、備蓄食料の桃缶だ。
甘い匂いが漂ってくる。
「お前、晩飯食わなかったろ。やるよ」
サトウは、桃が一切れだけ残った缶を俺に差し出した。
俺は反射的に受け取ったが、食べる気にはなれなかった。
「……あんたは、こうなるって分かってたのか」
俺が尋ねると、サトウは短く息を吐いた。
「確率の問題だ。俺はエンジニアだぞ。不確定な希望的観測より、確実な損切りを選ぶ」
彼は、俺の顔を覗き込んだ。
その目は、冷たいが、どこか哀れむような色も混じっていた。
「満足か? タカギ。お前たちの安いヒューマニズムが、この結果を招いたんだ」
俺は何も言い返せなかった。
缶の中の桃が、薄暗い照明を受けて光っている。
それは、腐ってしまったあのトマトの果肉のように見えた。
「優しさってのはな、タカギ」
サトウは背を向け、歩き出しながら言った。
「時には、最大の暴力になるんだよ」
彼が去った後、俺は一人残された。
手の中の桃缶が、鉛のように重かった。
俺はそれを口に運んだ。
強烈な甘さが口いっぱいに広がる。
だが、それを飲み込んだ瞬間、俺はたまらず床に膝をつき、胃の中身をすべて吐き出した。
酸っぱい胃液の味と、桃の甘さが混ざり合う。
俺たちが選んだ「正義」の味がした。
第三章:沈黙の志願者
飢えは、人を獣に変える。
地球にいた頃、歴史の教科書で読んだその言葉は、比喩でもなんでもなかった。
作物の全滅から一週間。
ステーション内の空気は、殺気立っていた。
誰もが目を合わせようとしない。
通路ですれ違うだけで、舌打ちが聞こえる。
シャワールームからシャンプーが消えた。
食堂で、隣の席の男が落としたパン屑を、別の男が素早く拾って口に入れるのを見た。
「返せよ! 俺のバッテリーだ!」
居住区の奥から怒号が響く。
また喧嘩だ。
個人の端末を充電するためのポータブルバッテリーが盗まれたらしい。
ここでは、娯楽も情報も端末の中にしかない。
バッテリー切れは、精神的な死を意味する。
俺は、布団を頭から被って耳を塞いだ。
胃が痛い。
空腹のせいなのか、ストレスのせいなのか、もう区別がつかない。
ただ、内臓が雑巾のように絞られる感覚だけがある。
(アオイ……)
妹のポッドに行くことすら、最近は億劫になっていた。
合わせる顔がない。
俺は何もできていない。
ただ、配給された餌を食い繋いで、嵐が過ぎるのを待っているだけだ。
『緊急警報。緊急警報』
マザーAIの声が、頭上から降ってきた。
いつもの澄んだ声ではない。
赤色の回転灯が、薄暗い廊下を毒々しく照らし出す。
『外壁セクションD-4にて、構造材の破断を確認。気密低下。放射線レベルが上昇しています』
放射線。
その言葉に、俺は跳ね起きた。
セクションD-4。
医療区画のすぐ近くだ。
「アオイ!」
俺は廊下へ飛び出した。
同じように部屋から出てきた居住者たちが、パニックになって右往左往している。
「落ち着け! 居住区画は隔壁で守られている!」
サトウの声が響いた。
彼は携帯端末を操作しながら、皆を制止している。
冷静だ。
いや、冷徹だ。
この混乱の中でも、彼だけは機械の一部のように機能している。
「だが、問題はそこじゃない」
サトウは、集まった俺たち50人を見回した。
その視線は鋭く、そして重かった。
「D-4エリアの冷却パイプが破損している。このままだと、メインジェネレーターが過熱して停止する。そうなれば、ステーション全体の生命維持が終わる」
「……修理すればいいんだろう?」
誰かが言った。
簡単なことのように。
「ああ、修理は可能だ。手動バルブを閉めて、バイパスを通せばいい」
サトウは頷いた。
だが、次の言葉が、俺たちの喉元に氷柱を突き立てた。
「ただし、現場は放射線漏れを起こしている。作業時間は約20分。致死量ではないが、確実に健康被害が出るレベルの被曝をする。将来的には癌になるリスクも跳ね上がるだろう」
静寂。
さっきまでの怒号やパニックが嘘のように、場が凍りついた。
「誰か、行ってくれ」
サトウは言った。
