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ぼったくり水(一杯千円)を飲んだら、ブラック企業の社長がハワイへ旅立ちました

猛暑の東京。ブラック企業で限界を迎えたウェブデザイナーの凪が逃げ込んだのは、路地裏の奇妙なカフェ『水仙』。クーラーとは違う圧倒的な冷気に包まれたその店は、メニューが「水(一杯千円)」しかないぼったくり店だった。しかし、店主の青年・涼が注いだその水を飲んだ瞬間、凪の体内に溜まっていた熱とストレスがスッと消滅して……!? 実はこの無表情な店主、人々の「過剰な熱(怒りや悪意)」を秘密裏に浄化する凄腕の元・仙人だった。世界を救う気はゼロ、ただ自分の静かなティータイムを守るためだけに、東京を襲う巨大な熱の化身に絶対零度で立ち向かう。 最高に涼しくてシュールな、新感覚チルアウト・ファンタジー!


第1話:千円の水と、路地裏の仙人

八月の太陽は、もはや殺意を持っていた。

ジリジリと肌を焼く直射日光と、足元のアスファルトから立ち昇る陽炎。景色は歪み、呼吸をするだけで肺に熱風が入り込んでくる。

「……あつい。死ぬ……」

夏目凪(なつめ なぎ)は、額に張り付いた前髪を鬱陶しげに払いながら、うわ言のように呟いた。

ウェブデザイナーという本来なら屋内で完結するはずの仕事なのに、今日はクライアントへの謝罪と仕様変更の直談判で、都内を三時間も歩き回らされていた。

手にしたハンディファンは生ぬるい風を掻き回すだけで、もはや何の意味も成していない。

『ブブッ、ブブブッ!』

追い打ちをかけるように、バッグの中のスマートフォンが震えた。画面を見なくてもわかる。豪徳寺社長からのメッセージだ。

『修正まだか! 気合で終わらせろ!』

『クライアントが怒ってるぞ! 走れ!』

『24時間戦う意識が足りない!』

連続で届くメッセージの通知音が、凪の神経を逆撫でする。

怒りとストレス、そして物理的な猛暑。体内にドロドロとした黒い熱が溜まり、限界を超えた体温が脳を茹で上げようとしていた。視界の端がチカチカと点滅し始める。本格的な熱中症の一歩手前だった。

