孤高のグルメ〜Dの味噌汁〜(古賀コン8 テーマ『孤高の天才未満』)
と、いうわけで私は西を目指していた。一人で新幹線に乗るなんて何年ぶりのことだろう。仕事や学校で忙しくしている家族に申し訳ない気持ちはあるが、私だって何も遊びで大阪まで行くんじゃない。これは売られた喧嘩だ、逃げるわけには行かない。同じ一人の女として、妻として。
事の発端は昨日、大型書店を徘徊していた時のことだった。リュ〇ジ、山〇ユリ、顎からキノコが生えた京大生……私は目についたレシピ本を片っ端から読み漁っていた。夫と息子たちに振る舞う食事のレパートリーを増やすためだ。毎日三食の料理こそ主婦に課せられし責務、栄養・味・量・手際どれ一つ欠けていても彼らは満足してはくれない……当然メニューのマンネリ化なんてもっての外だ。何かないか、ご家庭にあるものでまだ見たことのないような斬新な料理は……と私が目を皿にしていると、書棚の向こうで何やら黄色い声が響き渡った。
その歓声の中心で台風の目のように涼しい顔をしているのが“D”だった。おそらくサイン会だろう。Dはテレビ番組や講演など、あちこちで引っ張りだこの料理研究家だ。彼女は、同じ料理研究家であった母親譲りの上品な関西弁で繰り出される軽妙なトークと柔和な笑顔を武器に、あっという間に日本中にその名を轟かせるほどの有名人となり、料理本も何冊も出版している。でも私はDが嫌い。
──Everything is Miso,Miso is everything.
Dは還暦を迎える頃になって急にそんなキャッチフレーズを唱え、それまでの自分の活動を否定するかのような突飛な持論──つまり、「毎日おかずを作る必要はない、おかずは味噌汁さえあれば良い」──を展開し出したから。それは主婦にとってあり得ない、禁忌とも呼ぶべき選択。その甘い怠惰の果てに待っているのは家庭の崩壊、例外はない。かつて誰もがDを天才と崇めたし、私もその一人だった。でもどんな人間も老いには勝てない。年を取ったDは心身ともに衰え、自分にとって楽な道を選んだのだろう。
「くだらない。何が味噌汁よ」
いつの間にか口に出して毒づいていたことに気づき、私は急いでその場を立ち去ろうとした──その時だった。
「かわいそうに。本当に美味しいお味噌汁を飲んだことがないんやねぇ」
振り返ると、Dが憐れんだような顔で私を見ていた。
「何ですって?」私がそう返すとDはすっと立ち上がり、私に言った。
「明日、わたしのウチにいらっしゃい。本物のお味噌汁を飲ませてあげますよ」
そうして私の手に住所と電話番号の書かれた紙を握らせて、いつもテレビで見ていた通りの、あの柔和な笑顔を見せるのだった。
〇阪にあるDの家は、タワマンでもデザイナーズでもない、ごく普通のマンションだった。着くなり私は、手土産を渡す間もなくキッチンへ招き入れられた。
「これが、今日使うもんです」
割烹着を着たDが手で示した先には、まな板と小さな包丁がひとつずつ。その隣に並んだ食材を見て、私は絶句した。
「これは……!」
白菜、豆腐はまだ分かる。私が驚いたのは、その隣にトマト、割けるチーズ、ベーコン、割けないチーズ、胡椒が並べられていることだ。

戸惑う私を一瞥すると、Dはおもむろに白菜を手にとった。そして、あろうことかDは白菜を指でちぎって鍋に放り込んでいくではないか。
「こうやってね、何でも放り込んだらいいんですわ」
「切らないんですか?」
「ちぎった方が美味しいから」
続けてDは割けるチーズを割いて鍋に投入していく。
「切らないんですか?」
「ちぎった方が美味しいから」
まさかトマトも……と思ったが流石にそれ以外の食材は包丁で切っていた(それだって、おおざっぱに四分割しただけではあったが)。

Dはそこにケトルで沸かしたお湯を注いでひと煮立ちさせると、スプーンですくった味噌を溶かし始めた。
「あの、お出汁は……」
「要りません。食材から味が出るさかいねぇ」
眩暈がする。何もかもが私の常識外のことだった。もしかしてこれは認知症の初期症状ではないか、それともこれが天才の思考なのか……私が翻弄されている間にも、Dは手際よく料理を仕上げていく。



「さあ、召し上がれ」そういってDは味噌汁椀を私に寄越す。トマトとチーズで何処となくピンクがかった味噌汁を、私は恐る恐る口にした。
「……!!……なんちゅうもんを食わせてくれたんや……なんちゅうもんを……」
こんな味噌汁は飲んだことがない。トマトの酸味とチーズのまろやかさ、ベーコンの熟成された旨味、あと豆腐のぷるぷる感、えーと白菜の葉っぱ感、それを味噌が優しく包み込み、食材本来の滋味?がなんかすごくいい感じの融合をして絶妙なハーモニーを奏でている。言うなればこれは米津玄師と菅田将暉のデュエット、コガヒロトに対するハギワラシンジ、久住昌之の原作に対する谷口ジローの「孤独のグルメ」、海馬瀬人の青眼の究極龍(ブルーアイズ・アルティメット・ドラゴン 攻撃力4,500)……
『出汁は煮干しと昆布で取りなさい』『味噌は濾しながらゆっくり溶かしなさい』『味が濁るから具は最小限にしなさい』
……まだ娘だったころ、父に口酸っぱく指導された言葉が脳裏にこだまする。私は無意識の内に夫や息子に父の姿を重ねていた。言う通りにしないと、怒られないようにしないと……そんな気持ちで毎日料理を作って、だんだん雁字搦めになっていった。それがどうだ、この味噌汁に比べると私の料理はカスではないか……。
「サイン会のときね、『疲れてお料理をする元気がない時、どうすればいいですか』って聞かれました。でね、わたしはこう言ったんです。『そんな時は早く寝ることです。疲れを癒すことが大切です。誰もあなたを咎めません、恥じることも、心傷めることもありません。そういうものです』って」
Dは独りごとのように優しくそう呟いた。気付けば私は泣いていた。喉を通るたびに体に染み渡る熱が、私の凍てついた心を優しく溶かす。そうだ……余裕がない時に無理なんてしなくていい。家族の要求に全部応えようとしなくていい。私はもっと私を大事にしていいんだ、天才のDでさえこう言っているのだから……。
「D……いえ、先生。このお味噌汁、ちょっとしょっぱいですね」
鼻水をすすりながら私は笑う。Dは味噌汁椀を持つ私の手にそっと自分の手を添えると、例のあの優しい笑顔で、ゆっくりと味噌汁にオリーブオイルを注いだ。