命令ではなく、事実の提示として。
「俺はジェネレーターの制御室で、出力調整をしなきゃならない。ここを離れられないんだ。だから、誰かが現場に行って、バルブを回す必要がある」
彼の視線が、一人一人の顔を舐めるように移動する。
誰もが、目を逸らした。
俺もだ。
目を逸らした。
放射線。被曝。癌。
その言葉の重みが、足枷になって俺を床に縫い付ける。
俺にはアオイがいる。
まだ死ねない。
病気になって、アオイを残して死ぬわけにはいかない。
「……私には、子供がいるんです」
震える声で、誰かが言った。
第1部で、最後まで子供を守ろうとしていた母親だ。
「私に何かあったら、この子はどうなるの? 誰か……独り身の人が行ってください」
その言葉が、引き金になった。
「俺だって、家族がいる!」
「僕は機械なんて触ったことない!」
「なんで俺なんだ? ケンジが行けばいいじゃないか。お前、作物を全滅させた責任があるだろ?」
醜い。
なんて醜いんだ。
責任の押し付け合い。
生存本能がむき出しになった、人間の本性。
ケンジは、顔面蒼白で唇を震わせていた。
彼は「みんなを助けたい」と言っていた。
「命を大事にしたい」と言っていた。
だが、いざ自分の命が天秤に乗せられると、彼は一歩も動けなかった。
ただ、小さく「ごめんなさい」と呟いているだけだ。
俺はどうだ?
俺は、心の中で叫んでいた。
(誰か行けよ。誰でもいいから。俺以外なら、誰だっていい)
アオイのポッドが頭をよぎる。
ジェネレーターが止まれば、アオイも死ぬ。
分かっている。
誰かが行かなきゃ、全員終わりだ。
論理的には、俺が行くべきなのかもしれない。
俺にはアオイ以外の家族はいない。
失うものは少ない方だ。
(手を挙げろ、アキラ)
右手に力を込める。
だが、腕は鉛のように重くて、ピクリとも動かない。
怖い。
死にたくない。
痛い思いをしたくない。
俺は、ただの凡人なんだ。
ヒーローなんかじゃない。
食堂に、重苦しい沈黙が満ちる。
誰かの荒い呼吸音だけが聞こえる。
1分、また1分と時間が過ぎていく。
その間にも、放射線は漏れ続け、ジェネレーターの温度は上がり続けているはずだ。
サトウが、小さく溜息をついた。
失望、軽蔑、諦め。
すべての感情が混ざったような、乾いた音だった。
「……そうか」
彼は、俺たちを見限ったように背を向けた。
「これが、お前らの『ヒューマニティ』か」
その言葉は、ナイフよりも鋭く、俺の心臓を抉った。
俺たちは選ばれたんじゃなかったのか?
優しさを持った、新しい人類じゃなかったのか?
違ったんだ。
俺たちは、ただの臆病者の集まりだった。
地球のシステムから逃げ出し、ここでまた、責任から逃げ出そうとしている。
何も変わっていない。
場所が変わっただけで、俺たちの中身はあの腐った都市のままだ。
俺は、床を見つめたまま、歯を食いしばった。
口の中に、鉄の味が広がった。
悔しいのか、情けないのか、それとも安堵しているのか。
自分でも分からない感情が、泥水のように溢れ出していた。
その時、サトウが無言で歩き出した。
出口の方へ。
その手には、船外活動用のヘルメットが握られていた。
第四章:氷の融解
食堂の扉が閉まる音が、銃声のように響いた。
サトウが出て行った後、誰も動けずにいた。
ただ、空調の音だけが不気味に鳴り響いている。
「……行っちゃった」
誰かが呟いた。
その声には、明らかに安堵の色が混じっていた。
助かった。自分は行かなくて済んだ。
そんな卑しい本音が、空気の中に充満している。
それが俺の鼻をついた。
そして何より、俺自身の中にも同じ安堵があることに、吐き気がした。
(これでいいのか?)
頭の中で声がする。
サトウは、制御室で出力調整をしなければならないと言っていた。
なのに、彼が現場に向かったということは、制御室は無人になるということだ。
一人で両方はできない。
彼がバルブを閉めても、タイミングよく出力を調整する人間がいなければ、ジェネレーターは暴走するかもしれない。
そうしたら、アオイは?