「どこか、涼しいところ……」

フラフラと大通りから裏路地へ逃げ込んだ凪の目に、ふと、奇妙な建物が映った。

古民家を改装したような、ひっそりとした佇まいのカフェ。看板には『水仙』とだけ書かれている。

奇妙なのは、その店の周囲だけ、陽炎が立っていないことだった。打ち水でもしたかのように、そこだけ切り取られたように空気が澄んでいる。

藁にもすがる思いで、凪は重い木製の扉を押し開けた。

「……っ」

カラン、と控えめなベルの音が鳴るのと同時に、凪は全身を包み込む「空気の変化」に息を呑んだ。

エアコンの人工的な冷風ではない。深い森の奥、あるいは清流の滝壺のすぐそばに立ったかのような、澄み切った、それでいて圧倒的な『冷気』。

一瞬で汗が引き、凪はふらつく足取りでカウンター席に倒れ込んだ。

「いらっしゃいませ」の言葉はなかった。

カウンターの奥には、白シャツに黒のスラックスという、バーテンダーのような出で立ちの青年が立っていた。

彫刻のように整った顔立ちだが、一切の感情が読み取れない無表情。青年――涼(リョウ)は、凪を一瞥しただけで、再び手元のグラスを磨く作業に戻った。

「……アイスコーヒー。一番冷たいやつ、お願いします」

カウンターに突っ伏したまま、凪はひねり出すように注文した。

しかし涼は動かない。代わりに、無言でスッと一枚のメニュー表を凪の前に差し出した。

和紙のような質感の紙には、たった一行、毛筆でこう書かれていた。

『水 一、〇〇〇円』

「は……?」

凪の動きが止まった。水が千円。都内の一等地とはいえ、明らかなぼったくりだ。普段の凪なら「ふざけないでよ」と文句の一つも言って店を出ていただろう。

だが、今の凪には立ち上がる気力すらなかった。それに、この店の異常なまでの涼しさと居心地の良さを手放したくなかった。

「……わかった。もう、冷たければ何でもいい……」

凪は財布から千円札を引っ張り出し、カウンターに叩きつけた。

涼は千円札を一瞥すると、静かにグラスを取り出した。

カラン。

氷の塊をピックで削り出し、グラスに落とす。その一切の無駄がない、流れるような所作に、凪は思わず目を奪われた。

ガラスの表面に、あっという間に真っ白な結露が浮かび上がる。ピッチャーから注がれる無色透明な液体は、ただの水のはずなのに、なぜかきらきらと淡い光を帯びているように見えた。

「どうぞ」

コースターの上に、静かにグラスが置かれる。

凪は震える手でグラスを掴み、一気に喉に流し込んだ。

――瞬間。

凪の全身を貫いたのは、味覚ではなく『衝撃』だった。

冷たい。ただそれだけなのに、喉を通り、胃に落ちていくその水は、凪の体内にこびりついていたドロドロの「熱」を、文字通り溶かして洗い流していくようだった。

社長からの理不尽なLINEに対する怒り。納期への焦燥感。全身の倦怠感。

それらすべての穢れが、細胞の隅々からスッ……と音を立てて消滅していく。

「……あ」

グラスを置いた凪の口から、無意識に感嘆の息が漏れた。

憑き物が落ちたとは、まさにこのことだろう。さっきまで茹で上がりそうだった脳内が、嘘のようにクリアになっている。視界が開け、心の底から深い安らぎが満ちてきた。

「……美味しい」

凪は椅子の背もたれに深く沈み込み、心底リラックスした表情で天井を仰いだ。

「どうも」

涼は相変わらず無表情のまま、短く応え、カウンターの隅で自分の読書に戻ってしまった。その放置される距離感すら、今の凪には心地よかった。

十分後。

すっかり体力を回復し、精神的なデトックスまで終えた凪は、軽やかな足取りで店を出た。

「千円の価値、全然あったな。よし、会社戻ったら辞表の書き方でも調べよっと」

ポジティブな思考を取り戻し、駅へ向かおうとしたその時。

「あ、日傘忘れた」

凪は慌てて踵を返し、『水仙』の裏手に回った。裏口から声をかけようとした凪の足が、ピタリと止まる。

店の裏路地。

そこでは、店主の涼が、開けっ放しにされた下水道のマンホールの前に立っていた。

凪のいる位置からは、マンホールの中身が見えた。そこには、ただの下水ではない、まるでマグマのようにドス黒く煮え滾り、異臭と熱気を放つ『ヘドロのようなもの』が渦巻いていた。

