SF小説 雨と階段 郵便内務から郵便外務へ配属
2035年5月19日、午後1時52分。東京の空は黒い雲に覆われ、冷たい雨が絶え間なく降り続ける。佐藤清、70歳。元郵便局内務社員、勤続40年。かつては局内のデスクで書類を整理し、仕分け機の音に囲まれていた。今は外務社員——配達員だ。年金は85歳まで遠く、定年は75歳に延びた。この国では、老いても働くしかない。
(読者への解説:日本の労働人口は高齢化し、70歳を超える者が働き続ける未来だ。年金は遅れ、定年は延長。技術は進んだが、誰もがその恩恵を受けられるわけではない。)
清の背中には、20キロのミネラルウォーターのケース。届け先は古いアパートの5階。エレベーターなし。雨で濡れたカッパが重く、靴は水をかぶってぐしょぐしょだ。「こんな日に配達なんて…内務なら濡れずに済んだ」と清は呟く。2年前、AIロボットが郵便局の内務を奪った。書類整理、データ入力、仕分け——清の得意分野は、AIの無慈悲な効率に取って代わられた。ロボットはミスせず、疲れず、雨も気にしない。清のような内務社員は「不要」とされ、雨の中の配達に追いやられた。
(読者への解説:AIロボットは事務作業を革命したが、人間を過酷な労働の最前線に押し出した。内務の安定を失った高齢者は、雨の日も配達に耐えるしかない。)
トラックからケースを引きずり、肩に担ぐ。プラスチックの角が肩に食い込む。雨がカッパの隙間から首筋を濡らし、冷たさが骨まで染みる。階段を見上げる。コンクリートは雨で滑り、苔がさらに危険を増す。錆びた手すりは水滴でぬるぬるだ。1段登るごとに膝が軋み、息が白く乱れる。2階でカッパから滴る水が足元に溜まり、靴がさらに重くなる。
「事務作業なら…こんな雨でも平気だった」と心で呻く。内務時代、清は書類の山を整理し、画面を睨んでデータを入力した。指はキーボードを叩き、雨など関係なかった。だが今、20キロの荷物が背骨を圧迫し、雨が視界をぼやかす。40年の経験は、AIの前では無意味だった。
3階。荷物の重さと濡れたカッパで動きが鈍る。ケースを下ろし、壁に寄りかかる。心臓が脈打ち、雨で冷えた手が震える。この家は「クレーマーリスト」に載っている。遅れれば怒鳴られ、濡れた荷物に難癖をつける客だ。AIロボットやドローンは「感情的対応ができない」とされ、清のような人間が雨の中駆り出される。
(読者への解説:技術は進んだが、クレーマーや不便な場所は人間の領域だ。AIに奪われた内務社員は、雨の配達と罵倒に耐えるしかない。)
4階。雨で滑る階段で足がもつれ、つまづく。ケースが滑り、床に叩きつけられる。幸い割れなかったが、水滴がケースに付着し、客の不満を予感させる。清の心は折れかける。「もう無理だ」と呟く。雨音に声はかき消される。だが、配達時間は迫る。遅れはクレーム、クレームは減給だ。
5階。最後の数段は這うように登った。ドアの前にたどり着き、ケースを下ろす。膝が笑い、腰が砕けそうになる。カッパから水が滴り、床に水たまりを作る。インターホンを押す手が震える。「お届け物です」と絞り出した声は雨に掠れる。
ドアが開き、50代の女性が顔を出す。「遅い! しかもケースが濡れてるじゃない!」とまくしたてる。清は頭を下げ、「申し訳ございません」と答える。女性はケースを乱暴に引き取り、「次はちゃんとやれ」とドアを閉める。感謝はない。
(読者への解説:清の努力は報われない。AIに仕事を奪われ、雨の中罵倒される彼は、社会の底辺で使い潰される。)
清は階段を見下ろす。降りるのも一苦労だ。雨は止まず、カッパは役に立たない。胸の奥で何かが潰れる。絶望だ。内務のデスクで働いた40年が、雨と階段で終わるのか。AIロボットが局内で稼働し、ドローンが空を飛ぶ街の裏で、清のような人間が消耗する。75歳まであと5年。年金は85歳。生きてそこまで辿り着けるのか。
(読者への解説:この物語は、AIが内務を奪い、高齢者を過酷な労働に追いやる未来の一断面だ。雨の中の清の苦悩は、技術の進歩が全てを救わない現実の象徴だ。)
次の配達が待っている。清は手すりにしがみつき、雨に濡れながらゆっくり降り始めた。止まることは許されない。
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