俺は椅子を蹴って立ち上がった。
「タカギさん?」
ケンジが顔を上げる。
俺は彼を見なかった。
見たら、また言い訳をしてしまいそうだったからだ。
「俺も行く」
誰に対してでもなく、自分に言い聞かせるように呟いた。
足が震えている。
心臓が口から飛び出しそうだ。
でも、ここで座っていたら、俺は一生、あの「卑怯者」という烙印を自分で自分に押し続けることになる。
なにより、サトウ一人に死に損ないの役を押し付けて、アオイが助かったとして、俺は胸を張って妹に会えるのか?
「待ってください!」
背後で誰かが止める声がしたが、俺は振り返らなかった。
廊下を走る。
息が切れる。
胃液が喉までせり上がってくる。
エアロックの前で、サトウが宇宙服を着ているところだった。
分厚いグローブをはめるのに手間取っている。
俺の足音に気づき、彼は振り返った。
その顔には、驚きよりも、もっと複雑な感情が浮かんでいた。
「……何しに来た」
「手伝う」
俺は息を切らせながら言った。
壁にかかっている予備の宇宙服を手に取る。
ずしりと重い。
カビ臭いような、古いゴムの匂いがする。
「制御室は無人だろ。あんたが現場に行くなら、誰かが中からサポートしなきゃならない。でも、あんた一人じゃ作業が間に合わないかもしれない」
俺は震える手でファスナーを引き上げた。
「だから、俺が現場に行く。あんたは中で指示を出せ」
サトウは鼻で笑った。
「素人が。バルブの位置も知らないくせに」
「なら、あんたが現場に行け。俺も一緒に行く。二人なら早いだろ」
俺の言葉に、サトウは一瞬黙り込んだ。
そして、短く息を吐いた。
「馬鹿が。……被曝するぞ」
「アオイが死ぬよりマシだ」
サトウはそれ以上何も言わず、俺にヘルメットを放り投げた。
俺たちは無言で宇宙服を装着した。
気密チェックの電子音が、狭い部屋に冷たく響く。
プシュー。
エアロックの内扉が閉まり、空気が抜かれていく。
音が遠くなる。
自分の呼吸音だけが、ヘルメットの中で反響する。
シュコー、シュコー。
まるで、自分が機械になったみたいだ。
「外に出るぞ。マグネットブーツを作動させろ」
通信機越しに聞こえるサトウの声には、ノイズが混じっていた。
外扉が開く。
そこには、無限の闇が広がっていた。
一歩踏み出す。
重力がない。
足裏のマグネットだけが、俺をこの世界に繋ぎ止めている。
視界の端に、青い地球が見えた。
美しい。
でも、今の俺には、それが巨大な目玉のように見えて怖かった。
「D-4エリアへ移動する。ケーブルにフックをかけろ。飛ばされたら終わりだぞ」
俺たちは、ステーションの外壁を這うように移動した。
手すりは冷たく、グローブ越しでもその冷気が伝わってくるような気がした。
自分の体が、宇宙という絶対零度の闇に放り出された小さな異物のように感じる。
現場に着くと、そこは悲惨な状況だった。
太いパイプが破裂し、白い蒸気のような冷却ガスが噴き出している。
ガイガーカウンターの数値が跳ね上がった。
警告音がけたたましく鳴る。
「あのバルブだ」
サトウが指差す先に、歪んだ金属のハンドルがあった。
俺たちはそこへ取り付いた。
二人でハンドルを掴み、力を込める。
動かない。
錆びついているのか、熱で変形しているのか。
「くそッ……!」
俺は歯を食いしばった。
ここで回らなければ、すべてが終わる。
死にたくない。
でも、ここで諦めるわけにはいかない。
「合わせろ! せーの!」
サトウの掛け声に合わせて、全身の力を込める。
宇宙服の中は汗だくだ。
息が苦しい。
視界がチカチカする。
ギギギ……。
鈍い音がして、ハンドルがわずかに動いた。
「回った! いけるぞ!」
俺たちは必死に回し続けた。
永遠にも思える時間が過ぎ、ようやくガスが止まった。
俺は、ハッチに背中を預けて座り込んだ。
(座るといっても、無重力だが)
荒い呼吸が整わない。
「……助かった」
サトウの声が聞こえた。