見ているだけで胸がムカムカするようなその黒い渦に向かって、涼が静かに右手を伸ばす。

彼の人差し指の先から、一滴の『透明な水滴』がこぼれ落ちた。

ポチャン。

水滴がヘドロに触れた瞬間――。

波紋が広がるように、黒く煮え滾っていたヘドロが、一瞬にして清らかな透明の流水へと変貌し、サアッと涼やかな冷気を放って奥へと流れていった。

「…………え?」

凪は、物陰から顔だけを出したまま硬直した。

マンホールの蓋を静かに閉める涼の横顔を見つめながら、凪の口から間の抜けた声が漏れる。

「……手品?」

それが、ブラック企業勤務の限界デザイナーと、路地裏でひっそり世界を浄化する元・仙人との、奇妙な出会いだった。

第2話:居座る客と、ハワイへ飛ぶ社長

「ちょっと店長さん! さっきのあれ、何だったんですか!?」

店に戻るなり、凪はカウンター越しに涼へ詰め寄った。

マンホールの中で煮え滾っていた黒いヘドロが、一滴の水で清流に変わったのだ。誰がどう見ても異常な光景だった。

しかし、涼は一切動じることなく、静かにグラスを磨き続けていた。

「……環境に優しい、特殊な洗剤です」

「洗剤であんな魔法みたいに水が凍るわけないでしょ!」

食い下がる凪だったが、涼はそれ以上何も語ろうとしなかった。

普通のファンタジーの住人であれば「あなたが何者か突き止めるまで帰りません!」となるかもしれない。だが、凪は常に締め切りとストレスに追われる現代のブラック企業社員だ。魔法だろうが異能力だろうが、実はどうでもよかった。

「まあいいです。それより店長さん。このお店、すっごく涼しいし居心地良いし、Wi-Fiも飛んでますよね」

凪はノートパソコンをポンとカウンターに置き、図太く交渉を始めた。

「毎日その千円のお水、必ず買いますから。私、この店の隅っこでテレワークさせてもらえませんか?」

涼はわずかに面倒くさそうに眉を動かしたが、ため息を一つついてから答えた。

「……静かにするなら」

かくして、裏路地のカフェ『水仙』に、常連客兼・居候のような存在が誕生した。

数日後の昼下がり。凪が店の隅で快適にパソコンのキーボードを叩いていると、カラン! と乱暴な音を立てて店の扉が開かれた。

「夏目ェ! こんな所でサボりやがって!」

現れたのは、豪徳寺社長だった。

顔を真っ赤にして汗を滝のように流し、全身から凄まじい怒気――強烈な「熱気」を撒き散らしている。「気合」「根性」「24時間働け」が口癖の、現代のストレス社会を擬人化したような男だ。

「クライアントへの連絡はどうなった! お前が休んでる間も会社は動いてるんだぞ!」

怒鳴り声が静寂な店内に響き渡る。

『水仙』の澄み切った冷気が、社長が発する不快な熱気によってみるみる汚染され、エアコンの効きが悪くなったような息苦しさが充満し始めた。

カウンターの奥で、涼が静かに眉をひそめる。

騒音と熱。それは、彼が最も嫌悪するものだった。

社長の怒声が続く中、涼は反論も説教も一切せず、コトン……とカウンターに「千円の水」を差し出した。

「なんだこの水は! 客を舐めてんのか!」

涼を睨みつけながらも、猛暑の中を歩き回り、怒りで喉がカラカラだった豪徳寺は、たまらずそのグラスを掴み、一気に水をあおった。

――瞬間、ピタッと豪徳寺の動きが止まった。

滝のように流れていた汗がスッと引き、真っ赤に充血していた顔から、文字通り「憑き物が落ちた」ように険が取れていく。

数秒の沈黙。店内に再び静寂が戻った。

豪徳寺は、まるで悟りを開いた僧侶のように穏やかな仏の顔つきになり、自分の手のひらを不思議そうに見つめた。

「……俺は、なぜあんなに焦っていたんだ……?」

「しゃ、社長……?」

怯える凪に対し、豪徳寺はふっと優しく微笑みかけた。

「売上……納期……いや、人生にはもっと大切なものがあるんじゃないか……?」

「えっ?」

「夏目くん。君も有給を取りなさい。休むのも仕事だ」

信じられない言葉を紡ぐ社長は、スーツのネクタイを緩め、憑き物が落ちたように穏やかな声で呟いた。

「……俺は、ハワイに行こう。アロハ」

そして、豪徳寺社長はニコニコと笑いながら、静かに店を出ていった。

嵐が去り、再び澄み切った冷気が戻った店内。

凪はポカンと口を開けたまま、社長が飲み干した空のグラスを見つめていた。

「あの社長を休ませるなんて……やっぱり店長さんの水、ヤバすぎますね……」

呆れる凪の言葉を遮るように、テーブルに置いていた凪のスマホが『ブブブッ!』とけたたましい警告音を鳴らした。

画面に表示されたのは、ニュース速報アプリの赤い文字だった。

『【速報】都内の複数エリアで異常気象。水道の蛇口から突如「黒く濁った熱湯」が吹き出す事態が多発。けが人多数――』

ニュースの音声を聞いた涼の、グラスを磨く手がピタリと止まる。

「……厄介なことになりましたね」

その声には、普段の無関心さとは違う、微かな嫌悪感が混じっていた。

第3話:黒い熱湯と、割れた氷グラス

外の世界は、文字通りの地獄と化していた。

スマホのタイムラインは、パニックと怒りの声で溢れかえっていた。

『エアコンから熱風が出てくる!』『マンホールからドブの臭いのする蒸気が!』『水道から熱湯が出た、火傷した!』

都内全域で局地的な「異常加熱」が起きており、人々の恐怖やストレスが、さらに街の温度を押し上げているようだった。

しかし、裏路地のカフェ『水仙』の中だけは、相変わらず別世界のように静かで涼しい冷気に包まれていた。

「店長さん……これ、もしかして……」

スマホの画面から顔を上げた凪は、恐る恐る涼に尋ねた。

「店長さんがいつも裏のマンホールで浄化してるアレ……ヘドロが原因ですよね?」

涼は手元の古書から目を離さず、淡々と事実だけを口にした。

「人間の過剰な熱――怒り、悪意、ストレスといったものは、地下水脈に見えない澱みとして溜まります。普段は私が間引きしていましたが、この連日の異常な猛暑と、人々のパニックが重なり、地下のキャパシティを超えて逆流したのでしょう」

「そんな冷静に解説してる場合じゃないですよ! 早くなんとかしないと、東京が茹で上がっちゃいます!」

焦る凪に対し、涼はページをめくりながら冷たく言い放った。

「……水道局の仕事です。私には関係ありません」

世界を救う正義感など、彼には微塵もなかった。彼が求めているのは、自分の平穏な時間だけなのだ。

「それに、ここから出なければ安全です」

涼がそう締めくくろうとした、まさにその時だった。

ゴポゴポゴポ……!

カウンターの奥、水道の配管のあたりから、不気味な異音が響いた。

次の瞬間。

店の蛇口から、水ではなく「泥のように黒く、異臭を放つ高熱の蒸気」が勢いよく吹き出した。

『水仙』の澄み切った空気が、一瞬にして汚染されていく。

そして、吹き出した高熱の蒸気は、カウンターに置かれていた「ある物」を直撃した。

それは、涼が何百年も愛用していた、透き通るように美しい特製の『氷グラス』だった。

ピキッ……!

急激な温度変化と熱気による穢れに耐えきれず、美しいグラスに致命的なヒビが入り、パリンという悲鳴のような音を立てて真っ二つに割れてしまった。

沈黙。

店内の空気が、先ほどまでの「心地よい涼しさ」から、肌に突き刺さるような『痛みを伴う絶対零度の凍気』へと急変した。

「ヒィッ……! さ、さむ……!」

凪が歯の根を合わて震え上がる中、涼は割れたグラスの破片を静かに拾い上げた。

これまで一切の感情を見せなかった涼の瞳に、明確な殺意にも似た「冷たい怒り」が宿っていた。

「……水道局の管轄外のようですね」

地を這うような低い声で一言だけ呟くと、涼は店の裏口――地下水脈へと続く重い扉へと歩き出した。

第4話:地下水脈の地獄と、熱の化身

地下下水道への階段は、まさに地獄への降下だった。

吹き出す黒い蒸気はみるみる勢いを増し、表口からの脱出経路を完全に塞いでしまっていた。むせ返るような熱気が店内に充満していく中、凪がすがるべき安全地帯は、裏口へ向かう涼が放つ絶対零度の冷気のそばにしかなかったのだ。