彼は俺の隣で、地球を見つめていた。
「お前が来なけりゃ、俺一人じゃ回せなかったかもしれない」
「……あんたなら、一人でもなんとかしたんじゃないか?」
俺が皮肉交じりに言うと、サトウはふっと笑った気配がした。
「買いかぶりすぎだ。俺はスーパーマンじゃない」
沈黙が流れる。
ノイズの音だけが聞こえる。
俺たちは、死の淵から生還した。
だが、体には見えない傷――放射線――が刻まれたかもしれない。
「……なんで、あんなに冷たいんだ」
俺は、ずっと聞きたかったことを口にした。
「トマトを燃やせと言った時も、今日も。あんたは正論だけど、人の心がないみたいだ。なんでそこまで割り切れる?」
サトウはしばらく答えない。
ただ、遠くの星を見つめていた。
「……昔な」
やがて、ぽつりと語り始めた。
その声は、いつもの威圧的なものではなく、ひどく疲れた男の声だった。
「地球で、トンネル崩落事故があった。俺は現場監督だった。瓦礫の下に、作業員が3人取り残された。酸素が残り少ない状況で、俺は迷った。全員助けようと、瓦礫を慎重に撤去する指示を出した」
俺は黙って聞いていた。
「だが、それが間違いだった。時間がかかりすぎて、二次崩落が起きた。結果、作業員3人だけじゃなく、救助に入った俺の部下2人も巻き込まれて死んだ。5人だ。俺の『優しさ』という名の優柔不断が、5人を殺したんだ」
サトウの声が、微かに震えていた。
「あの時、俺が非情になって、重機で強引に道を切り開いていれば……少なくとも、救助隊の命は守れた。あるいは、最初に見つけた1人だけを優先して助けていれば、その1人は助かったかもしれない」
彼は、ヘルメット越しに自分の手を見つめた。
「俺は学んだんだ。極限状態で『全員助ける』なんていうのは、ただの甘えだ。誰かを選び、誰かを捨てなきゃならない時が必ず来る。その泥を被るのが、責任者の仕事だ」
俺は、言葉を失った。
この男は、冷たいんじゃない。
心が凍りつくほどの後悔を背負って、それでも誰かを生かすために、必死で立っていたんだ。
俺たちが「非情だ」と罵っていたその背中で、彼は過去の亡霊と戦い続けていた。
「……鬼の仮面、か」
俺が呟くと、サトウは自嘲気味に笑った。
「ああ。嫌われ役くらいがちょうどいい。誰も俺に期待しなければ、俺が誰かを見捨てた時に、誰も傷つかないからな」
「俺は傷つくよ」
俺は言った。
「あんたが一人で泥を被って死んだら、俺は一生後悔した。……あんたの言ってることは正しい。でも、伝え方が下手すぎる」
「余計なお世話だ」
サトウが言い返す。
その声には、少しだけ温かみが戻っていた。
「戻るぞ。タカギ。バイパス作業は中の連中にやらせろ」
俺たちは立ち上がった。
マグネットブーツが鉄板を叩く音が、心臓の鼓動と重なる。
エアロックに戻る途中、俺はサトウの背中を見ながら思った。
この人は、孤独だ。
でも、もう一人にはさせない。
彼の「正しさ」を、俺が「優しさ」で翻訳して、みんなに伝える。
それが、俺のやるべきことかもしれない。
エアロックに入り、ヘルメットを脱ぐ。
汗と、カビと、オイルの匂いがする空気が流れ込んでくる。
だが、その匂いが、今はなぜか愛おしく感じられた。
俺たちは、生きて帰ってきたんだ。
「サトウさん」
俺は、彼に向かって手を差し出した。
「ありがとう。助けてくれて」
サトウは、汚れたグローブのまま、俺の手を力強く握り返した。
その手は、温かかった。
第五章:最後の審判
生還の喜びは、長くは続かなかった。
俺たちがエアロックから這い出し、仲間たちに迎えられたその瞬間、マザーAIのアナウンスがステーション全体に響き渡ったからだ。
それは、勝利のファンファーレなどではなかった。
死刑判決の読み上げだった。
『緊急修理完了。メインジェネレーターの再起動を確認。現在、出力は安定しています』
わっと歓声が上がる。
ケンジが駆け寄ってきて、俺の肩を抱いた。
泣いていた。
「よかった……! タカギさん、サトウさん、無事で……!」
俺はヘルメットを脱ぎ捨て、大きく息を吸った。
ゴム臭い空気が、肺の奥まで染み渡る。
終わった。
なんとか、守り切った。
だが、マザーの言葉はそこで終わらなかった。
『しかしながら、今回の事故および事後スキャンにより、ハビタット・ワンの構造疲労が予測値を大きく上回っていることが判明しました。特に外壁の強度は限界に近く、長期間の耐久性は保証できません』
歓声が波が引くように消えていく。
全員が、天井のスピーカーを見上げた。
『つきましては、アガルタへ向かう恒星間宇宙船「アーク」の出発を、予定より大幅に早めます。一週間後に出航します』
一週間。
早すぎる。
まだ準備なんてほとんど終わっていない。
だが、ここに留まっていればステーションごと崩壊するというなら、行くしかない。
ざわめきが広がる中、マザーは最も残酷な事実を告げた。
『また、アークの生命維持システムのキャパシティを再計算した結果、搭乗可能人数を下方修正します。安全に航行できる定員は、45名です』
45名。
俺は、頭の中で素早く計算した。
ここの生存者は50人。
つまり。
「……5人、乗れないってことか?」
誰かが震える声で言った。
その言葉が、重たい石のように俺たちの真ん中に落ちた。
『はい。5名の要員は、このハビタット・ワンに残留し、地球との通信中継および、後続船のための施設維持管理を行わなければなりません』
残留。
それは、崩壊しかけたこの棺桶に残り、死を待つということと同義だ。
後続船なんて、いつ来るか分からない。
食料も尽きる。
空気も漏れる。
これは、事実上の「切り捨て」だ。
「ふざけるな!」
男が叫んだ。
「俺たちは選ばれたんだぞ! 全員助かるはずだったじゃないか! なんで今更、貧乏くじを引かなきゃならないんだ!」
パニックが始まった。
さっきまでの「サトウさん、ありがとう」「タカギさん、すごい」という空気は一瞬で消し飛び、再びあの醜い責任の押し付け合いが始まった。
「老人が残るべきだ! 未来がないんだから!」
「ふざけんな! 若造こそ、体力があるんだからここで耐えろ!」
「私は子供がいるのよ! 絶対に乗るわ!」
怒号。
悲鳴。
掴み合い。
俺は、ただ呆然とその光景を見ていた。
これが、人間だ。
死の恐怖を前にすれば、感謝も尊敬も、一瞬で消え失せる。
サトウが命がけでバルブを閉めたことなど、もう誰も覚えていないかのようだ。
「やめろ……」
俺は呟いた。
だが、誰の耳にも届かない。
「やめろって言ってるんだ!」
俺は叫んだ。
喉が裂けるほどの大声だった。
食堂が一瞬、静まり返る。
全員の視線が俺に集まる。
さっきまで宇宙服を着て、死線をくぐってきた俺に。
「……お前ら、まだ分からないのか」
俺は、震える足で一歩前に出た。
「ここで争って、誰かを蹴落として……それでアガルタに行って、何になるんだ? また同じことの繰り返しだぞ。俺たちは、地球のあの腐ったシステムが嫌で、ここに来たんじゃないのかよ!」
俺の言葉に、何人かが視線を逸らした。
「5人が残らなきゃいけない。それは事実だ。でも、それを『見捨てる』とか『犠牲』とか言うのはやめよう」
俺は深呼吸をした。
サトウが言っていた「責任」の意味が、今なら分かる気がした。
「ここに残る5人は、負け犬じゃない。後から来る誰かのために、この場所を守る『灯台守』だ。誰よりも重要な任務なんだ」
きれいごとだ。
分かっている。
死ぬかもしれない任務を、言葉で飾り立てているだけだ。
でも、そうでもしなければ、俺たちは獣に堕ちてしまう。
「だから……」
俺は拳を握りしめた。
爪が食い込んで痛い。
アオイの顔が浮かぶ。
ポッドの中で眠る、愛しい妹。
彼女をアガルタに連れて行くのが、俺のすべてだった。
でも。
ここで俺が逃げたら、俺は一生、アオイに胸を張れない。
サトウに、「お前も結局、口だけだったな」と笑われる。