「て、店長さん! 待ってくださいよぉ!」

ここに一人で残される方が確実に蒸し焼きにされると悟った凪は、スマホのライトを頼りに慌てて涼の後を追った。

地下へ降りていくにつれ、周囲の空気は「サウナ」から「オーブン」のように変貌していった。

息をするだけで喉が焼けそうになり、コンクリートの壁からはドロドロとした黒いヘドロが不気味に染み出している。

だが、前を歩く涼の周囲一メートルだけは、別世界だった。

薄氷が張るほどの冷気が彼を守り、通路に溜まったマグマのような熱湯も、吹き出す高熱の蒸気も、涼が通り過ぎるだけで「パキィッ」と音を立てて瞬時に凍結し、安全な道が切り拓かれていく。

「勝手についてきたなら、私の冷気圏内から出るな」

涼は振り返りもせず、ただ「自分のティータイムとグラスを奪った元凶」を物理的に排除するためだけに、凄まじい速度で歩を進めた。

やがて、二人は最深部である巨大な地下貯水空間に到達した。

「……嘘でしょ」

凪は絶望に声を震わせた。

そこには、東京中の人々の「怒り、悪意、ストレス」が凝縮された、文字通り煮えたぎる「熱の海」が広がっていた。

涼の侵入に呼応するように、熱の海が大きくうねり、中央へと集束していく。

周囲の水分を一瞬で蒸発させ、分厚いコンクリートの壁すら赤熱させながら、巨大な『炎とヘドロの化身』が実体化した。

明確な殺意を持って二人を見下ろす化身。

「こんなの……勝てるわけない、逃げましょう店長さん!」

熱風に吹き飛ばされそうになりながら、凪はパニックに陥って叫んだ。

しかし、涼は一歩も引かなかった。

化身が咆哮を上げ、圧倒的な熱量をもって二人を焼き尽くそうと襲いかかってくる。

涼はゆっくりと右手を上げ、人差し指を立てた。

その指先に、周囲の熱を一気に奪い取るほどのすさまじい冷気が収束し、たった一滴の『極限まで圧縮された透明な水滴』が形作られていく。

第5話:究極の一滴と、変わらない冷水

「……頭を冷やして差し上げましょう。永久に」

涼の冷たく透き通った声が、地下空間に反響した。

それと同時に、身の丈十メートルに達する巨大な熱の化身が、すべてを溶かし尽くす灼熱の腕を振り下ろしてきた。致死量の熱波が、竜巻のように涼と凪を飲み込もうと迫る。

「きゃあああっ!」

凪は思わず目を固く閉じ、しゃがみ込んだ。

しかし、いつまで経っても、肌を焼くような痛みはやってこなかった。

代わりに訪れたのは、耳が痛くなるほどの『圧倒的な静寂』だった。

「……え?」

恐る恐る目を開けた凪は、目の前で起きている信じられない光景に息を呑んだ。

涼の指先からこぼれ落ちた「極限まで圧縮された一滴の冷水」が、振り下ろされた化身の腕にポトリと触れた。

瞬間。

爆発も、衝撃波も、破壊音もなかった。ただ、一滴の水が水面に落ちたような「波紋」が、空中に広がったのだ。

サアァァァァァァ…………。

波紋が熱の化身を通過した途端、ドス黒く煮え滾っていたヘドロと炎が、嘘のように一瞬にして『透明で清らかな水』へと変質した。

暴威を振るっていた巨大な質量は、そのまま美しい青白い氷の彫刻へと変わり――次の瞬間、パキィッ! という硬質な音とともに、粉雪のように細かく砕け散った。

地下空間を満たしていた殺人的な熱気も、異臭も、すべてが「スッ……」と消滅した。

後に残ったのは、まるで冬の深い森の奥にいるかのような、肺の奥まで澄み渡る心地よい冷気と、静寂だけだった。

「……うそ。一瞬で、全部……」

凪はへたり込んだまま、キラキラと舞い散る氷の粉を見上げていた。

世界(少なくとも東京)を滅ぼしかけた熱の化身は、涼が指先を一度動かしただけで、文字通り跡形もなく消え去ってしまったのだ。

「……こんなものでしょうか。少し出力が高すぎたかもしれませんが」

涼は自分の指先を見つめながら、ひどく事務的な口調で呟いた。

彼にとってこれは「死闘」ですらなく、ただの「少し頑固な汚れの清掃作業」でしかなかったらしい。

「さあ、帰りますよ」

涼はへたり込む凪に手を貸すこともなく、さっさと背を向けて階段へ向かい始めた。

「あ、ちょ、ちょっと待ってくださいよぉ! 店長さん、もっとこう、余韻とかないんですか!?」

凪は慌てて立ち上がり、膝の震えをごまかしながら、文句を言い続けて涼の後を追った。

***

地上では、奇跡が起きていた。

数時間前まで東京を覆っていた異常な猛暑は嘘のように引き、空には清々しい秋のような筋雲が流れていた。

吹き出していた黒い熱湯は清らかな冷水に戻り、パニックに陥っていた人々は、まるでお風呂上がりのようにスッキリとした顔で立ち尽くしていた。

「……俺、なんであんなにキレてたんだ?」「まあ、涼しくなったし、どうでもいいか」

街中に蔓延していた「過剰なストレスと怒り」という熱は完全に浄化され、人々は憑き物が落ちたように穏やかな日常へと戻っていった。

もちろん、それが路地裏の小さなカフェの店主の仕業だとは、誰も知る由はない。

***

それから数日後。

裏路地のカフェ『水仙』は、今日もひっそりと営業していた。

「……というわけで、例の水道管パニックの原因は『局地的な地殻変動による未曾有の自然現象』ってことで片付いたみたいですよ」

凪はノートパソコンから顔を上げ、カウンターの奥に向かって言った。

相変わらず彼女は、平日の日中から千円の水で居座りテレワークを続けている。社長がすっかり丸くなったおかげで、会社の空気も劇的にホワイト化したらしい。

『アロハ。今日は無理せず海でも見なさい』と、ハワイのビーチの写真付きでリモート指示が飛んでくるのには少し苦笑したが、おかげで仕事のペースは格段に上がっていた。

「結局、店長さんが東京を救ったことなんて、誰も知らないんですよね。私なら絶対にSNSでドヤ顔してバズらせますけど。感謝状の一枚くらいもらってもバチ当たらないんじゃないですか?」

「……興味ありませんね。水道局の不具合が直っただけです」

涼は無表情のまま、手元のグラスを磨きながら答えた。

彼にとっては、世界を救うことよりも重大な問題が目の前にあった。

「それよりも、これを見てください」

涼は不満げに、新しく買ったというガラス製のグラスを凪に見せた。

「氷を入れた時の響きが、前のグラスより〇・一秒遅い。結露の付き方も甘い。やはり量産品では、私の求める至高のティータイムには程遠いですね……」

「(……世界を救った男の悩みがちっさすぎる……!)」

凪は心の中で全力のツッコミを入れながらも、手元の「千円の水」を一口飲んだ。

冷たく透き通った水が、体の隅々まで染み渡る。やっぱり、ここの水が一番美味しいし、この静かな空間が一番落ち着く。

「ま、平和が一番ってことですね」

凪がリラックスして伸びをした、その時。

カウンターの奥で、涼が手元のタブレット端末のニュース画面をじっと見つめていた。

『――異常気象ニュースです。現在、北海道の大雪山系にて、真夏にも関わらず万年雪が広範囲にわたって突如として溶け出し、熱湯の湖と化す謎の現象が確認されています。専門家は局地的な熱源の可能性を――』

「…………」

涼は無言のまま、深く、深くため息をついた。

「……まったく。次は活火山の相手ですか。厄介ですね」

誰に言うともなく呟いた涼は、新しいグラスにピックで削り出した氷を落とす。

カラン……。

心地よい氷の音が、澄み切った冷気で満たされた店内に、涼やかに響き渡った。


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