それだけは、嫌だ。
「俺が残る」
静寂の中に、俺の声が響いた。
「タカギさん!?」
ケンジが目を見開く。
俺は彼に笑いかけた。
ひきつっていたかもしれないけど、精一杯の笑顔で。
「俺にはアオイしかいない。アオイはポッドに入ったままアークに乗せられる。向こうに着いたら、誰かが起こしてくれればいい。……ケンジ、お前に頼めるか?」
「そんな……嫌ですよ! タカギさんも一緒に行きましょうよ!」
ケンジが泣き叫ぶ。
だが、俺の決意は固まっていた。
不思議と、怖くはなかった。
むしろ、胸のつかえが取れたような、清々しい気分だった。
俺は、あの森で何もできなかった自分を、ここでようやく超えられる気がした。
「俺も残る」
「私も」
俺に続いて、数人が手を挙げた。
サトウと共に、第1部の最後で「選ばれた」ベテランたちだ。
彼らは穏やかな顔をしていた。
本当の覚悟を持った人間の顔だ。
「待て」
低い声が、その場の空気を制した。
サトウだ。
彼は壁に寄りかかり、腕を組んで俺を見ていた。
その目は、宇宙空間で見た時と同じように、どこまでも深く、静かだった。
「タカギ。お前は勘違いしている」
「……何がだ」
「お前は残れない。お前は行くんだ」
サトウは、俺の方へと歩み寄ってきた。
威圧感に、思わず後ずさりそうになる。
「なんでだよ! 俺だって覚悟は決めた! あんたの言う『責任』ってやつを、俺も取りたいんだ!」
「それが勘違いだと言ってるんだ」
サトウは、俺の目の前で立ち止まった。
そして、俺の胸を指で小突いた。
「お前の役目は、ここじゃない。向こうだ。アガルタだ」
「は?」
「見ただろう。この連中の体たらくを」
サトウは顎で周囲をしゃくった。
誰もが、バツが悪そうに俯いている。
「ちょっとしたトラブルでパニックになり、責任を押し付け合い、殺し合い寸前になる。こんな奴らを、誰がまとめるんだ? ただの正論や効率だけじゃ、人は動かない。それは俺が一番よく知っている」
サトウは、少し自嘲気味に笑った。
「必要なのは、お前みたいなやつだ。泥臭くて、迷って、あがいて、それでも『みんなで生きよう』と言い続けられる馬鹿だ。お前が潤滑油にならなきゃ、アークの中でこいつらは自滅する」
「でも……!」
「行け」
サトウの声に、力がこもった。
それは命令であり、懇願のようにも聞こえた。
「汚れ仕事や、孤独な管理業務は、俺のような嫌われ者が引き受ける。それが適材適所だ」
彼は、俺の肩に手を置いた。
宇宙服越しではない、生の手の感触。
ゴツゴツして、大きくて、温かい手。
「アオイちゃんを、守ってやれ。それがお前の、一番の責任だろ」
その言葉に、俺の目から涙が溢れた。
止まらなかった。
この人は、どこまで強いんだ。
どこまで、一人で背負い込むつもりなんだ。
「……あんたはずるいよ」
俺は泣きながら言った。
「最後にかっこいいとこ全部持って行って……そんなの、ずるいじゃないか」
「フン、人聞きの悪いことを言うな」
サトウはニヤリと笑った。
「俺はここを、もっとマシな場所に作り変えるさ。お前らがアガルタで失敗して、泣きついて戻ってきた時に『ほら見ろ』と笑ってやるためにな」
それは嘘だ。
戻ってこられる保証なんてない。
それでも、彼はそう言って俺を送り出そうとしている。
俺は、涙を拭った。
もう、迷わない。
サトウが託してくれた「未来」を、俺が背負う。
「……分かった。行くよ」
俺はサトウの手を握り返した。
「でも、絶対に死ぬなよ。俺たちがアガルタを開拓したら、一番に迎えに来るからな」
「ああ。期待せずに待ってる」
こうして、残る5人が決まった。
サトウと、志願した4人のベテランたち。
彼らは、これからこの寂れたステーションで、孤独な戦いを続けることになる。
俺たちを生かすために。
俺は、アオイのポッドがある医療区画へと走った。
アークへの移乗準備が始まる。
もう、振り返らない。
俺の戦場は、ここではない。
もっと先にある。
第六章:星を渡る誓い
出発の時は、淡々と訪れた。
アークとハビタット・ワンを繋ぐ連絡通路。
その重い気密扉の前で、俺たちは最後の別れを告げた。
「タカギさん……」
ケンジが泣き崩れそうになるのを、俺は支えた。
彼は、サトウたちの前で深く頭を下げた。
「ありがとうございました。僕……僕、アガルタに行ったら、絶対にもっと勉強して、役に立つ人間になりますから」
「ああ、そうしてくれ。こっちでトマトを全滅させられたら困るからな」
サトウは軽口で返したが、その目は優しかった。
彼は、残る4人の仲間たちと共に、腕を組んで立っていた。
彼らの顔には、悲壮感はない。
あるのは、覚悟を決めた「プロフェッショナル」たちの、静かな誇りだけだ。
「そろそろ時間だ」
サトウが腕時計を見た。
「行け。ハッチが閉まるぞ」
俺は頷いた。
言葉はもう、いらなかった。
俺は背を向け、連絡通路を歩き出した。
一歩踏み出すたびに、背中の彼らが遠くなる。
靴音が、鉄の床に虚しく響く。
プシュー。
背後で、気密扉が閉まる音がした。
重く、鈍い、決定的な音。
これで、世界は二つに分たれた。
行く者と、残る者。
アークの船内は、ハビタット・ワンよりもずっと近代的で、清潔だった。
だが、その快適さが、今は少しだけ罪悪感として胸に刺さる。
俺は医療ポッドが並ぶ区画へ向かった。
そこには、すでに移送されたアオイがいた。
新しいポッドの中で、彼女は変わらず眠り続けている。
「……アオイ」
俺はポッドに手を触れた。
お前を助けるために、俺は多くのものを犠牲にしたかもしれない。
サトウさんを、あの場所に置いてきた。
でも、後悔はしない。
俺がここで立ち止まったら、サトウさんの覚悟まで無駄になるからだ。
「出発5分前。全乗員はシートベルトを着用してください」
マザーの声が流れる。
俺は、ポッドの横にある観察窓へと向かった。
分厚いガラスの向こうには、漆黒の宇宙が広がっている。
そして、その中にぽつんと浮かぶ、小さな構造物。
ハビタット・ワンだ。
古びて、継ぎ接ぎだらけで、今にも壊れそうな鉄の塊。
あの中に、サトウたちがいる。
今頃、彼らは制御室で俺たちを見送っているのだろうか。
それとも、もう次の仕事に取り掛かっているのだろうか。
『メインエンジン、点火』
船体が微かに震え始めた。
重低音が響き、体がシートに押し付けられる。
ハビタット・ワンが、ゆっくりと遠ざかっていく。
青い地球を背景に、その姿はあまりにも小さく、頼りなかった。
だが、その時。
ハビタット・ワンの外壁にある信号灯が、チカチカと点滅した。
不規則な明滅。
モールス信号だ。
―― G・O・O・D・L・U・C・K ――
「……馬鹿野郎」
俺は涙で滲む目で、その光を見つめた。
最後まで、かっこつけやがって。
船は加速する。
ハビタット・ワンは星屑の一つになり、やがて闇に溶けて見えなくなった。
地球も、青いビー玉のような大きさになっていく。
俺は、前を向いた。
視線の先には、無限の星の海が広がっている。
そのどこかに、アガルタがある。
楽園かどうかは分からない。
荒野かもしれないし、怪物が出るかもしれない。
でも、俺たちは行く。
ただの仲良しグループとしてではなく、痛みを知り、泥を被る覚悟を持った「人間」として。
綺麗事だけじゃ生きていけないことも、非情になりきれない弱さも、全部抱えて。
清濁併せ呑んで、新しい社会を作るんだ。
ふと、アオイのポッドに目を落とす。
ステータスランプが、静かに緑色に点灯していた。
それは、希望の色だ。
「行こう、アオイ」
俺は呟いた。
新しい世界が、俺たちを待っている。
『ワープドライブ、起動』
視界が白く染まる。
星々が線になり、光のトンネルが口を開ける。
俺たちの箱舟は、過去を振り切り、未来へと跳躍した。
(完)
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